LOGIN江戸末期。飢饉により遊郭に売られた十二歳の少女・お蘭。彼女に残されたのは、絶望か、諦念か。 だが彼女は、第三の道を選んだ。 客の会話を記憶し、情報を武器にする。確率論で人間を分析し、知性で這い上がる。やがて吉原随一の花魁「蘭の君」として、政財界に影響を与える存在となる。 しかし運命は、さらなる試練を用意していた。 実母の訪問。隠された出生の秘密。政府高官である異父兄の陰謀。そして彼女の手に渡された、すべてを覆す「証拠」。 復讐か。許しか。血統による正当化か。自力での自立か。 明治九年、冬至の夜。お蘭は決断する。母の手紙を、炎の中へ。 「私は、血統ではなく、私自身として生きる」
View Moreプロローグ 灰の記憶
灰が舞っている。
明治九年、冬の夕暮れ。墓地に立つ女の手から、黒い紙片が風に溶けていく。燃え尽きた過去が、赤く染まる空へと昇っていく。
女の名は蘭香。かつて吉原で「蘭の君」と呼ばれた花魁である。
彼女の指先には、まだ熱が残っている。母の手紙を焼いた熱が。自分の出生を証明する唯一の文書を灰にした熱が。
なぜ彼女は、自らの正当性を証明する武器を手放したのか。
その答えは、十三年前の冬に始まる。十二歳の少女が、初めて地獄を見た日に。
◆
第一章 売られた日―一八六三年、冬
雪が降っていた。
信州の山村から江戸への道は、凍てついた白一色に覆われていた。荷車の軋む音だけが、静寂を破っている。
荷台の隅で、お蘭は震えていた。寒さのためだけではない。恐怖が、十二歳の身体を内側から凍らせていた。
「泣くんじゃないよ」
隣に座る女衒の声は、妙に優しかった。それがかえって不気味だった。
「いい所に行くんだからね。吉原っていう、江戸で一番華やかな場所さ。お前みたいな器量よしなら、きっと可愛がってもらえるよ」
お蘭は何も答えなかった。答える言葉を知らなかった。
三日前まで、彼女は普通の農家の娘だった。貧しくとも、家族がいた。父と母と、幼い弟が二人。
そして飢饉が来た。
凶作は二年続いた。村人の半分が餓死した。お蘭の家も例外ではなかった。ある朝、父が言った。
「蘭。お前には辛い思いをさせるが……」
父の目には涙があった。母は泣き崩れていた。弟たちは、何が起きているのか理解できず、ただ怯えていた。
「弟たちを生かすためだ。許してくれ」
翌日、女衒が来た。父は五十両を受け取った。お蘭は、自分の値段を知った。
荷車が止まった。
「着いたよ」
女衒の声で、お蘭は現実に引き戻された。目の前には、想像を絶する光景が広がっていた。
大門。
吉原遊郭の入口は、まるで異世界への扉のようだった。昼間だというのに、無数の提灯が灯り、三味線の音色が聞こえてくる。華やかな着物を纏った女たちが、格子の向こうで微笑んでいる。
しかしお蘭には、その微笑みの下にある絶望が見えた。
「さあ、降りな」
女衒に促され、お蘭は荷台から降りた。足が震えた。逃げたかった。しかし、どこへ? 故郷には戻れない。戻れば、弟たちが死ぬ。
彼女は歩き始めた。大門をくぐり、遊郭の世界へと足を踏み入れた。
連れて行かれたのは「扇屋」という妓楼だった。
玄関で待っていたのは、四十代ほどの女性だった。太った体に派手な着物を着て、鋭い目でお蘭を値踏みするように見つめた。
「これが新しい
「へえ、器量はいいでしょう」
女衒が媚びるように言った。
「まあね。骨格がいい。育てば化けるかもしれないね」
女は楼主の妻、お絹だった。扇屋の実質的な支配者である。
「名前は?」
「お蘭と申します」
お蘭は震える声で答えた。
「蘭ねえ…… 悪くないね。じゃあそのままでいいよ。今日からお前は扇屋の禿だ。分かるかい?」
「は、はい……」
「返事は『はい』じゃない。『へえ』だよ。それから、ここでは敬語は使わない。女郎言葉を覚えな」
お絹は冷たい声で続けた。
「お前の年季は十五年。二十七になるまで、ここで働くんだよ。その間に稼いだ金で、お前を買った五十両を返す。利子も付くからね。それが済むまで、お前は扇屋のもんさ」
十五年。
お蘭の頭の中で、その数字が反響した。十二歳から二十七歳まで。人生の大半を、この地獄で過ごすのか。
「泣くんじゃないよ」
お絹の声が、さらに冷たくなった。
「泣いたって何も変わらない。ここは泣く場所じゃない。笑う場所さ。客に夢を売る場所だ。分かったら、さっさと着替えな」
その夜、お蘭は初めて遊郭の夜を見た。
禿部屋と呼ばれる狭い部屋に、同じ年頃の少女が七人詰め込まれていた。皆、お蘭と同じように売られてきた娘たちだった。
「あたしはお梅だよ。よろしくね」
一人の少女が話しかけてきた。明るい声だったが、目は笑っていなかった。
「お蘭です……」
「信州から来たんだって? あたしは越後さ。去年の今頃、ここに来たんだ」
「ここは…… どんな所なんですか?」
お蘭の問いに、お梅は少し黙った。そして小さな声で言った。
「地獄だよ。でも、生き延びる方法はある」
「生き延びる……?」
「そう。ここで死ぬ娘もいるけど、生き残る娘もいる。違いは何だと思う?」
お蘭は首を傾げた。
「諦めないことさ」
お梅は微笑んだ。今度は本当の笑顔だった。
「あたしたちは、売られた。それは変えられない。でも、どう生きるかは、まだ決まってない。あたしは、絶対にここから出る。そのために、今は我慢するんだ」
その言葉が、お蘭の心に火を灯した。
そうだ。私は、まだ生きている。心臓が動いている。頭が働いている。
ならば、諦める必要はない。
翌朝から、お蘭の修行が始まった。
禿の仕事は多岐にわたった。花魁の身の回りの世話、客の接待の手伝い、掃除、洗濯、使い走り。朝から晩まで働き詰めだった。
しかしお蘭は、ただ働くだけではなかった。
彼女は観察していた。
扇屋には、位の異なる女郎が三十人ほどいた。最下層の「座敷持ち」から、中堅の「呼び出し」、そして頂点に立つ二人の花魁まで。
お蘭は気づいた。この世界にも、階層がある。そして階層には、ルールがある。
ルールを理解すれば、生き延びられる。いや、それ以上のことができるかもしれない。
彼女は耳を澄ませた。
客たちの会話を。
「……幕府はもう長くないな」
「ああ。攘夷派の勢いが増している。いずれ戦が始まるだろう」
「となると、米相場はどう動く?」
「上がるだろうな。戦の前は必ず物価が上がる」
お蘭は、その会話を一言一句記憶した。
意味は分からなかった。しかし、いつか分かる日が来ると信じた。
ある夜、お蘭は初めて花魁を間近で見た。
扇屋の看板花魁、葵太夫だった。
二十五歳。吉原全体でも五本の指に入ると言われる名妓だった。その美しさは、お蘭の想像を超えていた。
漆黒の髪に金銀の簪。白い肌に紅い唇。絹の着物は、夜空に咲く牡丹のようだった。
しかし、お蘭が最も驚いたのは、その眼差しだった。
葵太夫の目には、諦念があった。深い、深い諦めが。
彼女は美しい人形だった。笑顔も、仕草も、言葉も、すべて計算され尽くしていた。しかしその奥に、人間の魂はもう残っていないように見えた。
「あの方は、あと二年で年季が明けるんだよ」
お梅が囁いた。
「でも、出られないんだ」
「なぜ?」
「借金が増え続けているから。着物代、化粧代、部屋代…… 全部、借金に上乗せされる。どんなに稼いでも、返せない仕組みになってるのさ」
お蘭の背筋が凍った。
「つまり……」
「そう。一生、ここから出られない」
その夜、お蘭は眠れなかった。
葵太夫の諦めた目が、脳裏に焼き付いていた。
私も、いつかあんな目になるのだろうか。
いや。
お蘭は拳を握った。
私は、諦めない。絶対に、ここから出る。
そのためには、ただ従順に働くだけでは駄目だ。この世界のルールを学び、それを利用しなければ。
お蘭は決意した。
情報を集めること。客たちの会話を記憶し、世の中の動きを理解すること。そして、自分を単なる「商品」ではなく、「価値ある存在」にすること。
それが、彼女の戦略の始まりだった。
冬が過ぎ、春が来た。
お蘭は禿としての仕事をこなしながら、密かに学び続けた。
客の会話から、政治を学んだ。経済を学んだ。人間関係の機微を学んだ。
そして、彼女は気づいた。
この遊郭は、情報の宝庫だということに。
吉原には、幕府の高官、豪商、武士、文人、あらゆる階層の男たちが集まる。彼らは酒に酔い、女に甘え、本音を漏らす。
その情報は、使い方次第で武器になる。
お蘭は、十三歳にして、情報の価値を理解した少女だった。
そして一年が経った。
一八六四年、夏。
お蘭は十三歳になった。禿としての仕事にも慣れ、周囲から一目置かれる存在になりつつあった。
ある日、お絹が彼女を呼んだ。
「蘭。お前、頭がいいんだってね」
「へえ…… そんなことは……」
「謙遜しなくていいよ。葵太夫が褒めてたよ。客の顔と名前を一度で覚えるし、気が利くってね」
お絹は珍しく、柔らかい表情を見せた。
「お前を、振袖新造に上げることにしたよ」
振袖新造。禿の次の段階だった。
「ありがとうございます」
「礼はいいよ。お前には期待してるからね。いずれは葵に並ぶ花魁にしたいと思ってる」
お絹の言葉に、お蘭は複雑な思いを抱いた。
期待されることは嬉しい。しかし、それは同時に、この世界に深く組み込まれることを意味する。
葵太夫のように、一生ここから出られなくなるかもしれない。
しかしお蘭は、表情を変えなかった。
「精一杯、努めます」
「よし。その意気だよ」
その夜、お蘭は一人で考えた。
振袖新造になれば、客との距離が近くなる。より多くの情報に触れられる。
それは機会だ。
私は、この機会を最大限に活用する。そして必ず、ここから出る方法を見つけ出す。
お蘭の目に、新しい光が宿った。
諦念ではない。希望でもない。
それは、冷徹な決意の光だった。
明治十五年、春。 東京の街は、近代都市へと変貌していた。 蘭学舎は、評判の教育施設となっていた。 卒業生たちは、教師、看護師、事務員として社会に出ていった。 お蘭は三十一歳になっていた。 彼女は、もう吉原の蘭太夫ではなく、蘭学舎の桐野蘭香だった。 桐野。彼女は、母の姓を名乗ることにした。父の姓ではなく、母の姓を。 ある日、一人の男が訪ねてきた。 桐野誠吾だった。 彼は、以前より老けて見えた。「蘭…… いや、蘭香」「兄上。お久しぶりです」 二人は、小さな応接室で向かい合った。「お前の噂は、聞いている」「はい」「立派なことをしているそうだな」「……ありがとうございます」 誠吾は、しばらく黙っていた。そして言った。「すまなかった」 お蘭は、驚いた。「兄上……?」「私は、間違っていた。お前を、消そうとした。それは、私の傲慢だった」 誠吾の目には、後悔があった。「お前は、血統ではなく、自分自身の力で立った。それは…… 私にはできなかったことだ」「兄上……」「母上も、お前を誇りに思っている。そして、私も……」 誠吾は、言葉を詰まらせた。「私も、妹を誇りに思っている」 お蘭の目から、涙が溢れた。「ありがとうございます」「いや、礼を言うのは私の方だ」 誠吾は立ち上がった。「お前が、あの文書を焼いてくれたこと。私は知っている」「……橘様から?」「そうだ。彼は、お
明治九年の冬は、東京に珍しく大雪が降った。 吉原の街も、白一色に覆われていた。 お蘭は、橘との約束の場所に向かっていた。 浅草の小さな茶屋。二人がよく使う、密会の場所だった。 橘は、すでに待っていた。「蘭さん、聞きました。扇屋と交渉したそうですね」「はい。お絹様は、私の年季を終わらせることに同意してくださいました」「しかし、借金は残る」「はい。総額で八百両ほどです。途方もない額ですが…… 働けば、いつかは返せます」 橘は、複雑な表情をした。「蘭さん、もう一つ聞きました。桐野誠吾が、あなたを身請けしようとしたと」「……ご存知でしたか」「彼は私の上司です。彼があなたの兄だとは知りませんでしたが」 橘は続けた。「彼は、あなたの存在を消そうとしている。それは、政治的な理由だけではないようです」「どういうことですか?」「彼は…… 恐れているのです」「何を?」「あなたを」 お蘭は、その言葉の意味を考えた。「私が、兄の地位を脅かすから?」「それもあるでしょう。しかし、それ以上に…… あなたという存在そのものが、彼の価値観を脅かしているのです」 橘は説明した。「桐野誠吾は、血統と家格を何より重んじる男です。彼にとって、妹が遊女であるという事実は、耐え難い屈辱です。しかし同時に、その妹が自分以上に優秀だという事実も、耐え難い」「……そうですか」「蘭さん、あなたはどうするつもりですか?」「まだ、分かりません」 お蘭は正直に答えた。「私は、兄を許すべきでしょうか? それとも、戦うべきでしょうか?」「それは、あなた自身が決めることです」
明治八年の秋は、不穏だった。 政府は士族反乱の危機に直面し、経済は混乱していた。そして遊郭をめぐる論争も、再び激化していた。 お蘭は二十四歳になっていた。 吉原では、彼女は伝説的存在になっていた。その美貌と知性は、もはや誰もが認めるところだった。 しかし、彼女の内面は揺れていた。 ある秋の夜、お蘭の元に見知らぬ女性が訪ねてきた。 五十代ほどの、上品な身なりの女性だった。「蘭太夫…… 初めまして」 女性の声は震えていた。「どちら様でしょうか?」「私は…… あなたのことを、ずっと探していました」 女性の目から、涙が溢れた。「私は、桐野雪乃と申します。そして…… あなたの、本当の母です」 お蘭の世界が、音を立てて崩れた。「母……? 私の母は、信州の農家の……」「それは、養母です」 雪乃は震える声で続けた。「あなたは私の娘です。そして…… ある武家の血を引いています」 雪乃が語った物語は、衝撃的だった。 彼女はかつて、幕府の高官・桐野左京の妾だった。 左京には正室との間に息子がいた。しかし彼は雪乃を愛し、彼女との間に娘を設けた。それがお蘭だった。 しかし、幕末の政治的粛清の中で、左京は失脚した。 雪乃とお蘭は命を狙われた。 雪乃は苦渋の決断をした。赤子のお蘭を、信州の農家に預けたのだ。「あなたを守るためでした……」 雪乃は泣き崩れた。「しかし、その農家が破産し、あなたが遊郭に売られたと知った時…… 私は、死にたいと思いました」「なぜ、今まで…&hellip
明治五年の夏は、異常に暑かった。 江戸改め東京の街には、西洋文明の波が押し寄せていた。煉瓦造りの建物、ガス灯、鉄道。すべてが新しく、すべてが混沌としていた。 吉原もまた、変化の只中にあった。 お蘭は二十一歳になっていた。 「蘭の君」として、彼女は吉原随一の花魁と称されるようになった。その美貌と知性は、政財界の要人たちを虜にした。 しかし彼女の真の影響力は、表に出ないところにあった。 お蘭は、情報のハブになっていた。 彼女の元には、新政府の官僚、実業家、外国人顧問、新聞記者、あらゆる階層の人間が集まった。彼らは酒を飲み、本音を漏らし、秘密を語った。 お蘭は、それらを記憶した。分類した。関連付けた。 そして必要に応じて、適切な人物に適切な情報を流した。 彼女は意図していたわけではない。しかし結果として、彼女は東京の裏側で重要な役割を果たすようになっていた。 「蘭さん、あなたは恐ろしい人だ」 ある夜、橘が言った。「恐ろしい?」「あなたが提供してくれた情報のおかげで、私は何度も政治的危機を回避できた。あなたは、おそらく自覚していないでしょうが、この国の政治に影響を与えている」 お蘭は静かに微笑んだ。「それは、買いかぶりというものです」「いや、本当です。あなたは…… 稀有な才能の持ち主だ」 橘は真剣な表情になった。「蘭さん、もしあなたが男性だったなら、間違いなく政府の要職に就いていたでしょう。それができないのは、ただあなたが女性であり、遊郭にいるからに過ぎない」「では、私はどうすればいいのでしょう?」「……分かりません」 橘は苦しそうに答えた。「廃娼論争は、暗礁に乗り上げています。維持派の力が強すぎる。当分、遊郭制度は続くでしょう」「では、私は一生ここに?」「いえ、あなたの年季は&hel