All Chapters of プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

村田明里(むらた あかり)は不思議でたまらなかった。昨夜、夫である二宮潤(にのみや じゅん)はベッドの上で自分を激しく翻弄した。一体どうしたっていうんだ。そして今朝、明里は理由を知った。潤の弟・二宮隼人(にのみや はやと)が婚約するのだ。しかも、その女性は潤の初恋の相手だった。つまり、潤が長年想いを寄せていた女性が、彼の弟と結婚することになるのだ。なんとも皮肉な話だ。昨夜、潤が自分の腰を掴み、赤い目で、まるで狂ったように何度も激しく抱いてきたことを思い出し、明里は言いようのない虚しさに襲われた。明里が階下に降りると、既に身支度を整えた潤が出かけるところだった。190cm近い長身は、それだけで威圧感を与えていた。長年、高い地位にいるせいか、彼の整った顔立ちよりも、その強いオーラに目が行きがちだった。しかし、実際は、潤の顔立ちは端正で、どんなに冷徹な表情をしていても、美男子であることは隠しきれない。さらに、広い肩幅に細い腰、スラリと伸びた長い脚は、高級スーツに包まれ、力強さと自信を醸し出している。二宮家の御曹司である夫は、落ち着き払っていて、常に冷静沈着であることを、明里はとっくに知っていた。まるでこの世に、彼の感情を揺さぶるものは何もないかのようだった。ただ一人、あの女性を除いては……明里は胸に込み上げる苦しさを押し込め、潤を見ないようにして、ダイニングへと向かった。潤は明里を一瞥すると、カフスボタンを直し、そのまま出て行った。二人は一言も言葉を交わさなかった。ドアが閉まる音を聞き、明里は苦笑いした。胸に、じんわりと痛みが広がる。こんな冷え切った結婚生活を受け入れられると思っていたのに……自分の気持ちはどうすることもできなかった。この男に、少しずつ心を奪われていく。明里は朝食を食べるものの、味も分からず、ぼんやりとしていた。スマホが鳴り、明里は出ると、席を立った。「すぐ行きます」午後になり、明里は研究所で疲れ切っていた。これまで息の合った岩崎凪(いわさき なぎ)と組んでいたのに、彼は突然異動になり、新しく来た田中俊介(たなか しゅんすけ)はデータ分析が苦手だった。一人で二人の仕事を抱え、さらに心のモヤモヤも重なり、余計に疲れていた。仕事を終え、スマホを見ると、潤から
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第2話

この冷淡で強引な義理の息子を前に、真奈美は一度も優位に立ったことがなかった。潤に真正面から楯突く勇気はなく、いつも裏でこそこそと画策していた。だから真奈美は今、潤の言葉を聞くとすぐに、先ほどの明里についての自分の発言を彼に聞かれたことで、わざと意地悪をされているのだとすぐに察した。とはいえ、別に二人の夫婦仲が良いというわけではなく、潤はただ自分の権威を誰かに逆らわれるのを許せないからだろう。潤はかつて、和夫の圧力で明里と結婚させられた。二人の関係は形式的なものに過ぎず、潤の心には別の女性がいると噂されていた。だから真奈美は、ずっとこの夫婦がこじれるのを笑いものにしたかった。だが、現に今の真奈美は反論する勇気もなく、気まずそうに笑いながら言った。「明里と冗談を言っていただけよ。明里は科学者だから、私も彼女が社会的に活躍して、二宮家の名を高めてくれるのを楽しみにしているのよ。台所仕事なんてさせるわけないじゃない」その言葉には、皮肉と棘がたっぷりと含まれていた。一言、社会的に活躍する科学者と言っても、それを成し遂げられる人はそうそういないのだから。潤はスーツを脱ぎ、そばに放り投げると言った。「だったら聞きたいね。あなたは社会のためにどれだけ貢献して、この家にどれだけの名誉をもたらしたんだ?」それを言われ、真奈美の顔から笑みが消えかかった。そこへちょうど、陽菜が家に入ってきた。彼女は潤の後ろから、優しい声で呼びかけた。「潤さん、どうしたの?」すると潤の顔から、いら立ちと険しさがすっと消え、陽菜を振り返って、「何でもない」と答えた。そう言って彼はカフスボタンを外しながら部屋の奥へ歩いていき、明里のそばを通り過ぎる際に、「まだ突っ立っているのか?部屋に戻るぞ」と声をかけた。そして、先に階段を上がっていった。一方で、明里が陽菜に視線を向けると、陽菜は挑発的な笑みを返した。先ほど潤が自分のために言葉を発してくれたのも、彼がこの継母を嫌っているからこそのことだ。潤が一度機嫌を損ねると、誰も手がつけられない。しかし、陽菜の「潤さん」という一言で、彼の全身から放たれていた刺々しいオーラは跡形もなく消え去った。明里は自虐的に、陽菜と視線を交わした後、すぐに目をそらし、踵を返して階段を上がった。彼らが去った後、真奈美は完
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第3話

それを見て真奈美はドキッとした。彼女はこの縁談には満足しており、当然、潤に邪魔されたくはなかった。しかし、潤と正面から衝突する勇気もなかったので、彼の冷たい表情を無視して、湊に笑顔で尋ねた。「それなら今週末はどうかしら。隼人にまず贈り物を持って陽菜の家へ行かせて、その後、両家で食事をするの」湊が頷いた途端、明里のスマホが鳴った。彼女は慌てて電話に出ると席を立ち、食卓の皆に軽く手を振って席を外すことを示しながら言った。「凪、どうしたの?」柔らかな口調で、その目元は美しかった。そして、彼女は電話をしながら、遠ざかっていた。その声を聞いて、潤は訝しげに明里の方を見た。真奈美は、「忙しいことね」と呟いた。陽菜が顔合わせの話を続けようと口を開いた。「食事の時は、潤さんも一緒に来てね」潤は頷くと、おしぼりで手を拭き、そして何も言わずに立ち上がって、長い脚で外へと歩き出した。湊が彼を呼び止めた。「どこへ行くんだ?まだ食事の途中だろう!」陽菜もまた、彼を呼んだ。「潤さん!」潤はようやく振り返った。「気にするな。食事を続けてくれ」一方で、明里が電話を終えて戻ってくると、潤の姿はもうなかった。陽菜が目を赤くして言った。「潤さんはこの縁談に反対だから、怒って帰ってしまわれたのかしら?」そうよ、初恋の人が実の弟と結婚するんだもの。彼が何も思わないわけがない。明里は胸がさらに締め付けられるように痛くなり、テーブルの上の料理を見つめる視界が霞んでいった。隼人が口を挟んだ。「そんなわけないだろ。それに、俺の結婚だ。彼に口出しされる筋合いはない」食卓の面々は、入れ代わり立ち代わりと陽菜を慰めた。皆が話し終えるのを待って、明里は言った。「私はこれで失礼するね。皆さんごゆっくりどうぞ。婚約の日取りが決まったら教えて。お祝い準備するから」陽菜は穏やかな表情で彼女を見つめ、その眼差しには勝者の笑みが浮かんでいた。「ありがとう、明里さん」明里は陽菜を数秒見つめた後、背を向けてその場を去った。先ほどのデータに問題があったこともあり、明里は心が乱れ、いっそのこと研究所へ戻ることにした。あるデータがおかしいことに気づき、彼女は無意識に凪に尋ねようとした。しかし、一瞬止まった後、彼が昨日付けで異動になったことを思い出
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第4話

明里には、潤が落ち込んでいる理由が分かっていた。おそらく、陽菜の婚約が関係しているのだろう。だがその事実に彼女の胸はさらに締め付けられ、いっそ潤の手を振りほどくと、ベッドから降りた。「今夜はゲストルームで寝る」潤は何も言わず、ただ明里の手首を掴んでベッドに引き戻した。「潤、やめて」明里は目に涙を浮かべながら言った。「私の気持ちも、少しは尊重してくれない?」「俺はお前の夫だ。今、お前を抱きたい。だったら、お前も俺を尊重してくれないか?」「今まであなたの好きにさせて、私が逆らったことなんて一度でもあった?」二人の体は密着していたが、室内の空気は凍え切っていた。潤はフッと冷ややかに笑うと、不快感を露わにした目で言った。「明里、俺とセックスするのが、そんなに苦痛か?」その言葉を聞いて、明里は目を閉じ、涙が静かに頬を伝った。-バスルームからシャワーの音が響いてくる。明里は数秒間呼吸を整えてから、立ち上がってゲストルームへ向かった。その数日間、明里はゲストルームで寝泊まりし、潤は彼女に会いに来なかった。やがて土曜日になった。その日は二宮家と清水家の両家顔合わせの日である。潤は明里に時間と場所をラインで送ったが、約束の時間が近づき、清水家の両親が到着しても、明里は姿を見せなかった。潤は立ち上がると、慌てる素振りもなく袖口を直し、すらりとした立ち姿で言った。「電話してくる」陽菜も立ち上がり、「私も様子を見てくるね」と言った。潤は料亭の入り口で電話をかけたが、やはり誰も出なかった。そこへ陽菜がやって来て、小声で尋ねた。「潤さん、明里さんは……もしかして、私のことが気に入らないのかしら?」潤は内心の不快感を抑え、優しく言った。「そんなことないよ、陽菜。考えすぎだ」「でも、なんだか悲しい」陽菜は目に涙を溜めて彼を見つめた。「潤さん、私……少し怖いんだ」潤は尋ねた。「何が怖いんだ?」「隼人が、婚約したら屋敷で一緒に暮らそうって。でも……」陽菜はそこまで言うと、潤を見上げた。その瞳には、彼に縋るような色が浮かんでいる。「潤さん……明里さんと一緒に、あの家に戻ってきてくれない?」それを聞いて、潤の目元がピクリと動いた。彼は陽菜を温かい眼差しで見つめ、小さく頷いた。「わかった」明里が車を停める前に、そ
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第5話

明里は手招きをした。「おいで」すると、吉田菜々子(よしだ ななこ)は笑顔で駆け寄ってきて、手に持っていた差し入れを明里に差し出した。「ほら、あげる」菜々子も研究所に勤めているが、彼女は核心的な内容には触れることができない立場だった。「ありがとう」明里は菜々子から差し入れを受け取りと座らせた。「数日休んで、どうだった?」菜々子は家の用事で、数日間休みを取っていたのだ。彼女は頷いた。「全部片付いたよ」二人はしばらく話していたが、やがて菜々子は明里を見て、何か言いたそうにもじもじしていた。明里は彼女にお菓子を渡した。「これ美味しいから食べてみて。何かあるならはっきり言ってよ、なんでそんなに言いづらそうにしてるの」菜々子は俯いた。「私、昨日、潤さんを見かけたの」明里はきょとんとして、少し意外に思った。「どこで見かけたの?」潤は普段会社にいるし、たとえ外出しても、会員制の場所に行くことがほとんどだったからだ。「ペットショップで」菜々子は彼女の顔色をうかがった。「陽菜さんと一緒にいて、二人は……恋人みたいだった」陽菜はポメを飼っていて、可愛らしくてきれいな犬だった。菜々子は明里の顔色が悪いのに気づき、さらに言葉を続けた。「こういうこと、私もあなたに隠したくなくて。明里、あなたたちが結婚してもうこんなに経つのに、彼、どうしてまだ……どうしてあんなことができるの?」明里は何も言わず、顔は真っ青で、まつげが微かに震えていた。菜々子は眉をひそめ、彼女の手を握った。「明里、あなたはこんなに素敵な人なのに、どうして……」明里は微笑んだ。「菜々子、大丈夫。全部知ってるから。数日休んだんだから、仕事がたくさん溜まってるでしょ。早く仕事に戻って」「じゃあ、お昼は一緒に食べよう」昼食の時、菜々子はあれこれと話しかけてきたが、明里は何も耳に入らなかった。菜々子はとうとう諦めてため息をつき、彼女に尋ねた。「何か悩みでもあるの?私に話してくれない?」明里は菜々子を見つめ、どこか途方にくれたような目をしていた。「菜々子、あなたは私を……どう思う?」「それは素晴らしいと思ってるに決まってるでしょ!」菜々子はためらわず、心から彼女を褒めた。「あなたほど優秀な人、私は見たことないよ!」「違うの、専門分野のことについて」「
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第6話

不思議なことに、陽菜がそう言った途端、明里の姿を確認したポメはすぐに吠え始めた。陽菜は慎重にポメを抱き上げ、伏し目がちに、「モモちゃんを先に外に出すね」と言い続けた。彼女はすぐにポメをドアの外に出し、そしてまた中へと戻ってきた。明里は既に席についていた。湊がその場を取り繕うように言った。「明里が来たばかりで、モモちゃんもまだ慣れていないだけだよ。数日もすれば吠えなくなるさ」一方、真奈美は、「不思議なものね。他の人には噛みつかないのに、明里にだけ噛みつくなんて」と言った。隼人も相槌を打った。「そうだ、モモちゃんは普段お利口なのにな」陽菜は明里を一瞥してから、おずおずと口を開いた。「聞いた話だけど……犬って鋭いんだって。誰が善意を持っていて、誰が悪意を持っているのか感じ取れるらしい。明里さん、モモちゃんを嫌わないで、モモちゃんはとってもいい子なんだよ!」明里は本来、何も言い返すつもりはなかった。しかし、陽菜のその言い方を聞いて、これ以上我慢する必要はないと決めた。「モモちゃんに会ったのは初めてで、私は何もしていないのに噛みつこうとしてきたわ。どちらかといえば、飼い主のしつけがなっていないのを責めるべきじゃないかしら」陽菜の目はすぐに赤くなった。「明里さん、でもモモちゃんは今まで一度も人に噛みついたことなんてない。本当にいい子なの……」だが明里は引かなかった。「庭に防犯カメラがあるでしょ。モモちゃんが私に襲いかかってきたかどうかは、調べればすぐに分かることよ……」「もういい」明里が言い終わらないうちに、潤が口を挟んだのだ。そして、彼の冷ややかな視線が明里に向けられ、その眼差しは不快感に満ちていた。「食事にしろ」潤の一声で、誰もそれ以上何も言えなくなった。しかし、ただ一人、明里だけが悔しい思いを押し殺していた。そんな状況で彼女は食欲など湧くはずもなく、すぐに立ち上がった。「みなさんごゆっくり。私は先に失礼するから」それを聞いて、潤の指が、箸を強く握りしめた。数分も経たないうちに、彼も席を立った。「じゃ、俺もこれで」すると陽菜もさっと立ち上がった。「モモちゃんが心配なので、様子を見てくる」潤が車を出すと、陽菜がポメを抱いたまま、目を赤くして門の前に立っているのが見えた。彼は車の窓を下ろし、口を
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第7話

明里は背筋を伸ばしていたが、指先だけが微かに震えていた。彼女の首は長く、その立ち姿は気高くすっとしていた。歩み寄ってくる潤を、明里は冷たく頑なな眼差しで見つめ、一言も発しなかった。陽菜はしゃくり上げながら口を開いた。「私が悪いの、ごめん……潤さん、お願いだから明里さんのこと、責めないで」明里は泣いている彼女を見下ろし、「どいてくれる?邪魔なんだけど」と言った。二人で通路を塞いでしまっていた。すると陽菜のすすり泣く声は、さらに大きくなった。明里が体をかわして中に入ろうとしたその時、潤がまっすぐ彼女の腕を掴んだ。明里は彼をまっすぐに見つめ返す。その冷たい眼差しには、意地と恐れを知らない強さが宿っていた。そして、愛情の色は、ひとかけらもなかった。明里のいつもとは違う、どこか苛立ちを帯びた眼差しに気づいた潤が口を開いた。「明里、お前は義理の姉だろう。陽菜にもっと優しくするべきだ」それを聞いて、明里の心にあったひび割れが、今や粉々に砕け散ったようだった。かつての恋心や想いは、その破片と共に砕け散り、全身に突き刺しような痛みを感じた。その痛みは針で刺されるようなチクチクとする痛みだった。彼女は一度目を閉じたが、すぐにまた見開いた。自分は離婚し、いずれこの家を出ていく決意をしていた。だからこそ、今ここで余計な揉め事を起こす必要はないのだ。潤を怒らせてしまえば、彼がどんな仕打ちをしてくるか分かったものではない。明里は陽菜に目をやり、言った。「モモちゃんの機嫌を損ねてしまったみたいね。どいて」彼女の瞳は潤んでいるように見えたが、よく見るとそれは涙ではなかった。冷たく、淡々として、そして決然とした、何か別の感情だった。潤は一瞬言葉を失い、心の奥底の固い何かが揺さぶられるのを感じた。しかし、その感情を整理する間もなく、明里はもう早足で通り過ぎて行った。彼女のかすかな香りだけが、潤の鼻先をかすめた。明里が階段を上り、踊り場に差し掛かったところで、陽菜が口を開いた。彼女は泣き声で言った。「明里さん、全部私が悪いの。モモちゃんにはちゃんと言い聞かせるから。何かあったら私に言って。モモちゃんには当たらないで、お願い」明里はふっと笑い、振り返ることすらなかった。湊は慌てて言った。「まあまあ、大し
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第8話

「いちいちうるさいな」潤は苛立ったように言った。「もういい、大したことじゃない。これから会議があるんだ」啓太は笑いながら言った。「おいおい、珍しいじゃないか、そんなことを言うなんて。機嫌の取り方にもいろいろあるだろ。誰のご機嫌を取りたいのか、まずはそこから教えてくれよ。明里さんか?まさかな。どうした、夫婦生活を続けていたら情でも湧いたか?」潤は少し間を置いて言った。「もちろん彼女じゃない」啓太は高らかに笑った。「はいはい、からかうのはもうやめるよ。陽菜の機嫌を取りたいんだろ?だったら簡単だ。若い女の子なんて、買い物させとけば喜ぶんだよ。服、バッグ、アクセサリー、高いものを選んで買ってやればいい」そこまで聞いて、潤は堪忍袋の緒が切れた。「じゃあな、切るぞ」「おい!潤!用が済んだらお払い箱かよ、この……」潤は電話の向こうで騒ぐ声を無視して、そのまま通話を切った。しばらくして、秘書の小野勳(おの いさお)がノックをして入室し、いつものように業務報告を始めた。報告が終わると、潤はいくつかの意見を述べ、最後にこう付け加えた。「岩崎さん主催のチャリティーオークションがある。そこでジュエリーを一つ落札してこい」勳はメモを取りながら答えた。「かしこまりました」他に用件はなかったため、彼が退室しようとしたその時、潤が再び呼び止めた。「待て。ジュエリーは……二つ落札しろ」その日の午後、勳がジュエリーを届けてきた。潤は今夜会食があり、それが終わった頃には、すでに八時を過ぎていた。屋敷に戻ったが、やはり明里の姿はなかった。十分後、彼は再び車で出かけていった。明里がわざと研究所で時間を潰していたのは、家に帰りたくなかったからだ。しかし、今朝早くに湊から電話があり、昨夜はどこに行っていたのか、喧嘩でもしたのかと問い詰められ、今夜は早く帰るようにと念を押されていたのだ。これだから、明里は屋敷に戻って暮らすのが嫌だったんだ。雲海レジデンスなら、何時に帰ろうと誰も気にしないし、それに潤とは別の部屋で寝られる。だが屋敷に戻れば、湊は目上の方であり、自分に良くしてくれるし、明里もずっと彼を尊敬していた。彼に言われれば明里も断れなかったので、彼女は、今夜は早く帰ると約束したのだった。だがそれでも、ぐずぐずしているうちに九時近く
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第9話

「気に入ったか?」潤は片手でハンドルを握りながら、明里に視線を向けることなく、あたかも彼女に気に入られて当然だという様子だった。明里は数秒間黙り込んだ後、ようやく口を開いた。「……とても綺麗ね」だが、気に入ったかどうかについて、彼女は何も言わなかった。潤は眉をひそめた。「気に入らないのか?つけてみろ」明里はパタンとジュエリーボックスの蓋を閉じた。「気に入ったよ、ありがとう」潤はさらに眉間にしわを寄せた。「それが気に入ったって奴の態度か?」明里は前方を真っ直ぐに見据えたまま言った。「行こう。家に帰るんでしょ?」「明里!」潤は深呼吸をして、怒りを抑え込んだ。「それで、まだ怒っているのか?」明里は微笑んだ。「私が?もちろん、怒ってないよ」「いいだろう。なら、もう二度と離婚の話はするな」潤の声には、見下すような施しの響きがあった。「これで仲直りってことでいいだろ」なるほど、そういうことだったのか。実のところ、明里は非常に驚いていた。まさか、潤が……プレゼントを買って自分の機嫌を取ろうとするなんて。以前の彼女であれば、感動で泣きじゃくっていたかもしれない。しかし、この数日間で多くのことがありすぎた。粉々に砕けてしまった明里の心が、そう簡単に癒えるはずもなかった。明里は彼の手を避けた。その態度に、潤はついに怒りを爆発させた。「これ以上、俺にどうしろって言うんだ?明里、ほどほどにしろよ!」明里は潤を見つめた。その非の打ちどころのない端正な顔が今、怒りに歪んでいて、陽菜の前で見せるような穏やかさや優しさは微塵も感じられない。思えば、彼が自分に対してあのような顔を見せたことは一度もなかった。彼女は軽く笑った。「私がほどほどにしろって?潤、知ってる?私、ピアスなんて開けてないのよ」それを聞いて、潤は一瞬固まり、その視線がジュエリーボックスに落ちた。「……どういう意味だ?」「私はピアスを開けてないの。あなたがくれたのは、ピアス」明里は続けた。「ほどほどにしないといけないのは私?それともあなた?」「ピアス?」潤は数秒間黙り込んだ後、言った。「悪かった」明里は無感動に返した。「別に」「いや、俺は……」潤はこめかみをもみ、何か言いかけて口をつぐんだ。「まあいい。次は別のものを買ってやるから」「いらな
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第10話

明里は伏し目がちに、すべての感情を隠した。潤は彼女の手を握った。「言ってみろ」明里は鼻の奥がツンとし、目が熱くなった。潤にもこんなに優しい一面があったなんて。しかし、皮肉なことに、それは以前は陽菜にした見せない顔だった。そう思っていると、男の涼やかな香りが近づき、彼は手を伸ばして彼女を腕の中に抱きしめた。「お前の欲しいものは、できる限り何でも叶えてやる」潤の甘く、惑わすような声が頭上から響いた。「だから、離婚だけは口にしないでくれないか?」彼の声はもともと心地よいが、冷たさが消え、低く、心を掻き乱すような色気を帯びていた。明里は潤の胸に頬を寄せながら、その落ち着いた胸の鼓動が耳に届いていた。その瞬間、辺りの景色までもが優しく色づいたようだった。明里の傷ついて沈んだ心が、また力強くときめき始めたのだった。そう思うと、彼女は自嘲気味に笑った。自分がとても惨めに思えた。こんな状況になっても、いとも簡単に心が揺れてしまうのだ。それは相手がこの潤だからこそなのだろう。しばらくして、彼女は、「わかった。言わない」と静かに口を開いた。潤は彼女を離し、その顎に手を添えて持ち上げた。明里は古典的な美人の証である卵型の顔立ちで、華やかさと気品、そして女性ならではの柔らかな美しさを兼ね備えていた。特にその瞳は、漆黒で潤んでおり、まつ毛は濃くカールしていて、鼻筋はすっと通り、鼻先は小さかった……潤は思わず顔を寄せ、明里の艶やかな唇にキスをした。これほど優しいキスを交わしたのは、二人にとって初めてのことだったかもしれない。潤の深く、絡みつくようなキスは、明里にまるで自分が彼の手のひらで大切にされているかのような錯覚を抱かせた。それはまるで、これまで苦しみを味わい、心身ともに疲れ切ったところに甘美な潤いを与えられ、乾ききった心が再び蘇ったかのようだった。ああ、なんて甘いんだろう。その甘さは、これまでの痛みも信念も忘れさせてしまうほどだった。たとえこの一瞬だけでも、潤の心に自分がいるのなら、これまでの数年間の努力は無駄ではなかったと思えるのだ。どれくらい経っただろうか、潤がキスをやめた。彼の呼吸は荒くなり、その唇は明里の頬をかすめ、そして耳たぶへと移っていった。最後に、潤は彼女の首筋に顔を
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