Masuk「1年だけ、俺の婚約者のフリをしてくれないか」 一流ホテルを追われ、家族のために月給80万円の家政婦として雇われた私・森川咲希。 雇い主は、氷のように冷たい若き社長・氷室蓮。 ある日、突然告げられた"偽装婚約"の依頼。 契約だと割り切ろうとしても、彼の優しさに触れるたび、心が揺れてしまう。 「これは仕事。演技。恋じゃない」 そう自分に言い聞かせるのに──どうして、胸がこんなに苦しいの? 偽りの関係から始まる、切なくて甘い恋の物語。
Lihat lebih banyak嘘だ──この『愛してる』は、全部嘘。なのに、どうしてこんなに胸が苦しいの?
耳元で囁かれた瞬間、心臓が止まりそうになった。
振り向かなくても、誰だか分かる。
昼は彼に仕える完璧な家政婦。夜は、名前で呼び合う偽りの妻。これが、私たちの関係だ。
シャンデリアの光が揺れるパーティー会場で、数百もの視線が私たちに注がれていた。
「っ……」
胸の奥が、強く掴まれたように跳ねる。甘く、苦しく、体の芯まで震える感覚。
蓮さんは、私の腰にそっと手を添える。触れ方は丁寧なのに、拒めないほどの強さを秘めている。
雇用主と家政婦──本来なら、決して触れることのない距離のはずなのに。
今、私たちは、誰よりも近い場所にいる。
「……あなたが望むなら、どこまででも演じます」
震えた声で返すと、蓮さんはほんのわずか、驚いたように目を細めた。
その黒い瞳は冷たく見えるのに、奥底に熱がある。
“演技”だと分かっていても、吸い寄せられてしまいそうだった。
蓮さんの手が、私の背に滑り、そっと抱き寄せる。体温が触れ合った瞬間、息が止まりそうになった。
「咲希」
「はい」
自分の名前を呼ばれるだけで、こんなにも胸が揺れるなんて。
彼の顔がゆっくりと近づき、呼吸のひんやりした温度が頬をかすめる。
──キスされる。そんな予感が、私の鼓動を乱した。
周囲のざわめきが遠ざかる。
世界に、蓮さんと私だけが残ったような錯覚。
そして……蓮さんの唇が、私の額にそっと触れた。ほんの一瞬の、温かさ。
「……っ」
「よくやった。今日は、それで十分だ」
耳元に低く落とされた声は、甘さを押し殺したような優しい響き。
雇い主が従業員にかける労いの言葉なのに、どうしようもなく胸が熱くなる。
これが“偽物”なら、本物はどうなってしまうのだろう。そう思った、瞬間だった。
「久しぶりね、蓮」
氷を撫でるような声が、空気を凍らせた。
振り返ると──深紅のドレスをまとった美女が、そこに立っていた。
白い肌に、赤い色が映えて妖艶なほど美しい。
会場の空気が、わずかにざわめく。
……誰、この人?まさか……。
女性は一歩進み、まっすぐ蓮さんを見つめる。
その眼差しには──私が決して向けることのできない、灼けるような熱があった。
「……椿」
蓮さんは、静かに名を呼んだ。その声には、抑えきれない緊張が滲む。
瞬間、蓮さんの腕の力が強くなる。まるで、私を彼女の視線から隠すように。
それが“演技”なのか、それとも……私を守ろうとしたのかは分からない。
ただ、彼の体温が近すぎて、心臓の音が自分でもうるさい。
椿と呼ばれた女性は微笑んだ。その微笑みは、美しいのに鋭い。
「相変わらずね。人前では完璧に演じるところも」
刺すような言葉。
蓮さんは何も返さない。ただ、私を抱く腕の温度だけが熱かった。
◇
──すべては、2ヶ月前から始まった。
一流ホテルの職を失った私が、月給80万円の偽りの花嫁になった……あの日から。
中には、便箋が一枚だけ。文字は少なかった。けれど、一文字一文字に、重さがあった。『蓮へ。お前がこれを読む時、隣に愛する人がいるはずだ。俺はお前に、孤独な背中を見せたまま逝ってしまった。すまなかった。でも、今のお前を見ていると、俺の分まで幸せになってくれていると分かる。その人を、一生大切にしてやれ。それだけで、俺は十分だ。 隆一郎』私は、手紙を胸に押し当てた。「蓮さんのお父様は……蓮さんのことを、ずっと見ていたんですね」蓮さんは答えなかった。ただ、窓の外を見ていた。朝日が、部屋を金色に染めていく。「蓮さん」「……ああ」「泣いていいんですよ」「泣いていない」「目が、赤いです」蓮さんが、ゆっくり私の方を向いた。「……うるさい」その声が、かすかに震えていた。私は何も言わず、蓮さんの手を両手で包んだ。しばらく、二人で黙っていた。窓の外では、山梨に続く空が、どこまでも青く澄んでいた。「さあ、準備しよう。荷物は、昨夜のうちに車に積んである」「そんなところまで」「サプライズだからな。抜かりなく」蓮さんが立ち上がり、私の手を引いた。私は呆れながら、でも笑った。そして、亡きお父様の手紙を、そっと胸のポケットにしまった。この手紙はきっと、私たちがこれから何度も立ち止まりそうになった時に、また開くことになる。そんな気がした。◇身支度を整えてホテルを出ると、春の朝の空気が頬に触れた。雲一つない青空が、どこまでも広がっている。駐車場へ向かう途中、蓮さんが先に車のドアを開けてくれた。当たり前のように、自然に。車に乗り込むと、蓮さんが運転席に座った。
翌朝。4月13日、日曜日。朝日が、カーテンの隙間から差し込んでいた。私は、ゆっくりと目を開けた。最初に感じたのは、蓮さんの体温だった。昨夜と同じように、腕の中にいる。枕元には、白い封筒があった。昨夜、蓮さんが「着いてから開けろ」と言っていたもの。でも、その前に──。明日、話すことがある。眠りに落ちる前の、蓮さんの声が蘇った。蓮さんはまだ眠っている。私はそっと封筒を手に取り、静かに開いた。中には、一枚のカードだけが入っていた。『明日の朝、君を連れていきたい場所がある』裏を返すと、旅館の名前と住所が書かれていた。見覚えのある地名。──山梨。私は、カードを胸に押し当てた。「……もう、しょうがない人」声に出したら、笑いが込み上げてきた。そして、蓮さんの頬にそっと触れようとした……その瞬間、蓮さんが目を開けた。「……おはよう」少しかすれた声。「お、おはようございます」急いで手を引っ込めると、蓮さんは見透かしたように言った。「触っていいぞ」「み、見てたんですか?」「起きた瞬間に気づいた」蓮さんが、悪びれた様子もなく言う。その顔が珍しく無防備で、私は思わず笑ってしまった。蓮さんも、小さく笑った。こんな顔、他の誰も知らない。この人の朝を、これから毎日私が見るんだ。その事実が、胸に沁みた。「封筒、開けたか?」「はい。ずっと教えてくれなかった、新婚旅行の行き先……」「ああ、山梨だ。新婚旅行は、君のご両親とゆっくり過ごしたい。旅館の手伝いもしながら、二人の時間も持ちたい」「でも……それって、私にとっては普通の帰省では?」「旅館の立て直しを、具体的に動かし始め
最初は、確かめるような優しい口づけ。けれど一度離れそうになった瞬間、蓮さんの腕が私の腰を強く引き寄せ、逃がさないと言わんばかりに深く、激しく舌が絡み合った。「……んっ」息ができなくなる。蓮さんの香りと体温に包まれ、膝の力が抜けそうになった時、彼は私を軽々と抱き上げた。「きゃっ」驚いて、首に腕を回す。「ベッドに行こう」シーツに散らされたバラの香りが、ふわりと舞う。蓮さんは私をベッドに横たえ、覆いかぶさってくる。「……痛かったら、すぐに言ってくれ」蓮さんの声は、もう隠しようがないほど荒くなっていた。私が頷くと、蓮さんの唇が耳たぶから首筋、そして鎖骨へと熱い痕を残していく。触れられるたびに肌が粟立ち、体の芯から得体の知れない熱が広がっていく感覚。「蓮、さん……あ……っ」自分の口から漏れた声が、あまりに甘く艶っぽくて、自分でも驚いてしまう。蓮さんがゆっくりと私の中に入ってきた瞬間、思わず彼の背中にしがみついた。最初は、鋭い痛みに身を固くした。けれど蓮さんが、額に、瞼に、鼻筋に、慈しむような細かなキスを何度も落としてくれるたびに、痛みは次第に甘い痺れへと変わっていった。繋がっている。かつては「契約」で結ばれただけの私たちが、今、魂ごと一つに溶け合っている。「咲希……愛してる、愛してる。もう、誰にも渡さない」蓮さんの掠れた声が、耳の奥に深く響く。あの日、冷徹だった彼が今、こんなにも愛おしそうに私を呼んでいる。「私も……愛してます」二人の息が重なり、時間の感覚がなくなっていく。私はただ、彼という名の大波に飲み込まれていった。◇しばらく、そのまま抱き合っていた。荒い息が、少しずつ落ち着いていく。蓮さんは私の体を抱き寄せたまま、額の汗を優しく指で拭ってくれた。私も、心地よい倦怠感の中で、彼の胸の鼓動に耳を澄ませる。
4月12日、午後11時。披露宴の喧騒を離れ、着替える間もなく蓮さんにエスコートされて乗り込んだ車は、都内の高級ホテルの前に停まった。ライトアップされたエントランスが、夜の闇の中で宝石のように輝いている。「咲希」蓮さんが先に降りて、私に手を差し伸べてくれた。その手を取って車を降りる。二次会用に用意された、総レースの白いドレスが夜風に揺れた。披露宴の重厚なドレスとは違い、体のラインに寄り添うような繊細な生地が、かえって私の緊張を煽る。ホテルのスタッフが深々と頭を下げ、私たちをロビーへと案内してくれる。大理石の床に響く靴音。高い天井から降り注ぐシャンデリアの光。けれど今の私には、隣を歩く蓮さんの存在しか感じられなかった。繋いだ手から伝わってくる、彼の体温。今夜──私たちは、本当の夫婦として初めての夜を迎える。エレベーターに乗り込むと、扉が静かに閉まった。上昇していく数字を、私は息を呑んで見つめる。蓮さんが、何も言わず私の手をぐっと握り直した。その力加減は、いつも冷静な彼には珍しく、どこか余裕がないようにも感じられた。「……蓮さん」「……ああ」蓮さんの低い声が、狭い空間に微かに震えて響く。彼もまた、緊張しているのだ。その事実が分かって、不思議と私の肩の力がふっと抜けた。最上階。部屋の前でカードキーをかざすと、重厚なドアが吸い込まれるように開いた。◇部屋に入った瞬間、私は言葉を失った。パノラマウィンドウの向こうには、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景が広がっている。けれど私の視線を奪ったのは、ベッドルームへと続く扉の向こう、真っ白なシーツの上に鮮やかに散らされた、真紅のバラの花びらだった。「蓮さん……これは」「……少し、やりすぎたか?」振り返ると、蓮さんが愛おしげに、それでいてどこか照れくさそうに微笑んでいた。「いいえ……とても綺麗です」
ある日の午後。神崎さんが書類を届けにやって来た。「森川さん、これから買い物ですか?」「はい」「実は、氷室様のことでお話したいことがありまして。少し、お付き合いいただけませんか」その真剣な表情を見て、私は直感した。もしかして、前に家を訪ねてきたときに、話そうとしていた、あの続きではないだろうか。◇近所の、少しざわめいたカフェで、私たちは向かい合ってコーヒーを飲んだ。神崎さんはカップを両手で包み込み、温めるようにしながら、静かに話し始める。「氷室様…&
──目が覚めた。私は、ベッドの上で激しく息を切らしていた。心臓が、警鐘のようにドクドクと鳴り響いている。夢……だった。トランクを開けた、悪夢のような夢。中には、何が入っていたんだろう。見た、はずなのに。目が覚めた瞬間、あの光景は霧のように消えてしまった。思い出せない。ただ──恐怖だけが、胸に残っている。私は、クローゼットをじっと見つめた。あの中に、トランクがある。本当に開けてしまいそうで、何よりもそれが怖かった。時計を見ると、午前
私の手が止まる。『違法なことはさせない。だが、俺の言うことは絶対だ。それが嫌なら、今すぐ帰れ』と、氷室様は言った。……これでいいのか?私は今、ここにサインをして、本当にいいの?この理不尽な条項は、間違いなく私の人生を大きく変えることになる。私は、目を閉じた。母の弱々しい声。旅館の屋根。父の薬代。通帳の残高32万円。選択肢は……ない。私は、ペン先を契約書に当てる。そして、『森川咲希』とサインをした。「契約成立だな」ふっと口角を上げた
私は、息を呑んだ。死──?「死ぬって、そんな大袈裟な……」「いいえ、大げさじゃないんです」神崎さんは、真剣な目で続けた。「過労死、という言葉をご存知ですか?」「はい……」「氷室様は、その一歩手前です」私は、胸がぎゅっと締め付けられた。「氷室様は仕事ばかりで、自分の健康を顧みない。朝は7時に家を出て、夜は0時を過ぎることもある。食事は全てコンビニか外食です」「……そんな」「なので、どうか氷室様を救ってあげてください。