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第8話

Author: Raisaa
イラルドが去ったあと、セレーネは書類を一つひとつ丁寧に確認した。

城を出る日、迷わないために――すべてを理解しておく必要があった。

気づけば、外は夕暮れ色に染まっている。

控えめなノック音。

「奥様。エレアノーラ様と、オデット様が到着されました」

イラルドの声に、セレーネはすぐ立ち上がった。

「わかりました」

玄関へ向かい、丁寧に二人を迎える。

応接室へ案内しながら、セレーネはいつも通り背筋を伸ばしていた。

義母のオデットは、部屋に入るなり視線を巡らせる。

調度品、床、カーテンの皺。

ほんの些細な乱れも見逃さない人だ。

だからこそ、セレーネは城を常に完璧に保ってきた。

一方、祖母のエレアノーラはいつも通り穏やかに微笑み、セレーネを見つめていた。

その優しさの裏に、レヴェンティス家で最も恐れられる厳しさがあることを、皆が知っている。

「お部屋は、すでにご用意しております」

セレーネがそう言うと、祖母は「相変わらず気が利くねぇ」と微笑みながら、彼女の髪を優しく撫でた。

「それに、つらかったね。子どもを失うなんて」

セレーネは静かに目を伏せる。

「次に身ごもったら、もっと気をつけなきゃ」

オデットが続けた。

「ディリアンにも、ちゃんと見張らせるから」

セレーネはかすかに微笑んだ。

胸の奥が、ひどく苦い。

――守る?父親が自ら、その命を奪う状況で?

「はい、お義母様。気をつけます」

落ち着いた声で答える。

だが、オデットは視線を細めた。

「それより、あの噂、うちにも届いているよ」

空気が張り詰める。

「まだ、あの女と一緒なんでしょう?」

「オデット」

祖母がやんわりと制した。

「お義母さん、ただ彼女に教えてるんです」

オデットは語気を強める。「公爵夫人として学んだのは、踏みつけられること?黙って耐えることじゃないでしょう!」

セレーネは何も言わず、小さく微笑んだ。

――この人は、わたくしよりもヴィヴィエンヌを嫌っている。それでいいわ、この壁にぶつかるのは彼女。わたくしではないし。

「申し訳ありません。注意いたします」

口ではそう言いながら、心の中では叫んでいた。

――もう、何もかもどうでもいい。

わたくしもうすぐここから去る。

「お母さんの言うことは気にしなくていいよ」

祖母が優しく言う。

「今は、身体を治すことだけ考えなさい」

セレーネは深く頭を下げた。

オデットが小さく舌打ちする。

「あの娼婦がここにいる限り、幸せになれるわけないわ」

セレーネは、笑いそうになるのを必死でこらえた。

その不幸は、いずれヴィヴィエンヌのものになる。

その時だった。

扉が開く音。

ディリアンが戻ってきた。

しかも、その隣にはヴィヴィエンヌが立っている。

空気が、一気に凍りつく。

「ご、ご挨拶申し上げます。エレアノーラ様、オデット様……」

ヴィヴィエンヌは深く頭を下げ、声を震わせた。

「これはなんなの?」

オデットが立ち上がる。

祖母も、明らかに失望した表情を向けた。

「ディリアン、どういうつもりだい?」

ヴィヴィエンヌの顔が青ざめた。

「ただ、挨拶を――」

ディリアンは低く言った。

「母上とお祖母さんに、顔を見せたかっただけだ」

「何ですって?!」

オデットが声を張り上げる。

「今すぐ、その女を連れて出なさい!」

「母さん、落ち着いて――」

「あなた、頭がおかしいのか?!」

オデットは怒鳴った。

「妻が流産した直後の家に、別の女を連れてくるなんて!」

ヴィヴィエンヌは一歩後ずさり、セレーネを見る。

瞳には、確かな傷があった。

「彼女は、セレーネの妹だ」

ディリアンは言い切る。

「姉に会いたいと思うのは、自然で――」

「もう黙りなさい!」

オデットは一蹴する。

「連れて出なさい!」

「オデット様……」

ヴィヴィエンヌの声が震える。

「誰のことを呼んでるの!」

オデットが鋭く遮った。

ヴィヴィエンヌは硬直し、やがてセレーネを見つめる。

セレーネは、そっと手を差し出した。

「行きましょう」

小さく、穏やかに。

ヴィヴィエンヌは迷いながらも、その手を取る。

涙をこらえながら、二人は部屋を出た。

セレーネの背筋は、最後まで真っ直ぐだった。

ディリアンは動かなかった。

母と祖母の前で、ただ立ち尽くしていた。

扉が閉まり、沈黙が落ちる。

「母上」

ディリアンが静かに呼ぶ。

「もう一度あの女をここに連れてきたら、私はあなたを息子だと思わない!」

オデットは吐き捨てた。

ディリアンは息を整えた。

「母上、誤解だ。彼女はただ、セレーネに会いに来ただけで……」

「理由は関係ないよ」

祖母が静かに言った。

「やっていいことと、悪いことがある」

ディリアンは唇を噛みしめる。

「セレーネも、妹が来ることを嫌がっていない」

「それを、セレーネが言ったのかい?」

祖母の視線が鋭くなる。

ディリアンは黙った。

「一度でも考えたことがある?」

オデットが睨みつける。

「お前が、妻の気持ちを」

胸が締めつけられる。

答えは、ずっと同じだった。

「よく聞きなさい」

オデットは断言する。

「公爵家の嫁は、セレーネだけ。あの女が代われると思うなら、一生後悔するわよ」

言葉は、重く、深く突き刺さった。

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