男の低くセクシーな声が、電話の向こうから聞こえてきた。受話器を通して、静かに美月の耳に届く。この道中ずっと、京弥の心もどこか落ち着かなかった。もし、本当にあの木村良才という医者の言っていた通り、紗雪が目を覚まさないままになったら?さらに、彼女の体に深刻な影響が出て、そのままずっとベッドに寝たきりになるとしたら?その時、彼女は一体どうやって生きていくのだろう?京弥は別に構わない、自分が責任をもって紗雪の面倒を見るつもりだった。だが、かつてあれほど誇り高く、輝いていた紗雪が、果たしてそんな状況を受け入れられるのか?そんな毎日こそ、彼女にとっては生き地獄なのではないか。京弥は拳を握りしめた。彼女とこの時間を共に過ごしてきたからこそ、紗雪の気持ちがよくわかっていた。彼女は誇り高く、同時に、自分が「こんな存在」になることは決して受け入れられない人間だ。美月は、京弥のそんな言葉を聞いて、胸が張り裂けそうになった。声も震えていた。「あなた、よくも......いい?もしうちの娘に何かあったら、私は絶対に許さないから!たとえこの命をかけても、放っておかないからね!」京弥は唇を引き結び、感情を表に出さなかった。「お義母さん、安心してください。紗雪はあなたの娘であると同時に、俺が心から愛する女性です。彼女に何か起きるのを黙って見ているなんてこと、俺にはできません」京弥の声には、どこか厳しさが宿っていた。「紗雪の状態、緒莉から聞いたんですね」その最後の一言は、確認というよりも、もはや断定だった。彼の中に、疑いの余地はなかった。もし緒莉がチクっていなかったら、美月がこんな状況を知るはずがない。だが今、美月はすべてを知っていた。そして、彼を責めてきた。誰が告げ口したかなんて、考えるまでもなかった。美月は深く息を吸った。「椎名くん、私はあなたを責めるつもりもないわ。ただ、たった一つだけ聞かせて。私の娘は、今どうなってるの?医者が言ってたでしょ?絶対に体を動かしてはいけないって。椎名くんは、そのリスクを考えたうえで行動したの?本当にわかってるの?」美月には、京弥の「彼女を一番大事にしている」なんて言葉は、信じられなかった。彼女にとって、男の言葉なんて一番信じちゃいけないものだった。ど
伊藤は美月をどう慰めてよいかわからず、ただその姿を見守るしかなかった。彼の胸の中も、決して穏やかではなかった。二川家で長年仕えてきた中で、彼は初めてこんなにも弱々しい美月の姿を見た。それまでの美月は、常に誇り高く、自信に満ちていた。どんなことが起きても、堂々としていて、明るく前向きだった。だが今は、伊藤にもどうしていいかわからない。美月の体はしばらく小さく震えていたが、やがて気を取り直したようだった。「もう大丈夫よ、伊藤。私のことは心配しないで」美月は伊藤の不安そうな顔を見て、落ち着かせるように微笑んだ。自分を案じる必要はない、という意思を込めて。一時的に感情が高ぶっただけで、彼女が簡単に折れるような人間ではない。この家はまだ彼女を必要としている倒れている暇などないのだ。「安心して、私は絶対に持ちこたえるから」その言葉に、伊藤は安堵の笑みを浮かべた。「はい。私も奥様を信じています。この何十年、私はずっと見てきました。奥様がゼロから今の地位を築くまでに、どれほどの苦労をしてきたか」その言葉を聞いた瞬間、美月の心にじんわりとした痛みが広がった。自分がこれまで味わってきた苦しみを、ちゃんと見てくれていた人がいたのだ。以前、紗雪に誤解されたときは心が傷ついたが、今は娘が病気になっているという事実に、ただただ心を痛めている。あまりにも静かで、逆に落ち着かない。「もう心配しないで。大丈夫だから」美月は再び気を引き締めて言った。「あとで、椎名くんの居場所を調べさせるわ」自分の娘が、そんなに簡単に誰かに連れられて行かれるわけにはいかない。命に関わることなのに、心配しないはずがない。たった一人の娘なのだ。そう思った瞬間、美月の目つきが鋭くなった。彼女は再び京弥に電話をかけた。すると、先ほどとは違い、今回は「電源が切られています」というメッセージは流れなかった。その音を聞いた瞬間、美月の胸は大きく高鳴った。これは、つながるかもしれない!果たして次の瞬間、電話の向こうから京弥の声が聞こえてきた。「もしもし、お義母さん?」「お義母さん」と言われたその瞬間、美月の胸にあった不安が少しだけ和らいだ。さっきまでは緊張していたが、その呼びかけを聞いて少し落ち着いた
「私はただの傍観者に過ぎませんので」伊藤のその言葉を聞いた美月は、より一層彼に感謝の念を抱いた。「そうね。今すぐ電話するよ」美月がそう言うと、伊藤は軽く頷いた。彼もまた、紗雪の様子がどうなっているのか、気になって仕方なかった。最後に会った時、彼女はまだ昏睡状態で、その後のことは何も知らされていない。正直なところ、伊藤の心には未練と罪悪感があった。彼女の成長を見守ってきたのは自分だし、孫娘のように可愛がってきた。それなのに、いざ病気になったときに、ちゃんと支えてやれなかった。伊藤はそんな自分自身に、怒りすら感じていた。だが、過ぎたことは仕方がない。これからは少しでも埋め合わせをしていこうと、心に決めていた。美月は一度、心を整えてから、京弥に電話をかけた。しかし、コールが一度鳴っただけで、すぐに「電源が切られています」のアナウンスが流れた。その冷たい機械音を聞いた瞬間、美月の頭が真っ白になった。まるで脳内に鈍い音が響くようで、何も考えられなくなった。緒莉の言葉がよみがえる。「主治医は言ってた。今の紗雪の容態じゃ、勝手に移動させるのは危険だって。無理に動かせば、最悪の場合、もう二度と目覚めなくなるかもしれないって」その言葉が、美月の脳内で何度も繰り返され、他の様々な会話とも混ざり合い、彼女の思考をかき乱した。頭の中がうるさくて仕方ない。そのせいで顔面がどんどん青ざめていく。伊藤はその異変にすぐ気づき、内心で「まずい」と叫んだ。「奥様、どうされましたか?」彼が見たことのないほど、美月は無力そうな様子だった。その顔色は、明らかに正常ではなかった。美月はかすかに首を振るも、依然として回復の兆しはない。震える手で、薬棚の方を指さした。伊藤はすぐにその意味を察し、慌てて薬を取りに走った。前に体調を崩した件以来、美月の身体はすでに限界に近かった。情緒が少しでも乱れると、すぐにこうして倒れてしまう。安定していれば普通に話せるが、調子を崩せば一気に悪化する。だからこそ、彼女は緒莉に会社のことを任せるしかなかった。他に人手がなかったのだ。本来なら、美月もそんな無理な判断はしたくなかった。だが、緒莉の言葉が信用できないとしても、会社の他の人間たちのほうが
真白をちゃんと隠しておかないと、心の中に大きなわだかまりが残るような気がして仕方なかった。そう思いながら、辰琉は緒莉の腕をさらに強く抱き寄せた。一方、緒莉はそんな辰琉の様子を見て、先日電話越しに聞こえたあの奇妙な音を思い出した。どうしても腑に落ちない感覚が胸に残っていた。辰琉がそれほどまでに話したくないというなら、無理に追及するつもりはなかった。だとしても、いつか必ず自分の目で確かめてやる。この一連の出来事の真相を、きっちり明らかにしてみせる。辰琉。ちゃんとおとなしくしていなさい。裏切るような真似をしたら、みんな巻き込んで地獄を見ることになるわ。そう思った瞬間、緒莉も無意識に彼の手をさらに強く握りしめた。その力に、辰琉は心臓がひやっとし、慌てて緒莉に取り入ろうと愛想笑いを浮かべた。緒莉は、辰琉がどんな男かよくわかっている。でも、人間というのは実際に痛みを経験してみないと、その意味が分からないものだ。経験しなければ、永遠に教訓を得ることはできないのだから。......その頃。電話を切った美月もまた、焦りながら京弥に連絡を取ろうとしていた。彼女が紗雪を愛していないわけではない。ただ、時にその愛し方が厳しすぎるのだ。二川父が早くに亡くなってからというもの、彼女は一人で父と母の二役を演じてきた。母であり、同時に父でもあるという重責を背負って。だからこそ、彼女の子育ては「優しさ」よりも「厳しさ」に偏ってしまった。紗雪と緒莉がまだ幼いころに父を亡くし、すべては彼女一人で面倒を見てきた。そういった事情から、時に手が回らないこともあったのは仕方のないことだった。そして、何よりも大切だったのは、子供たちに「自立心」を持たせること。誰かに依存するのではなく、自分の力で立って生きていくこと。そうでなければ、これからの世の中は生きていけない。美月自身がその生き方を証明している。大きな二川グループの中で、彼女は誰にも頼らず、ただひとりで立ち続けてきた。頼れるのは、自分ただ一人。他の誰も、信じることはできないし、信じてはならない。だからこそ、彼女は何度も何度も紗雪に「成長」を求めた。しかも、緒莉は身体が弱かったから、自然と紗雪にはさらに高い期待が寄せられてしまった
真白なんて、ただの暇つぶしにすぎない。今の彼は、まだ真白に飽きていない。そんな状況で、簡単に彼女を捨てるなんてありえない。緒莉は、辰琉の意識が自分に向いていないことに気づき、不満そうに彼の唇を噛んだ。辰琉は痛みに驚いて緒莉を離し、ショックを受けた顔で彼女を見た。「どうしたのさ」いきなりキスの最中に噛まれて、彼には理解できなかった。今は二人が愛を育んでる甘い時間のはずなのに。時々、辰琉は本当に緒莉の思考回路が理解できなかった。まさに今がその時だ。何もかも順調だったのに、急にこんなことをされる意味が分からない。せっかくの雰囲気が台無しじゃないか。しかし緒莉はツンとした様子でこう言った。「私が何も分かってないとでも思ってるの?私とキスしながら、他のことを考えるなんて、いい度胸してるわね」辰琉の瞳が一瞬揺れ、内心で動揺していた。まさか緒莉が本当に彼の考えていたことを見抜いていたとは。時として、女というのは本当に恐ろしい。こうして一緒に暮らしていたら、小さな嘘も簡単に見破られてしまう。「ごめん、緒莉。悪かったよ。怒らないでくれ」辰琉の態度は本当に素早く切り替わる。少しもためらわず、すぐさま緒莉に謝罪した。緒莉は鼻で笑った。「私たち、もうこんなに長く付き合ってるのよ?辰琉がどんな人間か、分かってないと思ってるの?私に隠し事なんて、もしバレたら......その時は覚悟しておきなさいよ?」辰琉の体がびくっと震えた。緒莉の言葉にゾッとして、思わず背筋が凍るような感覚に襲われた。彼は迷い始めた。今、自分の別荘に真白を匿っていることが、本当に正しいことなのかと。すでに緒莉という存在がいるのに、さらにもう一人......それはさすがに遊びすぎじゃないか?もし見つかったら、自分はどうなってしまうのか。とくに、緒莉は最近、何度も何度も警告してきている。確実に何か気付いているのだろう。そうでなければ、こんな態度にはならないはずだ。でも、辰琉にももうどうすればいいか分からなかった。今は、状況を見ながら慎重に動くしかない。一番大事なのは、絶対に緒莉に真白の存在を知られないようにすること。それが崩れたら、すべてが終わる。辰琉は改めて誓った。緒莉が疑って
辰琉は「電話」という言葉を聞いた瞬間、顔色が一気に悪くなった。明らかに態度も不自然になっている。前回は、緒莉がもう騙されたと思っていたのに、まさか相手がまだ気にしていたとは。そして今、再び問い詰められることになった。辰琉の視線が泳ぐ。「前にもちゃんと説明したじゃないか。もう一度聞かれても、答えは前と同じだよ」だが、その一瞬の視線の揺れを緒莉は見逃さなかった。目の奥にははっきりと疑念が浮かんでいた。ここ最近、京弥と頭脳戦を繰り広げてきたことで、彼女も人の見分け方を学び取っていた。今の辰琉が嘘をついているのは間違いない。彼女に対して何かを隠している。ただ、それが何なのか、緒莉にはまだ分からない。問い詰める方法も見つからない。彼が話す気にならない限り、何を言っても無駄だということは分かっている。この男は、一度口を閉ざしたら、絶対に話さないタイプだ。緒莉は心の中では強く不満を抱いていたが、表面には出さなかった。今ここで追及しても無意味だと分かっていたからだ。それに、彼女は独立した女性であり、辰琉に依存して生きるつもりはない。何も彼にすがる必要はない、自分には自分の人生がある。緒莉はにっこりと微笑みながら言った。「わかった。辰琉のことは信じてるから、もう聞かない。でも――」わざと一拍置きながら、彼の正面にゆっくりと立つ。そして、指先で彼の胸元を撫で始めた。その仕草はまるでフックのように、辰琉の体を一気に熱くさせる。彼がその手を取って次のステップに進もうとしたその時、緒莉の手は、すっと引っ込められた。一切のチャンスを与えられず、辰琉は困惑し、少し不満げな顔を見せた。「どうしたの?なんで触らせてくれないの?」緒莉は意味深に笑みを浮かべた。「外で何してようと、私にバレなければいいけど......バレた時の代償、覚悟しておいてね?」その一言に、辰琉は心臓をぎゅっと掴まれたような衝撃を受けた。何も言えず、ただ何度もうなずく。「う、うん、分かった。何言ってるんだよ......この先、一生、君だけだよ、俺には!」そう言うと、彼はまるで忠誠を誓うかのように、緒莉の反対も聞かずに彼女を抱きしめ、唇を重ねた。今回は、緒莉も抵抗せず、むしろその表情には満足げな