Chapter: 第1.5章:035 暫く、重い無言が二人を包み込む。 何を切り出せばいいのか分からない玲を前に、先に静かに口を開いたのは渚だった。「あのブランコでさ、二人でどっちが高くブランコを漕げるか遊んだよね」 目の前のブランコを見つめる渚の視線を追って、玲もそちらを見た。 よく覚えている。かつてあの場所で並んで座り、必死に地面を蹴って高く、もっと高く、まるで一回転するくらいの勢いで漕ぎ合った記憶。結局一回転なんて出来なかったけれど、ただそれだけで楽しかった頃を思い出し、玲の口元に自然と笑みが浮かぶ。「あの砂場でお城を作ったけど、上級生に壊されて……私が泣いちゃったのを見た玲が、上級生に向かって行ったの。勇敢だった」 結局、上級生の方が身体が大きくて玲は簡単に飛ばされてしまった。渚以上にギャン泣きしてしまい、彼女に慰められた情けない思い出。「ジャングルジムで、どっちが天辺まで早く上がれるか、とか、滑り台を滑り続けるだけで一日を潰すとか」(忘れるもんか) 渚との思い出は何一つ忘れたことはない。玲と渚は毎日一緒に過ごした。雨の日もわざわざ傘を差してこの場所に向かい、公園の中心にあるゾウのシェルター遊具に潜って、雨宿りをして過ごし、地面を叩く雨を眺めている時間でさえ楽しかった。 渚も同じように覚えていてくれたんだ、という喜びよりも彼女の懐かしい思い出を一つずつ拾い集めるような言葉は、二度と戻らない遠い過去を惜しむような、寂しい響きを帯びていた。「渚……」 玲が思わず声をかけようとすると、渚はそれを遮るように、玲を見ることなく正面を見つめたまま言った。「黙って聞いていてほしいの」「うん」 玲は頷き、拳を握り締めて、彼女の次の言葉を待った。 そのまま、渚と同じように正面を向き、かつて二人で漕いだブランコを見つめた。 隣で、渚が何度も何度も深呼吸を繰り返す音が聞こえる。何かを必死に吐き出そうと、喉を震わせている気配が伝わってきた。 そして、静寂を切り裂くように、渚の口から信じられない言葉が溢れ出た。「私、小学
Last Updated: 2026-07-20
Chapter: 第1.5章:034 ※ ※ ※ 土曜日。玲は約束の一時間前には、すでにあの公園に立っていた。 かつて幼い自分が、渚を置き去りにして待たせてしまった場所。あの日の身勝手な自分を責め立てるように、玲は何度も何度も、同じ景色を、同じ足元を確認せずにはいられなかった。(ここでいいはずだ。渚が言ったのは、間違いなくこの場所だ) 時間が進むにつれ、心臓の奥がじわじわと冷たい不安に侵食されていく。(本当に、渚は来るのだろうか) やはり来ないかもしれない――直前になって怖気づき、約束を白紙に戻してしまったのではないか。そんな最悪の想定が頭をよぎり、足元がぐらりと揺らぐ。 それでも、玲はその場を頑なに変えようとはしなかった。一歩たりとも動くつもりはなかった。 幼い頃は、自分が渚を待たせた。だから今度は、玲が待つ番だった。どれだけ長くても、たとえ陽が落ちようとも、彼女が来るまでここで待ち続ける。その決意だけが、玲の身体をその場に縫い留めていた。 約束の時間が近付いたその時、公園の入口近くに一台のタクシーが滑り込んできた。 人混みが苦手な渚がここまで来るための手段がそれだったのだと、玲は瞬時に理解した。 ドアが開き、車内から見覚えのある小さなシルエットが降りてくる。(……本当に、来た) 胸の奥から、堰を切ったような猛烈な感動が突き上げてくる。夢じゃない。自分に会うために、渚がここまで来てくれた。その事実だけで、玲の心は破裂しそうなほどの歓喜で満たされる。 しかし、ゆっくりとこちらへ歩いてくる彼女の表情を見た瞬間、玲の歓喜はすっと不安へと色を変えた。 見えてきた渚の顔には、かつてのはにかんだ微笑みは一切なかった。きつく結ばれた唇と、何かに耐えるような硬い眼差し。自分に何かを告げようとする、強い覚悟に満ちたその表情に、玲の背筋には再びあの冬の日のような冷たい戦慄が走った。 玲の前まで辿り着くと、渚はふっと笑顔を見せた。 けれど、それはあまりにもぎこちなく、引き攣ったような、無理やり作った笑顔なのだと玲は瞬時に悟ってしまう。「急に呼び出してご
Last Updated: 2026-07-19
Chapter: 第1.5章:033 その声が間違いなく渚だと理解した瞬間、玲は跳ね起きるようにしてベッドの上に身を起こした。背負ったままだった鞄が重く床へ転がり落ちたが、そんな音は一切耳に入らない。「渚?」 低く冷たかった玲の声は、一瞬で温度があるものへと変わった。「いきなり電話してごめんね」「どうしたの……?」 玲は声を震わせながら訊ねた。 会うのをやめようと言ったのは、渚のほうだった。なのになぜ今になって連絡をしてきたのか――深く考え込むよりも先に、彼女の声を二ヶ月ぶりに聞くことが出来た感動の方が戸惑いよりも大きかった。彼女の息遣いが伝わり、玲は喜びに胸を震わせる。「あのね……」 渚の声が途切れた。 玲の鼓膜に、渚が深呼吸を繰り返している音が届く。言葉を吐き出そうとしては、飲み込んでいるような気配がした。「今週の土曜日、会えないかな?」 予定なんて、あるはずがなかった。「玲に話したいことがあるの」 自分に話したいことがある――二ヶ月前の話の続きをするつもりなのだろうか。(俺を振った理由を聞かされるのか?) 心の傷を抉りにかかるのだろうか――そんな考えが駆け巡ったが、それは一瞬だった。「会えるよ」 玲はすぐに答えた。渚に会いたい理由は沢山ある。会えない理由なんてない。自分が何を言われるか、聞かされるのかという怖さよりも渚に一生会えない方が、不幸だった。「じゃあ、土曜日よろしくね」 玲の返事に、渚がホッと息を吐いた。「渚の学校に行くよ」「ううん。私が呼び出すから、私が玲のところまで行く」(渚が俺に会いに――……) 渚と再会してから初めてのことだ。 玲は女子寮まで迎えに行くつもりだった。彼女に会うために揺られる電車がどんなに満員だったとしても、一度も苦痛に感じたことはなかったから。(でも、電車は人が多いのに大丈夫かな) 初詣、映画館の人混みに青褪めていた渚が脳裏に浮かんだ。あのよ
Last Updated: 2026-07-18
Chapter: 第1.5章:032 ※ ※ ※ 玲は自宅に帰り、まっすぐ自分の部屋へと向かった。 肩に食い込んでいた鞄を下ろす元気すら湧かず、制服のまま、ベッドの端に力なく腰を下ろす。重たい身体を丸めるようにして視線を落とすと、その先に、あの勉強机が嫌でも視界に入った。 そこには、あの日から一ミリも動かされることなく、静かに佇む渚から貰ったチョコレートの小さな紙袋があった。(渚……) 紙袋を受け取ったあの日、繋いだ手を思い出す。 玲は膝の上に置いた自分の両手を見つめた。 何をしていても、結局はあの場所に、あの瞬間に引き戻されてしまう。 あの時、確かに繋がっていた掌。今は驚くほど冷え切っていて、いくら指を握り締めても、温かい渚の体温が戻ってくることは二度となかった。 玲は鞄を下ろさないまま、重い身体ごとベッドへと倒れ込んだ。 仰向けのまま天井を見上げ、すぐに、逃げるように両手で顔を覆い隠す。(渚に会いたい……) その渇望だけが、濁流のように胸の奥で渦巻いていた。 暗闇を強引に作り出すように、顔を覆う玲の手の隙間から入り込む冷たい空気だけが、玲の頬を静かに撫でていく。 ――ピロン。 その静寂を切り裂くように、制服のポケットの中で、携帯のメッセージ受信音が短く鳴り響いた。 けれど、玲は顔を覆った手を微動だにさせず、携帯を取り出そうともしなかった。どうせクラスメイトからの他愛のない連絡だろう。今の玲にとって、渚以外からの言葉はすべて無価値な雑音でしかなかった。 画面を確認する気にすらなれず、玲はただ、深い泥のような思考に沈んでいく。(告白なんて、しなきゃよかったんだ……) 来週に迫ったゴールデンウィークだって、当然のように渚と会って、どこかへ出かけていただろう。手を繋いで映画を観たり、あるいは夢にまで見た狭いカラオケボックスで二人きりの時間を過ごしたりしていたかもしれない。 ぽっかりと空いてしまった大型連休の予定。何をして時間を潰せばいいのか、今の玲には全く思いつかな
Last Updated: 2026-07-17
Chapter: 第1.5章:031 ※ ※ ※ 三年生に進級し、周りのクラスメイトたちの空気は一変した。 誰もが「受験」や「就職」といった現実的な未来を意識し始め、進路説明会の資料を睨みつけ、休み時間には参考書を片手に未来の選択肢を話し合う。教室の空気はにわかに熱を帯び、全員が必死に前を向いて進み始めようとしていた。 玲だけはその波に乗ることが出来なかった――というよりも、何もしていなかった。 玲は机に頬杖をついたまま、窓の景色を眺める。グラウンドで生徒たちがじゃれ合い、楽しそうに笑い声を上げていた。(あーやって……渚と笑い合うことは二度とないのか……)『私たち、会うのやめよう』 そう呟いた渚の顔を、玲はなぜか思い出せなかった。脳がショックを和らげようと防衛反応でも働かせているのか、いくら記憶を遡ろうとしても、彼女が最後に見せた拒絶の表情には分厚い霧がかかっている。代わりに、いつも思い出すのは、彼女が直前に見せていた、あのマフラーに顔を埋めたはにかんだ笑顔ばかりだった。(告白なんてしなきゃ、ホワイトデーのお返しを渡せたのにな) 最初はお揃いの、あるいは彼女の白い肌によく映えるアクセサリーを買おうとした。けれど、付き合ってもいない幼馴染からのそんな贈り物はあまりにも重すぎるだろうと寸前になって思い直した。結局、お洒落な洋菓子店でクッキーを購入した。 それは今も、玲の勉強机の引き出しの奥で、静かに眠っている。「渡せる保障もないのにな」 窓ガラスに映る自分の生気のない顔を見つめながら、玲はぽつりと自嘲した。 賞味期限なんて、とうに切れているかもしれない。 けれど、それをゴミ箱に投げ捨てることさえ、今の玲には彼女との繋がりを自ら完全に断ち切ってしまうような気がして、どうしてもできなかった。 それは、渚から貰ったあのチョコレートも同じだった。 あの日、彼女が緊張しながら手渡してくれた小さな紙袋。中に入っているチョコレートは、箱すら開けられることなく、今も自宅の勉強机の上にぽつんと置かれたままだ。 本当なら、嬉しそうに食べる自分の姿を
Last Updated: 2026-07-16
Chapter: 第1.5章:030 一度言葉にしてしまえば、あとは勢いよく言葉を紡ぐことができた。「俺の彼女になってください。これから先もずっと、渚と一緒にいたい」 玲の瞳は、渚を映し込んでいたからこそ――彼女に訪れた微小な変化が、誰よりも痛いほどに分かってしまった。 渚の顔が、まるで酷い痛みに耐えるかのように苦しそうに歪んでいく。その唇は、血の気が失せて白く染まるまで強く噛み締められた。 喉が小さく震え、マフラーに埋まった唇が僅かに開いて、ひゅっと冷たい息が漏れ出る。 この口から紡がれるであろう次の言葉を、聞きたくない、絶対に聞いては駄目だと脳が拒絶を叫ぶ。 だが、その拒否の言葉を玲は絞り出すことができなかった。「ごめんね」 無情にも、静かな声が冬の空気を震わせた。「玲とは付き合えない」 渚が目の前にいるはずなのに、歪んだ視界の中で上手く捉えることが出来ずにいた。「私たち、会うのやめよう」 世界が反転するような衝撃のなかで、玲が強く握り締めていたはずの渚の手が、ゆっくりと離れようとする。 離したくない。絶対に離してなるものか。 そう強く願って、指先に力を込めたはずだった。それなのに、どうしてか自分の身体ではないように全く力が入らず、渚の華奢な手は、玲の指の間から驚くほど簡単に、するりと離れていってしまった。 気付けば、玲は一人だった。辺りは暗く、外灯が心細く彼の足元を照らしている。 渚の手を握っていた指先は、体温が失われたかのように冷たく、渚からもらったチョコレートだけが唯一、玲を今世に繋ぎ止めていた。(これで、終わりなのか……?)「本当に?」 掠れた呟きが、冷え切った暗闇に虚しく溶けていく。 来年もチョコを渡すと言ってくれた、その口で、「会うのをやめよう」と告げられた。そんな残酷な矛盾が、どうしても現実のものとして受け入れられない。 あそこで告白しなければ、来年の今日、また渚からチョコを貰っていたはずの未来を、自分は自らの手で粉々に壊してしまった。渚も俺と同じ気持ちだという慢心さえ抱かなければ、彼女の
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: 第28話 銀髪の婚約者 「顔見知りの子ですよ」と右手を小さく上げたイアンに、ロイドは許可するように手を上げた。 許可を貰ったイアンは、玉座の扉に立つ兵士に、扉を開けるように指示を出した。 重厚な両開きの扉がゆっくりと開くと同時に、多くの人々が左右に割れて、姿を現わした彼女のために道を空けた。扉から真っ直ぐに敷かれた赤い絨毯は、国王の元まで続く道だ。その国王の前にはイアンが立っていた。 先程まで騒がしかった場がどよめきから囁き声に変わり、それから静寂に包まれる。 ゆっくりとした足取りで歩く女性の美しさに、会場に居る誰もが見惚れた。背に流れる銀髪は歩く度に揺れ、シャンデリアの光に反射して神秘的な輝きを放っていた。不安げに俯く横顔には、銀色の長い睫毛が影を作り、儚げな印象があった。十四歳という大人になり切れていない、小柄でほっそりとした少女は、もう何年も経てば、今以上に神々しく、美しくなるだろう。「君は──」 ロイドの目が見開いて、銀髪の子を凝視した。 薄い紫色のドレスのスカートを持ち上げ、背筋を伸ばしたまま腰を落として頭を下げた。少女の名は、オリヴィア・リー・ロアソル。 亡きネロペイン帝国最後の皇帝の妻、サラの一人娘。サラはスェミス大国の王太妃ジェシカの双子の妹で、オリヴィアはジェシカの姪にあたる。オリヴィアがサラと皇帝に似ても似つかない髪色と瞳で生まれたことで、サラは不貞を疑われた。皇帝は体裁のために離婚こそしなかったものの、母娘を城の外れにある小屋へ押し込んだ。 オリヴィアの存在は、ごく少数の人間にしか知らされず、ジェシカやその家族さえ知らなかった。 サラが亡くなり、オリヴィアを守る人間が居なくなってから、彼女に対する風当たりが酷くなる。そこから助け出したのが、女騎士だ。女騎士はネロペイン帝国からオリヴィアを守りながら、一年前に命からがらスェミス大国へ逃げてきた。 オリヴィアの存在を初めて知ったジェシカは、妹と姪が帝国で受けた仕打ちを知り、涙を流し、そして憤慨した。 オリヴィアがスェミスへ逃げてきた時──帝国の追手を追い払ったのは、紛れもなくイアンだった。(あの頃から、惚れていたのか……?)
Last Updated: 2026-07-19
Chapter: 第27話 妻のために生きる(父上の外見を譲り受けたのは私だけど、イアンは父上の愛が重いところが似てしまったから……不安なんだよ)『兄上をお守りするには、力を身に着ける必要があります。ただ力を身に着けたとしても、兄上を悪く言う奴らを黙らせることは出来ません。黙らせるためにはまず、捻じ伏せる力が必要です。騎士団では充分な武器がありませんし、相手が他国の人間だった場合、王家の騎士団に属する者が報復すれば都合が悪い。その分、軍人なら国の防衛のためと説明できます』 十五歳で騎士団に入団すると思っていたイアンが国軍に入隊したと聞き、取り消すように説得を試みたところ、イアンに早口でそう告げられた。『もし兄上が責められるようなことが起きた場合、俺は全責任を負い、自害するのでご安心を』 重い。 何故、力を付けて私に歯向かう人間を黙らせる為に血を流そうとする。戦争でも起こす気?(国王の目の前で、悪口を吐くような愚かな臣下は居ないよ) 何故、死をもって責任を取ろうとするんだ。 兄への愛情のベクトルが、とある淑女に向かっているようでロイドは不安しかなかった。もしや「結婚してくれなければ、自害する」とか言ってないよな……? 兄の私に言っているくらいだから……。「──私は妻の為ならば、生き続けるつもりです」(何故、妻の為に自害──って、生き続ける?) いつもなら、「兄上の為に死にます」と言うような弟が真逆の事を言った。ロイドは思わず数段高い場所にある玉座からイアンを見下ろした。「約束しました。貴女を置いて死なないと──……」 イアンは穏やかに笑った。 目元が緩み、自分と同じ金色の目が細くなる。何度も見たことがある金色の瞳は、幸せで堪らない、と分かるような目をしていた。たった一人の女性を想って笑える子だったんだ、と思うと、急に胸が苦しくなる。それでも、胸の苦しさより、嬉しさが勝っていた。「まずは、その女性を紹介して頂けるかな?」「陛下──! もちろんです!」
Last Updated: 2026-07-18
Chapter: 第26話 妻のために事務官になります ※ ※ ※ 終戦から一年後──イアン二十六歳、玉座の間での出来事である。 「愛する妻と過ごすため、家を留守にすることは避けたいです。命を脅かすようなことも避けたい。もし、私に何かあれば妻を一人にしてしまう。そこで、私は今後内勤の職へ就きたいと思っています。例えば、事務とか。事務が暇だと言っている訳ではありません。しかし、週末は休めて、長期休暇が取りやすいのは、事務職。残業もなく直帰できるのは、事務職。俺はこれからペンで兄上を支えます」 と。 澄んだ瞳で、スェミス大国の国王、すなわち腹違いの兄であるロイド・フェス・リジェットにそう言い放った。 戦争での功績を讃える場で、周囲には多くの貴族や大臣達が玉座の間に集まっていた。普段、無口で能面のような男が澄んだ瞳をしながら笑みを浮かべ、ハキハキと喋る姿を見て、どよめきが起きる。ロイドもまた戸惑っていた。王座の前に膝を付いて自分を見上げる弟の表情が、大好物のショートケーキを前にした時、一瞬だけ見せる笑顔だったからだ。その笑顔がこんなに長く続いているなんて、いつ振りだろうか……。 「兄上。わたくしに、事務官という職を与えて下さるんですよね? その謁見ですよね?」 ──違う。全くもって、違う。弟に与えようとしているのは、|公爵《デューク》という称号と将軍という階級だ。軍事的に戦果を上げた功績としての爵位とイアンが長い間目指していた国軍の将軍という要職を褒美で与える手はずだった。 だったのだが。 そして、エリオット・サーレンには将軍の座を退いてもらい、辺境伯の称号とカイロ領を与え、カイロ領の新たな領主として両国の境目を防衛する役目を担ってもらうはずだった。 それはサーレン自身が望んだことでもある。しかしイアンはそれを全て笑顔で覆した。 『事務官しかあり得ない』 有無を言わぬ笑顔に圧を感じる。しかし、待って欲しい──。(違う、違うのだ、弟よ──……) 弟が事務官の職を与えて欲しい、と言っているのは、ひとまず隅に
Last Updated: 2026-07-17
Chapter: 第25話 世界一幸福な男 ※ ※ ※ 三十歳を迎えるイアン・ジョー・グゥイン公爵は自身を「世界一幸福な男」だと自負していた。 彼は五年前、生まれ育ったスェミス大国と軍事国家ネロペイン帝国との長きに渡る因縁に終止符を打った英雄だ。スェミス国王ロイドの腹違いの弟であるイアンは王族の血を継いでいながら最前線で戦う勇敢な軍人だった。 イアンが二十五歳の頃、ネロペイン帝国の悪政と戦う革命軍に近付いて、彼らを仲間に取り込んだ。 カイロ領──スェミス大国とネロペイン帝国との境目にあるネロペインの領土である。身体が動く者は性別関係なくスェミス大国との戦争に駆り出され、残った者は身体が不自由な老人のみ。赤子はもう何年も生まれていない。運良く生まれても、飢えて死んでしまうか、ろくな治療を受けられないせいで、風邪をひいただけで死んでしまうのだ。領主といえば、迫ってくる敵軍から身を隠し、屋敷から一歩も外へ出なかった。領民達は、ネロペイン帝国の援軍と共に、スェミス大国と戦うよう命じられていた。長きにわたりネロペインの悪政と領主の贅沢のために搾り取られ、痩せ細った領民達は、カイロ領が両国の国境地であるせいで戦争に巻き込まれた──否、巻き込まれるはずだった。彼らが向けた剣先はスェミス大国ではなく──カイロ領の悪徳領主だった。そして、ネロペイン帝国から送られた援軍には、自国に見切りをつけた帝国軍の兵士達が紛れ込んでいた。 それからネロペイン帝国は皇族とともに滅び、甘い汁を吸っていた貴族は処刑された。新しい皇帝は、辺境伯家へ婿養子に入ったネロペイン皇帝の腹違いの弟だ。 彼は、革命軍を率いた人物だった。歴代の皇帝達とは違い、温和でありながらも武勇に優れ、知略に長けている。新皇帝は国民達と共にスェミス大国の力を借りて復興に向けて頑張っているところである。 ──という物語は話せば長くなるので割愛させてもらう。早い話、今は平和である。 そんなイアンは今、国軍で働いていると言っても、籍を置くのは国軍経理課のヒラ事務官である。 イアンは長きに渡る因縁を終わらせた英雄であり、スェミス大国の第二王子。五年前の終戦後、ロイドは功績としてイアンに将軍の要職を与えるはずだったが──。
Last Updated: 2026-07-16
Chapter: 第24話 監禁すれば良かった ──イアンの目の前に、琥珀色の瞳がある。夕焼けのような、淹れたての紅茶のような色。そして、色白の肌に映える銀髪。 つい最近の記憶の少女にしては、目元に皺がある──……。 ボヤけた視界が波を打ち、ゆっくりと元の形を形成する。 いや、元から形なんて崩れていなかったのだ。俺の意識が、飛んでいただけだった。目の前の色を見て、自分の知っている色と重ねて、幸せを感じたあの場所に。 「大丈夫かい、イアン」 心配気な琥珀色。(あぁ──そんな目で俺を見ないで、くれ) 「──お、れ、は」 意識を取り戻したイアンの喉からヒュッと息を飲む音がした。それから、ガタっと椅子が揺れた。イアンは、銀髪──ではなく、白髪のサーレンから離れる為に後退った。琥珀色の瞳からも、遠ざかる為に。(俺は恋をしていた。もちろん将軍ではなく──) そのまま長椅子から落ちて尻餅をついたイアンは呆然とした後に頭を抱え込んだ。(俺は、ずっと、将軍を見ていたんだ。白髪が銀髪に見えていたから) ※ イアンの頭上に影が二つ。「ほら、やっぱりあんたに恋してただろ?」「この様子だと、自分の想いに気が付いたのかな」「今まで身体を鍛える事に夢中で恋なんて知らないで、ここまで生きてきたんだろうな」「……さっき言っていた恋を忘れる薬だけど、私が頼んだら作ってくれるかい?」「良いぜ」 ──頭上で魔女とサーレンの見当はずれな会話がイアンの耳に入ったが、イアンはそれどころじゃなかった。 今まで恋をした事がなかったから、一人の子を思い出しては胸が痛くなるなんて知りもしなかった。寝室に飾った花冠を見て眠れないのは、花冠を見つめながら、あの少女を無意識に思い出しては胸を痛めていたからだ。ビーフシチューを目にした時、胸が痛くなり、食欲も失せ、何を食べても美味しく感じないのは、あの子に食べさせてあげたい、と思ったからだ。ど
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: 第23話 ただの恋煩い ゴクリとイアンか、それともサーレンからか……唾を呑み込む音がした。 やたらと溜めて、続きを言わない魔女に痺れを切らしてイアンが文句を言おうと口を開くも、魔女は、大きく息を吸い込んで、 「ただの恋煩い! 黒髪のあんたは白髪の男に恋をしているから、目で追ってしまうし、無意識に彼を思い出しては食欲を失くし胸を痛め眠れないんだよ!」「そんなはずは」「そんなはずはあるんだ。白髪のあんただって、黒髪の男が自分を見る目が恋をする目だと一目見て気付いただろ? あんたはそれを否定したくて、医者に毒を盛られたせいだとか、魔女に呪いをかけられているからだ、と言わせたかったんだろ? でも、俺は正直に言う。呪いをかけられた反応もなければ、魔術をかけられた痕跡もない。この男は見たまんま、あんたに恋しているんだ」「何を言っているんだ! 俺は将軍に恋なんてしていない!」 ついムキになって声を荒げてしまう──常に冷静に居ようと心掛けていたのに。「あんたは、隙を見ては白髪のおっさんの横顔を見つめていたぞ」(白髪のおっさんとは失礼だな──将軍相手だぞ)「どうしてこういう話になっているんだ。ここは俺が呪いをかけられているかどうかを調べにきただけなんだろ?」「結果、恋の病に罹っていたんだな。そりゃ医者にも治せねぇな」 ケラケラ笑う魔女を見て、テーブルの上でつい拳を作ってしまう。一般人──と言っても魔女だが、殴りたい。 イアンは席を立とうとしたが──サーレンの重い声で踏み留まった。 「すまない……君の想いに私は答えられない」 申し訳なさそうに眉間に皺を寄せながら、瞼を閉じるサーレンの姿をイアンはゆっくりと首を右に向けた。 何故将軍が謝っているのか……どうして俺は振られたんだ? 告白してもいないのに? 「魔女の媚薬を作ってやろうか?」 魔女をイアンは睨み付ける。魔女は悪気なさそうに謝った。 「恋
Last Updated: 2026-07-14
Chapter: 第3章:王命【012】 ※ ※ ※「ミラとの交際を認めるわけにはいかない。おい、聞いてるか! ヴィクトル!」 騎士団長が自分の部屋の前でわめいている――が、ヴィクトルは気にせず鏡の前で前髪を触っていた。 時には、前髪を上げて額を見せたり、降ろしたりを繰り返すもいいセットが決まらない。 ドンドン! とドアを叩かれる。 壊れる勢いで叩かれていても、ヴィクトルは無視し続けた。(本気だったら、ドアは蹴破られるだろうし) というのが彼の見解である。「白と黒、どっちがいいだろう。ミラの色に合わせて、黒いシャツを着ていくか……? しかしそれだと狙った感があるな……」 恋する乙女もとい、恋する筋肉男は、姿見の前で一人ファッションショーを始めた。「やはり、俺達は親友になったばかりだ。彼女の色にしよう」 親友認定はされておらず友人である――だが、ヴィクトルにとったら、どちらもそう変わらないのだ。 彼はシャツに袖を通す。 明るい髪に黒いシャツは良く映えていた。 着替えを終えたヴィクトルは、デスクの脇に置かれた木箱へと歩み寄った。ミラからもらったミミズたちである。彼は愛おしそうに箱を覗き込み、専用の餌をサラサラと入れていく。 本当は、ミラに教わった通りに今すぐ調理して食すつもりだった。しかし、それを聞いた団員たちから、それこそ文字通り総出で涙ながらに止められてしまったのだ。 酒の席で、フィンに泣きそうな顔で懇願される始末だった。『これ以上、副団長殿に元気になられたら困ります! まだ人間を保ったままでいて下さい!』 本気で食べる気だったヴィクトルとしては、そこまで怯えられては無理に通すわけにもいかない。「せっかくミラが俺のために特別に寄こしてくれたミミズだというのに、この価値が分からないのか……」 土の下へと潜っていく丸々としたミミズたちに「留守中、良い子にしているんだぞ」と声をかけた。「待たせて
Last Updated: 2026-07-20
Chapter: 第3章:王命【011】 本気で生のミミズを食べようと考えている副団長の肩を、フィンが涙目で激しく揺さぶる。 その騒ぎを他所に、ミラはレオンからもう一つの箱を受け取ると、そのままグレンの仮デスクへと歩み寄った。「お、おお。どうした、ミラ」「グレン団長にも用意してます。こちらは少し痩せたミミズですが、食料として十分に食せます」「おい、俺は食べんぞ! いらん!」 差し出された箱の中身を一瞥し、グレンは全力で両手を振って拒絶した。 すると、ミラは目に見えてショックを受けたように、あからさまに傷ついた顔になる。「そんな顔をしても無駄だ。俺は優秀だからな、戦地で飢餓に陥ることは絶対にない。だからいらん!」 グレンが冷たく突き放すと、ミラは今にも泣き出しそうなほど悲しげに眉をひそめた。その様子を見た金髪の副団長が、デスクを叩いて勢いよく立ち上がる。「俺がもらおう!」 ヴィクトルの力強い声に、ミラはパッと一瞬で花が咲いたような笑顔になった。「はい!」 ミラは嬉々としてヴィクトルの元に戻り、デスクの上にミミズの箱を二箱、綺麗に並べて置いた。「調理方法は、まず土を吐かせたあとに――」「あー! あー! 聞こえないです!!」 フィンは全力で耳を塞ぎ、これ以上の猟奇的なレシピの拝聴を拒絶した。 一通りの用事を終えたミラは、「では」とレオンを伴って出口へと向かう。そして、騎士舎の重い扉の前に立つと、ふと何かを思い出したように振り返った。「ヴィクトル。週末、私空いてます」 丁寧にお辞儀をして、今度こそバタンと扉を閉めて出て行くミラとレオン。 二人が立ち去った後の騎士舎には、再び静寂が訪れた。 ――しかし、その空気は先ほどまでの「死の空気」とは明らかに異なっていた。 ゆっくりと顔を上げたヴィクトルの顔には、完全に生気が、それどころかいつもの眩いばかりの輝きが戻っている。「今夜、俺も呑みに行きます!」 満面の笑みで、机の上のミミズが入った木箱を大事そうに持ち上げ、そう宣言した
Last Updated: 2026-07-10
Chapter: 第3章:王命【012】「エルンスト副団長殿。お久しぶりです」 箱を抱えたまま、ミラは律儀にぺこりと頭を下げた。「最近、朝会いませんね。何故ですか?」(いや、どの口が言ってるの!?!?) フィンだけでなく、遠巻きに見ていた団員たち全員の心の叫びが騎士舎内に木霊した。あれだけ派手に振っておいて、なぜ毎朝のストーカー紛いの挨拶が継続されると思っているのか。「散歩はやめたのですか?」 コテンと首を傾げるミラ。 その、いつもと変わらない無防備な仕草を見て、ヴィクトルがハッと弾かれるように目を開いた。死んでいた瞳に、僅かに光が戻る。「あ、いや、やめたわけじゃないんだが……」 まるで悪い夢から醒めたかのような様子のヴィクトルに、ミラはさらに追撃をかける。「副団長殿が部屋の隅で消え入りそうなほど生気を失っている、とレオンから聞いたのですが、本当ですか?」(本人にそれ聞いちゃうの!?!?) フィンは滝のような冷や汗を流した。 レオンにいたっては「余計なことを言うな」と言いたげに盛大に片手で顔を覆っている。「落ち込んではいるが……」 ヴィクトルが消え入るような声で事実を認めると、ミラは満足そうに頷いた。「そうですか。そんな副団長殿にとっておきの物をご用意しました。レオン」 ミラに名を呼ばれたレオンは、ポーションが入った箱を近くのデスクに置き、ミラの抱えていた箱を一個だけ代わりに受け取る。 残る一つの箱を大事そうに抱え直したミラは、ヴィクトルのデスクを指さした。「デスクに置いていいですか?」「あ、ああ……」 ヴィクトルが小さく頷くと、ミラは慎重に箱を置いた。そして、躊躇いなく箱の蓋を開ける。 横から気になって恐る恐る箱を覗き込んだフィンが、直後に「ひっ……!」と短い悲鳴を上げて飛び退いた。 木箱の中には、湿った土とともに、丸々太った大量のミミズ
Last Updated: 2026-07-09
Chapter: 第3章:王命【011】「そうですね。少し酒でも入れば、副団長も気が晴れるでしょう」 いい案だ、とリジェットは頷いた。 「じゃあ、他の団員にも声かけてみます!」 フィンは元気よく手を上げる。 「団長の奢りです」「おい」 リジェットの容赦ない追加ルールに、グレンは思わず足を床に下ろした。しかしフィンもここぞとばかりに便乗する。「団長は高給取りですし!」「……ちっ、仕方ねぇなぁー」 グレンが財布の紐を緩めると、「今夜は団長の奢りだー!」と大声で叫んだ。 周囲の騎士たちの間で「おお、さすが団長!」と静かな歓声が上がり、わいわいと活気が戻り始める。「よし、じゃあフィン。ヴィクトルを誘ってこい」「俺がですかっ!?」 グレンの言葉にフィンは飛び上がって拒絶の顔を浮かべた。あの死んだ目の副団長に近付く、地雷源を横切るようなものである。「俺は金を出す人」とグレンが言えば、「私は店を用意する人です」とリジェットが冷たく続ける。「俺が一番下っ端……!」 フィンは己の階級の低さを呪いながら、泣く泣くヴィクトルの席へと足を向けた。消沈しているはずなのに、最強の騎士が放つ威圧感だけは健在だった。フィンは生唾を飲み込み、デスクの横に並んだ。「あの……副団長」 びくっと、ヴィクトルの肩が僅かに動いた。「今夜、みんなで呑みに行きませんか。団長の奢りですので……」 ヴィクトルは無言だった。 ゆっくりと書類から顔を上げ、そのまま廊下へ続く扉だけを見つめた。まるで何かを待ち続けているかのように、身動ぎ一つしない。「あの…………」 声をかけても反応してくれず、フィンは戸惑い、助けを求めるようにグレンを振り返った。 その時、ヴィクトルの視線の先にある扉が、がちゃりと開いた。
Last Updated: 2026-07-08
Chapter: 第3章:王命【010】 ※ 騎士舎の空気は死んでいた。 いつもは輝いている金色の髪が、今はまるで光を失った砂漠の砂のように、くすんでいる。 広い部屋の片隅で、ヴィクトルは無心に、グレンが溜め込んでいた書類を読み、機械的にサインを走らせていた。 他の団員たちは、そんな彼を完全に遠巻きにして見守っている。あの中庭での、大勢の前の盛大なフラれっぷりを目撃してしまった彼らは、どう話しかけていいかも分からず、ここ最近ずっとヴィクトルを腫れ物のように扱っていた。 ぱっと見は普段と変わらず仕事をこなしている。訓練場でも剣はいつも通り振るっていた。だが、その青い瞳からは完全に光が失われ、覇気だけがどこかへ消えていた。 その様子を、グレンは相変わらず私物化したデスクに両足を乗せたまま、じっと見つめている。 「団長、口元が笑っています」 隣に立つリジェットに冷ややかに指摘され、グレンは「すまん」と慌てて手の平で口元を隠した。 まさか、ヴィクトルが熱烈に口説いているという噂の『伯爵令嬢』が、自分が妹のように可愛がっている魔術オタクのミラだったとは、グレンも夢にも思っていなかったのだ。あそこまではっきりと、一筋の慈悲もなく振られて可哀想だとは思う反面、面白くて仕方がなかった。「まさか、副団長がミラさんを好きだなんて、誰も想像してなかったですよ……」 フィンがしみじみと呟くと、リジェットは小さく息をついて書類に目を落とした。「まあ、水と油、月とすっぽん、騎士と魔術師。おまけにあの性格ですし、普通は合いませんよね」 辛辣な言葉を口にしつつも、ミラに喜んでもらおうと王宮で彼女の為に食べ物を調達し、寄付集めまでしたヴィクトルを知っているだけに、リジェットの心中は少なからず同情的だった。すると、グレンが思い出したようにリジェットに視線を向ける。「そういやリジェット、お前オルスと別れたの? 先週一緒に飯行ったら『知らなかった……』ってめちゃくちゃ落ち込んでたぞ」「私の話はどうでもいいじゃないですか。それより、今は副団長です」
Last Updated: 2026-07-07
Chapter: 第3章:王命【009】 ※ ※ ※ 魔術塔から研究室に続く石畳の小径を、ミラはレオンと並んで歩いていた。 朝は急いで研究室へ赴き、すぐにでも取り掛かりたいミラにしてはゆっくりとした歩調だった。「最近、エルンスト副団長殿が顔を見せませんね。体調でも崩したのでしょうか」 首を傾げたミラにレオンは呆れ顔を浮かべた。「ミラさんが振ったからでは?」「私は正直に言ったまでなのですが。そんなにショックを受けることでしょうか?」 不思議そうな表情を浮かべるミラを見て、レオンは眉間の皺を深く刻んだ。他人の機微にここまで疎いとは……どうすれば理解してくれるのだろう、とレオンは思案した。 実はあの場にレオンもいた。と言っても、距離はあったが――ミラとヴィクトルの会話を聞き取れる範囲内にはいた。 まさかあの場で、ヴィクトルがミラに告白するとは思っていなかった。それ以前に、二人はレオンから見てもいい雰囲気のように見えたのだが……。(あそこまで派手に振られたら、普通は立ち直れないよな) 風が吹けばどこかに飛んでしまいそうなほど、打ちひしがれたヴィクトルをレオンは何とも言えない感情で見つめた。少し目を離した隙に彼の姿は消えていたが、無事に帰れただろうか。 「あそこで嘘を吐いたら、それこそ不誠実では?」 普段抜けているくせに、正論を言うミラ。 「確かに、その通りですけど……」 レオンはそう呟いて、大きな溜息を吐いた。 「嘘を吐けとは言っていません。ただ、物事には言い方というものがあるでしょう。……それに、ミラさんにとって副団長殿は、それほどまでに『好きじゃない』相手なのですか?」 レオンの問いかけに、ミラは足を止め、丸眼鏡の奥の黒い瞳を瞬かせた。「お友達、ですから。それに、高額な治癒魔術を受けられない市民のためにポーションを広めたいという私の話を、あの人は誰よりも真剣に聞いて、協力すると言ってくれまし
Last Updated: 2026-07-06
Chapter: 私の彼氏はちょっとだけ心配性。:034 警戒心もなく、二年間を埋めるように打ち解けた穏やかな雰囲気は、壱にとって、とても居心地が良かった。 壱は、今夜は葵依に指一本触れる気は一切なかった──ものの、そんな決意はすぐに崩れ去ってしまったが……壱が恋に堕ちた葵依の笑顔を間近で見たら抑えが効かなくなって、自分の決意なんぞ何処かへ置き忘れてしまい――唇を奪ってしまった。隙だらけだったから簡単に奪えた。一瞬、隣の部屋にある遺影と目が合ったような気がして罪悪感は生じたものの……息継ぎが出来ずにいっぱいいっぱいになっている葵依を見ていたら、後ろめたい気持ちは、いずこかに消え去ってしまう。 正直、葵依へキスをして押し倒していた頃は、キス以上のことをするつもりなんぞこれっぽっちもなかった。唇は奪ったものの、「肉体関係は結ばない」という決意は消えてはいなかった。 細くて白い薄肌の首筋へ唇を当てられても、クスクス笑う葵依を見て、自分が話した防犯講座は役に立っていないような気がしたものの邪気のない葵依に愛しさが溢れた。 と同時に、 (思っていた以上に、危機感が薄いな……) と思いはしたが……。 葵依がバイト先の男から肩、背中に横を通る度に触われている姿を目撃したことがある。その度に腸煮えくり返っていたものの、葵依は全く気が付いておらず──当の本人は商品の陳列に夢中だった。『キスは許可制』『可愛い発言は許可制』『名前呼びは許可制』 だと自分で言っていたにも関わらず、キスされた後「可愛い」も「葵依」も許可を貰わずに何度も発言したが、葵依本人はスルーしてしまっていた。 キスされた後なんだから色々と構えるべきだし、男から髪へ触れられたら警戒すべきだ。擽られている感覚と自分の身体に起きている感覚の区別がつかない葵依に対して不安を感じてはいても、今まで聞きたかった「いらっしゃいませ」以外の言葉と、笑い声、驚きの声音、上擦った声音──予想に反して下半身へきた──これ以上の触れ合いは止めた方がいい、まだこの頃は分別出来ていた。それでも葵依
Last Updated: 2026-07-20
Chapter: 私の彼氏はちょっとだけ心配性。:033「そうか」「は、はい」 さっきまでは擽ったいだけだったのに、母親との思い出の擽ったい感覚が今では消え去っていて、壱の手から伝わる弱い刺激の方が強い。優しい手つきなのに、指先は触れるか触れないか程度なのに、感じ方が妙だった。「くすぐりとは違う……?」 またも同じ質問を返してみる。どうしてか自分の息が微かに上がっているような……声が上擦っているような気がした。「…………」「えっと……壱さん……?」 無言のままの壱が気になって葵依は壱を見ようとするも、ぎゅっと抱き締められてしまう。彼の手で自分の耳を塞がられてしまって、身動きできない。仕方ないから目だけを動かすも彼の濡れたような黒髪しか映らなかった。 抱き締めたまま壱の動きが止まってしまって、肩と首筋の間に埋もれた彼の吐息を感じるだけになってしまった。「壱さん?」 もう一度名前を呼んで、そっと壱の頭に触れてみる。ピクリと彼の肩が上下したが、何も返さなかった。 葵依は壱の頭をなでなでと数回撫でてみた。 生まれつき茶髪の髪は軟毛な癖にクセが付きやすくて、毛先がクルンと巻いてしまう自分の髪とは違って、壱の髪質は艶があって直毛だ。試しに指で梳いてみる。サラサラな髪の感触が楽しくなって、葵依は彼が何も言わないのをいいことに何度もその髪を指で梳いながら彼の頭を撫でた。(楽しい。さっき、壱さんが私の髪を触っていたのって自分と髪質が違うから、私のように楽しくなったのかも) 身長差があるから、葵依がこうして壱の髪に触れられるのは壱がしゃがんだ時だけだ。こういう機会は二度とない、そう思って許されるまでは、と葵依は緩やかな笑みを口元に浮かべながら、優しい手つきで彼の頭を撫で続けた。 突然──生温かい何かから首筋を舐められ……おかしいと思った時にはもう遅かった。 「ひやっ!?」 ねっとりとした舌の
Last Updated: 2026-07-19
Chapter: 私の彼氏はちょっとだけ心配性。:032 「トリートメントとコンディショナーは使った方がいいですか?」 言われるよりも自分で聞いた方が痛みが少ないかもしれない、そう思って葵依は壱へ訊ねた……ものの。 「リンスインシャンプーは職場のシャワー室に備え付けられているから夜勤明けや泊まり込みの時に使うけど、その二つの必要性を感じたことはないな。自宅の風呂へ入る時はあるから使うってだけだし」「使った方がいい」とか、「ちゃんとケアした方がいい」とか言われることはなく、拍子抜けしてしまった。「俺も使う」という言葉に葵依はホッとする。 「夜勤明けや泊まり込みでお仕事するんですね」「一週間から出張で長くて一ヶ月とかあったな……」 激務で大変そうだ。身体は持つのだろうか。(そんなに激務なのに八月は会えるのかな……) 会えなかったら、寂しいな――と思っていると、不意だった。 葵依の首筋に柔らかいものが当たった。「ひゃっ!?」 葵依は驚いて声を上げてしまう。 手を握られたままの葵依は、自分の首筋に埋まった壱をどうすることも出来ずに固まってしまった。 その柔らかい唇の感触が、こそばゆい感じがして葵依は笑い声を上げた。「フッ、フフッ」 何度も啄むように唇を当てられて、それから壱の髪の毛が鼻先に掠って擽ったい。 「かわいいな……」 笑うような吐息で壱は呟いた。 葵依の細い首筋に啄むように何度もキスをしながら、「擽ったい?」と壱は訊ねる。「は、はい……フフッ」 葵依は壱が自分にじゃれているのだと思った。 優しく触れる程度の唇の感触と、いつのまにか自分の手から離れた壱の手は自分の腰のラインを撫でている。葵依の脳裏に幼い頃、母からこしょこしょと擽られてふざけ合った記憶が蘇った。 例え、執拗に腰を撫でられてゾクッと腰に震えが
Last Updated: 2026-07-18
Chapter: 私の彼氏はちょっとだけ心配性。:031「誰かが夜中に家を訊ねてきても、絶対に開けるな」 さっきまで、はしゃいでいたのが嘘のような真剣な声だ。「知っている人でもですか? 叔父さんとか楓君とか……」「一人暮らしの葵依に連絡が付かない時は心配して訪ねてくるだろうけど……連絡なしに訪問するようなそんな非常識な人間じゃないだろう?」「はい」と葵依は小さく頷いた。彼らは育ちがよく非常識なことはしない。それでも葵依が電話に出なければ警察を引き連れてここへやってくるだろう……今日はその一歩手前だった。 携帯を両手で握り締めたまま親指同士をくっつけたり、引っ張ったりしていると壱から携帯を取り上げられた。 それから壱の手が重なってきて葵依は動きを止めた。壱の手は、筋肉量が多く角ばってゴツゴツしていた。指が太く関節の節や筋が目立ち、血管が浮き出ている──。(私の手と違う手と手を繋いで……歩いて帰ったんだ……) 顔を上げると、穏やかに微笑んだままの壱と目が合った。 不意に彼の指が伸びてきて、葵依の頬に触れる横髪を耳後ろへかけた。指先が耳輪に触れてゾクりとする。今度は反対の横髪も右と同じようにしてもらった。「髪、手触りが良いな」「安いリンスインシャンプーを使ってます」 クスッと笑われたが、馬鹿にしているような笑いではなく。葵依の発言全てを愛しいと思っての漏れたものだった。 でも、葵依にはその違いが分からず、呆れられたと思って傷ついてしまう。全身安物を身に纏った自分が、生まれて初めて恥ずかしいと思ってしまった。「なぁ……提案があるんだが」「ていあん?」(シャンプー、トリートメント、コンディショナーを使えって言われるのかな……) 葵依は、どれで洗っても変わらないと思っているため、リンスインシャンプーしか使っていない。それ以前に、全部揃えるとコストが掛かる。 見当違いのことを葵依は思い浮か
Last Updated: 2026-07-17
Chapter: 私の彼氏はちょっとだけ心配性。:030(そ、そうなんだ……初めて知った。彼氏なんて今までいなかったから知らないのも当然だよね……) 流行りに疎い葵依は壱の言葉を信じた。親友の万里も彼氏の写真を待ち受けにしていたのを思い出して、それが常識だと信じてしまう。 写真を撮ると意識した葵依は前髪を手櫛で整えながら、「わ、かりました……」 と葵依は言った。 悲しげな顔が嘘のように満面の笑みになった壱から携帯を向けられる。 ウキウキな壱を見ていたら騙されたような気分に陥った。でもそれは、彼の笑窪付きの笑顔を見て、浄化されてしまう。 楓に送った写真と同じウサギのポーズをしたら「他のポーズが良い」と却下されてしまった。 何故ウサギにしたかと言うと「今年の干支が兎だから」という単純な理由からだ。何でも良いと思ったものの壱が頑なに「嫌だ」と言い張るので、葵依は腕を組んで目を閉じた。そうして、考えあぐねた結果──顔の横にピースを作る。 至って普通……のポーズになってしまったことが恥ずかしくて、おまけにピース姿で目線を送るのが恥ずかしい。 葵依は携帯ではなく畳の目に目線を送った──案の定、目線をくれ、と言われておずおずとカメラへ目線を上げた瞬間、カシャッという音とフラッシュのライトが点滅する。「ありがとう。すげー良く撮れた」「へっ!? 今のはちゃんと撮れてませんよ!」 目線を送った瞬間にシャッターが切られたのだ。変なタイミングで撮られたに違いない――葵依は壱のスマホを覗き込む。先程の写真を待ち受けにしようとしているところだ。「これ、すごく不細工です! 間抜けな顔をしてます!」 壱から携帯を取り上げようとしたら、サラりと躱されて背中を向けられてしまう。今度は背中越しに手を伸ばして取ろうとしたら、それも華麗に躱されてしまった。「目が覚めたら、この写真を一番最初に眺めるよ」「な、なにをおっしゃってるんですか」と葵依はつい呆れたような声を出してしまう。壱は気にした様子はなく、ニッコニコ
Last Updated: 2026-07-16
Chapter: 私の彼氏はちょっとだけ心配性。:029「へっ!? 今のはちゃんと撮れてませんよ!」 目線を送った瞬間にシャッターが切られたのだ。変なタイミングで撮られたに違いない――葵依は壱のスマホを覗き込む。先程の写真を待ち受けにしようとしているところだ。「これ、すごく不細工です! 間抜けな顔をしてます!」 壱から携帯を取り上げようとしたら、サラりと躱されて背中を向けられてしまう。今度は背中越しに手を伸ばして取ろうとしたら、それも華麗に躱されてしまった。「目が覚めたら、この写真を一番最初に眺めるよ」「な、なにをおっしゃってるんですか」と葵依はつい呆れたような声を出してしまう。壱は気にした様子はなく、ニッコニコでご機嫌な様子でスマホの画面を嬉しそうに眺めている。「せ、せめて加工とかして下さい……」「今のままが一番可愛い」 満足している壱の姿を見て、恥ずかしくて葵依は目を逸らした。ふと、自分も壱さんの写真を撮って待ち受けにしたい、と思ってしまう。(私も、写真を眺めていたいな……。きっと、お願いしたら撮ってくれるような気がする) しかし、それを口にするのは憚られた。(これは凄い我儘かもしれない……。写真を撮られるの嫌いな人かもしれないし) そう思った瞬間── 彼の携帯の待ち受け画面は歴代の彼女を飾っていたんだ、と思うと、どうしてかモヤっとする。 自分よりも年上で、顔立ちが整っている壱が今まで彼女がいないなんてあり得ない、と葵依は思った。 葵依は壱からクレーマーを撃退してもらった日から、壱が店へ入ってくる姿を見る度に髪の毛を手櫛で整えたり、壱を目で追って、レジ台から商品が陳列した台を眺めている横顔を覗いたり。レジへ立たれるとドキッとして「113番」という声を聞いて心臓がキュッと締め付けられたり……。 レジが『お会計セルフ』に変わる前は、お金は手渡しで指が触れ合う度にドキドキしていたし綺麗に整えられた爪を持つ指先に触れられて、頬を染めて──それらは全て無意識だった。母親と同じ
Last Updated: 2026-07-15