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ピントを合わせても、あの日は戻らない

ピントを合わせても、あの日は戻らない

By:  金子Completed
Language: Japanese
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二宮夏美(にのみや なつみ)と藤原祐介(ふじわら ゆうすけ)は幼馴染で、そして二人はそのまま大人になって結婚した。 夏美は18歳の時、両親が交通事故に遭った。そのせいで父親は亡くなり、母親の二宮香織(にのみや かおり)は植物状態になったのだった。その時祐介は悲しみに暮れる彼女を抱きしめ、自分のキャッシュカードを差し出した。 「夏美、これは俺の有り金だ。全部おばさんの治療費に使ってくれ」 それから、夏美が22歳で大学を卒業すると、祐介はすぐにプロポーズした。彼は家族から勘当されるほどの覚悟で、ようやく彼女を妻に迎えたのだ。 23歳の時、祐介は夏美のために豪華な結婚式を挙げたのだった。その時のドレスには9999個ものダイヤで二人の名前が刺繍され、靴は有名デザイナーによる特注品で、値段は計り知れないほど高価なものだった。そして、ベールに至っては、彼自身が手縫いしたものを使ったのだ。 さらに、26歳の時、夏美が胃がんを患うと、祐介は全国の名医を訪ね歩き、あらゆる神社でひたすら彼女の回復を祈り続けた。その甲斐あって、夏美は健康を取り戻した。 だから、後になって祐介が子どものできにくい体質だと知った時、夏美は何度でも体外受精に挑むことを受け入れたのだ。 その数、実に99回。彼女のお腹は注射の痕で埋め尽くされ、家に溜まった注射針は床を覆うほどの数だった。 それでも、彼女は文句一つ言わなかった。 そして32歳になった今、まる6年もの歳月をかけて、ようやく夏美は祐介との子どもを授かったのだ。 しかし、喜びいっぱいで母子手帳を受け取りに役所に行った時、職員は、夏美にこう告げたのだ。 彼女は戸籍謄本上では未婚となっているのだった。 そして、彼女が言う夫である祐介の妻は、藤原梨花(ふじわら りか)という女性だそうだ。 それは、かつて祐介が「従妹」だと紹介していた女性だった。 そして、子どものできにくい体質の話もまた、すべてが嘘だったのだ……

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Chapter 1

第1話

99回にも及ぶ体外受精の末、二宮夏美(にのみや なつみ)はようやく赤ちゃんを授かった。

幸せな未来を思い描きながら、彼女はまず役所へ向かった。生まれてくる子の戸籍について相談するためだ。この子が藤原祐介(ふじわら ゆうすけ)の正当な跡継ぎとして、彼の戸籍に無事に入れるようにと願っていた。

「ええと、二宮さん」役所の職員は言葉を選びながら、慎重に口を開いた。「法律上、未婚の母親から生まれた子の戸籍は、原則として母親のものになります。父親の戸籍に入れることを希望される場合は、夫婦の婚姻関係を証明するものが必要になるんです」

その言葉を聞いた夏美は、無数の注射痕が残る自分のお腹をさすりながら、信じられないという口調で言った。

「未婚の母親?でも、私はもう結婚していますけど……」

夏美は職員の言葉が信じられず、心臓が喉から飛び出しそうだった。

「そんなはずはありません。もう一度確認していただけませんか?パソコンが故障しているんじゃ……」

夏美が諦めきれない様子なのを見て、職員は複雑な表情を浮かべた。しかし、彼女の言葉を直接否定はしなかった。

そして、わざと声を潜めてこう言った。

「二宮さん、あなたは現在未婚です。ですが、『ご主人』の情報を調べたところ……彼の妻は藤原梨花(ふじわら りか)、という方です」

その瞬間、頭をガツンと殴られたような衝撃が走ったようで、夏美は、椅子に崩れ落ちた。

梨花?

それは祐介がかつて連れてきた従妹じゃなかったの?

いつから彼の妻になったっていうの?

「すみません、もし今手続きをされないのでしたら、他の方のご迷惑になりますので」

職員の声にはっと我に返り、夏美は慌ててその場を離れた。

祐介の妻が、梨花?

そんなはずない。

夏美と祐介は幼馴染だった。彼女が18歳の時、両親が交通事故に遭ったせいで、父親は亡くなり、母親の二宮香織(にのみや かおり)も植物状態になって、今も集中治療室で生命を維持している状況だ。

その時、祐介は悲しみに暮れる夏美を抱きしめ、自分のキャッシュカードを差し出した。

「夏美、これは俺の有り金だ。全部おばさんの治療費に使ってくれ」

それから、夏美が22歳で大学を卒業すると、祐介はすぐにプロポーズした。彼は家族から勘当されるほどの覚悟で、ようやく彼女を妻に迎えたのだ。

23歳の時、祐介は夏美のために豪華な結婚式を挙げたのだった。その時のドレスには9999個ものダイヤで二人の名前が刺繍され、靴は有名デザイナーによる特注品で、値段は計り知れないほど高価なものだった。そして、ベールに至っては、彼自身が手縫いしたものを使ったのだ。

さらに、26歳の時、夏美が胃がんを患うと、祐介は全国の名医を訪ね歩き、あらゆる神社でひたすら彼女の回復を祈り続けた。その甲斐あって、夏美は健康を取り戻した。

だから、後になって祐介が子どものできにくい体質だと知った時、夏美は何度でも体外受精に挑むことを受け入れたのだ。

その数、実に99回。彼女のお腹は注射の痕で埋め尽くされ、家に溜まった注射針は床を覆うほどの数だった。

それでも、彼女は文句一つ言わなかった。

そして32歳になった今、まる6年もの歳月をかけて、ようやく夏美は祐介との子どもを授かったのに……二人が実は結婚していなかっただなんて?

こんなこと、ありえない。

そう思っていると涙が、予期せず頬を伝った。夏美は祐介との過去を、何度も何度も思い返していた。

いったい、何がどう間違ってこうなったんだろう?

そうこうしているうちに、夕方近くになって、祐介から電話がかかってきた。

「なぁ、どこにいるんだ?今日一日、顔を見てないじゃないか。俺が迎えに行こうか?」

電話の向こうから、いつものようなとろけるように甘い声を聞いていると、夏美はまるで夢の中にいるような気分になった。

「ねぇ、祐介、私のこと愛してる?」

彼女がそんなことを訊くのは、これが初めてだったから、電話の向こうで、何かが床に落ちる音が聞こえた。

「愛してる。俺は、君を愛しているよ。

どうしたんだ?もしかして、今回も妊娠できなかったのか?大丈夫だよ、夏美。今いる場所を教えてくれ。すぐに迎えに行くから」

30分後、二人は一緒に家に着いた。

ドアを開けるとすぐ、祐介は優しく夏美にスリッパを履かせてあげた。

すると、物音を聞きつけたのか、梨花が勢いよく二階から駆け下りてきた。それと同時に彼女の弾んだ声も、部屋中に響き渡ったのだった。

「祐介さん、私ね、妊娠……」

そう言いかけたが、夏美の姿が目に入ったのか、梨花は階段の途中で足を止め、声のトーンを変えた。そして、その顔から笑顔もすっと消えたのだ。

「夏美さん、祐介さん。お帰りなさい」

一方で祐介は、素っ気なく答えた。

「ああ。今度から口の利き方に気をつけろ。それと、大声で騒ぐんじゃない。夏美は、体が弱いんだから」

「はい」

夏美は目の前の二人を見ながら、役所の職員の言葉を思い出していた。

彼女は急いでベランダに出ると、弁護士をしている親友・酒井若葉(さかい わかば)に電話をかけた。

「お願いがあるの、梨花と祐介の関係を調べて」

彼女が通話を続けていると、二枚のガラス窓の向こうで、祐介が梨花の額に愛おしそうにキスをするのを、夏美は見てしまったのだ。

その瞬間、頭のてっぺんから心臓まで一本の刃物で貫かれたような痛みが走った。

「他には?夏美、夏美?」

一方で、夏美は、キッチンにいた二人が出てこようとしているのに気づくと、さっと振り返ってうつむいた。

そして、彼女は声を押し殺しながら、ぽたぽたと服に涙を落とした。

「ある。私の死亡を偽装してほしいの。祐介からきっぱり離れたいの。永遠にね」
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第1話
99回にも及ぶ体外受精の末、二宮夏美(にのみや なつみ)はようやく赤ちゃんを授かった。幸せな未来を思い描きながら、彼女はまず役所へ向かった。生まれてくる子の戸籍について相談するためだ。この子が藤原祐介(ふじわら ゆうすけ)の正当な跡継ぎとして、彼の戸籍に無事に入れるようにと願っていた。「ええと、二宮さん」役所の職員は言葉を選びながら、慎重に口を開いた。「法律上、未婚の母親から生まれた子の戸籍は、原則として母親のものになります。父親の戸籍に入れることを希望される場合は、夫婦の婚姻関係を証明するものが必要になるんです」その言葉を聞いた夏美は、無数の注射痕が残る自分のお腹をさすりながら、信じられないという口調で言った。「未婚の母親?でも、私はもう結婚していますけど……」夏美は職員の言葉が信じられず、心臓が喉から飛び出しそうだった。「そんなはずはありません。もう一度確認していただけませんか?パソコンが故障しているんじゃ……」夏美が諦めきれない様子なのを見て、職員は複雑な表情を浮かべた。しかし、彼女の言葉を直接否定はしなかった。そして、わざと声を潜めてこう言った。「二宮さん、あなたは現在未婚です。ですが、『ご主人』の情報を調べたところ……彼の妻は藤原梨花(ふじわら りか)、という方です」その瞬間、頭をガツンと殴られたような衝撃が走ったようで、夏美は、椅子に崩れ落ちた。梨花?それは祐介がかつて連れてきた従妹じゃなかったの?いつから彼の妻になったっていうの?「すみません、もし今手続きをされないのでしたら、他の方のご迷惑になりますので」職員の声にはっと我に返り、夏美は慌ててその場を離れた。祐介の妻が、梨花?そんなはずない。夏美と祐介は幼馴染だった。彼女が18歳の時、両親が交通事故に遭ったせいで、父親は亡くなり、母親の二宮香織(にのみや かおり)も植物状態になって、今も集中治療室で生命を維持している状況だ。その時、祐介は悲しみに暮れる夏美を抱きしめ、自分のキャッシュカードを差し出した。「夏美、これは俺の有り金だ。全部おばさんの治療費に使ってくれ」それから、夏美が22歳で大学を卒業すると、祐介はすぐにプロポーズした。彼は家族から勘当されるほどの覚悟で、ようやく彼女を妻に迎えたのだ。23歳の時、祐介は
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第2話
そう言って電話を切ると、スマホが再び震え出したのだった。夏美が開くと、知らない番号からのメッセージだった。【はじめまして。祐介さんの妻です。今夜、晩餐会でお会いしましょう】顔を上げると、梨花がスマホをポケットにしまうところだった。夜になり、空が満点の星で飾られる頃、三人は一緒に晩餐会へと向かった。数分後、夏美は気分転換を口実に祐介のそばを離れ、会場の外にある甲板へとやってきた。「夏美さん、私ですよ」海風が夏美の体を吹き付け、彼女は少しだけ身震いした。「夏美さん、驚かないのですか?」夏美は振り返ると、梨花の指にはめられたエメラルドの指輪を見て、力が抜けたように笑いながら首を横に振った。そして、彼女の涙が頬を伝って流れ落ちた。やっぱり、すべて本当のことだったんだ。何年も前、祐介と結婚した時から、彼の母親である藤原陽子(ふじわら ようこ)は藤原家の嫁に受け継がれるこの指輪を、夏美に渡すのを嫌がっていたのだ。だから、祐介は夏美のために大金をはたいて、そっくりな指輪を買ってくれたのだ。それは色合いも質も、本家のものより何倍も良いものだった。「夏美さん、あなたは知らないでしょうけど、本当の祐介さんの妻は、私ですよ。でも、あなたが祐介さんと幼馴染だから、彼も手放せなかったんでしょうね。気持ちは分かります。でも今、私は、妊娠したんです。この子のためにも、はっきりさせなくちゃいけないと思いまして」暗闇の中、夏美は梨花が自分のお腹を優しく撫でるのを見て、心臓を鷲掴みにされたかのように、激しく痛んだ。「昔、私は普通の大学生でした。祐介さんとは大学の講演会で知り合ったんです。あの時彼は全然相手にしてくれませんでした。でも、私は祐介さんをあまりにも愛しているから……たとえ薬を盛ってでも関係を持ちたいと思い、その過程を撮影して脅してでも、結果的に彼と一緒にいられるなら、それでも構わないと思いました。それに、祐介さんのお母さんも私のことをとても気に入ってくれています」そう言いながら、梨花は指にはめられたエメラルドの指輪をくるりと回した。「男って、どんなに自分の欲望を抑えていても、色仕掛けを仕掛けられたら、いつまでも我慢できるわけじゃありませんのよ。しかも、あなたという比較対象がいれば、なおさらです」しかし
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第3話
そして、次に目が覚めると、あたりは消毒液の匂いが充満していた。全身が痛んで、夏美は身じろぎした。すると、ベッドの足元から、陽子の、責めるような声が聞こえてきた。「まったく、いつまで経っても子どもができないからって、変な気を起こさないでほしいわ。梨花を水に突き落とすわ、祐介を海に飛び込ませるわ……」陽子の声を聞きながら、夏美は黙ってシーツに涙を落とし、何も言い返さなかった。これまで、必死にこの女に気に入られようと努力してきたのに。宝石や服、それに高級な化粧品だって……各ブランドの新作だって、発表されるとすぐに手配して彼女の家に届けていた。さらに、少しでも認められようと、必死で子どもを授かろうとしていたのに。「お母さん。夏美、目が覚めたのか?」そう思っているとドアの外から、祐介の心配そうな声が聞こえた。彼が入ってくるのを見て、陽子はすぐに立ち上がった。「あなたは海に丸一日浸かっていて、まだ高熱があるのに……」「お母さん、もういい。夏美と二人きりで話したいんだ」数秒後、部屋にバタンとドアが閉まる音が響いた。「夏美、指輪、見つけてきたよ」そう言って、祐介はポケットから、海に沈んだあの指輪を取り出してそっと夏美の指にはめてあげた。その額の汗と熱い体から、彼の体調が良くないことが分かった。だが、夏美は少し身を引いて、指にはめられた指輪をぼんやりと見つめた。祐介の心の中では梨花のほうが大事なのに、どうして今さら愛情深いふりをするのか。彼女には分からなかった。面白いとでも思っているの?「夏美、俺のこと、怒ってるか?」祐介は伏し目がちになり、そのかすれた声には疲労感が滲んでいた。「あの晩は暗すぎて、君を助けたんだとばかり思ってたんだ……」彼の白々しい言い訳に、心の痛みが津波のように押し寄せてきた。夏美は必死に下唇を噛んで、込み上げる悔しさを喉の奥に押しとどめた。暗かった、だって?あんなに明かりがあったのに。自分の目が見えないとでも思ってるの?そう思っていると、ドアが開く音がして、医師が入ってきた。「二宮さん、あの晩運ばれてきた後、全身の検査をしました。幸い、お腹の中の……」医師がそう言いかけていると、ガシャンと音を立てて、夏美はテーブルの上のコップを床に叩きつけた。
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第4話
次に目を覚ました時、夏美は病院のベッドに横たわっていた。彼女は無意識にお腹を触った。でも、そこはもう平らになっていた。涙が静かにこぼれ落ちる。その時、祐介の心配そうな声が聞こえてきた。「夏美、目が覚めたか?大丈夫だ。ガラスの破片はもう取り除いた。ちゃんと療養すれば、また踊れるようになるって先生も言ってた」だが、夏美は何も言わず、彼に背を向けて横になった。6年間、99回にわたる注射、そして数えきれないほどの針の跡。そのすべては、祐介との子どもを授かるためだった。たとえ堕ろすと決めていたとしても、やはりそれは自分の子だったのだから。そう想いを巡らせていると、スマホが震え、彼女は電話に出た。「奥様、ここ数日の監視カメラを確認しました。奥様のダンススタジオに出入りしたのは、梨花さんだけのようです。映像を見る限り、彼女が床に何かを置いているように見えます」やっぱり、あの女だったんだ。通話を終えると、夏美は急いで警察に電話をかけた。でも、その次の瞬間、祐介にスマホを奪い取られた。すると、信じられないというように、彼女は驚きに目を大きく見開いた。「夏美、俺も監視カメラは見た。梨花は今、妊娠してるんだ。警察を呼ぶのはやめてくれないか?」そう言いながら祐介はうつむき、その目は懇願の色を浮かべていた。そして、そばで聞いていた梨花も、口を挟んだ。「そうですよ、夏美さん。ごめんなさい。あの日、私も練習しようと思いました。でも、グラスが割れてしまって……掃除を頼もうとしたのですが、でも……夏美さん、ごめんなさい。私がいけなかったんです……」夏美は目の前の二人を見ていると、耳鳴りがしてきて、周りの音が一瞬すべてかき消されてしまったかのようだった。「夏美さん、どうか許してください。ごめんなさい、もう二度としません」バタンと音を立てて梨花は床にひざまずいた。すると、祐介はすぐに駆け寄って、彼女を抱き起こした。「夏美、梨花のお腹にいる子どもに免じて、彼女を許してやってくれないか?」祐介の言葉は、その一語一句が、夏美の心をえぐるようだった。そして、彼女は体中が引き裂かれるような痛みが走るのを感じた。しばらくして、彼女は自分の指を強く握りしめ、ゆっくりと目を閉じて、低い声で言った。「いいわ、許してあげ
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第5話
どれくらいたっただろう。ついに、冷凍庫のドアが開いた。夏美が床から這い出ると、スマホにメッセージが届いた。【夏美さん、あんまりかわいそうだからもう一つ教えてあげますよ。時間があったらあなたの母に会いに行ってみたらどうですか?もしかしたら、もう火葬場にいるかもしれませんよ】その瞬間、夏美は雷に打たれたような衝撃を受けた。彼女はふらふらと立ち上がると、車に乗って療養院へと向かった。中に入るとすぐ、夏美はよろめきながら母親の香織の病室へと走った。でも、そこはもぬけの殻だった。すると、近くにいた看護師が教えてくれた。「12号室の方ですか?昨日、どなたかがいらして、酸素チューブを外されました。今頃はもう一番近い火葬場に運ばれたかもしれません」それを聞いて、涙がどっと溢れ出た。でも悲しんでいる暇はない、そう思って夏美はふらつく体に鞭打って、一番近い火葬場へと向かった。「昨日運ばれてきた人ですか?だったらあっちの霊安室に行ってみたら、みんなそこにいますから」うだるような夏の暑さなのに、霊安室は冷凍庫みたいに体の芯まで凍える寒さだった。香織の名前を見つけると、彼女は力なくその場にへたり込んだ。再びスマホを開くと、梨花から動画が送られてきていた。すると、画面に、黒い袋を頭から被せられ、室内に吊るされた香織の姿が映った。そして、そこで彼女は水の中に何度も沈められては、引き上げられたのだった。すでに脳死状態だった彼女は、まるでただの抜け殻のように扱われていたのだ。胸に鈍い痛みを堪えながら、夏美は震える手でスマホの画面を拡大すると、そこに映っている冷酷な表情の男の顔が目に入った。それは、祐介の顔だった。その事実を目の当たりにして、夏美は、まるで心臓を撃ち抜かれたかのような衝撃を受け、スマホが手から滑り落ち、床に叩きつけられた。彼女は何度も何度も、動画を再生しては拡大した。するとまた、スマホに再びメッセージが届いた。【祐介さんが言ってましたよ。『藤原家の敵は、こうやって始末する』って、どうりで彼のお母さんが、ずっとあなたのことを嫌ってたわけですね】敵?夏美はそっと目を閉じる。脳裏に、あの日の光景がよみがえってきた。18歳だった祐介は、泣き崩れる自分を力強く抱きしめてくれた。その瞳には、痛々しい
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第6話
その夜、夏美は一睡もできなかった。母親の遺骨を抱きしめて窓の外を眺めていると、夏美は祐介が病床で誓った言葉を思い出した。あの時彼は、自分をずっと愛し面倒を見ていくと誓ったのだった。それなのに今、彼は隣の部屋で、「従妹」とやらと快楽に溺れている。18歳の頃の祐介を思い出すと、あの頃の彼は、自分の手を握るだけでも、ずいぶん長いことためらっていたほどシャイだったのに。それが今では……やはり、誓いの言葉なんて、口にしたその瞬間だけ効力があるものなのだ。翌朝、ドアを開けると、梨花の部屋から出てきた祐介と鉢合わせになった。瞳に一瞬だけ動揺が走ったかと思うと、彼は慌てて早口で言い訳を始めた。「梨花の体の調子がどうか、見に来ただけだ。朝ごはんは何が食べたい?俺が作ってやるよ」夏美は祐介の何食わぬ顔を見ていると、はらわたが煮えくり返るようだった。頭の中では、彼が香織を虐待して死なせた場面が、映画のように繰り返し再生されていた。だから、夏美は祐介を無視して、まっすぐ二人の寝室へ向かった。そして、スーツケースを開け、その場にへたり込んだ。だが、いざ部屋の中を見回しても、持っていきたいものなんて、何一つなかったように感じた。壁にかかった結婚式の写真や額縁に入った二人の思い出の写真。流行りに乗って一緒に作った、石膏の人形。祐介がくれたたくさんの服やバッグ、アクセサリー。どれも、もともと自分のものなんかじゃなかったんだ。これらの本当の持ち主は、戸籍上で正式な祐介の妻であるべきなのだ。だから、彼女は空っぽのスーツケースに、何も詰め込むことができなかった。結局、夏美はマイナンバーカードだけを手に取ると、無造作にポケットに突っ込んだ。しかし、彼女がゲストルームに戻りドアを開いた時、香織の遺骨がないことに気がついた。その瞬間、嫌な予感が胸をよぎった。夏美は夢中で家中を探し回った。すると次の瞬間、リビングで梨花が骨壺の中から何かを掘り出しているのを見つけた。彼女は駆け寄って梨花を平手で打ち、慌てて骨壺を抱きしめた。「何してるの?」梨花は叩かれて床に倒れ込み、みるみるうちに目に涙を浮かべた。「夏美さん、ただワンちゃんにミルクをあげようとしただけですが」ミルク?自分の母の遺骨をミルクだなんて言って
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第7話
その頃、祐介はキッチンで梨花のために料理を作っていた。そこへ、警察から電話がかかってきた。「もしもし、藤原さんのお宅でしょうか。お宅のすぐ近くの海で、二宮さんのご遺体が発見されました。お時間のある時に、身元の確認に来ていただけますか」その言葉を聞いた祐介は、自分の耳を疑った。胸騒ぎが止まらなかった。ありえない。どうしてそんなことが?ついさっきまで、あいつはここで梨花をいじめていたじゃないか。そんな簡単に死ぬなんて、あるわけがない。きっと、また夏美の芝居だろう。「おかけ間違いじゃないですか」そう言って電話を切ると、彼は料理をダイニングテーブルに運んだ。しかし、スマホが再び鳴り、ディスプレイにはさっきと同じ番号が表示されていた。祐介は眉をひそめながら、通話ボタンを押した。「藤原さん、先ほどはお電話を切られてしまいましたが……二宮さんのご遺体は今、海岸にあります。二宮さんのスマホには、あなたの連絡先しか入っていませんでした。どうか、こちらに来ていただけませんか……」「あなたが夏美に雇われた役者なら、あいつに伝えろ。死んだフリなんて見飽きてる。今日の件は、あいつが謝らない限り許さないと」同じ言葉を繰り返す電話の向こうに向けて、祐介は声に怒りを潜ませて言ったが、心の中ではざわつきが膨らんでいた。すると、電話の向こうで、警察は再び繰り返した。「藤原さん、私は役者ではありませんし、冗談を言っているわけでもありません。本当に、先ほどお宅の近くの海から二宮さんのご遺体が引き上げられたのです。信じられないのであれば、ご自身の目で確かめに来てください」警察の真剣な声に、祐介はますます不安を抑えきれなくなっていた。その話を傍で聞いていた梨花も、心配そうなふりをして言った。「行ってきたら、祐介さん。万が一、本当に何かあったら大変よ」「藤原さん、まだ信じていただけないのでしたら、こちらから証拠写真を送りましょうか……」心臓が激しく脈打つのを感じながら、祐介は電話を切るとすぐに現場へ急いだ。そして、現場に近づくにつれ、彼は夏美が履いていた青いズボンを目にした。裾の部分には、夏美が黒い糸で刺繍した、祐介の名前のイニシャルがあった。そのイニシャルが太陽の光を浴びて、やけに眩しく見えた。その瞬間、彼の頭にまるで殴ら
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第8話
「私は藤原グループのために……」険悪な雰囲気になるのを見て、梨花は慌てて陽子の腕を掴み、なだめるように言った。「お母さん、もういいじゃないですか。夏美さんが亡くなったばかりで、祐介さんが悲しむのは当然です。どうか、大目に見てあげてください」その言葉で、陽子は支えられるように椅子に座った。そして、目の前の梨花を見て、満足そうに微笑んだ。「やっぱり、あなたは道理をわきまえているわね。そうだわ、来週はあなたの誕生日でしょ?今度こそ、祐介に盛大な誕生日パーティーを開いてもらおう」「お母さん、私の誕生日なんてどうでもいいんです。それよりも……」梨花が遠慮するふりをした途端、陽子はその言葉を遮った。「どうでもよくなんかないわ。あなたは藤原家の嫁なのよ。あなたのちょっとした動きを、世間の人たちがどれだけ注目してると思ってるの」そう言うと、陽子は再び祐介の肩を叩いた。「聞こえた?祐介。梨花の誕生日パーティーは盛大にやるのよ。こういう時だからこそ、世間はあなたに注目しているわ。醜態を笑う人もいれば、それで女を押し付けてあなたにたかろうとする者もいるはずよ。でもね、梨花以上に信頼できる女なんてどこにもいないのよ」その言葉を聞いて、梨花の心は喜びで溢れそうだった。しかし彼女は、気持ちを表情には出さず、悲しそうな顔で祐介の隣に座った。「祐介さん、私は大丈夫よ。お母さんの言うことは気にしないで。もう何年も前から慣れてるもの」梨花の言葉を聞いて、祐介は胸に何かが重くのしかかるのを感じた。この何年も、彼女とは籍を入れただけで、他には何も与えてやれなかったのだから。「今まで、辛い思いをさせてすまなかった。安心してくれ、今度の誕生日パーティーは、必ず盛大に手配するから」そして、夕方、祐介は医師の制止を振り切って家に帰ってきた。彼は夏美の骨壺を抱き、二人が暮らした寝室へと向かった。壁にかかった結婚式の写真、旅行の写真、それに流行りに乗って一緒に作った、石膏の人形……一つ一つが、祐介にまるで夏美がまだそばにいるかのように感じさせているのだった。彼は骨壺を抱えたまま床に座り込み、おそるおそるウォークインクローゼットに向かって呼びかけた。「夏美」だが、聞こえてくるのは、自分の胸が弾む音だけだった。すると、彼は昔、
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第9話
その一言と同時に、バタンと音を立ててドアが閉まった。それから祐介は、注意深く匂いを嗅いだ。そして、何かにハッと気づくと、慌てて窓を閉めた。これが最後だ。夏美の残り香は、もうこれだけしか残っていない。だからこの香りをなくさせるわけにはいかない。そう思いながら、胸に鈍い痛みが走り、彼はウォークインクローゼットへと急いだ。クローゼットに閉じこもり、残された服の匂いを貪るように嗅いだ。まるで夏美がまだそばにいるかのように。夏美、会いたいよ。小さい頃からずっと一緒だったのに、こんなに長く離れたことなんてなかった。祐介は服と骨壺を抱きしめたまま、昼夜を構わず、深い眠りに落ちていった。しかし眠りにつくと、次から次へと悪夢にうなされた。夢の中で、彼は母親から過去の出来事を聞かされ、リビングでひざまずき、「一生、夏美とは結婚しない」と誓った。そして、夏美に最後に会った時、彼女に酷い言葉を投げつけた。そして、夏美が胃がんになった時、彼女のために必死で神社を巡り、お守りを持ち帰った。お守り?そうだ、自分にはまだあのお守りがある。あのお守りがある限り、来世でも、夏美に会えるはずだ。そう思った瞬間、祐介は夢からハッと覚めた。彼はふらつきながら体を起こすと、あの時の神社へと向かった。安田神社は山の頂上にあり、献身的に祈りを捧げれば、願いは必ず叶うと言われている。かつて夏美が胃がんを患った時、祐介も数ある神社で祈りを捧げたのだった。そしてここの神社が、最もご利益があったのだ。その思いを胸に、祐介は夏美の骨壺を抱き、今回も長い階段を上り、祈りを捧げたのだった。そして、彼はその祈りに来世でも夏美と出会い、愛し合えるようにと願いを込めた。道半ばで、空から小雨が降り始めた。果てしなく続く石畳の階段は祐介の体力を奪っていくのだった。再びその階段を駆け上がろうとしたとき、彼はふらつき地面に倒れ込んでしまい、その姿はひどく惨めだった。それでも彼は両手で、夏美の骨壺をほんの少しでも傷つけまいと、必死に守った。そして神社の鳥居を目の前にして、祐介は一瞬動きを止めたが、再び無理やり体を奮い立たせた。「夏美、待っててくれ。もう少しだ。神様に祈ったら、すぐに会いに行くから」そして階段を膝で登りきり、ついに彼は神社
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第10話
話を終えると、祐介は席を立ち、神社を後にして家路についた。そして、ドアを開けた途端、陽子の声が聞こえてきた。「祐介!ネットであなたのニュースが大騒ぎになってるじゃない!それなのに、また神社に行ってたんだって?藤原グループまで巻き込んで、破滅させるつもりなの?それに、梨花の誕生日パーティーの準備を頼んでおいたでしょ?どうして、なにも進んでいないのよ?」……陽子は次から次へと言葉を続けたが、祐介は何も聞こえていないかのように、ただ黙って家の中へと入っていった。彼はウォークインクローゼットに入ると、夏美の服を一枚一枚手に取り、ゆっくりと選び始めた。おしゃれだった彼女に、みすぼらしい格好はさせられない。祐介が何の反応も示さないのを見て、ビリッと布が裂ける音がした。怒りを抑えきれなくなった陽子が、床に落ちていた服を引き裂いたのだ。その瞬間、空気が凍りついた。祐介は、陽子の手にあるレースのロングドレスを見つめた。それは、夏美が一番気に入っていた服だった。この服をプレゼントした時のことを、彼は今でも鮮明に覚えていた。夏美はとても喜んで、リビングでくるくると踊ってみせたのだ。「ねえ、見て。太陽の光を浴びると、このピンクの裾がキラキラして、とってもきれいでしょ」それが今では……祐介は何も言わなかった。ただ静かに目を細めたが、その瞳の奥には、陽子への憎しみが燃え盛っていた。彼は一歩ずつ陽子に近づくと、ゆっくりとしゃがみこみ、その手から乱暴にドレスを奪い取った。「どうかしてるわ!ほんとうに、どうかしてる!」祐介のその様子に、陽子は小さく悪態をつくと、それ以上は何も言わずに出て行った。祐介は残りの服をまとめると、夏美がよく着ていたドレスと一緒に、すべてを裏庭へと運んだ。彼は火を起こすと、服をその中へ投げ入れた。そして目の前で燃え上がる炎が、まるで打ち上げ花火のように思えた。ふと、結婚式の夜を思い出した。腕の中にいた夏美は、夜空を彩る花火を見上げながら、幸せそうに微笑んでいた。「祐介、あなたのこと、大好きよ」星空の下、彼女の瞳には、自分だけが映っていた。思い出に浸っていると、ふと、近くの茂みから大きな物音がした。次の瞬間、それは梨花の声だとわかった。「後始末はちゃんとしたでしょ?この件で、
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