まさか、松沢楠子は何もしていなかったなんて。あんなクズを身の周りに残すなんて、とんだ失策だった!彼女が失敗した以上、加藤藍子に急いでもらうしかない。狛村静恵はベッドの裏に張り付けていた携帯を取った。藍子の番号を見つけ、電話をかけた。暫くすると、藍子は電話に出た。静恵は彼女の声を待たずに口を開いた。「ものは既に手に入ったはずよね?まだどう動くか思いつかないの?」「狛村さん、あんた思ったより随分とせっかちだね。ものは手に入れたけど、計画は一歩ずつ立てる必要があるじゃない?」「早く入江紀美子と杉浦佳世子の苦しむ顔が見たいのよ!」静恵は声を低くして叫んだ。目を大きく開き、髪の毛がばさばさと乱れている彼女は、まるで地獄から這い上がってきた悪魔のようだった。「落ち着いて、狛村さん」藍子は軽く笑って言った。「いいお芝居には段どりが必要だもの」静恵は歯を食いしばった。「そこまで言うなら、待ってあげる。もししくじったら、その時は、あんたも道ずれにしてあげるわ。覚悟しといて」藍子は眼底の笑みをしまい、嫌悪に溢れた表情で携帯をテーブルに置いた。静恵のやつは狂っている!「狛村さん、そんなキツいことを言われても仕方ないわ。ちょっと用事ができたから、切るわ」そう言って、藍子は電話を切った。彼女はテーブルに置いていたコービーカップを手に取り、窓越しに外を眺めながら、優雅に一口飲んだ。実は、彼女は静恵に言われなくても急いで計画を実施するつもりだった。田中晴の両親が、徐々にあのビッチを受け入れ始めている。そのため、急ぐ必要があった。これ以上対策を練らないと、自分と晴はもう終わってしまうかもしれない。晴は……必ず自分のモノにする!藍子の眼底には冷たさが浮かび、佳世子の携帯にメッセージを送った。「こんにちは、加藤藍子です。明日は空いてるかな?会って話したいことがあるわ」晴と一緒に家に戻る途中の佳世子がメッセージを受信した。メッセージを読み、彼女は眉を寄せた。「晴!あんた、最近も藍子と連絡を取ったりしてるの?」「藍子?何で?」晴は佳世子を見て戸惑った。「してねえよ!俺、ずっと君と一緒にいるじゃないか!」佳世子は目を細くして彼を疑った。「本当に連絡取ってない?」
「あまり良い予感がしないわ」入江紀美子は不安そうに言った。「でしょ?」杉浦佳世子も疑っていた。「何だか、彼女と晴の間には、絶対何かあった気がするの!」「……そんなことはないと思うわ。だって晴が一緒に行くと言っているんでしょう?彼は肝が据わっているわ」「いや、違う!彼はきっと、私に何かを悟られるのを恐れていて、ついて行くと決めたはずよ!例えば、話がヤバくなったら、目で藍子に合図をして止めるとか」佳世子は意味深く分析した。「それだったら、彼が藍子に電話をすればいいじゃない?ところで、晴は今傍にいるの?」紀美子が尋ねた。「いるよ」佳世子は台所の方を眺めた。「彼は今夜食を作ってくれてるの」「へえ、かの遊び好きの貴公子様が、自らご飯を作るほど完全にあなたにハマってるのね」そう言われた佳世子は、幸せの笑みを浮かべた。「でしょ?彼はこう見えて、結構いい所あるのよ!」「はいはい。もう遅いし、私は子供達を寝かせなきゃ。そろそろ切るね」紀美子は時計を眺めながら言った。「分かった、明日戻って来たら連絡する!」「は~い」電話を切った後、紀美子は1階に降りて子供達を寝かせようとした。階段を降りると、松風舞桜が戸惑った顔で入ってきた。「どうしたの?」紀美子は尋ねた。「紀美子さん、隣の別荘って、売り出されたの?」「よく分からないわ」紀美子は答えた。「私は普段忙しくて、全て秘書に任せているの。家を見にきた人がいたの?」「はい、でも夜に見に来る人は初めて見たわ」紀美子は窓越しに外を眺め、携帯で竹内佳奈に電話をかけた。「もしもし、佳奈?最近誰か別荘を見にきたいって言ってきた人いる?」「はい、連絡がありました」佳奈は答えた。「今日不動産屋に、連れていってもらいたいと連絡がありましたが、今来たのですか?」「そう。相手はどんな人とか、知ってる?」「何かのビジネスをやっている夫婦だそうです」佳奈は答えた。「そう、分かったわ。ありがとう」「いいえ、それじゃ」電話を切り、紀美子は桜舞に、そちらの方をよく注意してと指示した。今までの経験上、夜部屋を見にくる人はどうも怪しかった。もし相手が怪しい人だったら、彼らに売るつもりはない。3人の子供達がここに住
杉浦佳世子は加藤藍子の話が気になった。「どうして晴が優しい男だと分かったの?」彼女は藍子の目を見て尋ねた。藍子は手を引き、自分にお茶を注いだ。「晴兄ちゃんと私は幼い頃から一緒に育ってきたじゃない。彼にはお世話になってきたし。こんな些細なこと、佳世子さんは気にしなくていいと思うわ」さすがトップクラスの清楚系ビッチだ!佳世子は心の中で罵った。田中晴が優しい男だとか、そんな些細なことを気にするなとか!いい加減あの口を無理やり塞いでやりたかった。何もったいぶってんのよ!「ねえ、晴。藍子さんって、本当に賢くて優しい方だね」佳世子は軽くあざ笑いをして、笑顔で晴を見た。佳世子に言われた晴は、思わずぞっとした。「ちょっ、デブ……藍子、何言ってんだよ」彼は佳世子が怒っているのを感じ、慌てて藍子を止めようとした。「あれって、もう随分昔の話だろ?」こんな状況では、「デブ子」のあだ名すらも口にすることができない。「ごめんなさい、つい……やはり晴兄ちゃんの言う通りだわ」は藍子が意味深な笑みを浮かべながら謝った。そして、彼女は用意しておいた二つのギフトバッグを出して、机の上に置いた。「これ、つまらないものだけど、間もなく生まれる赤ちゃん、そしてお二人への結婚祝いだよ」藍子は微笑んで言った。「無駄な金を使わなくていいのに。俺達は自分で買えるから」晴は戸惑いながらも受け取った。「晴、これは藍子さんの気持ちだから、受け取らないと失礼だわ。藍子さんは祝福の贈り物を渡したくて誘ってきたんだから、断られたら可哀想だし」佳世子は眼底に笑みを浮かべながら、晴を注意した。あんたが受け取らなかったら、絶対何かある!晴は佳世子に逆らえず、仕方なく藍子のものを受け取った。そして彼はそれを佳世子に渡した。「見てみる?」佳世子は藍子を見て、「今開けていいの?」と尋ねた。「はい、どうぞ」藍子は頷き、落ち着いた声で返事した。佳世子は贈り物を一つずつ開けた。赤ちゃんへの贈り物は金で作った首輪で、ボディには「平安健康」の文字と刻印されていた。佳世子と晴への贈り物は、唐物茶碗のセットだった。茶碗の高台が金色の釉薬が施されており、胴には墨絵がある。そのうちの一つが、寄り添う2羽の鳥、
MK社にて。杉本肇は一人の中年男性を連れて森川晋太郎の事務所に入ってきた。「晋様、冴島さんが昨晩、藤河別荘の家を見に来てくれました。写真も撮ってきてくれましたが、どこか直す必要があるところはありますか?」肇がそう言うと、冴島拓郎はカバンから何枚かの写真を取り出して晋太郎の前に置いた。「森川社長、どこの設計を直しましょうか?」晋太郎は写真を受け取り、確認した。「2階に子供の部屋を3つ作って、うち二つは色をグレーにして。あまり大きくなくていい。真ん中の寝室は、両側の子供の部屋の面積を使ってもいいが、できるだけ広くして。その寝室の天井を星空の絵にして、部屋の中に豪華な着替え室を設けること。そして、3階の壁を全部取り、プレイルームにする」そう言ってから晋太郎は肇に指示した。「最高級のスペックのパソコンを2台用意して、二つの小さめの寝室に置いてくれ」「……」晋様は思い切りゆみさんを贔屓しているな!ゆみさんには一番大きな寝室と、丸ごと一フロアのプレイルームも用意するのに、他の二人のぼっちゃまにはパソコン室をケチるのか?「あの……晋様、こうすると二人のぼっちゃまのお部屋が残り100平米しかないのですが……」「その二人には寝るところさえあればいい。もっと広い部屋が欲しければ、自分で稼いで買うのだ」「森川社長、その家ですが、今日中に買われるのでしょうか?」デザイナーの冴島が尋ねた。「いつまでモタモタするつもりだ?」晋太郎は軽く眉を寄せて彼を問い詰めた。「2週間以内に完成してくれ」「かしこまりました、森川社長。今日中に買取の手続きを済ませておきます!」「肇、小切手を」晋太郎が頷いて肇に命令した。デザイナーが帰った後。「晋様、これはぼっちゃま達とゆみさんを自立させるためなのでしょうか」肇はもう一度晋太郎に確かめた。「時には、子供がお荷物でしかなくなることもある」晋太郎は肇を見て淡々と述べた。「えっ?」「お前はまだ独身だから分からないんだ。」「はい?」なんだか、すごく馬鹿にされた気がする!午後。竹内佳奈が入江紀美子の事務所に入ってきた。「社長、隣の別荘ですが、買取手が出ました。手続きは午後に進めるのですが、お時間はありますか?」紀美子は
入江紀美子はてっきり露間朔也が帰ってきたと思ったが、来たのはまさかの塚原悟だった。悟は果物を持ったままディナールームの方を眺めた。紀美子を見て、彼は手に持っている袋を振ってみせた。「果物しかもってきていないけど、タダ飯を食べていいかな?」紀美子はいきなり訪ねてくる悟を見て驚いた。「来るなら言ってくれればいいのに」「君と子供達がきっと家にいると思って、ちょっと寄り道をしてきたのさ」悟はスリッパを履き替えながら説明した。紀美子は頷き、悟と一緒にディナールームに入った。子供達は一斉に悟を見つめた。「念江くん、随分と顔色がよくなってきたな。ちゃんと薬を飲んでるか?」悟は森川念江に言った。「悟おじさん、こんにちは」入江ゆみは悟が持ってきたチェリーを見ると、嬉しくてはしゃいだ。「悟お父さん、やっぱりゆみの大好物がわかってるね!」悟は微笑んでゆみの頭を撫でた。「後でご飯を食べたら、悟お父さんと一緒にリビングで食べよう、ね?」「うん!悟お父さん、こちらへ!」ゆみは頷いて、紀美子の隣の席を指さした。「やっぱり、悟お父さんはゆみのことしか心にないんだ?」悟が座ってから、入江佑樹が冗談を飛ばしてきた。「ごめん。みんなで一緒に果物を食べるつもりだったんだ」悟は少し驚いて、慌てて説明した。松風桜舞が悟に茶碗とお箸を渡した。「佑樹くんは最近ますますませてきたわね。気にしないで、悟さん」紀美子が言った。悟はリビングを見渡して、「朔也はまだ帰ってきていないのか?」と尋ねた。「最近工場の方が忙しくて、いつも食堂で食べてるのよ。彼が帰ってくると大体食事の時間は過ぎているから」紀美子は説明した。悟はただ頷いて、何も言わなかった。食事の後、子供達は悟が買ってきたチェリーを持ってはしゃぎながらリビングに走って行った。紀美子と悟は隣で子供達を見守った。「今日、単にご飯だけを食べにきたわけじゃないよね?何かあったの?」紀美子が尋ねた。「いいえ」悟は素直に答えた。「暫く来ていなかったし、主任になって少し時間的に余裕ができたから、寄り道をしただけさ」「病院はこの藤河別荘に近いし、もし食堂の飯が飽きたらいつでも桜舞の手料理を食べに来て」「それじゃお言葉に甘えて」悟
塚原悟はチェリーを一個取り、入江紀美子に渡した。「この話はあまりにも現実的すぎだ。そうだろう?」紀美子はじっと悟を見つめた。通常であれば、彼女と森川晋太郎がこれからやろうとしていることを、悟が分かるわけがなかった。なぜ悟はいきなりそんなことを聞いてきたのだろう。「そうよ」紀美子は彼の話に合わせることにした。「だから」悟は続けて聞いた。「もし彼の父親がいなくなったら、君は彼と元通りになるのか?」「わからないわ。それまでに自分と晋太郎との間に何かが起こるかもしれないし、今ははっきりとした答えを出せないの」「分かった、もうこんな煩わしいことを話すのは辞めよう」そう言って、悟は立ち上がった。「もう遅いから、そろそろ帰るよ、明日朝早いし」「まだ19時半だけど?」紀美子は時計を眺めた。「君は、俺に帰ってほしくないのか?」悟はコートを着ながら冗談を言った。「い、いいえ、私はそんな意味じゃ……」紀美子は恥ずかしくて顔を赤く染めた。「大丈夫だ」悟は腰を下ろして紀美子の耳元で囁いた。「本気で受け止めてなんかいないさ」その挙動は、紀美子の顔を更に赤く染まらせた。彼女は急に立ち上がり、悟の後ろに回った。「送ってあげる!」二人は玄関まで行って、悟は隣の別荘を眺めた。「さっき来たときに気づいたんだけど、隣の別荘はもう売りに出したのか?」「うん、今日の午後手続きを終わらせたけど、なんだか買主が随分と急いでるみたい」悟は暫く隣の別荘を眺めていた。うす暗い街灯の光が、彼の瞳に映りこんで揺れていた。紀美子が気になって聞こうとすると、悟は視線を戻して車の鍵を出した。「もう帰るね、外は冷えてるから、君は部屋に戻って」紀美子は玄関で悟に手を振り見送った。夜。夜9時半頃。森川晋太郎は田中晴、そして鈴木隆一と一緒に外で酒を飲んでいた。「佳世子はもうお前を手放したのか?なんだか随分と自由だけど。晋太郎が憂鬱な目で晴を見て聞いた。「俺が遊びに出てきたとでも思ってんのか?俺はあいつに、あんたと紀美子の幸福のための対策検討会に出ると言って来たんたぞ!」晋太郎はテーブルに並んでいる酒のボトルを眺め、あざ笑いをした。「酒の場で俺の幸せを検討する?」「いや、俺
紀美子は反射的に電話を取った。「もしもし?」「紀美子!」晴からの声は焦りに満ちていた。「今、時間ある?すぐ晋太郎を迎えに来てくれ!今から位置情報を送る。とにかく早く来てくれ!大変なことになったんだ!!」それを聞いて、紀美子の胸は不安で締め付けられた。彼女が何かを聞く間もなく、晴は電話を切ってしまった。晴が言った、「大変なことになった」という言葉を思い出すと、紀美子は不安で鼓動が早くなった。そして布団を投げ、慌てて服を着た。丁度その時、晴から位置情報が送られてきた。彼女は携帯を開き、地図上に表示された「サキュバスクラブ」という名前を目にすると、冷静さを取り戻した。今は隆一も戻っているし、晴もいる。おそらく彼ら二人に連れ出されて飲みに行ったのだろう。これまで彼らに呼び出されて晋太郎を迎えに行ったことは何度もあった。「大変」などと言われても……紀美子が少し腹を立てながら携帯を手に取り、拒絶のメッセージを送ろうとしたその時、晴から一枚の写真が送られてきた。写真には、頬を赤らめて目を閉じ、ソファにもたれかかる晋太郎の姿が映っていた。普段、彼が友達にここまで振り回されることはない。この写真を見た彼女は、彼がどれほど酒を飲まされたのかを悟った。彼女はため息をつき、メッセージを送った。「分かったわ。今すぐ行く」そしてコートを羽織り、車のキーを手に取った。今回はボディーガードを呼ぶことなく、彼女は自分で車を運転してバーへ向かった。到着すると、紀美子は直接個室に向かった。ドアを開けると、そこには晋太郎一人しかおらず、晴と隆一はどこかに行ってしまっていた。紀美子はまるでからかわれているような気がして、少し腹が立った。彼女は息を呑み、晋太郎の前に歩み寄った。彼の腕を肩に乗せようと身をかがめた瞬間、晋太郎が突然目を開けた。紀美子だと認識すると、晋太郎は彼女を一気に引き寄せ、抱きしめながら後頭部に手を回し、熱いキスをした。酒の匂いと共に感じた熱い息遣いに、紀美子は反射的に押しのけようとした。「晋太郎……んっ……噛まないでよ……痛い……」晋太郎は片手を放し、紀美子の手首をしっかりと掴んだ。彼は紀美子の唇を離したが、暗い個室の中でも紀美子は晋太郎の瞳に映る欲望を感じ取った
「そう言われると、確かにその通りだな……」隆一は言った。「だからさ」晴は続けた。「俺たちはあいつらにチャンスを作り続けなきゃならないんだよ!」隆一はため息をつきしゃがみ込んだ。「でもさ、晋太郎が目を覚ましたら、俺たち終わりだよ」それを聞いて晴はすっかり気が抜けたように彼の隣にしゃがみ込んだ。「確かにな……明日は世界の終わりだな」隆一は呆れた表情で彼を見た。「お前、本当にビビりだな!」「お前だって同じだろ!」晴は声を張り上げた。「さっきからずっとビクビクしてんじゃねぇか!」「おいおい。そもそもお前がヘタな提案して俺を巻き込んだんだろ!」隆一は憤慨して彼を睨んだ。「ふざけんな!この話、即同意したのはお前だろ!」晴は言い返した。「隆一、殴られたいのか?」隆一はすぐさま距離を取った。「警告しとくけどな、口だけにしろよ!手なんか出すんじゃねぇぞ!」「警告だと?ふざけんな!今夜お前をぶちのめさなきゃ、俺は田中を名乗れねぇ!」深夜3時。紀美子は全身を脱力させ、晋太郎の胸にもたれかかっていた。目を開けることさえできず、疲れ切っていた。晋太郎は彼女の額にそっと口づけをしながら、申し訳なさそうな表情を浮かべた。「すまない、あいつら、俺に薬を盛りやがったんだ」「もし、今日来たのが私じゃなかったら、あなたはその人に同じことをしたの?」紀美子は疲れた声で答えた。「いや、それはない」晋太郎はきっぱりと言った。「俺が欲しいのは君だけだ。君じゃない人間を、あいつらがこの部屋に入れることはあり得ない」紀美子はゆっくりと目を開け、晋太郎の落ち着いた黒い瞳をじっと見つめた。「つまり、あの二人は実は出ていってなかったってこと?」「ああ」晋太郎はうなずいた。「あいつらの性格からして、君が部屋に入ったのを確認するまでは絶対に帰らなかったはずだ」紀美子は何も言わなかった。疲れ切った体をなんとか起こし、立ち上がろうとした。「もう帰らないと」晋太郎は長い指でゆっくりとシャツのボタンを留めながら、彼女が服を整えるのをじっと見て、低い声で問いかけた。「紀美子、君はいつになったら俺を受け入れてくれるんだ?」紀美子の身体は一瞬強張った。この質問は昼間、悟
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く
「それは――龍介さんが自分で瑠美とちゃんと話すしかないんじゃない?」紀美子は微笑みながら言った。「紀美子、今夜は瑠美を呼んでくれてありがとう」龍介はグラスを持ち上げた。紀美子もグラスを上げて応じた。「龍介さんにはお世話になりっぱなしなんだから、こんな簡単なことでお礼言われると困るわ」夜、紀美子と晋太郎は子供たちを連れて家に戻った。紀美子が入浴を終えたちょうどその時、ゆみから電話がかかってきた。通話を繋ぐと、ゆみはふさぎ込んだ声で聞いてきた。「ママ、明日お兄ちゃんたち行っちゃうんでしょ?」紀美子はぎょっとした。「ゆみ、それは兄ちゃんたちから聞いたの?」「うん」ゆみが答えた。「ママ、お兄ちゃんたち何時に行くの?」浴室から聞こえる水音に耳を傾けながら、紀美子は言った。「ママも正確な時間わからないの。パパがお風呂から出たら聞いてみるから、ちょっと待っていてくれる?」「わかった」ゆみは言った。「ママ、それまで他の話しよっか」紀美子はゆみと雑談をしながら、十分ほど時間を過ごした。すると、晋太郎がバスローブ姿で現れた。ゆみの元気な声が携帯から聞こえてきたため、晋太郎は髪を拭きながらベッドの側に座った。「もう11時なのに、まだ起きてるのか?」紀美子が体を起こした。「佑樹たち明日何時に出発するのか知ってる?」晋太郎は紀美子の携帯を見て尋ねた。「ゆみはもう知ってるのか?」「知ってるよ!」ゆみは即答した。「パパ、私お兄ちゃんたちを見送りに行きたい」「泣くだろう」晋太郎は困ったように言った。「だから来ない方がいい」「嫌だ!絶対に行くの。だって次に会えるのいつかわからないんだもん」ゆみは強く主張した。その声は次第に震え始め、今にも泣き出しそうな顔になった。晋太郎は胸が締め付けられる思いがした。「分かったよ……専用機を手配して迎えに行かせる」そう言うと彼はベッドサイドの携帯を取り上げ、美月に直ちにヘリコプターを手配するよう指示した。翌日。紀美子は早起きして、子どもたちのために豪華な朝食を用意した。子供たちは、階下に降りてきてテーブルいっぱいに並んだ見慣れた料理を目にすると、驚いたように紀美子を見つめた。「これ全部、ママが一人
龍介は瑠美に笑いかけて言った。「瑠美、この前は助けてくれてありがとう」彼がアシスタントに目配せすると、用意してあった贈り物が瑠美の前に差し出された。「ささやかものだけど、受け取ってほしい」瑠美は遠慮なく受け取り、龍介に聞いた。「開けていい?」「どうぞ」瑠美は上にかけられていたリボンを解き、丁寧に箱のふたを開けた。中身を目にした瞬間、彼女は驚いて目を見開いた。「えっ!?これどうやって手に入れたの?!瑠璃仙人の作品でしょ!?」「前に君が玉のペンダントしてたから、好きなんだろうと思って」「めっちゃ好き!!」瑠美は興奮して紀美子に言った。「姉さん!これ梵語大師の作品よ!前に兄さんに探させたけど全然ダメだったのに!」紀美子は玉のことには詳しくないため、梵語大師が誰なのかもわからなかった。彼女はただ穏やかに微笑んで言った。「気に入ってくれて良かったわ」一方、晋太郎の視線は龍介に留まった。龍介の目には、かすかな熱意のようなものがある。紀美子を見る時には決して見せたことのない眼差しだ。もしかして、龍介は瑠美に気があるのか?晋太郎は探るように口を開いた。「吉田社長の狙いがこんなに早く変わるとはな」龍介は瑠美の笑顔から視線を外し、晋太郎の目を見つめて言った。「森川社長、それはどういう意味だ?」晋太郎は唇を歪めて冷笑した。「吉田社長、新しい対象ができたのに、なぜまだ紀美子に執着してるんだ?」それを聞いて、瑠美は驚いて顔を上げ、龍介と紀美子を交互に見た。紀美子は瑠美の視線を感じ取って、説明した。「私と吉田社長は何もないから、誤解しないで」「誤解なんてしてないよ」瑠美は言った。「でも晋太郎兄さんが言ってた『吉田社長の狙い』って、私のこと?」紀美子も、晋太郎のその言葉の真意はつかめていなかった。龍介のような、感情を表に出さず落ち着いていて慎重なタイプが、活発で明るい瑠美に興味を持つのだろうか。もしかすると、あの時瑠美が龍介を助けたことがきっかけなのか?二人の年齢差は10歳ほどあるはずだ。でも、性格が正反対なほど惹かれ合うって話もある。もし瑠美が龍介と結婚したら、みんな安心できるだろう。「もしよければ、瑠美さん、連絡先を教えてくれないか?」
そう言うと、晋太郎はさりげなく紀美子から車の鍵を受け取った。佑樹が傍らで晋太郎をじっと見て言った。「パパ、違うよ。ママが誰かとお見合いするわけじゃん」晋太郎は生意気な佑樹を見下ろしながら聞き返した。「じゃあ、何だって言うんだ?」佑樹は笑いながら紀美子を見て言った。「ママみたいな美人、お見合いなんて必要ないじゃん。ママに告白したい人を並ばせたら、地球を一周できるよ」念江も付け加えた。「前におばさんから聞いたけど、ママの会社の重役や課長さんたちもママに気があるらしい」晋太郎の端整な顔に薄ら笑いが浮かんだが、その目には陰りがあった。「ろくでもない奴らだ。君たちのママはそんなやつらに興味ない」重役と課長か……晋太郎は鼻で笑った。計画を早める必要がありそうだな。「そろそろ時間よ。遅れちゃうわ。三人とも、もう出発できる?」紀美子は腕時計を見て言った。一時間後。紀美子と晋太郎は二人の子供を連れてレストランに到着した。龍介が予約した個室に入ると、彼はすでに待っていた。紀美子を見て龍介は笑顔で立ち上がった。「紀美子、来たね」紀美子が前に出て謝った。「龍介さん、ごめん。渋滞でちょっと遅れちゃった」「気にしないで」龍介は晋太郎を見上げて言った。「森川社長、久しぶりだな」晋太郎は鼻で嗤い、皮肉をこめて言った。「永遠に会わなくてもいいんじゃないか」龍介はその言葉を無視し、子供たちにも挨拶してから席に着いた。紀美子が子供たちに飲み物を注いだ後、龍介に尋ねた。「今日は何の用?」「じゃあ単刀直入に言うよ」龍介の表情が急に真剣になった。「紀美子、瑠美は君の従妹だよね?一度彼女に会わせてくれないか?」紀美子は驚き、晋太郎と視線を合わせてから龍介を見た。「この前の件で瑠美に会いたいの?」龍介は頷き、率直に答えた。「ああ、命の恩人に対して、裏でこっそり調べたり連絡するのは失礼だと思ってね」「紹介はできるけど、彼女が会ってくれるかどうかはわからないよ」「頼むよ。あれからずっと、ちゃんとお礼も言えてなかったから」紀美子は頷き、携帯を取り出して瑠美の番号を探し出した。「今連絡してみる」電話がつながると、瑠美の声が聞こえた。「姉さん?どうした?
どっちみち焦っているのは晋太郎の方で、こっちじゃないんだから。これまで長い年月を待ってきたのだから、もう少し待っても構わない。2階の書斎。晋太郎はむしゃくしゃしながらデスクに座っていた。紀美子が龍介と電話で話していた時の口調を思い出すだけで、イライラが募った。たかが龍介ごときに、あんなに優しく対応するなんて。あの違いはなんだ?ちょうどその時、晴から電話がかかってきた。晋太郎は一瞥してすぐに通話ボタンを押した。「大事じゃないならさっさと切れ!」晋太郎はネクタイを緩めながら言った。電話の向こうで晴は一瞬たじろいだ。「晋太郎、家に着いたか?なぜそんなに機嫌が悪いんだ?」晋太郎の胸中は怒りでいっぱいになっており、必然と声も荒くなっていた。「用があるなら早く言え!」「はいはい」晴は慌てて本題に入った。「さっき隆一から電話があってな。出国前にみんなで集まろうってさ。あいつまた海外に行くらしい」「無理だ!」晋太郎は即答した。「夜は予定があるんだ」「午後、少しカフェで会うだけなのに、それも無理か?」午後なら……夜の紀美子と龍介の待ち合わせに間に合う。ついでに、あの件についても聞けるかもしれない「場所を送れ」30分後。晋太郎は晴と隆一と共にカフェで顔を合わせた。隆一は憂鬱そうにコーヒーを前にため息をついた。「お前らはいいよな……好きな人と結婚できて」晴はからかうように言った。「どうした?また父親に、海外に行って外国人とお見合いしろとでも言われたのか?」「今回は外国人じゃない」隆一は言った。「相手は海外にいる軍司令官の娘で、聞くところによると性格が最悪らしい」晴は笑いをこらえながら言った。「それはいいじゃないか。お前みたいな遊び人にはぴったりだろ?」「は?誰が遊び人だって?」隆一はムッとして睨みつけた。「お前みたいなふしだらな男、他に見たことないぞ!」「俺がふしだらだと?!」晴は激しく反論した。「俺、今はめちゃくちゃ真面目だぞ!」隆一は嘲るように声を上げて笑った。「お前が真面目?笑わせんなよ。佳世子がいなかったら、まだ女の間でフラフラしてたに決まってるだろ!」「お前だってそうだったじゃないか!よく俺のことを言える
晋太郎は思わず唾を飲み込んだ。言葉に詰まる彼を見て、紀美子は笑いながら頬の髪を耳にかけた。「晋太郎、隠してもね、ふとした瞬間に本心は漏れるものよ。言いたくないなら無理強いはしない。いつかきちんと考えがまとまったら、また話しましょう」そう言うと、紀美子は先を行く子供たちの手を取って笑いながら歩き出した。紀美子の後姿を見ながら、晋太郎は考え込んだ。……翌日。一行は荷物をまとめ、帝都に戻った。別荘に着くとすぐ、紀美子は龍介から電話を受けた。彼女はスピーカーをオンにし、子供たちのためにフルーツを準備しながら応答した。「龍介さん」そう言うと、電話の向こうから龍介の心配そうな声が聞こえてきた。「紀美子、大丈夫か?」ちょうどキッチンに入ってきた晋太郎は、はっきりとその言葉を聞いた。彼は眉をひそめ、テーブルに置かれた紀美子の携帯を不機嫌そうに睨みつけた。「相変わらず情報通だね。大丈夫だよ、心配しないで」「いや、情報通ってわけじゃない」龍介は言った。「今、トレンド一位が悟の件だ。まさか自殺するとは」紀美子はリンゴの皮をむく手を止めた。「もうその話はいいよ。過去のことだし」「悪い。今晩、空いてる?食事でもどうだ?」「無理だ!」突然、晋太郎の声が紀美子の背後から響いた。びっくりして振り向くと、彼はすでに携帯を奪い取っていた。龍介は笑いながら言った。「森川社長、盗み聞きするなんて、よくないね」「陰で俺の女を誘う方がよほど下品だろ」「森川社長、俺と紀美子はビジネスパートナーだ。食事に誘うのに許可が必要か?」晋太郎は冷笑した。「お前みたいなパートナー、認められない」「森川社長と紀美子はまだ何もないはずだ。『俺の女』って言い方、どうかしてるぞ」「……」紀美子は言葉を失った。この二人のやり取り、いつまで続くんだろう……「龍介さん、何か急ぎの用?」紀美子は携帯を取り返し、呆れた様子で晋太郎を一瞥した。「相談したいことがある。家族連れでも構わない」「わかった。後で場所と時間を教えて」「ああ」電話を切ると、紀美子は晋太郎を無視してリンゴの皮むきを続けた。晋太郎は腕を組んでキッチンカウンターに寄りかかり、不機嫌そうに聞いた。「俺とあいつが同
「お前の両親は納得したのか?」晋太郎がさらに尋ねた。「俺はあいつらと縁を切ったのさ。だから何を言われようと、俺は気にしない」晴は肩をすくめた。「子供たちを海外に送りだしたら、準備する」晋太郎は視線を紀美子と子供たちに向けた。「そう言えば、佑樹たちはいつ出発するんだ?」晴はハッと気づいた。「明日、まず彼らを帝都に連れ帰る。明後日には隆久と一緒に出発する予定だ」晋太郎は日数を計算した。「ゆみには言わないのか?兄たちを見送らせてやらなくていいのか?」晴は軽くため息をついた。「必要ない」晋太郎は即答した。「ゆみを泣かせたくない」「お前のゆみへの態度、日に日に親バカ度が上がってるように感じるよ。昨日佳世子と話してたんだ。『もう一人産んで、その子を譲ってくれ』って」晴は眉を上げた。「寝言は寝てから言え」晋太郎は足を止め、不機嫌そうに彼を見た。「お前と紀美子はまだ産めるだろうが、俺は無理なんだよ!」晴は言った。「今の医療技術なら、子供への感染を防ぐ方法も試せる」晋太郎は彼をじっと見た。「『試せる』って言ったろ」晴は落ち込んだ。「もし運が悪くて子供に感染したらどうする?」「たとえお前が俺の子供を自分の子のように育てられても、お前たちには大きな悔いが残るだろう」晋太郎は言った。「もういい。佳世子に毎日苦しみと自責の念を味わわせたくない。病気だけでも十分辛いんだ」晴はため息をついた。「俺は子供をやるつもりもない」そう言うと、晋太郎は紀美子たちの後を追った。「晋太郎!酷いこと言うなよ!金は弾むよ。少しは人情を持てよ!」晴は目を見開いた。晴の見えないところで、晋太郎の唇がかすかに緩んだ。夕食後。紀美子と晋太郎は、二人の子供を連れて外を散歩した。「会社の合併について考えたことはあるか?」しばらく歩くと、晋太郎は傍らの紀美子に尋ねた。「合併ってどういう意味?」紀美子は彼を見上げた。「文字通りの意味だ」晋太郎は、もし紀美子がまた妊娠したら、彼女に産休を取らせるつもりだった。「あんたの力に頼って会社を発展させる気はないわ。全てが無意味になる」「MKを見くびっているのか?」晋太郎は足を止めて彼女を見た。「MKの実力を馬
遠くのスナイパーも急いでライフルの安全装置を外したが、悟は自分のこめかみに銃を向けた。晋太郎は呆然とした。言葉を発する間もなく、悟は笑みを浮かべながら引き金を引いた…………紀美子が目を覚ました時、自分が元の部屋にいないことに気づいた。佳世子が傍らに座り、二人の子供たちと話していた。彼女がゆっくりと体を起こすと、その音に三人が一斉に振り向いた。「紀美子!」佳世子が駆け寄った。「目が覚めたんだね!」「どうやって戻ってきたの?」紀美子は尋ねた。「晋太郎が連れ帰ってくれたの。もう全部終わったわ」佳世子は明るく笑った。「終わったって……?」紀美子は理解できずに聞いた。「悟は?自首したの?」「彼、自殺したの」佳世子の瞳が少し潤んだ。自殺……紀美子は凍りついた。「晋太郎と二言三言交わした後、自分のこめかみに銃を向けて、みんなの目の前で死んだらしいわ。あの時彼があんたを再び部屋に連れ戻した理由が分かる気がする。自分の死に様を見せたくなかったんでしょうね」佳世子は続けて言った。紀美子は、ホテルのロビーで大河が撃たれた後、悟が彼女の目を覆ったことを思い出した。悟の結末を聞いて、紀美子は複雑な心境になった。悲しい?悟は数々の非道なことをしたのに、なぜ悲しいのか分からなかった。少しも嬉しい気持ちになれない。目が次第に赤くなっていく紀美子を見て、佳世子は心の中でそっとため息をついた。二人は、長年共に過ごした仲間だ。たとえ悟がどれほど冷血なことをしたとしても、紀美子は彼が優しくしてくれた日々を思い出さずにはいられないだろう。だって、あの優しさは本物だったから。「晋太郎は?」紀美子は長い沈黙の後、ようやく息をついて話題を変えた。「隣の部屋で会議中よ。会社の用事で、晴も一緒だわ」佳世子は答えた。紀美子は頷き、視線を子供たちに向けた。「この二日間、怖い思いをさせちゃったね」彼女は両手を広げ、微笑みながら言った。二人の子供は母の懐に飛び込んだ。「お母さん、怪我はない?」念江が心配そうに尋ねた。「うん、とくに何もされなかったわ」紀美子は首を振って答えた。「あの悪魔はもういないし、僕と念江も安心して出発できる」「うん、外でしっか
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言