LOGIN翌朝、柊也は会社の重要な会議があると言い残し、何事もなかったかのように家を出た。
本当に会議なのか、それとも莉子なのか――正直どちらでもよかった。一人残された雪乃は、心因性の激しい発熱によってそのまま意識を失うように寝込んだ。 数日後、ようやく目が覚めた時には全身が嫌な汗でぐっしょり濡れていた。 切り裂かれた服の残骸はいち早く処分され、惨状は跡形もなく消え去っていた。だが、どれほど部屋が整えられようと、あの一夜の記憶と身体に刻まれた痛みが消えるわけではない。 身体中に残る熱と、柊也に触れられた感触が数日経過しても粘つくように肌にこびりついて離れない。耐えがたい不快感に苛まれ、雪乃はフラつく足取りで立ち上がった。 雪乃は時間を知りたくて携帯を探すも、どこにも見当たらず焦りを募らせた。 時間を確かめるためだけではない。あの悪夢のような夜から何日が経過しているのかも分からないのだ。 ベッドの周辺を必死に探す。枕の下、サイドテーブルの引き出し、そして床に這いつくば「両親に孫の顔を見せてやろう」 その言葉が耳の奥に落ちた瞬間、雪乃の脳は一拍遅れて意味を理解した。 理解した途端、視界の端が白く霞む。 背中に触れる柊也の掌の熱が、服越しにもかかわらず酷く熱い。雪乃の背中に嫌な汗が流れた。 柊也の胸を押している右手の古傷が、まるで「逃げられない」と告げるように疼いた。「孫の顔を見せれば、母さんはおとなしくなるだろうし、父さんも跡継ぎができたって喜ぶと思うんだ」 柊也は雪乃の首筋に顔を埋め、柔らかな唇で触れてくる。ぞっ、と全身の肌に鳥肌が立った。「年老いた両親を喜ばせよう――前回は駄目だったが、今回は分からないだろ?」(……嫌……っ) 月のものだという言い訳は、二度目は絶対に通用しない。 雪乃はホテルの時のように、必死の思いで柊也の顔を両手で掴み、まっすぐに彼の目を見つめた。『莉子さんがいるのに、いいの?』 唇をはっきりと動かす。読んでくれ、理解してくれ――と心の中で切実に願う。 しゃくだけれど、今は彼女の存在すら言い訳にして、この手から逃れようとするしかなかった。 だが、柊也はどこまでも余裕そうに薄く笑うだけだった。「莉子は関係ないだろ? いくら彼女でも、夫婦の部屋には来ないさ」 通じない。雪乃は首を振り、焦燥感に駆られながら再び口元を激しく動かす。『でもっ。彼女は、貴方に会いに別荘にまでついてきたんでしょ?』「すまない。今のは読み取れなかった」 冷淡な一言とともに、体が宙を舞った。 ベッドの上に力任せに投げ出され、雪乃はうつ伏せのまま倒れ込む。 ベッドから逃げ出そうと必死に手でシーツを掴み、這うようにして降りようとした。 だが、いつまでも思い通りに開かない右手の中指が、シーツの上で虚しく滑るだけだった。力を込めるほど、古傷の疼きが鋭さを増し、指先の感覚だけが遠ざかっていく。 けれど、次の瞬間――腰にかかる重く鈍い圧迫感に、体がぐにゃりとベッドへ沈み込む。 柊也が上から跨がって
柊也はベッドの縁に腰を下ろし、化粧台の椅子に座る雪乃へ手を伸ばした。 その動きは、まるで舞台の上で決められた振付をなぞるように滑らかだった。 そっと重ねられたその手は、さっき大広間で強く握られたものとはまるで別人のものだった。 絹のように柔らかく、触れた瞬間に溶けてしまいそうなほど優しい。 みんなの前で妻を糾弾しようとした人物とは思えないほどに。 彼の裏切りを知るまで、この優しさは本物だと思っていた。でも、今は違う。全て、偽りだということを雪乃は見抜いている。 雪乃は手を抜き、化粧台の上に置いていたメモ帳とボールペンを左手で掴んだ。掌が汗で湿っている。ページを開く指が、僅かに震えていた。『私は何のために呼ばれたんですか?』 書き終えた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。言葉にできた、それだけで、息が少し楽になった気がした。 けれど、その安堵は長くは続かなかった。 その文字を見た柊也は、困ったように眉を下げた。まるで、雪乃が理不尽なことを言っているかのような表情だった。 伝えたはずの言葉は、彼の中で都合よく塗り替えられていく――その予感に、軽くなったはずの胸が、再び重く沈んでいった。「さっきのあれを怒っているのか? あれはパフォーマンスだよ」(パフォーマンス……?) その言葉が、胸の奥で鈍く響く。 雪乃は眉間に皺を寄せ、喉が引き攣るような感覚に襲われた。「莉子は雪乃を許すって言ってくれた。でも、大人としては謝罪の場を設けるべきだろ?」 雪乃は理解できなかった。 そもそも莉子の怪我は大したものではない。 あの時、あの場で右手を負傷したのは自分の方だ。 なのに――どうして、自分が謝罪をしなければならないのだろう?「雪乃は反省している、と莉子に見せる必要があったんだ」(反省も何も、私を踏み躙ったのは貴方たちなのに?) 胸の奥がぎゅっと縮こまり、呼吸が浅くなる。 気道が狭まったように息が苦しい。「雪乃が何も謝らないと周囲の心証が悪いだろ? だから、人
黒木の低い声が、静かに空気を切った。「私の警護対象者ではない方の命令は、聞けません」 莉子の笑みが、ぴしりと音を立てて崩れた。その顔には隠そうともしない苛立ちが浮かぶ。 雪乃は、右手でそっと口元を覆った。 笑みを隠すため――けれど、胸の奥がじんわりと熱を帯びているのを自覚していた。あの莉子に、自分の声を出せないという欠点を逆手に取って、やり返すことができたのだから。 その一部始終を見ていた琴子が、すかさず声を上げる。「雪乃さん。莉子ちゃんは柊也の幼馴染みよ? そういう態度はどうなのかしら?」 嫌みの前触れのような声音。 莉子の右の口角が吊り上がるのが雪乃の目に入った。 雪乃は返す術もなく、ただ静かに視線を落としたその瞬間――「失礼します」という黒木の声が雪乃と琴子の間に割って入った。「奥様にはこれからご予定がありますので、失礼致します」(予定――?) 雪乃は目を瞬かせたまま、黒木に腕を軽く添えられ、その場から連れ出される。大広間を出て、廊下に出たところで黒木を見上げ、そっと唇を動かした。『なにか予定、あったかしら?』 黒木は雪乃から視線を逸らし、前方を見て、淡々と答える。「口からでまかせです」 雪乃は目を丸くした。 その言葉の意味が胸の奥に落ちていくにつれ、頬がじわりと熱を帯びる。(助けてくれたの?) 雪乃は黒木の前に歩み出て、口元を動かした。『ありがとう』 あの場に味方はいない、と思っていたのに。背後にいたようだった。 黒木の表情は変わらない。ただ、短く息を吐き、素っ気なく言い捨てた。「有言実行しただけです」 階段を上がりましょう、と黒木は雪乃を促し、二人は並んで広い階段を一段ずつ上る。 雪乃はそっと隣を歩く黒木を盗み見た。 その横顔はいつも通り無表情なのに――耳の後ろが、ほんのり赤く染まっているように見えた。 雪乃はそれに触れず、視線を落とし、黒木に見えないように俯いたまま、もう一度だけ小さく唇を動かした。『あ&
「そんな、お母様。ここでそんな話は……夫婦のお話なのに」 莉子は両手を頬に当て、恥ずかしそうに頬を染めた。この時の口の端も引き攣っているのが雪乃の目にはっきりと映し出されたのだが、自分以外誰も気付いていないようだった。 琴子と言えば、莉子の発言を気に留める様子はなく、不満そうに口を尖らせる。「だって、あなたたち結婚して五年でしょう? できないのはおかしいわよ」 できないも何も……雪乃と柊也が肌を重ねたのは、結婚してからたった一度だけだった。 しかも、柊也に無理やり奪われたあの一度が、実を結ぶことはなかった。「授かり物だからさ。心配しないでよ」 軽やかに笑う柊也の手が、力任せに押さえつけている雪乃の左手の上で、静かに動いた。 指先が、雪乃の指輪にそっと触れる。 その触感に、背筋を氷でなぞられたような激しい悪寒が走り、雪乃の肌にぞっと鳥肌が立った。指輪を嵌めさせ、自分を「妻」という籠に閉じ込めている男の冷酷な圧迫感が全身に伝う。 ホテルでは月ものだと嘯いて拒否をしたことで免れたが――もしも、今夜誘われたら?(同じ嘘は通用しないかも――……) あの痛みと、自分ではなくなる感覚を、また味わう羽目になるかもしれない恐怖で、雪乃は首を締め付けられたかのように、気管が狭まる感覚に襲われた。(でも、莉子さんがいるから何もないかもしれない) 皮肉にも、莉子の存在に安心している自分がいて雪乃は感情をどこに置けばいいか分からなかった。「でも、あっという間に時間が過ぎちゃうわよ。まだ動けるうちに孫を抱きたいわ」 なおも食い下がる琴子に、それまで黙って茶を飲んでいた謙也が重い溜息を吐いた。「ここでそんな話はやめないか」「だって、あなた――」「くだらん」 謙也は呆れたように一言吐き捨てると、腰を上げて大広間を出て行ってしまった。「母さん、父さんをあまりイライラさせないでくれ。宥めるのが大変なんだから」 柊也は困ったように息を吐くと、よ
現れたのは、桐生謙也――柊也の父親だった。 桐生エンタテインメントの社長職こそ引退したものの、発行済み株式の3分の2超を握る大株主であり、その威厳と生真面目な厳格さは今なお健在だった。 謙也の鋭い眼光が大広間を見渡す。一瞬で場が静まり返る中、彼の視線が雪乃の上で止まった。「……久しぶりだな、雪乃さん」 低く重厚な声でそう声をかけられ、雪乃は弾かれたように立ち上がると、深く頭を下げる。謙也は短く頷き、整然とした足取りで席へと向かった。 謙也は椅子に腰を下ろし、柊也の隣に座る莉子を一瞥し、眉を顰めて問い質す。「何故、柊也の隣に君がいる?」 その厳格な声に、莉子はハッとしたように顔を強張らせ、慌てて立ち上がった。「ご、ごめんなさい。つい幼馴染みの癖が抜けなくて……」 突然しおらしく、申し訳なさそうに頭を下げながら雪乃が座る席まで行くと、彼女に笑いかける。「すみません、奥様。お席、代わりましょう」 戸惑いながらも、雪乃は促されるまま柊也の隣へと席を移し、莉子は雪乃が元々座っていた位置に腰を下ろす。 そのやり取りを見ていた琴子が、ここぞとばかりに謙也へ話しかけた。「あなた、聞いてくださいな。実は雪乃さんが、莉子ちゃんに物を投げて怪我を負わせたそうなのよ」「お母様、私はもういいんです……」 謙也は冷ややかな一言でそれを遮った。「大した傷でもないのに、いつまで責める必要がある。……理由がなければ、物など投げん」 淡々とした、けれど一切の反論を許さない一言だった。 琴子も莉子も言葉を詰まらせる。謙也はそのまま、柊也と莉子の二人を冷酷な眼差しで見据えた。「むしろ、人目の多い場所で、表舞台に立つ人間が目立つような真似をするべきではない。いつ写真を撮られるかも分からんのだぞ」 先ほどまで雪乃を罪人として糾弾していた空気は一瞬で瓦解し、一転して柊也と莉子が謙也から厳しく叱られる構図へと変わった。琴子も夫の威圧感の前に割り込む
柊也の隣に当然のような顔で座っていた莉子が、雪乃の姿を認めると、可憐な笑みを浮かべてすっと立ち上がる。「奥様、お久しぶりです」 丁寧なお辞儀とともに放たれた声に、雪乃はその場で凍りついた。なぜ、柊也の実家の別荘に、彼の幼馴染みであるはずの莉子が当たり前のように同席しているのか。頭の中が真っ白になり、言葉はおろか指一本動かすことすらできない。 固まる雪乃の背後に、すっと影が落ちた。黒木がいつもの無表情のまま、雪乃を護るように絶妙な間合いで背後に控える。 その巨大な存在感に目をとめたのは、テーブルの上座に腰掛けていた琴子だった。鋭い眼光で黒木を見上げ、露骨に眉を顰めた。「……うしろの方は?」「雪乃につけている警護なんだ。君も来たのか」 柊也が応接用のグラスを手にしたまま、気のない声で短く応じた。視線を黒木へ向けると、黒木は深く一礼し、低い声で応える。「はい」「警護なんているの?」 琴子は呆れたように溜め息を吐き、蔑むような視線を雪乃へと向けた。「物騒だからね」 柊也のそっけない返答を聞き流しながら、琴子は雪乃の全身を頭から足先までじっと検分するように見つめた。着慣れたロングカーディガンにタンクトップ、黒のスウェットパンツという、お世辞にも格式高い別荘にそぐわない雪乃の姿に、琴子の眉間の皺が一層深くなる。「夫の両親に会うっていうのに、その格好はなに? 礼儀がなってないわ」 刺すような義母の言葉が大広間に響き渡る。 雪乃は身を縮こまらせ、恥ずかしさと情けなさで頭を下げるしかなかった。理由を説明したくても言葉を発せないため、言い訳ひとつ許されない。着替えがないからこの格好で来ざるを得なかったのだと訴えたかったが、田迎を通して服を用意してあると言わせた柊也は、口を開こうともしない。 自分が原因であるにもかかわらず、妻を庇う素振りすら見せない夫。柊也はただグラスの氷を揺らすだけだった。「服は二階に用意してあるよ」 助け舟でも何でもない、穏やかな柊也の声が静まり返った広間に虚しく響いた。 雪乃は