Masuk辺りの空気が、一瞬にして張り詰めた。ジェイレスは落ち着きを払い、セレーネは押し黙り、デイジーは息を呑む。単なる帰路に過ぎなかったはずの時間が、今や避けられない衝突の火種へと変わっていた。セレーネは眼差しを硬くしてディリアンを睨みつけ、声のトーンを一定に保ちながらも、その奥に明らかな怒りの炎を燻らせて言い放った。「そんな風に聞くなんて、どういうつもり?私がこの方と一緒に何をしたって言うの?」ディリアンが一歩踏み出し、二人の距離が縮まる。その眼光は鋭く、到底飲み込めない嫉妬を必死に堪えているかのように、顎の筋肉が引き結ばれていた。彼は重く、ほとんど詰問するような声で凄む。「一人で出かけておいて、こいつと一緒に帰ってきた。説明しろ、セレーネ。一体どういうことだ?」セレーネの斜め後ろに立っていたジェイレスが、事態を収拾しようと口を開きかけた。「俺は――」ディリアンは荒々しく声を荒らげてそれを遮り、氷のような視線を横に走らせて凄んだ。「俺は妻に聞いているんだ。貴様は黙っていろ」空気が完全に凍りつく。ジェイレスは口を噤んだ。先ほどまで残っていた薄い笑みは消え去り、代わりに、作り上げられた平穏な表情が浮かぶ。明らかにその扱いを不快に思いながらも、引くべき時を弁えている皇子としての振る舞いだった。セレーネは深く息を吸い込んだ。一度大きく胸を上下させ、どうにか声を一定に保ちながらきっぱりと告げる。「私の車が故障したの。エンジンが完全に動かなくなってしまったわ。だから、ジェイレス殿下にお送りいただけるようお願いしたのよ」ディリアンはたった今聞いた言葉が信じられないとでも言うように彼女を見つめ、より一層危険な響きを帯びた低い声で繰り返した。「……お願いしただと?」セレーネは一切の躊躇なく、彼を睨み返して答える。「ええ」ディリアンの忍耐が完全に決壊し、彼は声を張り上げた。「車なら修理できるだろう!でなければ、使いの者に別の車を呼ばせればいい。どうして、わざわざこいつと一緒にいる必要があるんだ?」その問いの裏には、単なる嫉妬だけでなく、より深く、暗く、苦々しい感情が渦巻いていた。セレーネは明らかに気を悪くした様子で鼻で笑い、反論する。「それが何か問題でも?皇子殿下とご一緒する方が、遥かに安全でしょう」
ジェイレスは口元に薄い笑みを浮かべた。「このような慈善夜会は、無視するにはあまりにも重要ですからね」彼は軽やかに答える。「それに、皆が恐怖から遠ざかることを選んだなら、帝国がまだ健在であることを示す者がいなくなってしまいます」二人の視線が、ほんの束の間交差した。冷え切り、距離感に満ちた大広間の中央で、この短い対話だけが唯一の「正常」なものに感じられた。それは、たとえ今は高い代償を払うことになろうとも、勇気というものがまだ存在しているという、無言の承認だった。セレーネは微笑んだ。穏やかでありながら、微かな距離を保った笑みだ。彼女は軽快な口調で告げる。「今夜、そのようにお考えなのは、殿下、あなたお一人かもしれませんわ」ジェイレスは彼女の視線を追い、閑散とした帝国の芸術大広間を見渡した。普段は笑い声に満ちているはずの壮麗な空間は、今や押し殺したような囁き声と、互いに距離を測り合う足音だけで満たされていた。彼は再びセレーネを見つめ、少し声を落とす。「皆が囁き合って……」彼は慎重に言葉を選ぶ。「あなたを……恐れているからですか?」セレーネは気を悪くした様子は見せなかった。その笑みは完璧に保たれ、むしろ一層柔らかみを増したように見えた。「そうではありませんわ」彼女は淡々と答える。人々の恐怖など、嘆くほどの価値もないとでも言うように。ジェイレスは彼女の顔を少しの間観察した。噂の嵐の中心にいる女にしては、その平穏はあまりにも整いすぎていた。やがて、何かを決断したかのように彼は口を開く。「それならば、今夜は私があなたのエスコートを務めさせていただきましょう」セレーネの瞳に僅かな驚きが走ったが、それはすぐに隠された。彼女は優雅に頭を下げる。「殿下にご一緒していただけるとは、光栄ですわ」ジェイレスは小さく声を立てて笑った。「遠慮なさらないでください。社交界に滅多に顔を出さないことで有名な公爵夫人をエスコートできる機会など、そうそうあるものではありませんから」「それもそうですわね」セレーネは薄い笑みと共に返す。「残念ながら、多くの社交行事はそれほど重要ではありませんもの」彼女の声に傲慢さはなく、ただ純粋な本音だった。その率直さが、ジェイレスの笑みをさらに深める。「ですが、あなたにお会いし
返事も待たずに、セレーネは歩き去った。モルウェンナは庭園に一人立ち尽くし、遠ざかるセレーネの背中を見つめていた。胸の内で、名状しがたい感情が渦巻いている。嫉妬、恐怖、怒り。そして、より深い次元での気付き。たった今去っていったあの女は、単なる恋敵などではない。自分自身の奥底にある恐怖を映し出す、鏡なのだという気付き。庭園を後にするセレーネの足取りは、ひどく堂々としていた。背筋を伸ばし、凛と前を向いて。その姿を見た者は皆、決して揺らぐことのない高位貴族の女の毅然たる態度だけをそこに読み取るだろう。だが、自室の扉が背後で重く閉ざされた瞬間。その強靭な虚勢は、音を立てて崩れ去った。セレーネは扉に背を預け、きつく目を閉じる。数秒間息を止め、やがて長く、震える息を吐き出した。全身が激しく粟立っている。崩れ落ちそうな体を必死に支えるように、ドレスの生地を握りしめる指先が白く変色していた。足から力が抜け、立っていることすら覚束ない。うつむくと、流れ落ちた髪がその顔を隠した。正直なところ……モルウェンナと対峙するたび、思考よりも先に体が反応してしまう。この震えは、単なる恐怖からくるものではない。「記憶」のせいだ。まだ完全に癒えきっていない傷。かつてあまりにも近く、あまりにも生々しかった死の影。今こうして息をしていることすら、運命からの借り物のように感じられるほどのトラウマ。彼女は掠れた弱々しい声で、自分自身に言い聞かせるように呟いた。「大丈夫よ……」深く息を吸い込み、砕け散った平穏の欠片を一つ一つ拾い集める。セレーネには、はっきりと分かっていることが一つあった。もしここで恐怖に屈すれば、モルウェンナと、あの女が体現する全てのものが勝利を収めることになるのだ。崩れ落ちるわけにはいかない。少なくとも、今はまだ。渾身の力を振り絞り、セレーネは再び背筋を伸ばした。未だ微かに震える手で顔を拭い、髪を整えると、部屋の中央へと歩み出る。彼女は短く声をかけた。「デイジー」部屋の脇にある小さな扉が、即座に開かれた。デイジーが小走りで入ってくるが、セレーネの姿を見るなり、その顔に深い憂慮の色を浮かべた。彼女は柔らかな声で尋ねる。「奥様?もしかして、ご気分が――」セレーネは先ほどよりも力強い声でそれを遮り、深く息を吸い込ん
モルウェンナは僅かに小首を傾げ、好奇心と嘲りが入り混じったような底知れぬ瞳でセレーネを見つめた。そして、言葉を慎重に吟味するように、ゆっくりと口を開く。「どうして、そんなことを聞くのかしら?」セレーネはすぐには答えなかった。微かに息を吐き、平静を装って顔を上げる。決して認めたくはない何かに、胸を締め付けられながらも。彼女はようやく答えた。「ただの質問よ。気になっただけ。ディリアン以外にも……あなたには何か、渇望しているものがあるはずでしょう。あなたがこれまでしてきたことの全てが、たった一人の男のためだなんて、あり得ないもの」モルウェンナの口角がゆっくりと吊り上がり、目の笑っていない薄い笑みを形作った。その声には、ぬめり気を帯びた危険な響きが混じっていた。「そんなことを聞くなんて。私が本当にディリアンを奪ってしまうのが、怖くなったのかしら?」セレーネは少しも怯むことなく見つめ返した。その眼差しは冷ややかで、ひどく平坦だった。彼女は淡々と返す。「そんなこと、もうどうでもいいの。ただ、同じ女として純粋に気になっただけよ。それ以上の意味はないわ」あまりにも見え透いた嘘を聞いたかのように、モルウェンナは短く声を立てて笑った。彼女は一切の躊躇なく言い切る。「あなたがディリアンを愛していることくらい、分かっているわ。でも同時に、あなたはひどく怯えている……そして、それを完璧に隠し通しているわね」セレーネは間髪入れずに、あまりにも早すぎるテンポで反論した。「私は何も恐れてなんかいないわ」二人の間に一瞬の沈黙が降りた後、モルウェンナが半歩だけ距離を詰めた。彼女は囁きかける。「また『死ぬ』のが、怖いんじゃないかしら?」セレーネは息を呑んだ。目が見開かれるが、それでも視線は外さない。ほんの一瞬、周囲の空気が重くなった。厳重に鍵をかけていた心の奥底を、その一言に鋭く射抜かれたかのように。モルウェンナは彼女の反応を注意深く観察し、古い傷口を切り裂くかのように、さらに深く、ゆっくりとした声で言葉を継いだ。「ディリアンを愛せば、また死ぬことになる。それが怖いんでしょう。心を完全に預けてしまえば、歴史が繰り返されると恐れている。だから、自分の感情を押し殺しているのよ。二度と命を失わないために……愛さないことを選
セレーネは静かに首を横に振った。視線は山小屋へ向けられたままで、ダグニーとディヴリオの笑い声がまだ微かに響いてくる。彼女は消え入りそうな声で答えた。「いいえ。子たちの邪魔をしたくないの」ラミアは小屋の中を少し覗き込み、その温かく賑やかな音色に耳を傾けてから、再びセレーネを見つめて小さく微笑んだ。彼女は心からの本音をこぼす。「あなたがいた方が、ずっと楽しくなるのにね」セレーネは息を吐き出した。胸の奥に、容易には解けない結び目のような重い何かがつかえている。彼女はようやく口を開いた。「まだ、少し気が引けるの。私のせいで、みんなに気を使わせたくないしね」ラミアはすぐには答えなかった。歩み寄り、セレーネの隣に並んで立つと、朝露に濡れた木立を見つめる。そして、無理のない穏やかな笑みを浮かべた。ふと思いついたように、彼女は軽やかに提案した。「それなら、私と一緒に朝食を食べましょうよ」セレーネは顔を向け、微かに眉をひそめて尋ねた。「朝食って、何を?」ラミアは瞳を少し輝かせ、気楽な調子で少し身を乗り出しながら答える。「栗が食べたいの。このお城の境界にある森の入り口には、栗の木がたくさんあるって聞いたわ。それを探しに行きたいのよ。あなたも来る?」セレーネは沈黙した。遠くにぼんやりと霞む森を見つめる。誰の目もなく、最近のあまりにも疲労を強いる喧騒からも遠く離れた、静かな場所。ほんのひととき、彼女は本気でその提案を検討した。セレーネが断るのを恐れたかのように、ラミアが慌てて付け加えた。「安心して。パンは持ってきたから」手に持った小さな鞄を掲げてみせ、彼女は優しく促す。「栗を拾いながら、ゆっくりしましょう。何も考えなくていいし、話したくなければ何も話さなくていいのよ」朝の風がそっと吹き抜け、セレーネの髪の毛を揺らす。彼女は一瞬目を閉じ、再び開いた。少しの間だけなら……それに、少しここから離れる時間が必要だったのも確かだ。彼女はついに小さく頷き、静かに応じた。「……分かったわ。行きましょう」ラミアは笑みを深めた。それは勝利の笑みではなく、純粋な安堵の笑みだった。これ以上言葉を交わすことなく、二人は森へと歩き出す。山小屋の笑い声を背後に残し、柔らかな静寂だけを連れ立って。栗で満たされた籠を手
ヴィヴィエンヌは一瞬躊躇い、やがて車を降りた。外の空気は想像以上に冷たい。顔を上げると、少し離れた場所に立つ大柄な人影と視線がぶつかった。ビョルンだ。彼は背筋を伸ばして立ち、その顔は冷たく、眼差しは警戒に満ちていた。まるで客人を迎えるのではなく、監視すべき厄介者を見張っているかのようだ。笑顔も、歓迎の言葉もない。ただそこにいるだけで、「お前は監視下にある」という事実を明確に突きつけていた。ヴィヴィエンヌは再び、両手を強く握りしめた。背後で、セレーネの車のドアが閉まる。エンジンが唸りを上げ、別れの視線一つ残すことなく、車は走り去っていった。見知らぬ土地に、彼女一人だけを置き去りにした。セレーネが車を降りたちょうどその時、城の前に立つディリアンの姿が目に入った。男は身じろぎ一つしない。冷たさを増した壮麗な城の影に溶け込んでいるかのようだった。城の明かりは静かに灯り、つい先ほど内部で起きた狂乱とは対照的だった。セレーネは長く息を吐き出し、歩み寄る。挨拶もなしに、彼女は平坦な声で尋ねた。「ここで何をしているの?」ディリアンが顔を向ける。その顔には疲労が滲み、眉間の皺はまだ完全には消えていない。彼は短く答えた。「ただ……夜風に当たっていただけだ」セレーネは周囲をぐるりと見回した。門は固く閉ざされ、見張りの兵が所定の配置についている。叫び声も、騒ぎもない。彼女は冷ややかに言い放つ。「城はすっかり落ち着いたようね。今回は、善人役を全力で演じきったのかしら?」ディリアンは小さく息を吐き出した。「俺は何もしていない」セレーネは鼻で笑った。「嘘ね。どうせまた、彼女を宥めたんでしょう」ディリアンは反論しなかった。むしろ距離を詰め、セレーネが夜気の中で彼の体温を感じ取れるほどの近さまで歩み寄る。彼は低く穏やかな声で言った。「そんなことよりも、お前も疲れただろう。ヴィヴィエンヌは……解放したのか?」セレーネは短く頷いた。ディリアンもまた、その決定を一切の疑問を挟まずに受け入れるように頷く。彼は促した。「それなら、中へ入れ。外は冷える」セレーネは答えない。ディリアンの横を通り過ぎる。石畳の上にヒールの音が軽く響いたが、彼女が遠ざかる前に、声が引き留めた。「セレーネ」足が止まる。
その朝、空気は凍えるほど冷たかった。いつも通り、セレーネはディリアンの姿を見なかった。もはや慣れきっている。夫が屋敷に戻らないことなど、今に始まった話ではない。かつては、城の執務が忙しいのだと自分に言い聞かせていた。だが真実を知ってしまった今、胸に残るのは嫌悪だけだった。心の傷はまだ癒えていない。それでもセレーネは、時間が自分を強くしてくれると、必死に信じようとしていた。しかし、その朝は違った。突然、公爵邸に父、モロー伯爵が現れたのだ。「ヴィヴィエンヌに、いったい何を言った?」低く、重たい声。逃げ場のない問いかけだった。「何を?あの娘が、何か
食堂の空気が凍りついた。セレーネの言葉は氷のように落ち、ヴィヴィエンヌの顔色を奪い、ディリアンを立ち尽くさせる。まるで、初めて彼女を知ったかのように。「これは、お前らしくないな」ディリアンが低く呟く。セレーネは薄く微笑んだ。「わたくしのほうこそ、驚いておりますわ。ようやく、あなたがわたくしを見てくださったのですから」「その言い方、恥ずかしくないの?」ヴィヴィエンヌが堪えきれずに割り込む。セレーネの視線は平坦だった。「お二人に合わせているだけですわ。それで動揺なさるのは、なぜでしょう?」ヴィヴィエンヌは顔を引きつらせ、勢いよく立ち上がる。そのまま足
――流産したばかり?混乱しているだけ?ヴィヴィエンヌは一瞬、言葉を失った。不快感を押し殺すように表情が強張る。ディリアンは彼女の手を無造作に振りほどき、そのまま振り返りもせずに歩き去る。取り残されたヴィヴィエンヌは、その場で静かに目を細めた。唇が歪み、怒りを噛み殺すが、やがてその端に、かすかな笑みが浮かぶ。――セレーネが本気で、離婚するつもりなら……胸の奥で、期待が膨らむ。「レヴェンティス公爵夫人、ね?」その称号を、舌の上で転がすように囁く。ずるりとした笑みが広がり、低く喉を鳴らして笑った。そして何事もなかったかのように、ディリアンの後を追う。…
外では、馬の蹄の音が次第に遠ざかっていった。一方、部屋の中では、セレーネが背筋を伸ばして立っていた。まるで、自分の心の壁に決意を打ち付けたかのように。今日から、この結婚は、もはや牢獄ではなく、戦場だ。セレーネは冷たいベッドの上に身を投げ出した。唇が震え、声はかすかな囁きになる。「わたくし、何か悪いことをしたのでしょうか」彼女は五年間、公爵レヴェンティスの妻として生きてきた。五年間、完璧な公爵夫人であろうと努力し続けた。怠けたことなど一度もない。学び、管理、準備、すべてを尽くした。夫の食事から領地の仕事まで、すべてを整えた。ただ一つ、認めてもらいた