LOGIN彼は堪えきれず声を出した。「初芽、あのクズに何かされてないか?」本来なら、初芽は涙を無理やり飲み込むつもりだった。何しろ、自分はスタジオの代表だ。もし皆に見られでもしたら、どこに顔を置けばいいのか。初芽は首を振り、平気だと示した。一方、石橋は動揺してその場に立ち尽くす。雪崩れ込む同僚たちを見ながら、頭の中はたったひとつの考えでいっぱいだった。――もう終わった。自分の人生はこれで終わりだ。大勢に知られてしまった。上司をオフィスに閉じ込めたなんてことがバレた以上、生きていける道があるわけがない。将来は有望だったはずなのに、一瞬の過ちでこんな大きな事態を招くなんて。そう思った瞬間、石橋は自分を殴りたいほど後悔する。だが次の瞬間、駆けつけた伊吹を見て悟った。――さっきまでの時間稼ぎは、全部この女が仕組んだことだったのか、と。彼は初芽を指差し、憎々しげに怒鳴る。「わざとやってたんだろ、このクソ女!」もう先ほどまでの妙に馴れ馴れしい態度は微塵もなく、目の奥には憎悪しかなかった。見比べれば、先ほどとはまるで別人だ。そんな石橋を前に、初芽は心底ばからしくなる。これこそ何よりの証拠じゃないか。さっきまで愛してるなどと言っておきながら、次の瞬間には冷ややかな嘲りと罵倒。「クソ女」呼ばわりまでする。もしこれを愛と呼ぶのなら――初芽は、この先一生、恋愛なんて二度と関わるものかと思った。初芽は首を振り、伊吹に小さく微笑んでみせた。自分は平気だという合図だ。もし本当に何かあったら、スタジオのことにまた支障が出る。だがどうあれ、石橋を再び雇うつもりは一切なかった。伊吹はしばらく初芽を気遣ったあと、本当に大事ないと判断してひと安心する。初芽は心の中で自分に言い聞かせる。こんな肝心な場面で、自分を投げ出すわけにはいかない。前々から整えてきた計画を無駄にすることもできない。たかが一社員の件で、この程度のことで、海外に行く気持ちまで左右されるわけがない。「ならいい」伊吹はそう言って、初芽の柔らかな頭を軽く撫でた。自分の見立ては間違っていなかった、と心の中で思う。もちろん彼も知っている。初芽は野心のある人間だ。もしこんなことでくじけるようなら、自分
彼女が一生で一番うんざりするのは、男が自分の前でそういう台詞を並べることだった。どう見ても全部相手の一方的な思い込みで、自分には関係ない。自分が欲しいものは自分で手に入れる。他人の施しなんていらない。そんなものは薄っぺらで偽善的だ。人に頼るくらいなら自分に頼る方が確か。その理屈を、初芽はずっと胸の奥深くに刻み込んできた。もう社会に出たての学生でもない。この程度のこと、怖がるほどの価値もない。初芽の刺々しい口調に、石橋は胸の奥を針で刺されたような痛みを覚えた。彼は初芽の顎を乱暴につかみ、何か言おうとした。そのとき、外から騒がしい声が聞こえてきた。「なあ、どれだけ経った?まだ出てこないのか?」「どうなってるの?」「石橋さんが中にいるの見たぞ」その頃、伊吹はちょうど外に立っていて、そこにいた人間ひとりひとりに事情を聞いて回っていた。少し席を外しただけで、一体何が起きたというのか。周囲が口々に話す中、伊吹はようやくひとつ有益な情報を掴んだ。話した人物を鋭い目で見据え、低く問う。「石橋さんも?」「ああ」相手は何も考えずにうなずいた。「もうだいぶ長いこと中にいるよ。まだ出てこない」「中で何が起きてるか分からないけど、みんな、小関社長のことが心配してる」男女が密室にこもっている――そんな状況に、そこにいた者たちの頭にはそれぞれ勝手な想像が巡っていた。だが伊吹はもう座ってなどいられなかった。自分の女を、いつからこいつらが好き勝手に憶測していい存在になった?「鍵は?」その一言に、全員が首を振った。伊吹は思わず頭を垂れる。このまま初芽が中で苦しめられているのを見ているだけなのか?ここまで来て、何もせずに引き下がる気は毛頭ない。少なくとも、彼はまだ初芽に飽きていない。彼女が与えるあの感覚は、まだ十分に自分を惹きつける。その頃、室内では石橋が初芽の顎を強くつかみ上げていた。今度は一切手加減せず、本気の力で。「なんでだ?ねえ、なんでなんだよ!」石橋は首を傾けて初芽の白く滑らかな首筋に顔を寄せた。彼女の体から漂うほのかな香りが鼻をくすぐるが、そんなものを気にする余裕はない。初芽は眉をひそめ、石橋を押しのけようとしたが、怒りに呑まれている
たとえ出国することになっても、初芽は彼に何ひとつ借りを作りたくなかった。その後始末もしっかり済ませるつもりだった。そう思いながら横目で石橋をうかがうと、彼はまだ諦める気配もなく、乾いた目でじっと彼女を見張っている。初芽はもううんざりしてきて、思わず声を荒げた。「ずっと私のこと見張ってるつもり?他にやることないわけ?」その言葉に、石橋は逆に少し傷ついたような顔をした。うつむき加減に初芽を見つめ、小さく言う。「今の俺の一番大事な役目は、初芽を見ていることなんだよ。俺がどれだけ初芽を愛してるか、きっと分かってない。俺は初芽から離れられないし、初芽にも離れてほしくない」初芽は心の中で盛大に白目をむいた。こんな男の言葉、信じるわけがない。見た目だって平凡だし、顔にはニキビまであって、正直見てるだけで気分が悪くなる。それに自分にはやるべきことが他にある。石橋とここでぐだぐだやってる暇なんてない。時間の無駄にもほどがある。初芽は眉をひそめて言った。「約束は守るよ。だからここで見張られてても意味ないでしょ。自分の仕事に戻ったら?」すると石橋の目つきが一気に鋭くなった。「俺を追い払いたいのか?」石橋は急に笑い出し、続けた。「俺は初芽が好きだけど、頭がないわけじゃない。自分が何をしてるかもちゃんと分かってる。愛してるからって理性まで失いはしない。初芽は大人しく国外に行かない手続きだけ済ませて、それから二人で落ち着いて暮らせる場所を探そう」その言葉に初芽は怒りで震えた。こんな男と一緒の生活なんて考えただけで目の前が真っ暗になる。パソコンの時計を見ながら、胸の奥で焦りが膨れ上がる。もし伊吹がメッセージの意図を読み取れなかったらどうしよう?まさか本当に石橋の思い通りにはならない。そんなことになったら、この先どうすればいいのか。「ちょっと落ち着いて、ちゃんと話そうよ」初芽はこめかみを押さえながら、募る苛立ちを抑え込んだ。まさか腹心だった男がこんなふうに暴走するなんて思いもしなかった。本当に意外だった。これまで何も問題はなかったし、この男は見事に正体を隠していた。少しも気づけなかった。だが突然こうして本性をむき出しにされては、初芽にも対処しきれない。頭の中では必
「その時になったら、この会社を正式に紗雪に託すわ」美月の声は紗雪との距離を縮め、背中にかかるほど近くに感じられた。けれども紗雪は最後まで振り返らなかった。結局のところ、緒莉は辰琉と一緒に自分を陥れた共犯だ。なのに母親は明らかに彼女を庇っている。そんな母親に、どうして心から向き合えるだろう。紗雪はほんの一瞬だけ立ち止まると、軽く頷いてそのまま去った。美月は深いため息をついた。閉ざされた扉を見つめながら、心が痛まないはずがなかった。やはり、あの出来事のせいで紗雪とは心が離れてしまったのだ。けれど緒莉の声があのように壊れてしまった以上、我が子を牢獄に放り込んで苦しませることなど、到底できはしない。彼女はそれがどうしても耐えられなかった。美月は目を閉じ、胸の奥でひとつの決断を下していた。その選択が正しいのか間違っているのかは分からない。だがこの瞬間、ほかに道はなかった。選んでしまった以上は、もう進むしかない。......一方その頃、伊吹は初芽からの連絡を見て首を傾げていた。どうして急に「離れたくない」と言い出すのか。そんなの、彼女らしくない。本来なら、初芽のように野心の強い女なら、チャンスを掴んだ時点で必ずしがみついて昇っていく。そこに疑いの余地はない。だからこそ、伊吹は違和感を覚えた。――もしかして誰かに脅されているのか?彼はメッセージを何度も見返し、初芽が強調して書いた数文字を目にした瞬間、表情が一気に険しくなった。伊吹は迷わずハンドルを切り、車を引き返した。間違いない、初芽は脅されている。これほど明白なことを見逃すはずがない。それに、以前から国外進出を約束していた。初芽も決して愚かではない。国外の方が遥かに有利だと分かっている。しかも国内の仕事場を整理する準備まで進めていた。そんな彼女が突然方向転換するなんて、誰も信じやしない。怒りを胸に、伊吹は作業場へと車を走らせた。自分のスタジオでさえこうも押さえ込まれるなら、この先どうなる。その頃、初芽は石橋を必死に引き延ばしていた。石橋は彼女の一挙一動を監視している。少しでも不審な動きをすれば、即座に制止できるように。彼は悟っていた。――この女と接するときは絶対に油断しては
「安東家の者......?」美月は少し驚いたように紗雪を見た。「あなたが言ってるのは、安東会長のこと?」紗雪は軽くうなずく。「はい、そうです」その返しに、美月は思わず口元を緩める。どうやら自分の娘も、簡単に踏まれるタイプではないらしい。安東家の違和感なんて、とっくに見抜いていたのだろう。よく考えれば当然だ。もし本当に押されっぱなしの人間なら、これだけ長くビジネスの世界で生き残ったり、いくつも大型案件を取ったりできるはずがない。しかもそれらは鳴り城でも名の知れたものばかりだ。美月の目には、娘への称賛がはっきり浮かんでいた。「さすが私の娘ね。それで?」今回はもう、体裁を繕う気すらないようだ。その様子で、紗雪はようやく察する。母も安東家の「あの者」とは馬が合わないらしい。思わず尋ねた。「お母さんたちって......親戚になるんじゃなかったの?」婚約のときの美月は、それはもう嬉しそうで、拍手しながら満面の笑みを浮かべていた。それがこんなに早く相手の本性を見抜くとは。「たとえ親戚でも、私の娘二人を傷つけることは絶対に許さないわ」美月の瞳には、いつもの柔らかさはなく鋭さが宿っている。娘は彼女の一線であり、この世で何よりも大切な存在だ。誰にも奪わせない。親戚だろうが、他人だろうが関係ない。その必死な庇い方に、紗雪は少し胸が熱くなる。――ああ、これが「母は強し」ってやつか。「そうですか」紗雪は息を吐きながら言う。「安東グループへの対処は簡単です。渋るより、早めに手を打ったほうがいいでしょう。ずっと二川の血を吸ってるだけの虫みたいなものですから」彼女の瞳にも冷たい光が走る。「会長、正直に言うが、婚約って足枷さえなければ、私はとっくに安東家を蹴り出していました」あんな企業を残しておく意味など、最初からない。血を吸われるだけで、実利らしい実利もないのだから。美月は少し考え込んでから、口を開いた。「あなたのあ......緒莉の声のことも、紗雪の受けた傷も、まとめてあちら側の責任にするつもり」本当は「姉」と言いかけたのに、紗雪の表情を見た途端、言葉が喉で止まってしまった。そのことに、美月は胸が締めつけられる。いつからこの姉妹は、こんなふうにな
そのとき一番板挟みになるのは、結局こういう立場の自分たち社員だ。そう思いながら、あの社員は首を振り、自分の席へ戻っていった。一方、紗雪が会長室に足を踏み入れた瞬間、心臓が喉まで跳ね上がる。きっと中には緒莉もいる――そう身構えていたのに、視線を一周させてもその姿はない。デスクに座って仕事をしている美月だけで、他には誰もいなかった。それを確認した途端、紗雪は思わず胸を撫でおろす。あの光景さえ見なければいい。もうあれに耐える自信はない。幸い、今日はそれを見なくて済んだ。そんな娘のほっとした様子に、美月は少し違和感を覚えた。思わず声をかける。「紗雪、何を探してるの?」その声に紗雪は大きく体を震わせ、びくりと肩を揺らす。慌てて意識を戻し、デスクのほうへ歩いて行き、美月の前で立ち止まる。丁寧な口調で言った。「いえ、なんでもありません。会長、私に何かご用でしょうか?」そのよそよそしい呼び方に、美月は胸がちくりと痛んだ。二川家での一件以来、関係が一気に昔へ逆戻りしたように感じてしまう。あれ以前には、母娘で腹を割って話すことすらできていたというのに。今目の前にいる紗雪は、どこか知らない人のようだった。紗雪は黙ったまま。もし美月の胸の内を知ったなら、笑い飛ばしただろう。互いに他人のようだと言うが、先に突き放したのは誰なのか。緒莉を選んだのはそちらだ。それなのに今さら何を語ろうというのか。大人同士なんだから、愛情を二等分するなんてやめたら?そんな言葉すら喉元まで出かけている。その二等分とやらも、公平とは限らない。美月は、紗雪の揺るがない表情を見て、今回ばかりは本気で傷ついていることを悟る。だが元々姉妹の間に確執がある以上、関係修復は一朝一夕では無理だ、とも分かっていた。時間をかけるしかない――本来なら。だが今の紗雪には、その時間を与える気がないようだった。緒莉のほうも「仲良くする」と口では言っているが、いざ二人きりになると話は別。以前と少しも変わらない。そのせいで美月も頭を抱えていた。とはいえ今いちばん厄介なのは安東家の件だ。いつまで経ってもはっきりした返答をよこさない。美月としては到底納得できなかった。自分の娘二人をこの有様にした相







