ANMELDEN目的の店に着いて、車を停めると、優香は言った。「先にご飯食べていい?もうお腹が空いちゃって」あんな風に話を打ち切られても、そんな無邪気な顔で言われたら断れるわけがない。「もちろん。先に食べよう」店はオープンしてまもないらしく、内装は落ち着きの中に高級な格調があって、どこか古風な趣が漂っていた。内装のこだわりだけでも、かなりの投資がうかがえる。奥の庭に入ると、風流な石橋の下に澄んだ水が流れ、風情あるあずまやがひっそりと佇んでいた。まるで古都の美しい庭園をそのまま移してきたような、贅沢な空間だった。「ずいぶんとお金がかかってる店ね」優香は周囲を見回しながら小声で言った。「さっき飾ってあった花瓶、本物の骨董っぽかったよ」啓太は優しく微笑んだ。「気に入ったか?」優香は嬉しそうに頷いた。「雰囲気はすごくいい。料理がどうか、今日ちゃんと確かめてみないとね」案内された奥の個室に落ち着くと、啓太は優香にメニューを開くこともなく、手慣れた様子で次々と注文を済ませてしまった。運ばれてくる料理は全部、優香の好物ばかりだった。「私、まだメニューも見てないんだけど」「まずはこれを試してみて。君の好みに合わせて頼んだから。もし気に入らなかったら、すぐに作り直させる」「作り直させる?」優香は不思議そうに首をかしげた。「なんか、ここのオーナーみたいな言い方ね」「開店したばかりだから、意見を言いやすいんだ。気に入ったら、また一緒に来よう」優香は箸を止め、少し慎重な面持ちで切り出した。「増田さん……もしかして、前に私が話したことがあったから、わざわざこの店を開いたんじゃないよね?」以前一緒に食事をしたとき、優香が友人のロマンチックな話をしたことがあったのだ。その友人の夫が、妻の好きな料理をいつでも食べさせたくて店を開き、わざわざ一流のシェフを招いたという話だ。友人はその深い愛情にとても感動したと言っていた。啓太は少し沈黙してから、静かに答えた。「君を感動させようとしてやったわけじゃない。俺にとって、新しく店を一軒開くことくらい、大した手間じゃないから」「本当にあなたが開いたんだ……」優香は呆れたように言葉に詰まった。「私のためなら、こんなことしてもらう必要はないよ、本当に……」「わかってる。これで君が感動してくれるとも思ってないし
「打ち合わせはもう終わったの?」優香が尋ねた。「さっき済んだよ。この近くに知ってる店があってね、そこのスープが絶品なんだ。一緒に行かないか?」「行く行く!」優香が無邪気に喜ぶのを見て、啓太は柔らかく笑った。「君の車に乗せてもらえるか?」「もちろん!」念願の免許を取った優香は、さっそく自分専用の車を手に入れていた。免許を取ったばかりで、自分の手でハンドルを握って運転すること自体が楽しくて仕方ないのだ。啓太に乗せてほしいと言われると、嬉しそうにぱっと顔を明るくした。優香の選んだ車はこぢんまりとしていて丸みを帯びた、可愛らしいデザインだった。まるで彼女自身の雰囲気をそのまま体現したかのようだ。値段もそこまで高額ではなく、河野家の金銭感覚からすれば破格の安さだが、優香本人が気に入っているのだからそれでいいのだろう。「俺は助手席……でいいよな?」「じゃなきゃ、ほかにどこに座るの?」優香はさっさと運転席に乗り込んだ。啓太も助手席に身を滑り込ませながら、ぽつりとこぼした。「助手席って、普通は恋人の指定席じゃなかったっけ?」「今は彼氏いないから、特別に座っていいよ」優香はあっけらかんと言い放った。「もし私に彼氏ができたら、そのときはちゃんと遠慮してね」ぐさりと、見えない刃が啓太の胸に深く刺さった。「そういえば、さっきちょっと暗い顔してたけど、あの男の人って……」「お見合い」優香は隠す素振りも見せず正直に言った。「あなたが来てくれて本当に助かったよ。あのままじゃ帰りたくても帰りにくかったし、でも全然ときめかないし……」「お見合い?」啓太は思わず目を丸くした。「なんで急にそんなことを?」「ちょっと面白そうかなって思って。でも実際やってみたら、もういいかなって感じ」「家から急かされてるのか?」「うーん、そうでもないけど」と優香は言った。「母が早く結婚してほしがっていて、早く孫の顔が見たいみたい」「君自身はどう思ってるんだ?」「私?」優香はハンドルを握りながら軽く笑った。「本当に好きな人ができたら、結婚して子供を持つのもいいなって思うよ。でも、もしそういう人に一生出会えなかったら、一人でも全然構わない」啓太は、運転に集中しているその美しい横顔をじっと見つめた。会っていなかったのは、たった二日間だけだ。優
無駄に自信過剰な男とか、やたら上から目線で語りたがる男とか、世の中には本当にいろんなタイプの人間がいるって噂には聞いていた。でも、自分には一生縁がない世界だろうと勝手に思っていたのだ。大間違いだった。現実は、想像の斜め上をいっていた。ある男性は知人のお子さんで、実家も手広く商売をやっているという。会った当初の挨拶こそ紳士的だったのに、席についてしばらくすると、優香の服装にあれこれと文句をつけ始めたのだ。――なんの落ち度があるというのか。その日、優香が着ていたのは、ただのシンプルなタイトめのニットワンピースだった。体のラインが綺麗に見えるだけで、肌なんてどこも露出していない。露出が多い?首の鎖骨が少し見えてるだけで?「そういう体の線が出る服は、家の中だけにしてほしいな。僕の妻になる人が外に着ていくのは、ちょっとどうかと思う」と男はしたり顔で言った。優香はとっさに、完璧な営業用の笑顔を貼り付けた。いくら腹が立っても、礼儀は礼儀だ。「私には、自分で着る服を選ぶ自由があると思いますけど」「まあ、今どきの若い子はみんなそういうことを言うよね。でも結婚したら、やっぱり妻としての身だしなみには気を使ってほしい。うちは商売をしてるけど、祖父母は厳格な学者で、世間体をすごく大事にする家風なんだ」「あら」優香はにっこりと笑って言った。「じゃあ、私には到底分不相応ですね」男の顔色がさっと変わった。「いや、そういう意味じゃ……」優香はバッグを手に取り、すでに席を立ち上がっていた。どういう神経してるのよ、まったく。次の相手も、思い出すだけでため息が出るような、どうしようもない男だった。もう誰かに愚痴る気力すら湧かなかった。そんなことを何度か繰り返すうちに、お見合い自体がすっかり楽しくなくなっていた。でも段取りは既に何件も組んであって、無碍に断るわけにもいかない。仲介人には、せめて少しスケジュールに間隔を空けてほしいとはお願いしておいたけれど。こんなに精神的に疲れるなら、普通に会社で働いている方がよっぽどマシだ。その点、今日の相手は比較的まともな部類に入った。特別目を引くようなイケメンというわけでもないが、容姿や身長、雰囲気といったものは、どれも平均よりやや上といったところだ。そもそも、家柄の格で相手を探そうとすると、河野家に
「それならいいよ」優香はあっけらかんと答えた。こうもすんなりと許可が出るということは、それだけ彼を異性として意識しておらず、単なる友達としか思っていない証拠だ。啓太は結局その日の午後、素直に車で優香を送り届けた。夕食の話は、それ以上無理強いしなかった。自室に戻った優香は、ご機嫌で鼻歌を歌いながら明里に電話をかけた。「お姉さん!気づいたらもう三ヶ月近くだよ、増田さんとの約束、もうすぐ終わりだ!」「そんなに早かったの?」明里は少し驚いたような声を出した。「彼の方は、何か言ってた?」「何も」と優香は言った。「でも、友達としてはけっこういい人なんじゃないかなって思ってる」「以前の奔放な話は別にして、個人としての魅力はある人なんでしょうね、きっと」「そうなんだよね」優香は同意した。「でも、ときめかないんだから仕方ないじゃない。どっちにしろ合わないし、もう終わりだし、やっとせいせいするって感じ!」明里は電話の向こうでくすくす笑った。「じゃあ、最近ときめいた人はいた?」「ぜんぜん」優香は少し残念そうに唇を尖らせた。「ずっとおかかとこんぶに付きっきりだったからかな。これからはもっと外に出て、いろんな人と会わないと。そうしないと、母にまた急かされちゃう」「まだ若いんだから、そんなに焦らなくていいわよ」「お姉さんはもう二人目じゃない」と優香は言った。「うちの母、すごく焦ってるよ。お兄さんも全然子供作らないから、私に早く結婚してって思ってるみたい。私は子供を産むための機械じゃないんだけどね」「そんなことないわよ。女性には子供を産む権利もあるし、産まない自由もあるのよ。嫌ならはっきり断ればいい」「今はまだいいかな」優香は言った。「またそのうち考える。そういえば、胡桃さんっていつ結婚するの?」胡桃と樹が結婚する――その幸せな知らせを聞いたとき、明里は正直かなり驚いた。樹の長年の深い愛情がようやく報われたのだと思うと、自分のことのように心から嬉しかった。ただ、樹自身はもう結婚を焦ってはいなかった。過酷なリハビリで体を完全に鍛え直し、以前の引き締まった体型に戻ってから、胸を張って式を挙げたいと言っているらしい。今の不完全な自分では、胡桃の隣に立つにふさわしくないと思っているのだ。「年内には、ってことで、着々と準備を始めて
優香は剥きたての巨峰をぱくりと口に入れた。小さな頬がふっくらと膨らんで、もぐもぐと噛んで飲み込んでから、不思議そうに小首を傾けた。「何?」その屈託のない無邪気な顔を、何も知らない澄んだ目をじっと見つめていると、啓太は、喉まで出かかっていた言葉を苦い唾とともに飲み込んだ。もう終わりにしよう、いっそこのまま綺麗なうちに終わりにしよう、と言い出したところで、優香が名残惜しんでくれるはずがないのだ。自分はおかかやこんぶじゃない。あの愛らしい二匹のように、優香の心を強く引き留めておけるほどの魅力など、自分には到底ない。期限より前に切り上げると言えば、優香はきっと何の未練もなく、にこにこと笑って「じゃあね」と言うだけだ。――やめよう。「今夜、一緒に食事でもできるか?」優香は口の中のものをこくりと飲み込んでから聞き返した。「それだけ?」啓太があまりにも真剣な顔をしていたから、てっきり何か大事な話でも飛び出すのかと思っていたのだ。啓太は曖昧に頷いた。優香は困ったように眉をひそめた。「欲張りすぎでしょ。お昼も一緒に食べたのに、夜まで?」「俺は……欲張りなのかもしれないな」啓太は自嘲するように苦笑した。「ねえ優香、俺たち、あとどのくらいで終わりだかわかるか?」「十日ちょっとくらいじゃない?スマホのカレンダーに入れてあるんだけど、最近ちゃんと確認してなくて。どうかした?」「もう十日ちょっとしかない」啓太は静かに言った。「君が免許を取ってからも、もう二週間近く経ってるんだ」「早いねえ」優香はあっさりと、心底どうでもよさそうに言った。「三ヶ月って、過ぎてみればあっという間だね」「そうだな」啓太にとっては、本当に瞬く間だった。そして、残酷なまでに短すぎた。優香は少し興味が湧いたのか、居住まいを正してスマホを取り出した。「じゃあ、そろそろこれからの過ごし方を考えないとね」「何か計画でもあるのか?」「あなたは、これで普通に会社に行けるね」啓太は黙って頷いた。「私は、昼間の空いてる時間にあの子たちに会いに来ればいいかな。そうすればあなたと時間が被らなくて済むし、お互い気楽でしょ?」「それって……もう俺には会わないってことか?」「だって最初から、こういう約束だったじゃない」優香はきょとんとして言った。「お互いの
「そんなストレートには言ってないよ」明は冷ややかに言った。「でも、僕の基準で言えば、君みたいな子を彼女にしようとは到底思わないってだけだ」その言葉を聞いた瞬間、女の子は目を真っ赤に潤ませて走り去っていった。優香は音もなく、明に気づかれないまま静かにその場を離れた。それからは、明とほとんど言葉を交わさなくなった。何度も食事に誘われたが、理由をつけて全部断った。免許が取れてしまえば、顔を合わせる機会も自然となくなった。メッセージはその後もしつこく届いていた。画面を見ても、返事はしなかった。どうせ自分の人生の中の、ただの通りすがりだ。そのうち向こうも忘れる、そういう薄っぺらい人間だ。――気づけばあれから一ヶ月近くが経って、おかかとこんぶもぐんぐん大きくなっていた。子猫の変化はまだ控えめだけれど、子犬のおかかは目に見えて一回り大きくなっていた。ラグドールは元々体の大きな猫種だ。啓太によれば、こんぶの両親もかなり立派な体格で、特に父親猫は十キロ超えだとか。ということは、こんぶも将来は相当な大きさに育つだろう。どんな生き物でも、小さいうちが一番愛らしい。優香はすっかり啓太の家に入り浸るようになっていた。免許も取れたし、特にほかにやることもない。気づけば一日のほとんどをここで過ごしていた。啓太にとっては、まさに夢のような日々だった。できることなら、二十四時間ずっと一緒にいたかった。でも、それは優香が許してくれなかった。「ちゃんと会社に行きなさい」と口うるさく言われ、「行かなかったら、もうここには来ない」と脅されたのだ。本当はわかっていた。それがただの強がりだということを。この一ヶ月でよくわかった。優香は本当に小動物が好きで、一日会えないだけで寂しくて辛くなる。来ないなんて言葉通りには絶対にならない。それでも、啓太は彼女を困らせるような真似はしたくなかった。仕方なく、午前中に優香が来てから会社へ行き、昼に戻って一緒に食事をして、彼女が昼寝をしている間にまた出かけ、目覚めた頃に帰ってくる。そうして夜に送り届けるまで、二人でいる時間はそれなりに長かった。それでも、啓太にはまだ足りなかった。約束の日が、じわじわと、だが確実に近づいていた。なのに二人の間には、これっぽっちも劇的な変化がなかった。優香が啓太の前で気を
「まさか……一晩中ここにいたの?」明里は急いで歩み寄った。近くで見ると、潤の顔には無精髭が生えており、そのやつれた表情がかえって男臭さを増していた。だが、彼が階下で一晩中待ち続けていたという事実は隠しようがない。「ひどい顔か?」明里が自分を凝視しているのを見て、潤は思わず顎の無精髭に触れた。「昨夜俺は……興奮しすぎて、帰るのが怖かったんだ」これが夢で、家に帰れば覚めてしまうのではないかと恐れたのだ。だが今に至るまで、彼はまだそれが現実だと信じきれていない。彼はあの書類で、宥希の本当の誕生日を見た。正確な時期がいつか知らなくても、逆算すれば分かる。明里が産んだこの子供
明里は首を振った。「大丈夫。気に入ったものは、自分で買うわ」潤は何か言おうとして口を開きかけたが、少し考えてから言葉を飲み込み、代わりにこう言った。「……分かった」明里は数秒間沈黙してから、ぽつりと言った。「さっきの電話、母からだったの」「何かあったのか?」潤は、明里が自分からその話をしてくるとは思わず、前のめりになって訊いた。「たぶん慎吾がまた何か問題を起こして、お金を無心しに来たのよ」明里はそう言って、自嘲気味に笑った。潤の脳裏に過去の出来事が蘇った。あの時も慎吾が彼に金の無心をしてきて、彼は明里を引き留める口実にするために、わざと彼女に「借金を返せ」と迫ったの
ただ、樹にこの情報を流した以上、明里も責められる覚悟はできていた。最悪の場合、胡桃に罵られるだろう。殴られたって甘んじて受け入れるつもりだ。とにかく、胡桃にこのまま衝動的に子供を堕ろさせるわけにはいかないのだ。時計を見ると、ゆうちっちの下校時間が近づいている。潤は無事に着いただろうか。ただ、潤は鈴木の電話番号を持っているから、到着すれば二人が連絡を取り合うだろう。過度に心配する必要はない。その時、潤はとっくに現地に到着していた。彼は下校時間を把握しており、一時間も前に着いて車を停め、待機していたのだ。待っている間、ずっと緊張と興奮が体中を駆け巡っていた。時間が近
潤が身を挺して守り抜いたおかげで、宥希は髪が数房濡れただけで済んだ。ライドから降りても、宥希は興奮冷めやらぬ様子でくすくすと笑い声を上げている。目の前で弾けるように笑う大人と子供。その光景を眺めていた明里は、ふと、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。……もし、二人が離婚していなかったら。宥希はパパとママ、両方の愛情を一身に浴びて、今よりもっと幸せに育っていたのだろうか。明里は首を振って、そんな不毛な仮定を、頭から振り払った。今、この子が健やかにそばにいてくれる。それだけで十分ではないか。潤とのことは……ただ、運命の流れに任せるしかないのだ。宥希の体力は、







