FAZER LOGIN女性に興味がなくて和歌一筋だった貴晴が初めて惹かれたのは大納言(上級貴族)の姫だった。 だが貴晴は下級貴族だから彼女に相手にされそうにない。 そんな時、祖父が話を持ち掛けてきた。 それは都を騒がせている〝鬼〟の居場所を見付けること。 上手くいけば大納言の姫に相応しい身分になれるかもしれない。 早くに両親を亡くした織子は叔母の家に引き取られた。叔母は大納言の北の方だ。 歌が得意な織子が義理の姉の匡の歌を代わりに詠んでいた。 織子が代詠した歌が評判になり匡は若い歌人としてあちこちの歌会に引っ張りだこだった。 ある日、貴晴が出掛けた先で上の句を詠んだところ、見知らぬ女性が下の句を詠んだ。それは大納言の大姫だった。
Ver mais「次はこれよ」
義母がそう言って文を二年前、織子は母の妹に引き取られた。
織子は和歌が上手かったので一度義理の姉の男女が直接会うことが出来ないため、男性にモテる基準の一つは歌が上手いことである。
それで匡には男性から文が送られてくるようになった。 その返事に添える歌も織子が詠んでいる。「これはどういう方からですか? 叔父様はこの方のことをどうお思いなのですか?」
と義母に訊ねた。 「そうね……この方は出世するかしら」 義母が逆に訊ねてきた。「それは
「昔、ある人が官職を希望したとき、その人の母親が、
思へ君 かしらの雪を うちはらひ 消えぬさきにと いそぐ心を
(年老いた自分が消えてしまう前に息子に一人前になって安心させてほしいと焦る気持ちを思いやってください)
と言う歌を関白様の北の方様に送ったところ、その歌を聞いた関白様がいたく感動されて官職を与えてくださったのよ」
義母が言った。それは母親が詠んだのだから男性の歌の才は関係ないのでは……。
しかも贈られた妻と関白の二人は、贈った母親と昔からの知り合いである。
長い付き合いがあったのだから歌が関係あったとは思えない。 と、思ったが織子は黙っていた。その他にも義母は色々言っていたが、要は歌が上手いと出世にも多少影響するという事らしい。
男性にとっては漢詩の方が重要らしいが歌を評価されて出世した例もなくはないので上手いに越したことはないそうだ。「で、この方はどうなのですか」
義母の問いに、 「そうですねぇ」 織子が考え込む。 歌が詠めるのと、上手いか下手かが分かるのは別だ。 織子はまだ判断が付くほど歌にそのとき匡が部屋に入って来た。
外出していたので普段「お帰りなさい、歌会はどうだった?」
義母が匡に声を掛けた。二人が話し始めたので織子が部屋を出ようとすると、
「織子様、明後日までに花の歌を何首か詠んでおいてくださいな」 匡が言った。名前に「子」が付くのは官位を持っているか帝か皇子の妃だけなのだ。
義母や匡の名前には「子」は付かないが織子は「明後日?」
織子が聞き返す。「明後日、お寺に行くと言ってあったでしょう」
義母が言った。 確かに帝の
「それはお花見では……」
「お花見に「花を
なるほど……。
春宮が近くにいる時にさりげなく良い歌を詠んで関心を引こうという事らしい。
昔から帝の妃というのは女性の夢だから匡だけではなく、義母も憧れていたに違いない。
義母はもう無理だから娘に望みを託しているのだろう。 帝は春宮への譲位を考えているらしいので次の帝である春宮の妃を狙っているのだ。織子には義母と匡の憧れは理解出来なかったが、自分が帝や春宮と顔を合わせることはないのだから関係ない。
織子は承諾すると歌を詠むために庭に足を向けた。
庭の桜は満開だった。
聞いてません、とは答えられないので、
「はい」 と「そろそろ妻がいてもいい頃ですよ。誰か考えている人はいないのですか」
母が続ける。 貴晴が
だが貴晴は女性に興味がない。
貴晴としては歌を詠んでいられれば満足だし出世したいと思ったこともない。
だが父や母は跡継ぎが欲しいと思っているようだし貴晴は一人っ子だ。 貴晴が作らなければ跡継ぎは出来ない。 とはいえ、
「今お話しした
「そうではなく……父上の身分をお考えください。大納言の姫とでは釣り合いませんよ」
大納言は
大納言より上は摂政関白と大臣だけだ。
摂政と関白は常にいるわけではない。 常設の大臣は三人(太政大臣と左大臣と右大臣)、それと「何を言っているのですか、あなたは……」
母が言い掛けたのを貴晴は軽く手を上げて止める。「管大納言の大姫は歌が上手いと評判なのであなたも気に入ると思ったのですよ」
母が不服そうに言った。「はぁ」
貴晴は気の抜けた返事をした。若い姫の歌の評判など当てにならない。
母親や母は不満げな顔をしながらも、
「ではいきなり身分が下がったな……。
下野守というのは下野国の
それと国司は収入が多く金持ちのことが多い。
夫の出世は妻(の親)の貢献度合いに左右されるから裕福なら裕福なほどいいとされている。 貴晴は出世など望んでないから金持ちではなくても構わないのだが。「ちゃんと聞いていますか!」
母の声で貴晴は再度我に返った。「
どうせ興味ないのだから親が適当な相手を
「何を言っているのですか! あなたが文を贈るのです」
「え……?」そういう事が面倒くさいから嫌なのだが……。
「得意の歌を贈ればいいでしょう。なんのための歌ですか」
母の言葉に貴晴は言葉に詰まった。そうなのだ。
歌というのは花を愛でたり、お祝いの時に「おめでとう」と言ったり、嫌な相手をやり込めたりするために詠んだりもするが、想いを寄せる相手に「好きだ」と伝えるために詠むことの方が遙かに多い。相手を口説くために詠み、結ばれても詠み、逢ってるときも詠み、逢ってないときも詠み、別れた後も詠む。振られても詠む。
歌というのは感情の発露なのである――一部の者にとっては。そりゃ、想いを寄せる相手にならいくらでも詠めるだろうが……。
貴晴がなんと答えようか悩んでいると侍女がやってきた。
「失礼致します。
自分の部屋に向かっていると足音が追い掛けてきた。
「若様、北の方様がお呼びです」
侍女の声に貴晴は渋々足を止めた。外出すれば良かった……。
貴晴は仕方なく踵を返した。
敬称略 順不同鏡山昭典『私撰 枕ことば辞典』阿部萬蔵・阿部猛『改訂版 枕詞辞典』八條忠基『詳解 有識装束の世界』倉本一宏『平安京の下級官人』和田英松『官職要解』榎村寛之『斎宮-伊勢斎王たちの生きた古代史』承香院『あたらしい平安文化の教科書』繁田信一『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』こさかべ陽子『よく分かる平安時代』『平安時代の絵事典』『光る君へ』ついに最終回…時代考証が語る平安貴族の「政治」と「恋愛」<上>https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20241209-OYT8T50192/『光る君へ』ついに最終回…時代考証が語る平安貴族の「政治」と「恋愛」<下>https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20241209-OYT8T50194/望月光『望月光の古文教室 古典文法』荻野文子『マドンナ古文 パーフェクト版』『落窪物語』『平中物語』『御堂関白記』『小右記』『堤中納言物語』『日本書紀』『古事記』『古今和歌集』『山槐記』『源三位頼政集』小松英雄『伊勢物語の表現を掘り起こす』望月光『望月光の古文教室 古文読解編』荻野文子『マドンナ古文常識217』荻野文子『マドンナ古文和歌の修辞法』岡本梨奈『岡本梨奈の1冊読むだけで古文の読み方&解き方が面白いほど身につく本』木下武司/亀田龍吉『万葉集 植物さんぽ図鑑』成清弘和『律令家族法の研究』『令義解』『律令制と古代社会』河添房江『紫式部と王朝文化のモノを読み解く 唐物と源氏物語』八條忠基『有職故実から学ぶ年中行事百科』梶川敏夫『ビジュアル再現 平安京 地中に息づく都の栄華』梶川敏夫『新版よみがえる古代京都の風景
随身が猫を捕まえ、糸毛車が動き出そうとしたのを見た貴晴は思わず牛車の外に飛び出した。「貴晴!?」 隆亮が驚いたような声を上げる。 貴晴はそれには構わず糸毛車に駆け寄ろうとして足を止めた。 隆亮が出世できなくなったら困るか……妻達が。 貴晴は牛車の中の隆亮を振り返った。「お前はそこにいろ!」 と言ってから、「そこの車、止まれ!」 と青糸毛の牛車を止めた。「誰だ、お前は! この車に乗ってるのがどなただと……」 郎党が刀の柄に手を掛けて誰何する。「私は弾正台だ!」 貴晴がそう言うと、青糸毛の前簾が僅かに動いた。 乗っている者が外を覗いたのだろう。「そいつの狩衣は黄丹よ! 春宮でなければ着られない色を着るとは不届きな! やってしまいなさい!」 青糸毛の中から女性の声がした。 郎党達が一斉に斬り掛かってくる。 貴晴は抜刀すると太刀を横に払った。 郎党が叫び声を上げて転がる。 続いて背後で絶叫が上がった。 振り返ると隆亮が郎党を斬り捨てたところだった。「おい! 出世できなくなるぞ!」 貴晴が隆亮に声を掛ける。「私はお前の手伝いを命じられてるんだから、これは仕事だ」 隆亮は嬉々としてそう言いながら別の郎党を斬り付ける。「これは仕事じゃ……」「お前、弾正台だって名乗っただろ」 隆亮が更に別の郎党を斬る。 失敗した……。 隆亮が側にいない時にするべきだった。 あの女御だと気付いて咄嗟に牛車を止めてしまったが……。 私が全ての責任を被れば隆亮はお咎めなしにしてもらえるだろうか……。「春宮になりたいのでしょうけど、そう
「女御の猫だとご存じだったのですか? それで、あの袋を……」 貴晴は織子に訊ねた。 「女御?……ああ、ではやはり、あの方は春宮様のお母様だったのですね」 「ご存じなかったのなら何故、言葉を濁しておられたのですか?」 単に暗くてよく分からなかったという事だったのか?「父が春宮冊立の邪魔をしていたとか、私が邪魔をするとか仰っていたので……」 つまり帝や春宮が関わっているようだから言いづらかっただけか……。 春宮冊立の邪魔を出来るような立場の人間となると身元はかなり絞られる。 二年前に一度襲撃されていて内親王だという事を人に知られたくないと思えば春宮や女御と関わりがあるというわけにはいかないだろう。 そういえば――。「都の近くまで戻ってきてから襲撃されたんですよね? 退下した斎王を狙う理由は……前の帝が春宮冊立の邪魔をしていたと思っていたから、その逆恨みだったということですか?」 「いえ、どなたかに春宮位を奪われるかもしれないと……それで帝が私の言う事を信じるとかなんとか……でも、私は今の帝とお話ししたことは……」 織子が首を傾げながら言った。 斎宮に旅立つ儀式をすっぽかしたのだから今上帝が織子に会ったことがあるとしても十二年以上前だ。 となると、帝は織子の言うことを信じているというより恐れていて、つつじの君が廃太子をしろと言ったらその通りにするかもしれないと思っていたのかもしれない。 そもそも、帝が織子を恐れているのは大赦させるために女御が毒を飲ませたせいなのだから自業自得なのだが――。「帝には他に親王様がいらっしゃらないのですから廃太子などあるわけないのに……」 織子は『帝には他にご存命のご兄弟はいらっしゃらないし……』と言いながら首を傾げている。 祖父が言っていたように、皇族しか皇后になれなかった時代は帝の意向がもっと尊重されていたから春宮選びにもその意思が反映された。 ただ、それも相当大昔の話だ。
それが二年前のことだった――。 それ以来、祖父とは口を利いていなかったから詳しいことは知らないが、おそらく今の春宮を押している勢力――多分、春宮の母親の女御やその父親――が、帝が隠し子を春宮に立てようとしているようだという噂と聞き付けて貴晴の命を狙ったのだ。 迷惑な……。 だから皇族も貴族も嫌いなのだ。 皆、他人の気持ちを考えずに勝手なことばかり……。 弾正台に補すという話があった時、すぐに〝弾正宮〟にしてやるという意味だと察しが付いた。 弾正台というのは親王がなる名誉職のようなものだからだ。 だが親王宣下――親王の身分を与えること――の有無はともかく、貴族の腐敗を正す気があるというのならなってもいいかと思ったのだ。 大納言の姫と釣り合う身分も欲しかったし……。 そういえば、内大臣が中の姫の恋人のことを相談した女御は春宮の母親だと言っていたな……。 貴晴を狙ったのと、内大臣の中の姫の恋人を殺したのが同じ女御だとしたらやたら殺意が高い女性だという事になる。「きゃーーーーー!」 不意に織子が悲鳴を上げた。「つつじの君!」 貴晴は慌てて立ち上がると、 「失礼します!」 御簾を払った。「あ、た、多田様、違います」 つつじの君が慌てたように顔を隠す。 「え?」 「そ、そちらに……」 つつじの君が震える指で貴晴の後ろを指す。 振り返ると背後に蛇がいた。 どうやら庭から這い上がってきたらしい。 こういう事は偶にあるのだ。 毒蛇ではない。 貴晴が蛇を掴んだ時、郎党達が駆け付けてきた。 蛇を差し出された郎党は顔を引き攣らせながらも受け取った。「あ、あの、殺さないで下さいね」 つつじの君が、蛇を持って出ていく郎党に声を掛ける。〝蛇は神様の使いなので轢き殺すのは良くないと……〟
「…………」 貴晴と隆亮は視線を交わした。「あ、あの……」 大姫が困ったような声で言い掛けてから口籠もる。 大納言の随身は六人。 大の男が六人も必要になる用……? 大荷物を運ぶのでもない限り考えづらいし、どちらにしろそういうのは随身ではなくて使用人にさせるものだ。 となると自分で人払いをしたのかもしれない。 例えば男との逢瀬とかで……。 男と二人きりになりたくて人払いをしたのなら随身達が揃っていなくてもおかしくはないが……。 貴晴はさり気なく身体の向きを変えて牛車の前の御簾に視線を走らせた。 男物の衣裳の裾は出ていない。 貴晴が牛車の方に目を向けた時、辺り
「本当に貴晴を弾正台にする気があるんですか?」 隆亮が『そんな難題を押し付けるなんて』と言いたげに訊ねた。 祖父は隆亮の質問には答えず、貴晴に顔を向けた。「黒幕がいると思っているのでしょう。親王か公卿――おそらく大臣のうちの誰か」 貴晴が祖父の無言の問いに答える。 内裏に住んでいない親王は母方の祖父母と暮らしていることが多いし、親王の祖父は大抵は大臣か元大臣だ。 大臣は広い邸に住んでいる上に別邸も持っている。 盗賊が家人に知られずに出入りすることも可能だし、検非違使に調べられる心配もない。「お前、意外と|賢《かしこ
邸を出た貴晴が歩いていると牛車がやってくるのが見えた。 車体が白っぽく見えるのは檳榔という植物を編んだ物で覆っているからで『檳榔毛の車』といって四位以上でなければ乗れない牛車である。 貴晴は足を止めると道を譲るために脇に避けた。 よくよく考えてみたら貴晴の乗ってきた牛車は邸の前だ。 牛車に乗って帰るとなると隆亮と同乗することになる。 当然さっきの話が出るだろう。 それが嫌なら歩いて帰るしかない。 まぁ、歩いて帰れない距離ではないが……。 そんな事を考えている間にも別の牛車が通り過ぎていく。 どうやらこの先にある寺で何かあるらしい
その日も貴晴は母から「早く妻を」とせっつかれていた。 祖父の邸に行けという話はうやむやになったらしい。 あれ以来、何も言われなくなった。「いいですか、早く妻を……」 母がくどくどと何やら言っているのを聞きながら貴晴は横目で庭を眺めていた。「み吉野の み山の上の 月影に 桜の白き 色やうつらむ」 突然母が歌を詠じた。 貴晴が思わず視線を戻すと母は、してやったりという笑みを浮かべた。「帝の行幸の時に管大納言の大姫が詠んだのだそうです。帝や春宮も感心していらしたとか」 母が言った。 なんだ、春宮狙いか……。 貴