追放された辺境の妻は、敵国の女将軍になった

追放された辺境の妻は、敵国の女将軍になった

last updateLast Updated : 2026-09-30
By:  道中ヘルベチカUpdated just now
Language: Japanese
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辺境の小城で、穏やかな日々を送っていた氷室奈世(ひむろなよ)。 天才軍師である夫・永井康夜(ながいこうや)との政略結婚は、信頼と静かな愛情に満ちていた。 しかしある日、康夜は別の女を腕に抱き、冷たく言い放つ。 「離縁いたす。我が城を出てゆけ」 財産も地位も、実家の後ろ盾すら奪われ、追放された奈世。 絶望の淵で、彼女は静かに牙を剥く。 向かったのは、帝国最大の敵——蛮族連合の地。 冷酷で野心に燃える若き盟主・織部信焔(おりべ しんえん)の前に立ち、自らを妻にせよと申し出る。 捨てられた辺境の妻は、敵国の妃となり、やがて「女将軍」へと成り上がる。 元夫が築いた盤面を内側から崩していく和風ファンタジー×逆転劇、始動!

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Chapter 1

第1話:裏切りと好奇心

【華栄かえい13年・11月】

「……これが、あなた様がわたくしに見せたかったものである、と?」

奈世なよの声は、意外なほど静かだった。

広間の上段で、夫である永井康夜ながいこうやは別の女を腕に抱いていた。

都みやこから呼び寄せられたらしい華やかな衣装の女が、彼の胸に身体を寄せ、勝ち誇ったように奈世を見下ろしている。康夜自身は冷たい目で妻を見据え、口元に嘲あざけるような笑みを浮かべていた。

「ああ。これが現実だ」

康夜の声も、また静かだった。しかしその静けさの中に、容赦のない刃やいばが潜ひそんでいる。

急に側室を娶めとったわけでもないことはわかった。正室である奈世に相談も無く、勝手にそんなことを決める男でないことも知っている。

ただの女遊びであれば、堂々と妻の前に見せるものでもない。わざわざ晒さらすことに意味がある。次に康夜が口にするであろう台詞を悟さとり、奈世は目を閉じた。とても直視していられなかった。

やがて康夜は口を開く。答え合わせだ。

「お前とは離縁いたす。もはや邪魔だ。明日までに我が城を出てゆけ」

奈世は正面の下段で、ただ座ざしていた。予想通りの言葉ながら、巨大な岩で殴なぐられたかのような痛みが走った。それでも薄目を開け、もう一度、正面を見上げる。もちろん上段にいる夫に絡みつく遊女のような女の姿は幻ではなく、消えることはなかった。

3年前にこの男と政略結婚をしたとき――いやそれ以前からずっと、彼女は康夜の不器用さを知っていた。感情をうまく言葉にできない男で、時に幼子おさなごのように素直で、時に残酷なまでに寡黙かもくだ。

「……左様さようでござりまするか」

だからこそ、今この振舞いが——別の女を抱き、見下すように笑うこの姿が——本物だと、奈世は悟らざるを得なかった。

賢かしこい女は、抗議などしても無意味だと、すべてを受け入れた。短く息を吐き、ゆっくりと目を閉じて言う。

「わかりました」

その一言だけを残し、立ち上がって広間を去った。後ろで女の笑い声がした気がした。康夜の声は、もう聞こえなかった。

※

【華栄3年・12月】

「奈世、一生のうちに、人生を何度もやり直す術すべがあることを知っておるか」

氷室家の老当主である祖父は、都への仕入れの帰り、船中でそう言った。

ほとんど髷まげも結ゆえぬほどに短い白髪。なのに、白い髭だけはぼうぼうと伸び、胸元までかかるほどだった。陽光を浴びた髭が、風に揺れて白い煙のように見える。

「それはなあに? おじじ様。不老不死の薬でもあるのでござりまするか?」

当時の奈世は10歳。先祖譲ゆずりの赤い目。そして母と同じ木炭のような黒髪はおかっぱにし、膝を揃えて座る彼女の前で、祖父は胡座あぐらをかいている。

祖父はカッカッカと豪快に笑った。髭が波打ち、短い髪まで揺れるほど。

「そのようなものは存在せぬし、そもそも不要じゃ。もっと身近なもので出来る」

「身近なもの……ますますわかりませぬ」

怒ったように言う孫に、祖父はまた笑いながら答えを示す。

「“書しょ”じゃ。“書”を読むことじゃ」

と、祖父の手には、異国の歴史学者・宗亮そうりょうが記したとされる書物が掲げられていた。挿絵さしえ付きで、子供でも読みやすいと巷ちまたで評判の一冊。それも今回、都で買い求めたものの一つだった。

「“書”? ……なあんだ、本でござりまするか」

心底ガッカリしたように奈世は言う。もっとワクワクするような答えがあると思ったのに。そんな奈世の態度を𠮟りつけるように、白髭の年寄りは続けた。

「なあんだとはなんだ! “書”にはな、いくつもの人の人生が刻まれておる。それを読むことで、まるでその者の人生を体感するような気分が味わえるのじゃ」

“気分”……もっと画期的な何かだと思ったのに。早くも祖父の話に興味を失いかけた奈世だったが、老人はそんな孫の様子を知ってか知らずか、話を続けた。

「書いた者の経験だけでなく、知識も取り入れられる。“書”を読むことからは、数多あまたの学びを得ることができる」

奈世は少し首を傾かしげた。

「確かに本を読むことは、わたくしも好みまする。ただ最近は槍や刀のお稽古けいこばかりで、本を読む時間があまり取れぬのです」

「そりゃあいかんな」

と、祖父が首を振るたび、白い髭もまるで生き物のように左右に揺れる。

「今は乱世。生きるために戦う術を学ぶことも大事じゃ。だが、同時に“書”も読まねばいかん。そこには沢山の先人の知恵が描かれておるからな」

「先人の、知恵」

おうむ返しに奈世は言う。

「お前も大事な人生の選択を迫られる時が来よう。そんなときに後悔なく、選択を間違わぬようにするためには、“書”から学びを得ることこそ大事じゃぞ」

「わかりました、おじじ様。ちゃんと読みまするから、髭をそんなに揺らすのはおやめくだされ。見ていると、船酔いしそうで……」

祖父はまたカッカッカと笑い、髭をわざと大きく揺らして見せた。

※

【華栄13年・11月】

唐突に言い渡された、夫からの離縁。気持ちが定まらない中、奈世は自室にこもり、出ていくための身支度を進めていた。

泣き出したい気分だったし、あの女に殴りかかりたい気持ちもあった。けれどそれをせずに、あまりに冷静に事実を受け止めている自分もいる。

まるで心がふたつあるようだ。だが、今はどちらかと言えば冷静さの方が上回っている。

幼い頃から、やりたいと思うことには一直線だった。たびたび武具の仕入れのために都に向かう祖父に、何度も付いて行った。親からは“都は遠いし、途中で賊ぞくに遭あうかもしれぬ。危険だ”と言われても、絶対に行くと言って聞かなかった。

「カッカッカ! 豪胆な子だ。良い、ならば連れて行ってやる。なぁに、儂わしもまだまだ現役よ。賊なんぞ現れても、この拳一本で追い払ってやるわい」

そう言う祖父は頼もしかったが、奈世自身も3歳の頃から武家の娘として武芸を叩きこまれていた。10歳になる頃には、大人相手にも対等に戦える力と技量を身に付けていた。

すべては好奇心だった。政略結婚とは言え、永井康夜と結ばれたのも、軍師としての彼の力量に惹ひかれたからだった。夫婦として末永すえながく添そい遂とげたいという気持ちより、彼の才覚さいかくを近くで見たいという気持ちの方が強かった。

その軍師に裏切られた。ならば、やることは決まっている。世の女子おなごたちのようにめそめそと哀かなしんでいる暇などない。

――訂正しよう。今、奈世の感情として、“どちらかと言えば冷静さの方が上回っているようだ”と評価したのは誤りである。

奈世の手にあるのは、宗亮の歴史書。開いた頁ページに描えがかれていたのは、夫に離縁された異国の姫君が、元夫を焼き殺す絵だ。

“復讐”。

いま奈世の心に刻まれているのは、その2文字であった。

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第2話:戯れと辺境の星
【華栄13年・10月】辺境の小城は、常に風が強かった。奈世が康夜から離縁を言い渡される、一月前のことである。石垣の隙間から吹き抜ける風は、都のそれとは違い、乾いていて、時折砂が混ざり肌を打つ。奈世は、その風が嫌いではなかった。むしろこの土地の厳しさが、自分の生まれた家の性質そのものだと思っていた。「奥方様、本日の報告書です」侍女が差し出した巻物を受け取り、奈世は窓辺で目を通した。辺境の収穫量、駐屯兵の配備、冬に備えた物資の在庫。数字は決して楽なものではなかったが、破綻はしていない。彼女がこの城に嫁いでから3年、出自である氷室家の実務は着実に安定していた。「問題ない。このまま進めよ」「は」侍女が退室したあと、奈世は短い溜息をついた。そして、隣の部屋から聞こえてくる筆の音に、自然と耳を傾ける。永井康夜は、今朝も早い時間から軍議の準備をしていた。幼馴染であり、夫である男は、常にそうだった。必要以上に言葉を発さず、必要なことだけを淡々とこなす。その冷静さを、奈世は信頼していた。政略結婚として結ばれた当初は、互いに距離を測るような日々もあった。けれど今は、朝に短い挨拶を交わし、夜に一日の報告を済ませ、時折、同じ灯りの下で黙って過ごす——それだけで十分だと、奈世は思っていた。昼過ぎ、康夜が執務室から出てきた。「少し外を歩くか」彼にしては珍しく、誘うような口調だった。奈世は頷き、薄手の外套を羽織って後に続く。城の裏手には、低い丘があった。そこから見下ろすと、辺境の集落が一望できた。畑はまだ緑を残し、遠くの山脈はすでに白いものを冠している。康夜は何も言わず、ただその景色を見つめていた。「……あなた様は、いつも先を見ておられるのですね」奈世が小さく言うと、康夜は横目で彼女を見た。「お前もだ。数字を見る目は、俺より正確だ」それは褒め言葉だった。康夜が直接誰かを褒めることは滅多にない。だからこそ、その一言は重かった。奈世は口元を緩めて、風に髪をなびかせる。「ありがとうござりまする。ただ、わたくしはあなた様ほど、大きな盤面は見られませぬ」「見なくてよい。俺が見る」短く、しかし確かな響きで、康夜はそう答えた。奈世は少しだけ意地悪く笑った。「では、わたくしが見落とした数字があったら、あなた様が責任を――」「取る」即答だった。
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第3話:臆病な従者と追放の鬼姫
【華栄13年・11月】康夜が他所の女を屋敷に連れ込んだ翌朝、奈世と康夜の正式な離縁の手続きが側近たちから言い渡された。事務的に書状を読み上げ、奈世の面前で印章を押す。手切れ金はなし。氷室家への援助も打ち切り。辺境からの退去を命じる、と。「以上にござる。速やかに城を出ていかれよ」側近たちの声は平坦だった。誰も奈世の顔をまともに見ようとしない。かつての使用人たちも、廊下で目を逸らした。奈世は短く頷いただけだった。城門まで歩いていく途中、背後から小さな足音がした。振り返ると、康夜の妹である清夜が、青ざめた顔で立っていた。「……姉上」清夜はそれだけしか言えなかった。唇を噛み、何かを言いかけて、結局何も言わずに俯く。奈世は彼女を見て、少しだけ声を柔らげた。「清夜、もうわたくしは姉上などではござりませぬ。短い間でしたが、仲良く接してくれたこと、感謝しておりまする」その言葉に、不意に涙をあふれさせる清夜。次の瞬間、言いかけていた言葉も、彼女の口からあふれるように出てきた。「……いえ、まだ間に合います! 兄上があのような破廉恥なお振舞いをなさるとは……清夜が兄上を懲らしめて参ります!」慕っていた相手に、別れの場で“感謝”などと言われ、感情が昂ってしまったのだろうか。ただ奈世は、そんな彼女を冷静にたしなめた。「おやめなさい。わたくしはもう覚悟を決めました。世話になりましたね」最後だけは清夜にニッコリと微笑みかけると、それ以上何も言わず、前を向いて城門をくぐっていった。後ろで清夜が何か叫んだ気がしたが、風がそれをさらっていった。門の外で、すでに一人の男が待っていた。氷室家の従者・源次である。齢30を少し出たくらいの男で、刀は一通り扱える。だが気性は穏やかというより、どちらかといえば臆病なところがある。永井家に仕えていた間も、争いごとからはできるだけ距離を置くタイプだった。「姫様」源次は短く頭を下げ、奈世の荷物を黙って受け取った。「お前も一緒か。料理番としてよく可愛がられていたようだけれど、残らずともよかったの?」「いえ、元は私も氷室の人間。氷室の主と共にここを離れるのは当然です」「まあ、強がりを言って。本当のところは?」「……離れたくありません。ですが、氷室家の当主から何と言われるか。正直、
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第4話:新羅の湯と婚約指輪
蛮族連合の地、最南端に位置する「新羅」に、奈世と源次はたどり着いた。永井家の小城を出てから、4日が過ぎていた。道行く人々の衣服の様式や柄は帝国のそれとは異なり、一部には動物の毛皮のようなものも使われ、とても温かそうだ。建物も、木より石の建築の方が多い気がする。また、時折湯気の香りもした。「ここはもう、蛮族共の地なのでござりまするなあ」源次が周囲を見回しながら小さく呟く。奈世は即座に低い声でたしなめた。「“蛮族”などという言葉は慎め。それは帝国側が用いる蔑称だ。軽々しく口にすれば、帝国から来た者だと露見するぞ。下手に目を付けられたらどうする」「……失礼いたしました、姫様。ただ、我々だけでこの地へ踏み込んだことを、危ぶんでおるのでございます。もし氷室家の当主様に知られでもしたら……」「まだそのようなことを言うか。おじじ様には、永井家へ嫁ぐ前から仰せつかっておる。『もし裏切られたら、迷わず北へ向かえ』と」源次が目を丸くした。「つまり、こたびのような事態になるのは、当主様の想定通りであった、と?」奈世はぴたりと足を止め、源次を睨んだ。「貴様……もう少し包み隠すように申せぬのか。わたくしはこれでもまだ、傷心の身であるぞ」源次は慌てて両手を振る。「それは失礼しました……ですが、ここへ至る道中、賊に遭うたびに成敗されておられましたゆえ、もはや心の傷など癒えたものかと」「逆だ! 康夜め……許さぬ! 賊を狩るたびに、やつへの怒りがふつふつと込み上げてきてどうしようもないのだ! わたくしの何がいけなかったというのだ。三年間、よき夫婦として仕えてきたというのに!」「姫様、そういう……」“そういう気性の粗さでは”、と源次は言いかけ、すぐに口を閉ざした。「ん? “そういう”、何だ? 申してみよ」「そういう……そう、ゆ……そう、“湯”! 姫、早う“湯”に浸かりとうござりまする!」「ほう、そうだな。わたくしも早う温まりたい」間一髪。もし誤魔化しきれなければ、間違いなく鬼姫の拳が頭上に落ちていただろう。ただ、湯に浸かるためには金が必要だ。二人は道中で賊から奪った武具を、町の店で売り払うことにした。道中、二人が討伐した賊は、最初の5人だけではなかった。襲われるたびに返り討ちにし、奪った品々も背中に担いでいくには余るほど。旅の途中で源
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第5話:従者の裸と安宿の大男
「すまぬ……まさか宿の主人から最初に案内されたのが男湯だったとは……!」 「姫、帳場で男の名を告げておられましたよね。それで女湯に通すわけがないでしょう」 「た、確かに……不覚だった」 源次は布団の上で呻きながら、雪を包んだ手ぬぐいを頭に当てている。顔はところどころ赤く腫れ、左腕は動かすのも辛そうだった。 奈世が入っていた風呂場へ、いきなり入ってしまったせいである。もちろん故意ではない。だが結果として、鬼姫の拳と蹴りを一身に受け、部屋で寝込む羽目になった。 我が姫はこんなに抜けていただろうかと、源次は不安になった。そもそも帳場で男の名を名乗ったのは姫の機転だったが、そのことで生じる展開を想定もできなかったのだろうか。 否、元々、姫は数字にも長けていたし、そのことで永井家からただの奥方であるという以上に重宝もされていたはずだ。やはり、離縁を言い渡されてしまったが故の「傷心」というのは誠なのであろう。 それにしてもなぜ姫が離縁されてしまったのか、源次は改めて考える。永井家では自分も割と重用されていたし、康夜が氷室家とそんなに離れたがっているという話は聞いたことがなかった。 下っ端の人間には知らされぬことも多かろう。ただ氷室の従者として、姫と康夜の関係性が崩れるような事態にはならないか、源次なりに目を光らせていたつもりだったのに。もちろん姫の身を案じてと言うよりは、自分の暮らしにも関わるところだからに他ならぬが。 一方で、奈世自身は気が動転していた。 従者の裸を見るなんて、当然ながら初めての経験だ。男の裸など——幼き日に見たおぼろげな記憶の中の家族の裸か、あるいは夫であった永井康夜の裸だけだ。 帝国より重用される軍師であった康夜は、さほど実戦の場に赴くこともなく、他の武人よりも体は痩せているように見えた。対して源次は、戦いは好まぬとは言え、一応は実戦向きに鍛錬も怠っておらぬようで、胸板も厚かった。 それに女性のようにさらさらとして、やや青みがかったようにも見える美しい髪や、康夜にも少し似た印象を抱く切れ長の目は、改めて見ると奈世の好みであった。 これまで、己の従者の容姿にはあまり意識を抱いたことはなかった。姫と従者という関係ではなく、普通の男女だったとしたら、もしやそこに変な気を起こすこともあ
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第6話:浮気心とついたて
夜が更けても、奈世はまだ眠れずにいた。 源次は隣の布団で、すやすやと静かに寝息を立てている。数日は起きられぬほどの怪我を負わせたのならどうしようと不安にも思ったが、驚いたことにもうほぼ回復に向かっているようだ。 風呂場で見た筋肉もハリボテではなかったということだろうが、それにしても意外な回復力だ。もしやあんなに痛がっていたのは、ただの演技だったのやもしれぬ。 ただ奈世は、そんなことを考えるよりも、天井を見つめたまま宿で起きた出来事を反芻していた。風呂場で源次の裸を見てしまったこと、そして自分の裸も源次に見られてしまったこと。そのことについて、彼自身は何も言ってこなかった。 当然やもしれぬ。見てはいけない姫の裸を見てしまって、何か感想など平然と言えるわけもなかろう。それは奈世とて同じことだが、「自分の裸を見た男が隣で平然と寝ている」という今の状況も、何やら妙な気持ちだ。 いっそ何か言ってくれた方が気が楽だったのでは。「立派な乳房でござる!」だの「かようなものが拝めて光栄にござる!」だのと――まぁ、何を言われたところで、また蹴りや拳が飛んでいたことであろうが。 奈世のこの成熟した女子の体は、夫であった康夜にしか見せたことがない。離縁したばかりでまだ康夜のことが忘れられぬというのに、別の男に裸を見られた。故意ではないのだから、これで浮気になるわけはなかろうが、奈世自身の心が浮わついてしまっているのは事実だ。 そもそも、安宿だから仕方ないとは言え、夫以外の男と同じ部屋で寝るとは。この行為そのものが、これまで暮らしていた帝国の文化とは違い過ぎて、気が気ではなかった。 今までの野宿では、源次とは見張りを交代しながら休みを取っていた。今思い出すと、それ自体もかなり危ういことのように思えて急に恥ずかしくなってくる。その際はまだ、源次をまったく男として意識していなかったのだ。 此度は一応、部屋の中央についたてを立て、姿が見えぬようにはしたが――。 ※ 時刻を源次が眠りに就く、少し前に遡る。奈世と彼の間に、かようなやりとりがあった。 「いいか、本来は従者が姫の寝顔を視界に入れるようなことがあってはならぬ。これまでの野宿では致し方なかったが、宿の中であれば作法に従い、ついたてを置かせてもらう。よいな
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第7話:3人の刺客と窓の雪
“永井家を追放された奈世姫と、そのお付きの者”。侵入者の一人がそうハッキリ口にした。つまり奈世達は、素性を知る者どもから付けられていたということになる。「お前たち、何者だ……まさか永井家からの刺客ではあるまいな」尋ねても、3人の男は「ククク……」と薄い笑い声を上げるだけだ。やはり、顔を布で覆っているような者らが素直に答えるわけはない。ただ、その漏れた笑い声がそのまま答えのような気がした。永井康夜――離縁を突き付けてきた夫は、知略に長けた軍師だった。別れた元女房が敵国に付いて夫に復讐するのではないかと、それくらいのことは容易に察しがついたのだろう。だからと言って、わざわざ刺客まで差し向けるか? つい先日まで仲睦まじい夫婦だと思っていたのに。短刀を握ったまま、奈世はその場にガクッと膝をつく。「姫様!」源次に支えられるも、絶望感から立ち上がれなくなっている。「なんだ? こちらはまだ動いてすらおらぬぞ」「ここまでの道中で、次から次へと賊どもを成敗しておったようだからな。流石に疲れが出たのであろう」察しが悪いのか、刺客共はそう口にする。奈世は身体的にではなく、心が深く傷つき、動けぬだけなのに。そんな彼女にジワジワと距離を詰めてくる刺客共。ここは姫を慰めているような場合ではない。源次は心を鬼にし、姫にこう耳打ちした。「嘆いているときではござらぬぞ、姫……むしろこれぞ好機。悲しみを怒りに変え、やつらを撃退するより他、ござりませぬ」「悲しみを……怒りに……」そうだ。康夜に復讐するためにわざわざかような地まで来たのだ。今、康夜の真意がハッキリとした――知りたくはなかったが。こちらの命を奪う意思まで見せたとあらば、もはや遠慮も要らぬではないか。「康夜……許さぬ……殺されてなるものか!」――だが。奈世が立ち上がり、男たちに挑もうとしたその前に、別の影が動く。廊下側から大柄な男が無言で割り込んできた。源次に飲ませる水を汲みに向かった際、部屋の外で奈世がぶつかったあの男だ。髭もじゃの顔に、刃が青白く光る。「こんな夜中に何を騒いでおるのかと思ったら。おちおち寝ておられぬではないか」言い放つと、大男は最後尾の男の腕を掴んでひしゃげさせ、膝で脇腹を打ち、壁に叩きつけた。そしてもう1人、間も置かず同様に転がせる。あっという間の出来事だっ
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第8話:帝都の夢と馬上の4人
奈世の目の前に、康夜が立っていた。別れたはずの夫だ。 確か自分は新羅の安宿で、従者の源次と共に宿泊していた筈。いきなり何が起きたと言うのだろう。 「康夜……いえ、あなた様。これは夢なのでござりますか?」 康夜は穏やかな顔で首を横に振る。 「夢などではない。これまでのことが夢だったのだ。さあ、もうじき帝都が見える」 気づけば康夜は馬に跨り、自分はその後ろに乗っていた。周囲には帝国の勝利を祝う人々の声が満ちている。帝国の旗がはためき、歓声が上がる。 その中心に、大きな柱が立っていた。そこに磔にされている者がいる。新羅の安宿で出会った髭もじゃの大男——党吉だ。 「あの者は……わたくしを新羅で助けてくれた男です。なぜかようなことに……」 「あやつはお前を騙そうとしたのだ。よって、我が刺客が捕らえておいた」 なるほど、やはり悪い奴だったのか。奈世は納得しかけた。だがその隣に、もう一人が磔にされていた。よく目を凝らすと、源次だった。 「源次……!? あれはわたくしの従者です! なぜ源次までかような……」 「それは、お前たちを追放するためだ!」 振り返った康夜の顔が、にわかに歪む。 目が据わり、口が耳まで裂け、化け物のような姿へと変わっていく。魔の手が伸びてくる。いつの間にか馬もいなくなっており、奈世は慌てて逃げ出すが、石につまずいてその場に転んだ。 冷たい手が、ゆっくりと彼女の首筋に触れる——。 「姫様……姫様!」 声がする。源次の声だ。まぶたを開けると、彼が心配そうな顔で覗き込んでいた。 「大丈夫でござるか。うなされていたようでござるが……」 宿の天井が、ぼんやりと見える。 「夢——か。つまらぬ内容であった……お前こそ大事ないか。昨日の怪我は?」 「昨日の怪我? ああ、まだ痛みまするよ……もう2、3日は寝泊りせねば……痛っ!」 奈世が容赦なく背中をバンバンと叩く。源次が険しい表情をするが、本当に痛がっているというよりはただ迷惑そうなだけという表情だ。 「嘘を言え、もう治っておるのではないか?」 「ひ、姫様は鬼でござるか……」 また憎まれ口を言う。夢で見たように磔にしてやるかという気持ちも湧いたが、首を振った。あんなものは夢のままで良い。康夜に裏切られ、やつから命を狙われていることこそ
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第9話:槍の番人と北の闇
雪は止んでいたが、道には白さが残っていた。 馬の蹄が凍った地面をコツコツと刻む。息が白く舞い、風が頬を削る。奈世は野介の腹に腕を回したまま、前方を見据えていた。無口な男は相変わらず何も言わない。呼吸のリズムだけが背中越しに伝わってくる。 「そういえばな」 後ろから、党吉の大きな声が飛んできた。源次が必死で背中にへばりついているような状態ながら、平気な顔で話し始める。 「昨日も少し語ったが、軍師の永井ナニガシのことで、もう少し詳しい話を思い出したのだ。妻を追い出した翌日、都へ早馬を飛ばしたらしい」 奈世はわずかに野介の腹に回した腕の力を強めた。少しだけ党吉に振り返って、努めて表情も崩さず尋ねる。 「早馬、だと?」 「ああ。仔細は知らん。ただ妻を追い出した翌日に都へ早馬とは、そこに何か繋がりがあるような気はせぬか?」 党吉は笑っている。その笑いが、ただの世間話なのか、探りなのか、判然としない。 奈世は前を向き、小さく息を吐いた。 離縁を突き付けた翌日に、都へ早馬。自分たちの素性を知る刺客が付けきていたことと重なる。康夜は、ただ妻を捨てただけでは終わっていない。何か大きなものを動かしているのではないか。 胸の奥で、昨日よりもはっきりとした熱が灯る。復讐心の熱が。悲しんでおる暇などない。 「……噂は噂であろう」 再び振り返って、奈世は短く返した。声は平らだった。 「そうかもな。だがこういう噂は、出回った時点で一人歩きする。特に“帝国の女が北へ向かっている”などという話はな」 党吉がそう言った直後、源次が小さく悲鳴を上げた。 「ひっ……姫様、また揺れが……!」 「落ちるなよ、細い武人」 党吉が笑いながら言う。源次は党吉の背後で顔を青くしていた。 「武人などと……私はもともと戦いを好む性分では……うっ」 「やれやれ、わかったわかった。途中で吐きそうになったら言え。馬を止めてやる」 「止めていただけるのであれば、今すぐにも……」 「今は止めん」 党吉は悪びれもせずに答えた。源次は恨めしそうな目を奈世に向けたが、奈世は視線を前方に戻し、見て見ぬふりをきめた。今はそれどころではない。 彼女は前に座る馬の主——野介の方へ静かに探りを入れた。 「……野介殿は、端毬へは何度か行ったことがあるのか?」
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第10話:帝国のお香と信焔の城
奈世と源次は、党吉と野介が操る馬に乗り、とうとう端毬の地に足を踏み入れた。 「ここはもう端毬だ」 党吉がそう告げたとき、感慨も何も感じなかった。何かしらの達成感は得られるかと思っていたが、何もない。奈世にとっては、まだ何も始まってすらいない。ようやく出発点に立ったという気持ちだ。 そこからなおも馬で走り続け、数時間。雪は薄く残っているものの、道は先ほどの峠より広く、人や馬の往来も増えている。空気そのものが辺境の宿場町であった新羅ともだいぶ違っていた。殺気と活気が同じ風の中に混じっている。 やがて、前方に大きな城下町が見えてきた。 清蓮城――蛮族連合を統べる、織部信焔が本拠とする城である。 帝国に多い、簡易な堀で囲んだだけの城とは造りがまったく違う。周囲の堀は深く、石垣は厚く、権威を誇示するというより、外敵の侵入を防ぐことに重きを置いた実用的な姿だった。 「……立派な城でござりますな」 源次が小さく呟く。党吉が鼻を鳴らした。 「ああ。それゆえ入るのも厄介だ。中へ行くまでは余計なことをするなよ」 奈世は答えず、ただ城を見据えた。ここが信焔のいる場所。自分が妻として潜り込み、帝国を食い潰すための起点になる場所だ――そう考えると、胸の奥で熱が一度強く脈打った。 ※ 城下町の入口には厳しい検問が設けられていた。槍を構えた門番が2人がかりで、通行人をひとりひとり止めている。特に、女子を見る目が鋭い。帝国から来た女子とやらを探しているのだろうか。 「待て。名は」 いよいよ呼び止められ、先頭に出た党吉が気軽に答えた。 「党吉だ」 「党吉か。確かにその名は帳簿にも載っている。だが、その後ろは」 「後ろに乗っているのは俺の連れだ。で、後ろの馬に乗っている2人も、そのまた連れだ」 門番の視線が、源次に、そして野介と、その後ろに乗る奈世へ向く。男装しているが、体つきまでは完全には隠せない。門番が目を細めた。 「この者は……女子に見えるが」 奈世は低い声で返した。 「男だ。勝次と申す」 「声が細いな。体つきも」 「生まれつきだ」 「生まれつきで、その顔か」 「……今、顔まで言ったな」 奈世の声が、さらに低くなった。門番は気にせず続ける。
last updateLast Updated : 2026-08-28
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