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第6話

Author: 金子
その夜、夏美は一睡もできなかった。

母親の遺骨を抱きしめて窓の外を眺めていると、夏美は祐介が病床で誓った言葉を思い出した。あの時彼は、自分をずっと愛し面倒を見ていくと誓ったのだった。

それなのに今、彼は隣の部屋で、「従妹」とやらと快楽に溺れている。

18歳の頃の祐介を思い出すと、あの頃の彼は、自分の手を握るだけでも、ずいぶん長いことためらっていたほどシャイだったのに。

それが今では……

やはり、誓いの言葉なんて、口にしたその瞬間だけ効力があるものなのだ。

翌朝、ドアを開けると、梨花の部屋から出てきた祐介と鉢合わせになった。

瞳に一瞬だけ動揺が走ったかと思うと、彼は慌てて早口で言い訳を始めた。

「梨花の体の調子がどうか、見に来ただけだ。

朝ごはんは何が食べたい?俺が作ってやるよ」

夏美は祐介の何食わぬ顔を見ていると、はらわたが煮えくり返るようだった。

頭の中では、彼が香織を虐待して死なせた場面が、映画のように繰り返し再生されていた。

だから、夏美は祐介を無視して、まっすぐ二人の寝室へ向かった。

そして、スーツケースを開け、その場にへたり込んだ。

だが、いざ部屋の中を見回しても、持っていきたいものなんて、何一つなかったように感じた。

壁にかかった結婚式の写真や額縁に入った二人の思い出の写真。流行りに乗って一緒に作った、石膏の人形。

祐介がくれたたくさんの服やバッグ、アクセサリー。

どれも、もともと自分のものなんかじゃなかったんだ。

これらの本当の持ち主は、戸籍上で正式な祐介の妻であるべきなのだ。

だから、彼女は空っぽのスーツケースに、何も詰め込むことができなかった。

結局、夏美はマイナンバーカードだけを手に取ると、無造作にポケットに突っ込んだ。

しかし、彼女がゲストルームに戻りドアを開いた時、香織の遺骨がないことに気がついた。

その瞬間、嫌な予感が胸をよぎった。

夏美は夢中で家中を探し回った。すると次の瞬間、リビングで梨花が骨壺の中から何かを掘り出しているのを見つけた。彼女は駆け寄って梨花を平手で打ち、慌てて骨壺を抱きしめた。

「何してるの?」

梨花は叩かれて床に倒れ込み、みるみるうちに目に涙を浮かべた。

「夏美さん、ただワンちゃんにミルクをあげようとしただけですが」

ミルク?

自分の母の遺骨をミルクだなんて言って、犬に飲ませようとしてる?

夏美の視線の先には、遺骨が混ぜられて泡立っている水の入ったコップがあった。傍らではトイプードルが、彼女に向かってキャンキャンと吠え続けている。

夏美が腕を振り上げ、もう一度叩こうとしたその時、誰かに強く腕を掴まれた。

そして、パシンという乾いた音と共に、祐介の平手が彼女の頬を打った。

「夏美、いい加減にしろ!」

その一発は容赦がなく、夏美に言い訳する隙さえ与えなかった。

夏美は耳がキーンとなり、涙が目じりを伝って流れた。

そして、彼女が頬を押さえて顔を上げると、祐介が心配そうに梨花を抱き起こしているのが見えた。その眼差しは、痛々しいほど優しさに満ちていた。

「いい加減にしろ、だって?祐介、どうして私が彼女を叩いたか、聞こうともしないの?」

夏美は声を絞り出すように尋ねた。そしてまつ毛を震わせ、肩を落とすその姿は、まるで最後の望みを掴もうとするかのように見えた。

だが、しばしの沈黙が続いた後、祐介の恐ろしいほど低い声が聞こえてきた。

「夏美、俺が普段君を甘やかしてきたからなのか?だから君は、こうして何度も梨花をいじめるんだな」

ソファに座った男の顔は険しく、息が詰まるほどの威圧感を放っていた。

彼自身は気づいていなかったかもしれない。だが心配のあまり、その片手はすでに梨花の腰を固く抱きしめているのだ。

一方で、その言葉を聞いた瞬間、夏美の瞳から再び音もなく涙がこぼれた。

涙は次から次へと溢れ出たが、やがて彼女は泣きながら、ふっと笑った。

夏美はくるりと背を向けると、母親の遺骨を抱いてドアへ向かった。

すると、背後から、祐介の冷酷な声が聞こえてきた。

「出て行くのもいいだろう。外で頭を冷やしてこい。子どもができないからって、嫉妬でおかしくなったその頭をな」

それを聞いて、夏美は足を止め、必死で下唇を噛みしめて、嗚咽をこらえた。

そう……そうだったんだ。祐介は、そんな風に思っていたんだ。

99回の体外受精。6年という時間。それが今、彼からしてみればこれまでの努力は「嫉妬」の一言で片付けられるというのか?

外は土砂降りで、止めどなく流れ出す涙は雨粒と一緒に地面に吸い込まれていった。

夏美は母親の骨壺を抱きしめ、一歩一歩、足を引きずるように進んだ。

夏の夕立は、涼しいはずなのに。

彼女はまるで氷点下にでもいるかのように、体の芯まで冷え切っていた。

顔は青白く、まだ治りきっていない体からは、血が滲んでいた。

お母さん、ごめんね。自分が、愛する人を間違えたの。

もしも……

もしも祐介に出会ってさえいなければ、よかったのに。

そう思っていると、ポケットのスマホが震えた。夏美がゆっくりと電話に出ると、若葉の声が聞こえてきた。

「夏美、伝えなきゃいけないことがあるの。心の準備をして聞いてね」

その言葉に、夏美は力なく笑った。

「大丈夫よ。もう、何を聞いても驚かないから」

「あのね……昔、あなたのご両親が遭った交通事故、あれは藤原家が仕組んだものなの。当時、あるプロジェクトを巡って両家が激しく対立していて……そのあと、ご両親が事故に遭って、結局プロジェクトは藤原家のものになった。

だから祐介さんのお母さんは、あなたが藤原家に入ることにずっと反対してた。だから祐介さんは、あなたをそばに置くだけで、入籍もしなければ、子どもも産ませないと誓ったらしいの。

それに、こっちで調べたら、彼は……子どものできにくい体質じゃないみたい。あなたのほうこそ何か、変なものを食べさせられてないか、心当たりはない?」

……

その言葉と一緒に通り過ぎる車が、水しぶきを上げていった。

それを聞いて、夏美はその場に立ち尽くし、しばらく我に返ることができなかった。

雨水が耳に流れ込んできて、自分の耳がおかしくなったのかとさえ思った。

スマホを振ってみると、また若葉の声が聞こえてきた。

「夏美?夏美、大丈夫?

私としては、今すぐ荷物をまとめてほしい。予約しておいた偽装死サービスは、いつでも始められるから……」

ああ、スマホは壊れてないんだ。

じゃあ、全部、本当のことなんだ。

体外受精のたびに、「最近、何か変わったものを食べませんでしたか」と医師に聞かれたこと。毎晩、祐介が優しい言葉と共に飲ませてくれたミルクのこと。これが妊娠できる最後のチャンスだと告げた医師の言葉。健康診断で告げられた、早期卵巣不全……

そうだったのか。これが、事の真相だったんだ。

祐介は、自分の両親を殺した仇の息子だった。

彼自身の欲望のためだけに、18歳から32歳までの14年間、自分をそばに縛り付けていた。

彼女が女として、一生で一番輝く時間をすべて奪い取ったんだ。

挙句の果てに、彼女は婚姻も、無事に生まれてくる我が子も手にすることはできなかった。

それどころか、彼は自分を騙し、自分が何度も体外受精に挑むのを見ていた。

床に散らばる長い注射針を、お腹の注射痕が毛穴より多くなるのを、ただ見ていたんだ。

そして最後には、自分の母まで殺した。

彼が口にした愛とは、嘘と束縛の塊だったのだ。

最後の一粒の涙が乾くと、夏美は立ち上がり、静かに口を開いた。

「今すぐ、偽装死サービスの担当者を呼んで。祐介の家の近くの交差点で待ってる」

10分後、一台の黒いワゴンが夏美の前に停まった。

彼女が乗り込むと、もう一台の、そっくりな黒いワゴンがガードレールに突っ込むのが見えた。

そして車はコントロールを失い、交差点の先にある海へと落ちていった。

これをもって、「二宮夏美」という人間は、この世から消えた。

彼女は両親を合葬し、霊園の管理人に二人の墓石をきちんと守るように頼んだ。

それから、若葉が用意してくれたF国の首都行きの航空券と、新たな身分証明書を手にすると、飛行機に乗り込んだ。

そして、飛行機が高度1万メートルまで上がると、彼女は地上を走る車や人々が、どんどん小さくなっていくのを眺めていた。

祐介と過ごした長年の記憶もまた、ゆっくりと頭の中から消えていった。

祐介、もう二度と、あなたに会うことはない。一生、決して。
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