LOGIN辺境の小城で、穏やかな日々を送っていた氷室奈世(ひむろなよ)。 天才軍師である夫・永井康夜(ながいこうや)との政略結婚は、信頼と静かな愛情に満ちていた。 しかしある日、康夜は別の女を腕に抱き、冷たく言い放つ。 「離縁いたす。我が城を出てゆけ」 財産も地位も、実家の後ろ盾すら奪われ、追放された奈世。 絶望の淵で、彼女は静かに牙を剥く。 向かったのは、帝国最大の敵——蛮族連合の地。 冷酷で野心に燃える若き盟主・織部信焔(おりべ しんえん)の前に立ち、自らを妻にせよと申し出る。 捨てられた辺境の妻は、敵国の妃となり、やがて「女将軍」へと成り上がる。 元夫が築いた盤面を内側から崩していく和風ファンタジー×逆転劇、始動!
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夜になっても、城下の戸は開かなかった。番兵だけが、閉じた店のあいだを歩く。奈世の部屋は修繕途中の棟で、壁は新しい木の匂いがした。謀反人として突き出せと叫ばれたこの街での夜は、奈世にとって異様に長く感じた。連合に来て1年。慣れ親しんだ者もおるが、やはり自分は異物なのだと改めて思う。そんな夜こそ、余計に永井康夜の肌が恋しくなる。ずっとそこにいて良いと思っていた。あの男に安心を抱いていた。それが今や、この世で一番憎き相手だ。乱世の習いとは言え、あまりに無慈悲だ。ただ、それでも生きてゆかねばならぬ。異物であっても、否、異物であればこそ、ここで生きて良いという意味を、自らの力で生み出していくのみだ。眠れず、そのようなことを考えて自らを奮い立たせていると、すっかり夜も明け始めていた。夜明け前、斥候が戻った。馬の泡が多い。口上は短い。短いほど、数字が残る。「兵の動きがありまする。帝国の旗が見えました」烈焔が先に土間へ出る。待っていた男の足だ。奈世も続く。党吉は寝巻の上に鎧を引っかけ、紐が背中で解けている。源次が「紐が」と言いかける前に、半太郎が無言で結ぶ。党吉は「今のは見なかったことにせよ」と言う。誰も約束しない。土間だ。広間ではない。息が白い。「数は。言え」斥候が、一度喉を鳴らしてから出した。「少なくとも、500はおります」土間が凍る。味方の兵300に、敵の兵500。召し抱えたばかりの兵は足並みが揃わない。揃わないうえに、数も足りぬ。声明の名分でそんなに兵が集まるのか。戦支度を整えて待っていた総大将の城に、整った数の方が先に着いた。党吉が寝巻の袖で顔をこする。声が、いつもより小さい。「……樽の数なら、まだ計算できたがな。樽が500なら、俺が先に200は飲み干して減らしてやれるのだが」「今は樽の話ではない、兵の数だ。200もの兵を、酒と同じように飲み干せるなど……待て、樽でも200は無理だろう」奈世の声は平らで、平らなまま指が土間の縁を叩く。冗談を言っている場合ではないが、300と500では数が違い過ぎて、もはや真面目に語っておれるような場合でもない。彦九郎が暗がりの端から、広間より本音に近い声を出した。「それでも女を先に出せ。500が欲しいのは女だ。女を出せばこの国は守れる。守れるなら、それでよいではないか」烈焔は斥候を見て、奈世を見
都々樹に着いたのは昼だった。薄い石垣は修繕の途中で、新しい石と古い石の色がはっきり分かれている。茶の畑は半分焦げ、半分が芽を出している。森の木はまだ多い。燃えにくい木だ、と門を破った夜に言っていた木だ。残っているせいで、ここはまだ「南の都」には見えない。見えないまま、旗だけが新しい。門前には、すでに兵の気配が厚い。総大将が待っていた、という厚さだ。城下は静かだった。泥は飛ばない。子供も路地にいない。代わりに、店が戸を閉めている。看板は残っている。残っているのに中は暗い。源次が、声を潜めた。「姫様、やはり先に噂が……謀反人の女が来る、と。泥より怖い気がします。泥は払えますが、閉まった戸は払えません」「わかっておる。静かだから温い、というわけではないでしょう」党吉が店の戸を、指の背で二度叩いた。中から返事はない。あるのは、隙間から漏れる茶の匂いだけだ。「おい、閉めてどうする。戦の前に腹が減るというのに、酒も肉も売らぬのか。金ならあるぞ。あるつもりだ」半太郎が荷の陰から、通りの角を見た。「表は閉じております。裏は灯がついております。見るな、という灯です。見るなと書いてある紙の隣で、茶を売っておりますよ」「見るなと言われて見ぬ男が、間者かよ」「見ます。見ぬふりをして、よく見ます。それが仕事でござれば」門の上から、烈焔の声が落ちた。待っていた男の声だ。怒っている、というより、遅れた列を先に潰している声だった。「遅れたな。買うな。売るな。話すな。着いたばかりの謀反人が、店の前で欠伸をするな。党吉、お前だ」党吉が欠伸を途中で飲み込み、目を潤ませる。源次が「お気持ちはわかります」と小声で言い、烈焔の視線に当たって、あわてて馬のたてがみを撫でるふりをした。撫でる場所を間違え、自分の袖を撫でている。奈世は「待たせました。先に入りましょう」と言って、総大将の顔を見た。歓迎の顔ではなかった。戦支度を整えた城へ、兄の妻と、声明に書かれた女を入れている顔だった。嫌っている。嫌っているのに、待っていた。そのねじれが、目の端に出ている。※都々樹の広間は清蓮より狭い。飾りはさらに少ない。絵図が中央にあり、南が帝国、北が端毬、真ん中に朱で「都々樹」と書いてある。烈焔の字だ。下手ではない。急いで書いた字でもない。自分の城だ、と手で覚えさせている字だった。壁際には、すで
【華栄14年・11月】 あれから半年が経ち、いよいよ帝国の旗が整う音も聞こえてきた。もちろん連合側も、それをただ待ち続けていただけではない。この半年の間、領内の要所への砦の建造や、兵糧の確保、近隣諸国の侵略や調略も進めていた。 侵略や調略に関してはすべてがうまくいったわけではない。むしろ「お味方をいたす」と良い顔をする国があったとしても、戦況によってはすぐに手のひらを返すのが乱世の習いである。とは言え、帝国との戦に向け、やれることはやった。 ついに連合の本隊が端毬を発つ朝は、奈世が思ったより人が出ていた。門前に残る兵、見送る使用人、そして信焔までも門前にいる。これより始まるのは、それほど重要な戦だという意味である。 此度も総大将を務める烈焔は、先に拠点となる都々樹で戦支度を整えて待っている。奈世は先鋒ではない。読み役――つまりは軍師にも近い役職を与えられた。 数字が読めるのは奈世の強さだ。算衛門と秀久の連合軍と相見えた4月の戦とも異なる。此度の味方の兵は300。あれに比べて3倍の兵を動かさねばならぬ。数が増えれば、まとめ上げるのも難しくなる。 これより出立だというのに、責任の重さから顔を強張らせる奈世。源次も党吉も、長谷部半太郎をはじめとする氷室の間者も、すでに馬のそばにいる。党吉は、動かぬ奈世の肩をバンバン叩いた。 「緊張しておるな、軍師殿。いつものように気丈にしておれば良かろう」 「党吉……」 しかし奈世は、せっかく励ましの言葉をかけてくれたその男の頬を思いっきり引っぱたいた。 「馴れ馴れしく女子の体に触れるな! この助兵衛が!!」 「うぉ、いたたた……威勢がいいな。いつもの奥方だ、がっはっはっは!」 叩かれて笑っている。ますます気色の悪い男だと、奈世は渋い顔をする。 「我が妻よ」 と、そのやり取りを傍らで見ていた信焔は、右手を出さなかった。出しかけて、引っ込めた。党吉より、夫の方が何やら奥ゆかしい振舞いをしているように見える。手も握ってくれぬのかと思ったが、もしかして周りの目があるからか。 出会ってから約1年。党吉はますます慣れ慣れしくなっていくのに、夫とはいまだにこんな関係とは。 奈世は、思い切って|自
翌日。都の永井の屋敷は、夜でも灯が消えなかった。康夜は文机に向かい、短い文を書いていた。帝国の名で流す声明である。筆は速くないが、迷いがあるようには見えぬ。すぐに出さねばという切迫感もない、淡々とした速度だった。書き終えた文を一度だけ読み上げる。聞き役は、下段に膝をつく丹波算衛門だった。「かつて帝国に仕えた女武者・奈世は、北へ走り謀反を働いた。織部信焔の妻となり、帝国と蛮族連合の緩衝地帯であった境の小城が落ちた戦に、兵のひとりとして加担していたことがわかっている。奈世を捕え、都へ送るべし。殺してはならぬ」算衛門は顔を上げた。“元妻”とは呼ばず、家名もない。そして“殺してはならぬ”とある。「永井殿、そのように書かれた意図は――」「あの女子を俺に追放された元妻のままにしておけば、いきなり殺されるやもしれぬ。帝国側の者か、或いは帝国に寝返るようなお前のような者からな」“お前のような者”と言われ、算衛門は青ざめた。「どうした、具合でも悪いのか」康夜が真顔で尋ねてくる。松山の城で“首を奪えば良い”と口にしてしまったことは伏せていたはずだった。なぜ知られておるのか――それとも、知らぬから鎌をかけただけか。「いえ、急に疑いをかけられたようで……」算衛門はモゴモゴし出すが、腹を括って弁明した。「儂は、女子を殺めたりなどいたしませぬ……帝国では女子も尊ぶべきと存じておりますれば。謀反人は、男子であれ、女子であれ、しかるべき手続きに則って処罰するが寛容かと。ただ、儂も連合に与していた武者であれば、疑われるのも当然でござる……」「そうか。それはすまなかった」特に感情も乗せず、康夜は述べた。単に算衛門の肝が冷えただけのやりとりに終わった。康夜は文を置く。地図は見ぬ。見る必要はなかった。「文には、謀反人の女武者とも書いた。今や連合に与するひとりとして世に知らしめるためだ。そして、今は織部信焔の妻である、とも。これを無下に殺せば、蛮族連合と帝国の大戦となることを示しておる」算衛門は、康夜が何を言っておるのか今ひとつ理解に苦しんだ。追放した元妻を殺されたくないのか。未練がある……という風には見受け