Masuk会社の親睦会の最中、長谷司朗(はせ しろう)は私のヘアゴムを女秘書に貸した。私はそれを見て、迷うことなく自分の結婚指輪を外すと、同じように彼女へと差し出した。 その光景を目にした司朗は、怒りを通り越して冷笑を浮かべた。 「たかがヘアゴム一つで、そこまで目くじらを立てるのか? 俺の周りに、異性の友人が一人もいちゃいけないっていうのか? 結婚指輪まで投げ出すなんて……本当に俺と別れたいみたいだな」 私は彼を見つめ、静かな口調で答えた。「ええ、その通り。もう、あなたとはやっていけないわ」
Lihat lebih banyak私はゆっくりと目を閉じ、その絵をぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱へ放り投げた。司朗の顔が驚愕に染まる。心臓を目に見えない手で鷲掴みにされたかのような衝撃が彼を襲った。「司朗、それはもう過去のことよ。私たちの夢を自らの手でぶち壊しておいて、今さらどの面下げてそんなことを言うの?……分かっているわ。あなたがいなければ、私はとっくに死んでいたかもしれない。でも、だからといって、自分を騙してまであなたを受け入れることなんて、もうできない。会社の持分はいらない。今まで助けてもらった恩返しだと思って。……もう二度と、私の前に現れないで」司朗は、一度こうと決めたら梃子でも動かない男だ。あれ以来、公然と姿を現すことはなくなったが、マスクで顔を隠し、車の中から私を監視するように付きまとう日々が続いた。結仁が「強引にでも連れ戻させましょうか」と提案してくれたが、私は首を振った。「いいえ。彼はもうすぐ、帰らざるを得なくなるわ」丸三ヶ月もの間、司朗は海都に居座り、業務をすべてリモートワークで済ませていた。佳雪はその不在という決定的な隙を突き、会社の重要機密を次々と競合他社へ売り飛ばしていた。異変に気づいた時には、すでに取り返しのつかない状況に陥っていた。「琉叶、どうしても一度戻らなきゃならなくなった。すぐに戻るから、安心して待っていてくれ。分かっているだろう、俺は君を諦めるような男じゃない」司朗はそう言い残し、雲都へと急行した。会社に戻った彼を待ち受けていたのは、まさに目も当てられない惨状だった。彼は即座に警察を介入させ、佳雪を刑務所の中へと叩き込んだが、その後は積み重なった損害を食い止めるため、身を粉にして奔走する日々が続いた。そんなある日、私の口座に身に覚えのない巨額の入金があった。司朗に連絡を試みるが、何度かけても電話は繋がらない。嫌な予感がして胸騒ぎが止まらなくなった私は、たまらず雲都へと引き返し、拓海を問い詰めた。「司朗はどうしたの?どうして社名まで変わっているのよ」拓海に案内されたのは、あるバーの薄暗い個室だった。ドアの隙間から中を覗き見ると、そこには司朗がいた。光の差さない個室の片隅で、彼はかつての覇気を完全に失い、打ちひしがれた様子で地べたに座り込んでいた。その周囲には空の酒瓶が乱雑に転がっていた
「琉叶、調子はどうだい?仕事には慣れたかな?」渡辺結仁(わたなべ ゆいと)がドアを開けて入ってきた。彼がパチンと指を鳴らすと、それを合図にヘアメイクやスタイリスト、給仕たちがぞろぞろと後に続いた。「衣装を選びに行く暇もないと思って、こちらに来てもらったよ。身支度が済んだら出発しよう」今夜は結仁の友人が主催するプライベートパーティーがある。私は彼のパートナーとして出席することになっていた。豪華なクルーズ船の上で、結仁が友人たちに私を紹介した。「結仁、見慣れない顔だね。もしかして、彼女さんかい?」結仁は耳の付け根を少し赤くして、「いや、まだだよ。今はまだ、大切な友人だ」と答えた。木村龍平(きむら りゅうへい)は私たちにニヤリと意味ありげな笑みを向けると、結仁の肩を抱いて甲板の方へと促した。「来いよ。雲都から来ている大物を紹介してやる」雲都?私は一瞬呆然としていた。けれど、あんなに広い街のことだ。必ずしも司朗だとは限らない。自分にそう言い聞かせ、平静を装った。しかし、現実は残酷なほど予想通りだった。そこに立っていたのは、紛れもなく司朗だった。司朗は一匹狼のように海を眺め、何事にも興味を惹かれないといった様子で佇んでいた。「司朗、せっかく来たんだから一緒に楽しもうぜ。紹介するよ、こちらは渡辺結仁だ」龍平が声をかけても、司朗はこれっぽっちも興味を示さない。「龍平、俺はお前が『人探しに協力する』と言ったから来たんだ。邪魔をするな」不機嫌そうに吐き捨てて振り返った瞬間、彼の言葉はぴたりと止まった。視線がぶつかったその刹那、私は彼の瞳に灯った鮮烈な驚喜を見た。それはまるで、失くしたはずの至宝をようやく見つけ出したかのような、激しい動揺と歓喜が混ざり合った表情だった。彼は私を腕に抱きしめた。鼻腔をくすぐる、懐かしいシダーウッドの香り。耳元で、司朗が震える声で私の名前を呼んだ。「琉叶……やっと、やっと見つけた。ごめん、俺が悪かった。全部、俺が間違っていたんだ。佳雪とはもう話がついた。彼女のお腹の子も……処置を終えた。もう彼女が俺たちの邪魔をすることはないから。見てくれ、琉叶。新しいヘアゴムを買ったんだ。これからは、これを君にだけ使う。君のためだけのものなんだ」彼はまるで宝物を披露する子供のよ
司朗は、まるで正気を失ったかのように、撤去作業をしていたスタッフたちに「元通りにしろ」と怒鳴り散らした。そんな彼のスマホに、拓海から琉叶の搭乗便の情報が届く。行き先は、二千キロも離れた海都。【兄貴、本気で追いかけるつもりかよ。あんな酷いことしておいて、琉叶さんが許してくれるわけないだろ】許してくれる?そんなはずがない。彼自身が一番よく分かっていた。けれど、彼は琉叶と離れることなんてできないのだ。二十年という歳月、生死を共にしてきた二人は、もう切り離せるような仲ではない。彼はそう信じ込んでいる。司朗はいくつもの信号を無視して車を飛ばし、家へと引き返した。琉叶を引き留めるための何かを、縋るための思い出を、一つでも多く手にするために。だが、家に着いた彼を待っていたのは、静寂に包まれたもぬけの殻の空間だった。琉叶の私物は、跡形もなく消え失せている。洗面台の歯ブラシも、玄関のスリッパさえも残っていない。彼の心にぽっかりと穴が開き、そこを冷たい風が容赦なく吹き抜けていく。彼は書斎へ駆け込み、金庫をこじ開けた。中に入っているのは、金目の物なんかじゃない。琉叶と彼が積み重ねてきた、二十年の歳月の欠片だ。ふと、司朗の視線が一枚の色褪せた絵で止まった。そこには一軒の家と、手を取り合う小さな二人の姿が描かれていた。右上の隅には、【二人で、お家をつくろうね】という拙い文字が添えられている。児童養護施設にいた頃描いた絵だ。二人で、お家をつくろう。家?確かに、本来はあったはずだった。けれど、それを完膚なきまでに踏みにじり、自らの手で壊してしまったのは、他ならぬ彼自身だった。司朗はその紙を胸に抱きしめ、激しい後悔に身をよじりながら床に蹲った。「琉叶……琉叶……」いくら名前を呼んでも、応える者はもういない。やがて、静寂を切り裂くようにスマホが何度も鳴り響いた。司朗は魂が抜けたような顔で、力なく通話ボタンを押した。「佳雪さんのご家族ですか?彼女に流産の兆候があります。至急、病院へ来てください」その言葉に、司朗は弾かれたように我に返り、病院へと急行した。病室のベッドに横たわる佳雪は、顔面蒼白で、瞼を真っ赤に腫らしていた。さぞかし、ひどく泣きはらした後なのだろう。医者の説明など、司朗の耳には入って
離陸した飛行機が、厚い雲を切り裂いて高度を上げていく。ふと、十三歳のあの日の記憶が蘇った。高熱にうなされ、意識が朦朧としていた司朗に向かって、私は泣きじゃくりながら何度も遺言を伝えた。けれど、あの頃の純粋な私は思いもしなかっただろう。三十歳になった自分が、司朗との来世なんて、もう一欠片も期待していないなんて。……スマホから流れる、拒絶を突きつけるような無機質な電子音。司朗は不快そうに眉を寄せ、縋るようにかけ直した。だが、何度かけても琉叶の電話がつながることはなかった。「飛行機の中よ」「終わりにしましょう」その二言は、確かに彼の耳に届いていたが、彼はそれを信じたくなかった。十歳の頃から一日たりとも離れたことのない琉叶が、自分のもとを去る。そんな光景、司朗は一度だって想像したことがなかった。彼は思わず胸を強く押さえた。心臓の奥が、えぐられるようにズキズキと疼き、喉の奥まで苦いものがせり上がってくるような、不快な圧迫感。これまで感じたことのない、忌々しい感覚だった。司朗はすぐに拓海へ電話をかけ、琉叶の搭乗便を調べるよう命じた。拓海は戸惑いを隠せない。「兄貴、琉叶さんと一体どうなってるんだよ。マジで別れるつもりなのか?」別れる?どういう意味だ。俺がいつそんなことを言った。「拓海、お前何を知ってるんだ。隠さず全部話せ」「だって、あの日、琉叶さんから兄貴の行き先を聞かれて、兄貴が旅行に行ってるって答えちまったんだよ。あの時から琉叶さん、様子が変だった。そういえば琉叶さん、兄貴の三十二歳の誕生日に逆プロポーズしようとしてたんだぞ。会場も全部用意して。なのに、急に全部白紙にするから撤去しろって……」「プロポーズ……だと?」その瞬間、司朗の心臓には鋭利な刃で切り裂かれたような痛みが走った。琉叶と彼は、二十年という歳月を共にしてきた。もはや、お互いのいない人生なんて想像することさえできないほど、深く根を張っていた。かつて、琉叶が何度も「結婚」を口にした時期があった。けれど、当時の彼はまだ若く、金も力もなかった。手塩にかけて育てた琉叶を、苦労の渦中に引きずり込みたくなかった。その後、琉叶が妊娠し、ようやく彼も琉叶を守れるだけの力を手に入れた。けれど、あの日起きたあの惨劇が、彼の心を折った。琉叶