彼はそっと音を立てないようにドアを開け、静かに華恋のベッドへと歩み寄った。そして、優しく彼女の手を両手で包み込む。「これからは俺が絶対に華恋を守るよ」そう言って彼は身をかがめ、彼女の額にキスをしようとした。だがその瞬間、熟睡していたはずの華恋が突然目を見開いた。哲郎は驚いて、危うく床に尻もちをつくところだった。華恋はぼんやりとした目で彼を見つめた。「哲郎、どうしたの?」彼女の声は弱々しかった。哲郎は首を振り、華恋の青白い顔をじっと見つめた。「大丈夫。お前は?」華恋は額を押さえた。頭がまたズキズキと痛み出していた。「まあまあかな。でも頭が痛いの。さっき何かあったの?私が何かを手に入れたって、言ってなかった?」「言ってないよ。気のせいだ」哲郎はそう言って彼女の隣に腰を下ろし、様子をうかがいながら切り出した。「華恋、ちょっと聞きたいことがあるんだ」「なに?」華恋はまだ痛む頭を揉みながら答えた。「結婚しよう?」その言葉に、哲郎は息を詰め、華恋の反応を見つめた。華恋は頭を揉む動作を止め、ゆっくりと顔を上げて彼を見た。そして、しばらくして、彼女はようやく声を振り絞った。「哲郎、自分が何を言ってのか、本当に分かってるの?」「分かってるさ!」哲郎は感情を抑えきれず、華恋の手を掴んだ。「華恋、結婚しよう!」華恋は動揺しながら手を引っ込めた。「哲郎、落ち着いて」「華恋、君はずっと結婚を望んでたじゃないか。今、俺がプロポーズしたのに、なんで......なんでそんな顔をするんだ?」その一言は、華恋の心の奥に深く刺さった。彼女自身も、理由が分からなかった。確かに、彼との結婚を望んでいた。八年もの間、願っていたはずだった。なのに今、その言葉を聞いても、彼女は全く喜びを感じなかった。「哲郎......結婚は、そんな簡単な話じゃない。少し冷静になろう?」そう言うと華恋は布団を引き寄せた。「もう遅いし、哲郎も休んで。私、頭が痛いから、休みたいの」だが、哲郎は動かなかった。ただ、じっと華恋の顔を見つめていた。「華恋、心変わりしたのか?」彼の問いに、華恋の心臓がドクンと高鳴った。頭の中に、誰かのぼんやりとした姿が浮かぶ。だが、口では少し支
哲郎はスマホの画面を睨んだ。表示されていたのは、名前のない見知らぬ番号だった。彼はためらいなく通話を切った。だが、すぐにその相手から一通のメッセージが届いた。「電話に出ろ。出なかったら、後悔することになる」また電話が鳴った。哲郎の親指は、赤と緑のボタンの間で一瞬迷ったが、気づけば通話が繋がっていた。「哲郎さんが出ないかと思ったよ」傲慢な声が電話越しに響いた。こんな口調で彼に話しかけてくる人間など、これまで一人もいなかった。「誰だ?」哲郎は声を低くした。「誰かなんてどうでもいいでしょ。重要なのは、私が哲郎さんの心の病を治してあげられるということ」哲郎は鼻で笑った。「この俺に詐欺?死にたいらしいな」「ふふっ」女の嘲り笑いが返ってきた。「哲郎さんが望んでいるのは、華恋を自分の妻にすることでしょ?」その言葉に、哲郎の表情が変わった。彼は声を抑えながら尋ねた。「お前、何者だ?」「そんなことはどうでもいい。大事なのは、私が華恋をあなたと結婚させることができるってこと」「馬鹿馬鹿しい。華恋は人形じゃない。お前に操れるとでも?」向こうからは、また低く笑う声が聞こえた。「以前なら、確かにそんな大口叩けないでしょう。でも今の華恋は記憶を失っている。今の状況、彼女を妻にするのがそんなに難しいと思う?」哲郎は無意識に机の端を握りしめた。「本当に、できるのか?」「もちろん」女は自信満々に答えた。「それで......お前は何が欲しい?」哲郎は用心深く尋ねた。そして、相手が何か大きな見返りを求めてくると覚悟していた。だが、予想に反して返ってきたのは——「何もいらないよ」哲郎が棚からぼた餅だなどと言った話を、にわかには信じがたい。「そんな態度......疑わしいね」「話してもいいわ。あなたに華恋と結婚してほしいのは、ただ私が時也を好きだから。彼を手に入れたいだけよ」哲郎は冷笑した。「なるほどな。そういうことか。自分の欲のために、俺と華恋を利用するってわけか」「お互い様でしょ?」哲郎はそれ以上何も言わなかった。しばらくの沈黙の後、女の声がまた電話越しに聞こえた。「すでに準備はできてるわ。あとはあなたが折を見て動くだけ」「分かった」
そう言うと、哲郎は急いで階段を駆け下り、家庭医を呼んできた。だが、その様子を見た家庭医はすぐに判断した。「これは......精神科医が必要ですね」哲郎は今度は精神科医を探しに走った。一方の華恋は、正しい手当ても受けられず、まるで巨大な蜘蛛の巣に絡め取られた虫のように、必死にその中でもがいていた。苦しみは満ちてくる海水のように、彼女の四肢の隅々にまで浸透していく。「あああっ!」その叫びは、すでに階下まで降りていた哲郎の耳にも、はっきりと届いた。彼は片耳を手で覆いながら、電話の向こうの精神科医に向かって怒鳴った。「今すぐ来い!」そう言い終えると、彼はそのままスマホを投げつけた。それを見ていた藤原執事が、恐る恐る声をかけてきた。「哲郎様、華恋さんがあれほど苦しんでいるのなら、何か薬を飲ませたほうがいいのでは?あるいは、他に痛みを和らげる方法が......」その瞬間、哲郎の頭に浮かんだのは時也だった。だが、彼はすぐにその考えを強く否定するように怒鳴りつけた。「そんなに言うなら、お前が彼女を助けてみろよ!」藤原執事は一瞬固まり、哲郎がなぜそんなに怒っているのか理解できなかった。「哲郎様......」「もういい!」哲郎は深く息を吸い込んだ。「下がってろ」藤原執事は何も言えず、仕方なくその場を離れた。藤原執事が下がったあと、広いリビングには哲郎一人だけが残り、二階から響く華恋の苦しげな叫び声だけが空気を満たしていた。哲郎は天井を仰いだ。もし今、時也がここにいたら、きっと何かできたはずだ。でも、なぜ時也がそんなことできるんだろうか?時也がいなくても、彼は華恋を守れる。ちゃんと、彼女のことを支えられるはずだ。「できる。自分だって、できるんだ」と、哲郎はそんな自己暗示を繰り返していた。そのうちに、ようやく精神科医が到着した。精神科医が華恋の部屋に入ると、そこにはほとんど錯乱状態に近い華恋の姿があり、彼は思わずその場で固まってしまった。背後から哲郎が強く背中を押し、ようやく我に返った。「こ、これは初めて見るようなケースです。経緯を教えていただけますか?」「俺が知ってるのは、彼女が記憶喪失したことだけだ」「では、その記憶喪失がどんな原因で?」「知らない
賀茂家にて。華恋は目の前のお粥を見つめながら、半信半疑で再び尋ねた。「これ......本当にあなたが作ってくれたの?」哲郎がまさか、彼女のためにお粥を作ってくれるなんて、彼女は信じられなかった。華恋はまるで夢を見ているような気分だった。しかもその夢は、かなり大胆すぎる夢だった。以前も夢を見ることはあったが、それはせいぜい哲郎が彼女の料理を嫌がらない夢程度だった。哲郎が彼女に料理を作ってくれるなんて、そんな夢を想像すらしたことがなかった。「もちろんさ」哲郎は華恋の信じられないという表情を見て、胸が少し痛んだ。「食べてみて。初めて作ったから、あまり美味しくはないかもだけど」華恋はにっこり笑った。「哲郎が作ったものなら、美味しいに決まってるよ」そう言ってスプーンを取り、一口すくって口に運んだ。米は柔らかく煮込まれていたので、すぐに口の中で崩れた。だが、その後に広がったのは、どこか奇妙な味だった。華恋はうつむいたまま、じっと堪えて顔を上げなかった。哲郎はその様子を見て、急いでティッシュを取り出して差し出した。「そんなに不味かった?吐き出せ」華恋は首を振り、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。お粥が不味かったからではなかった。このお粥が、なぜか記憶の奥にある何かを呼び起こし、胸が綿を詰め込まれたように苦しくなったのだ。記憶の中でも、誰かが自分に料理を作ってくれていた気がする。だが、それは哲郎ではなかった。しかも、その人が作ってくれた料理の方が、ずっと美味しかった。最初はその人も上手ではなかったが、何度か作るうちに、味がどんどん良くなっていった。その人の顔も名前も、喉まで出かかっているのに、どうしても言葉にならなかった。「華恋、泣かないでよ。ごめん、もう作らないから。次からはお手伝いさんに作ってもらおう?」華恋が泣いているのを見て、哲郎は慌てふためいた華恋は顔を上げて哲郎を見つめた。「本当に?」「ああ、もう作らないよ。これからは全部お手伝いさんに任せるから。このお手伝いさんの料理が気に入らなかったら、他のお手伝いさんに頼むから」華恋はぱちぱちと瞬きをし、唇を引き結んでから、もう一度問いかけた。「本当に、もう二度と料理してくれないの?」「しないよ」
華恋は黙った。両者の間に静寂が流れた。しばらくして、華恋はふっと笑い、こう言った。「あなたが私のことを知っているかどうかなんて、もうどうでもいいの。だって、私は記憶を失ってしまったから。多分、あんなにスムーズにあなたの番号を打てたということは、記憶を失う前の私にとって、あなたはとても大切な存在だったのでしょう」時也は少し顔を上げ、後頭部を冷たいコンクリートの壁に預けた。言いたいことは喉まで込み上げてきたのに、一言も出てこなかった。「水子は何も言わなかった。でも、わかるの。彼女は私の失われた記憶に関わる人々のことを思い出させようとしないし、私の失った記憶がどんなものだったかも絶対に話さない。きっと話すと、私はショックを受けることになるからでしょう。だからKさんも、自分が誰なのかを私に教えなかった」華恋は、相手が答えてくれるとは最初から思っていなかった。「もうKさんに、『あなたは誰?』なんて聞かない。だからこれからも......電話に出てくれる?」華恋自身も理由は分からなかった。記憶の中では、そんなことを尋ねたことで、相手が自分を無視した経験なんてなかった。でも、心の奥底に、深く強い恐怖があった。まるでその一言を口にしてしまったら、Kさんの電話が二度と繋がらなくなるような、そんな恐れに囚われていた。「いいよ。どんなことがあっても、君の電話に必ず出るよ」時也は胸元を押さえながら、一言一言を噛み締めるように答えた。華恋の言葉一つ一つが、まるで鋭い刃のように、彼の心を何度も切り刻んでいた。「Kさんは、優しいね」華恋はそっと呟いた。二人はその後、何も話さず、ただ電話が繋がっているまま、画面の時間が進んでいくのを見つめていた。やがて、ドアの外から足音が聞こえ、その温かい空間は破られた。「たぶん哲郎が帰ってきた」華恋は名残惜しそうに言った。「もう電話を切らないと」「......わかった」電話が切れた。だが、時也の心臓に突き刺さっていた刃は、なおも彼を痛めつけ続けていた。そして彼は、何一つできなかった。ただ囚人のようにその場に座っていることしかできなかった。時也は突然、傍にあった椅子を掴み、それを思いきり投げつけた。その瞬間、彼の横でスマホが再び鳴り響いた。
華恋はようやく確信できた。自分の聞き間違いではないと。しかし、不思議なことに、心はまったく喜んでいなかった。これはずっと、彼女が一番願っていたことのはずなのに......「華恋、どうした?」ずっと黙っている華恋を見て、哲郎の心臓は一気に喉元までせり上がった。「ううん」華恋は首を振った。「それじゃ......俺と一緒に家に帰ってくれる?」彼はもう一度訊いた。華恋はこくりと頷いた。けれど心はやはり晴れなかった。彼女は思った。たぶん、いつも哲郎に拒まれていたせいで、今回は突然願いが叶ったことが、現実味を欠いているのかもしれない。しかしこの不思議な感覚は、彼の家に引っ越してきてからも変わらなかった。哲郎が特別に用意してくれた柔らかなベッドに横たわっても、華恋の心は依然として晴れなかった。これこそが、自分が夢にまで見た生活のはずなのに。華恋はふと、あの「Kさん」のことを思い出した。そしてためらいながらも、彼の番号に電話をかけた。すぐに応答があった。まるで、Kさんがずっと電話の前で待っていたかのように。「もしもし、Kさん......ですか?」華恋は膝を抱え、少しでも温もりを得ようとした。電話の向こうからは、低くて力強い声がすぐに返ってきた。「ああ」たった一音だったが、不思議なことに華恋の不安な気持ちはすっと落ち着いていった。「今......空いてる?」華恋はおそるおそる尋ねた。自分の突然の連絡が、Kさんの邪魔になるのではと心配だった。「君のためなら、いつだって」その声には、かすかなかすれが混じっていた。だが華恋は、その言葉の奥にある意味には気づかなかった。ほっと息をつき、言った。「それなら、少し話してもいい?」「もちろん」華恋は膝を抱えたまま、どう切り出すべきか分からなかったが、やがて少しだけ適切と思える言葉を見つけた。「私、婚約者と一緒に暮らすことになったの」電話の向こう、時也の心臓に鋭い痛みが走った。耳に入ってきたのは、華恋の穏やかな声だった。「これは、夢にまで見たことだった」心臓にもう一突き。今度は、心の奥深くに突き刺さった。そしてそこから、血が一気に溢れ出したようだった。「でも......」「全然嬉し