「紀美子!」後ろから男性のかすれた声が聞こえてきた。入江紀美子が振り返ると、森川晋太郎と田中晴が慌てて走ってくるのが見えた。「何であなた達がここにいるの?」晋太郎は焦っているようだった。「子供達はどうなってる?」紀美子はこれまでの経緯を忠実に教えた。「まさか狛村静恵がこれほどまで極悪な手を使ってくるとは」「佳世子は?」晴は周りを見渡したが、杉浦佳世子の姿が見当たらなかったため尋ねた。「彼女は子供達と一緒に検査室の所で待ってるわ」「分かった、ちょっと見てくる。後で一緒に飯でも食おう!」晴はそう言って病院に入っていった。晋太郎は、紀美子の腫れた目を見て胸が痛んだ。「こんなことが起きているのになぜ教えてくれなかったんだ?1人で全て受け止めようと思ってたのか?」「あの時は子供達のことで頭が一杯で、他のことに構っていられなかったの」紀美子は視線を垂らして答えた。晋太郎は手を伸ばし、紀美子の冷え切った手を握った。「行こう。コーヒーでも飲んでリフレッシュしよう」2人は病院近くの喫茶店に入って、アイスコーヒーを注文した。紀美子はコーヒーを一口飲むと、何だか気持ちがすっきりした。「晋太郎」紀美子は口開いた。「何だ」晋太郎は低い声で返事した。「今回のことの元凶が狛村静恵だったと分かった今でも、あなたは彼女を助けたいの?」「全体的な計画を考えると、今はまだそれを変更できない」晋太郎は冷静に答えた。「今彼女の罪を問うと、彼女はきっとオヤジに助けを求める。だが安心してほしい。これらを片付けたら、俺はこの手でヤツを仕留める」「あいつがこれだけの悪事をやらかしているのに、彼女に頼らなければならないなんて、皮肉だわ」紀美子は悔しくてコーヒーカップを握りしめた。「皮肉なんかじゃない」晋太郎は紀美子と一緒に病院に向かって歩きながら言った。「彼女を利用する為に助けるんだ。こう言ったら受け止め方が変わるだろ」紀美子はやや驚きながら、微笑んだ。「そう言われると、確かにそうね」紀美子の笑みを見て、晋太郎は思わず動揺した。彼女はようやく、自分の前でも素直に笑えるようになったのか?晋太郎も口元に笑みを浮かべ、彼女と一緒に子供達を迎えに行った。松沢楠子の事件はす
まさか、松沢楠子は何もしていなかったなんて。あんなクズを身の周りに残すなんて、とんだ失策だった!彼女が失敗した以上、加藤藍子に急いでもらうしかない。狛村静恵はベッドの裏に張り付けていた携帯を取った。藍子の番号を見つけ、電話をかけた。暫くすると、藍子は電話に出た。静恵は彼女の声を待たずに口を開いた。「ものは既に手に入ったはずよね?まだどう動くか思いつかないの?」「狛村さん、あんた思ったより随分とせっかちだね。ものは手に入れたけど、計画は一歩ずつ立てる必要があるじゃない?」「早く入江紀美子と杉浦佳世子の苦しむ顔が見たいのよ!」静恵は声を低くして叫んだ。目を大きく開き、髪の毛がばさばさと乱れている彼女は、まるで地獄から這い上がってきた悪魔のようだった。「落ち着いて、狛村さん」藍子は軽く笑って言った。「いいお芝居には段どりが必要だもの」静恵は歯を食いしばった。「そこまで言うなら、待ってあげる。もししくじったら、その時は、あんたも道ずれにしてあげるわ。覚悟しといて」藍子は眼底の笑みをしまい、嫌悪に溢れた表情で携帯をテーブルに置いた。静恵のやつは狂っている!「狛村さん、そんなキツいことを言われても仕方ないわ。ちょっと用事ができたから、切るわ」そう言って、藍子は電話を切った。彼女はテーブルに置いていたコービーカップを手に取り、窓越しに外を眺めながら、優雅に一口飲んだ。実は、彼女は静恵に言われなくても急いで計画を実施するつもりだった。田中晴の両親が、徐々にあのビッチを受け入れ始めている。そのため、急ぐ必要があった。これ以上対策を練らないと、自分と晴はもう終わってしまうかもしれない。晴は……必ず自分のモノにする!藍子の眼底には冷たさが浮かび、佳世子の携帯にメッセージを送った。「こんにちは、加藤藍子です。明日は空いてるかな?会って話したいことがあるわ」晴と一緒に家に戻る途中の佳世子がメッセージを受信した。メッセージを読み、彼女は眉を寄せた。「晴!あんた、最近も藍子と連絡を取ったりしてるの?」「藍子?何で?」晴は佳世子を見て戸惑った。「してねえよ!俺、ずっと君と一緒にいるじゃないか!」佳世子は目を細くして彼を疑った。「本当に連絡取ってない?」
「あまり良い予感がしないわ」入江紀美子は不安そうに言った。「でしょ?」杉浦佳世子も疑っていた。「何だか、彼女と晴の間には、絶対何かあった気がするの!」「……そんなことはないと思うわ。だって晴が一緒に行くと言っているんでしょう?彼は肝が据わっているわ」「いや、違う!彼はきっと、私に何かを悟られるのを恐れていて、ついて行くと決めたはずよ!例えば、話がヤバくなったら、目で藍子に合図をして止めるとか」佳世子は意味深く分析した。「それだったら、彼が藍子に電話をすればいいじゃない?ところで、晴は今傍にいるの?」紀美子が尋ねた。「いるよ」佳世子は台所の方を眺めた。「彼は今夜食を作ってくれてるの」「へえ、かの遊び好きの貴公子様が、自らご飯を作るほど完全にあなたにハマってるのね」そう言われた佳世子は、幸せの笑みを浮かべた。「でしょ?彼はこう見えて、結構いい所あるのよ!」「はいはい。もう遅いし、私は子供達を寝かせなきゃ。そろそろ切るね」紀美子は時計を眺めながら言った。「分かった、明日戻って来たら連絡する!」「は~い」電話を切った後、紀美子は1階に降りて子供達を寝かせようとした。階段を降りると、松風舞桜が戸惑った顔で入ってきた。「どうしたの?」紀美子は尋ねた。「紀美子さん、隣の別荘って、売り出されたの?」「よく分からないわ」紀美子は答えた。「私は普段忙しくて、全て秘書に任せているの。家を見にきた人がいたの?」「はい、でも夜に見に来る人は初めて見たわ」紀美子は窓越しに外を眺め、携帯で竹内佳奈に電話をかけた。「もしもし、佳奈?最近誰か別荘を見にきたいって言ってきた人いる?」「はい、連絡がありました」佳奈は答えた。「今日不動産屋に、連れていってもらいたいと連絡がありましたが、今来たのですか?」「そう。相手はどんな人とか、知ってる?」「何かのビジネスをやっている夫婦だそうです」佳奈は答えた。「そう、分かったわ。ありがとう」「いいえ、それじゃ」電話を切り、紀美子は桜舞に、そちらの方をよく注意してと指示した。今までの経験上、夜部屋を見にくる人はどうも怪しかった。もし相手が怪しい人だったら、彼らに売るつもりはない。3人の子供達がここに住
杉浦佳世子は加藤藍子の話が気になった。「どうして晴が優しい男だと分かったの?」彼女は藍子の目を見て尋ねた。藍子は手を引き、自分にお茶を注いだ。「晴兄ちゃんと私は幼い頃から一緒に育ってきたじゃない。彼にはお世話になってきたし。こんな些細なこと、佳世子さんは気にしなくていいと思うわ」さすがトップクラスの清楚系ビッチだ!佳世子は心の中で罵った。田中晴が優しい男だとか、そんな些細なことを気にするなとか!いい加減あの口を無理やり塞いでやりたかった。何もったいぶってんのよ!「ねえ、晴。藍子さんって、本当に賢くて優しい方だね」佳世子は軽くあざ笑いをして、笑顔で晴を見た。佳世子に言われた晴は、思わずぞっとした。「ちょっ、デブ……藍子、何言ってんだよ」彼は佳世子が怒っているのを感じ、慌てて藍子を止めようとした。「あれって、もう随分昔の話だろ?」こんな状況では、「デブ子」のあだ名すらも口にすることができない。「ごめんなさい、つい……やはり晴兄ちゃんの言う通りだわ」は藍子が意味深な笑みを浮かべながら謝った。そして、彼女は用意しておいた二つのギフトバッグを出して、机の上に置いた。「これ、つまらないものだけど、間もなく生まれる赤ちゃん、そしてお二人への結婚祝いだよ」藍子は微笑んで言った。「無駄な金を使わなくていいのに。俺達は自分で買えるから」晴は戸惑いながらも受け取った。「晴、これは藍子さんの気持ちだから、受け取らないと失礼だわ。藍子さんは祝福の贈り物を渡したくて誘ってきたんだから、断られたら可哀想だし」佳世子は眼底に笑みを浮かべながら、晴を注意した。あんたが受け取らなかったら、絶対何かある!晴は佳世子に逆らえず、仕方なく藍子のものを受け取った。そして彼はそれを佳世子に渡した。「見てみる?」佳世子は藍子を見て、「今開けていいの?」と尋ねた。「はい、どうぞ」藍子は頷き、落ち着いた声で返事した。佳世子は贈り物を一つずつ開けた。赤ちゃんへの贈り物は金で作った首輪で、ボディには「平安健康」の文字と刻印されていた。佳世子と晴への贈り物は、唐物茶碗のセットだった。茶碗の高台が金色の釉薬が施されており、胴には墨絵がある。そのうちの一つが、寄り添う2羽の鳥、
MK社にて。杉本肇は一人の中年男性を連れて森川晋太郎の事務所に入ってきた。「晋様、冴島さんが昨晩、藤河別荘の家を見に来てくれました。写真も撮ってきてくれましたが、どこか直す必要があるところはありますか?」肇がそう言うと、冴島拓郎はカバンから何枚かの写真を取り出して晋太郎の前に置いた。「森川社長、どこの設計を直しましょうか?」晋太郎は写真を受け取り、確認した。「2階に子供の部屋を3つ作って、うち二つは色をグレーにして。あまり大きくなくていい。真ん中の寝室は、両側の子供の部屋の面積を使ってもいいが、できるだけ広くして。その寝室の天井を星空の絵にして、部屋の中に豪華な着替え室を設けること。そして、3階の壁を全部取り、プレイルームにする」そう言ってから晋太郎は肇に指示した。「最高級のスペックのパソコンを2台用意して、二つの小さめの寝室に置いてくれ」「……」晋様は思い切りゆみさんを贔屓しているな!ゆみさんには一番大きな寝室と、丸ごと一フロアのプレイルームも用意するのに、他の二人のぼっちゃまにはパソコン室をケチるのか?「あの……晋様、こうすると二人のぼっちゃまのお部屋が残り100平米しかないのですが……」「その二人には寝るところさえあればいい。もっと広い部屋が欲しければ、自分で稼いで買うのだ」「森川社長、その家ですが、今日中に買われるのでしょうか?」デザイナーの冴島が尋ねた。「いつまでモタモタするつもりだ?」晋太郎は軽く眉を寄せて彼を問い詰めた。「2週間以内に完成してくれ」「かしこまりました、森川社長。今日中に買取の手続きを済ませておきます!」「肇、小切手を」晋太郎が頷いて肇に命令した。デザイナーが帰った後。「晋様、これはぼっちゃま達とゆみさんを自立させるためなのでしょうか」肇はもう一度晋太郎に確かめた。「時には、子供がお荷物でしかなくなることもある」晋太郎は肇を見て淡々と述べた。「えっ?」「お前はまだ独身だから分からないんだ。」「はい?」なんだか、すごく馬鹿にされた気がする!午後。竹内佳奈が入江紀美子の事務所に入ってきた。「社長、隣の別荘ですが、買取手が出ました。手続きは午後に進めるのですが、お時間はありますか?」紀美子は
入江紀美子はてっきり露間朔也が帰ってきたと思ったが、来たのはまさかの塚原悟だった。悟は果物を持ったままディナールームの方を眺めた。紀美子を見て、彼は手に持っている袋を振ってみせた。「果物しかもってきていないけど、タダ飯を食べていいかな?」紀美子はいきなり訪ねてくる悟を見て驚いた。「来るなら言ってくれればいいのに」「君と子供達がきっと家にいると思って、ちょっと寄り道をしてきたのさ」悟はスリッパを履き替えながら説明した。紀美子は頷き、悟と一緒にディナールームに入った。子供達は一斉に悟を見つめた。「念江くん、随分と顔色がよくなってきたな。ちゃんと薬を飲んでるか?」悟は森川念江に言った。「悟おじさん、こんにちは」入江ゆみは悟が持ってきたチェリーを見ると、嬉しくてはしゃいだ。「悟お父さん、やっぱりゆみの大好物がわかってるね!」悟は微笑んでゆみの頭を撫でた。「後でご飯を食べたら、悟お父さんと一緒にリビングで食べよう、ね?」「うん!悟お父さん、こちらへ!」ゆみは頷いて、紀美子の隣の席を指さした。「やっぱり、悟お父さんはゆみのことしか心にないんだ?」悟が座ってから、入江佑樹が冗談を飛ばしてきた。「ごめん。みんなで一緒に果物を食べるつもりだったんだ」悟は少し驚いて、慌てて説明した。松風桜舞が悟に茶碗とお箸を渡した。「佑樹くんは最近ますますませてきたわね。気にしないで、悟さん」紀美子が言った。悟はリビングを見渡して、「朔也はまだ帰ってきていないのか?」と尋ねた。「最近工場の方が忙しくて、いつも食堂で食べてるのよ。彼が帰ってくると大体食事の時間は過ぎているから」紀美子は説明した。悟はただ頷いて、何も言わなかった。食事の後、子供達は悟が買ってきたチェリーを持ってはしゃぎながらリビングに走って行った。紀美子と悟は隣で子供達を見守った。「今日、単にご飯だけを食べにきたわけじゃないよね?何かあったの?」紀美子が尋ねた。「いいえ」悟は素直に答えた。「暫く来ていなかったし、主任になって少し時間的に余裕ができたから、寄り道をしただけさ」「病院はこの藤河別荘に近いし、もし食堂の飯が飽きたらいつでも桜舞の手料理を食べに来て」「それじゃお言葉に甘えて」悟
塚原悟はチェリーを一個取り、入江紀美子に渡した。「この話はあまりにも現実的すぎだ。そうだろう?」紀美子はじっと悟を見つめた。通常であれば、彼女と森川晋太郎がこれからやろうとしていることを、悟が分かるわけがなかった。なぜ悟はいきなりそんなことを聞いてきたのだろう。「そうよ」紀美子は彼の話に合わせることにした。「だから」悟は続けて聞いた。「もし彼の父親がいなくなったら、君は彼と元通りになるのか?」「わからないわ。それまでに自分と晋太郎との間に何かが起こるかもしれないし、今ははっきりとした答えを出せないの」「分かった、もうこんな煩わしいことを話すのは辞めよう」そう言って、悟は立ち上がった。「もう遅いから、そろそろ帰るよ、明日朝早いし」「まだ19時半だけど?」紀美子は時計を眺めた。「君は、俺に帰ってほしくないのか?」悟はコートを着ながら冗談を言った。「い、いいえ、私はそんな意味じゃ……」紀美子は恥ずかしくて顔を赤く染めた。「大丈夫だ」悟は腰を下ろして紀美子の耳元で囁いた。「本気で受け止めてなんかいないさ」その挙動は、紀美子の顔を更に赤く染まらせた。彼女は急に立ち上がり、悟の後ろに回った。「送ってあげる!」二人は玄関まで行って、悟は隣の別荘を眺めた。「さっき来たときに気づいたんだけど、隣の別荘はもう売りに出したのか?」「うん、今日の午後手続きを終わらせたけど、なんだか買主が随分と急いでるみたい」悟は暫く隣の別荘を眺めていた。うす暗い街灯の光が、彼の瞳に映りこんで揺れていた。紀美子が気になって聞こうとすると、悟は視線を戻して車の鍵を出した。「もう帰るね、外は冷えてるから、君は部屋に戻って」紀美子は玄関で悟に手を振り見送った。夜。夜9時半頃。森川晋太郎は田中晴、そして鈴木隆一と一緒に外で酒を飲んでいた。「佳世子はもうお前を手放したのか?なんだか随分と自由だけど。晋太郎が憂鬱な目で晴を見て聞いた。「俺が遊びに出てきたとでも思ってんのか?俺はあいつに、あんたと紀美子の幸福のための対策検討会に出ると言って来たんたぞ!」晋太郎はテーブルに並んでいる酒のボトルを眺め、あざ笑いをした。「酒の場で俺の幸せを検討する?」「いや、俺
紀美子は反射的に電話を取った。「もしもし?」「紀美子!」晴からの声は焦りに満ちていた。「今、時間ある?すぐ晋太郎を迎えに来てくれ!今から位置情報を送る。とにかく早く来てくれ!大変なことになったんだ!!」それを聞いて、紀美子の胸は不安で締め付けられた。彼女が何かを聞く間もなく、晴は電話を切ってしまった。晴が言った、「大変なことになった」という言葉を思い出すと、紀美子は不安で鼓動が早くなった。そして布団を投げ、慌てて服を着た。丁度その時、晴から位置情報が送られてきた。彼女は携帯を開き、地図上に表示された「サキュバスクラブ」という名前を目にすると、冷静さを取り戻した。今は隆一も戻っているし、晴もいる。おそらく彼ら二人に連れ出されて飲みに行ったのだろう。これまで彼らに呼び出されて晋太郎を迎えに行ったことは何度もあった。「大変」などと言われても……紀美子が少し腹を立てながら携帯を手に取り、拒絶のメッセージを送ろうとしたその時、晴から一枚の写真が送られてきた。写真には、頬を赤らめて目を閉じ、ソファにもたれかかる晋太郎の姿が映っていた。普段、彼が友達にここまで振り回されることはない。この写真を見た彼女は、彼がどれほど酒を飲まされたのかを悟った。彼女はため息をつき、メッセージを送った。「分かったわ。今すぐ行く」そしてコートを羽織り、車のキーを手に取った。今回はボディーガードを呼ぶことなく、彼女は自分で車を運転してバーへ向かった。到着すると、紀美子は直接個室に向かった。ドアを開けると、そこには晋太郎一人しかおらず、晴と隆一はどこかに行ってしまっていた。紀美子はまるでからかわれているような気がして、少し腹が立った。彼女は息を呑み、晋太郎の前に歩み寄った。彼の腕を肩に乗せようと身をかがめた瞬間、晋太郎が突然目を開けた。紀美子だと認識すると、晋太郎は彼女を一気に引き寄せ、抱きしめながら後頭部に手を回し、熱いキスをした。酒の匂いと共に感じた熱い息遣いに、紀美子は反射的に押しのけようとした。「晋太郎……んっ……噛まないでよ……痛い……」晋太郎は片手を放し、紀美子の手首をしっかりと掴んだ。彼は紀美子の唇を離したが、暗い個室の中でも紀美子は晋太郎の瞳に映る欲望を感じ取った
「紀美子」「……うん」「結婚しよう」紀美子の身体はこわばり、返事もせずそっと晋太郎を押しのけた。俯いたまま晋太郎の目を避け、彼女は声をひそめた。「その…そんなに急がなくてもいいと思う……」そう言うと、彼女は慌てた様子で立ち上がった。「また今度ね!私、先にお風呂に入るから!」逃げるように去っていく紀美子の背中を見てから、晋太郎は目を伏せた。以前なら、喜んですぐに頷いてくれたはずなのに――なぜ今は躊躇するんだ?どういうことだ?家族への挨拶が済んでいないからか?浴室のドアをじっと見つめながら、晋太郎は考え込んだ。どうやら明日、渡辺家を訪ねなければならないようだ。翌日。晋太郎が会社の仕事を片づけ渡辺家に向かおうとしたところ、晴にランチに誘われた。時間にまだ余裕があったため、晋太郎は晴とレストランへ向かった。食事中、晋太郎は窓の外を見つめて黙っていた。晴は何度か彼を不思議そうに見てから、ようやく口を開いた。「晋太郎、何を考えてるんだ?」晋太郎は手に持っていたコーヒーを置き、晴を見ながら答えた。「佳世子に結婚を拒まれたことはあるか?」晴は呆然とした。「それって……紀美子に振られたってこと?」晋太郎が頷いた。「そんな経験ないか?」「ないな」晴は答えた。「むしろ毎日のように結婚を催促されてる」晋太郎は黙り込んだ。紀美子は一体どうしたのだろうか?晴も少し考え込んだ後、言った。「晋太郎、もしかしたら紀美子は前回の婚約の件でトラウマを負っているんじゃないか?なんていう症候群だったっけ?心理カウンセラーに診てもらった方がいいかもな」晋太郎は眉をひそめた。「そこまで深刻ではないだろう」「深刻に決まってるだろ!」晴は真剣な様子で言った。「お前が生きていることを知ったあと、彼女は必死で会社を守り、銃弾まで受けた。目が覚めたらまたお前たちのことが……俺だって耐えられないよ。どうして深刻じゃないなんて言えるんだ?間違いなくトラウマがあるに決まってる。じゃなきゃ拒む理由がないじゃないか」晋太郎はイライラして指でテーブルを叩いた。「佳世子に探りを入れさせろ」「任せとけ!」晴は言った。「でも、本当にそうなら早めにカウンセリングを受けさせた方
「事実的な関係はあるだろう。紀美子、君は俺の子供たちの母親だ。この事実は変えられない」「その関係だけで、私を縛ろうって言うの?」紀美子は冷笑した。「確かに電話に出なかったのは私が悪いわ……でも、それで私の自由まで奪わないで。母親って立場だけで、あなたに私の人生をコントロールされる筋合いはないわ!」紀美子の言葉で怒りが爆発しそうになった晋太郎は、ギアを入れ替えると潤ヶ丘へ猛スピードで走り出した。あまりのスピードに、紀美子は怖くなって黙り込んだ。潤ヶ丘に着くと、晋太郎は車を止め、降りて助手席側に回るとドアを開け、紀美子を担ぎ上げてそのまま別荘の玄関へ向かった。「晋太郎!下ろしなさい!」紀美子は必死にもがいた。しかし晋太郎は解放することなく、そのまま部屋まで運び込むと、ベッドに彼女を放り投げた。彼は暴れる紀美子の手足を押さえつけ、怒りに震える声で言った。「紀美子、言ったはずだ。君にちゃんとした立場を与えると」紀美子は不満げな目で彼を見つめた。「その立場と引き換えに会社を奪われるなら、いらない!誰かに依存して生きるなんて、一番嫌いなの」「依存させようとしてない。俺が欲しいのは君だけだ。他人の目が気になるなら、今日からMKがTycの子会社になっても構わない」紀美子は動きを止め、驚いた表情で見上げた。「何を……言ってるの?」晋太郎はベッドサイドの引き出しを開け、契約書を紀美子に投げつけた。紀美子はそれを拾い上げ確認し、目を見開いて尋ねた。「これって、どういう意味?」「この契約書、本当はプロポーズのあとで渡すつもりだったんだ。君が望まないことを無理やり押し付ける気はない。」そう言いながら彼は紀美子の隣に座り、表情に強い決意を宿して続けた。「紀美子、君は俺に何か聞きたいことがあるんだろう」紀美子は契約書を握る手に力を込めた。「ええ、あなたの口から直接聞かせてほしいの。私が頑固なのは認めるわ。でも……あなたの本心を言葉にしてほしい。これは、あなたが本当に私を気にかけていたかどうかの問題よ。からかいや隠し事は大嫌いなの」晋太郎は口元を緩めた。「記憶があるかないかが、そんなに重要か?」紀美子はぱっと顔を上げた。「重要よ!本気の愛と、責任だけの結婚、あなたはどっちが欲しい?」
「まあ、そう言うけど」佳世子はため息をついて言った。「でも、やっぱり形は必要でしょ。私だって、いつできるかわからないんだから」「晴の両親は……」「あーもう!」佳世子はイライラしながら紀美子の言葉を遮った。「そんな話はやめて!考えるだけで頭にくる!」「もうすぐお正月ね。今年のお正月は、いつものように賑やかにはいかないわ」紀美子は窓の外を見つめて言った。佳世子は頬杖をつき、紀美子と同じく窓外のネオンを見つめた。「寂しいなら、いつものように賑やかにすればいいじゃない」紀美子は佳世子の方に向き直った。「どんなに賑やかにしても、子供たちがいない寂しさは埋まらないわ」その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。しばらくして、佳世子は急に背筋を伸ばして言った。「紀美子、明日私たちで不動産を見に行かない?」紀美子は目を丸くした。「家?どうして?」「あなたも私も今住む家がないでしょ?」佳世子は目を輝かせながら続けた。「別荘じゃなくて普通のマンション!同じ階を買って、間取りを繋げちゃうの!」「まあいいけど……」紀美子はまだ佳世子の指す意味を完全には理解できていない様子だった。「でも何のため?」佳世子はニヤリと笑った。「もちろん楽しむためよ!例えばあなたが晋太郎と喧嘩した時とか、私が晴と揉めた時とか。私たちだけの家に逃げ込むの!」「それで?」紀美子が尋ねた。「そしたらパーティーよ!イケメンたちを大勢呼んで、一緒に騒いじゃうの!」話に夢中になっていると、いつの間にか背後に二人の男が立っていた。佳世子の言葉を聞いた瞬間、晴の顔は青ざめた。「佳世子!!」晴は我慢できず、佳世子の背中に向かって怒鳴った。佳世子はビクッとして振り向き、突然現れた二人を見て目を見張った。「あなたたち、どうしてここに!?」紀美子も慌てて振り返った。彼女はすぐに、顔をしかめた晋太郎が自分を睨みつけているのに気づいた。その目には明らかな怒りが見えた。紀美子が口を開く間もなく、晴は佳世子を肩に担ぎ上げた。「晴っ!お、おろしてよ!ちゃんと話し合えばいいじゃない。なんで担ぐのよ!?紀美子!助けて!」佳世子は叫んだ。叫びながら遠ざかっていく佳世子の姿を見送りながら、紀美子
晴は口をとがらせ、不満げな表情で視線を逸らした。「そんなんじゃないよ。彼女にブロックされたんだ」晋太郎は一瞬呆然としたが、すぐに嘲笑った。「お前、余計な干渉をしすぎたんじゃないか?」「お前だって紀美子にズカズカと干渉してるくせに、偉そうなこと言うなよ」晴は「ちぇっ」と舌打ちした。「だったらお前が紀美子に電話してみろよ」晋太郎はテーブルの上の携帯を手に取った。「少なくともお前のようにブロックはされてない」そう言うと、紀美子の番号をタップした。しかし、コール音が一度鳴ったところで、機械的な女性の声が流れてきた。「申し訳ありませんが、お掛けになった電話は現在通話中です……」「プッ…」晴は思わず吹き出した。「それでよく偉そうなこと言えたな!紀美子にまさかのワン切りされてるし!はははは……」晋太郎の端正な顔が、晴の笑い声とともに次第に険しくなっていった。彼は諦めず、再び紀美子に電話をかけた。今度は呼び出し音すら鳴らず、すぐに機械音声に切り替わった。「あははははは!」晴は涙を浮かべながら笑い転げた。「晋太郎、お前、さっき言ってたこと……どうしたんだよ?はははは!」晋太郎は携帯をしっかりと握りしめた。彼女は一体どこに行ったんだ?自分の番号をブロックするなんて!晋太郎は苛立ちながら、連絡先から肇の番号を探し出し、電話をかけた。つながると、彼は怒りを抑えながら言った。「肇、紀美子の位置を特定しろ!」肇が返答する前に、美月の声が聞こえてきた。「社長、奥様が見つからないからってアシスタントに頼むなんて、どうかしてますよ?」美月のからかい混じりの声が晋太郎の耳に飛び込んできた。その言葉を聞いて、晴はこらえきれずまた顔を赤くしながら笑い転げた。「お前、なんで肇と一緒にいるんだ?」晋太郎は眉をひそめ、冷たく問い詰めた。「彼は独身、私も未婚。一緒にいて何か問題でも?」美月が返した。「遠藤さん、私から晋様にお話しさせてください……」肇が慌てて割り込んできた。「ただ紀美子さんを探してほしいだけでしょう?他に用事はないわ」美月は言い放った。「奥様と喧嘩したからって、私たちまで巻き込まないでちょうだい」美月がそう言い終わらないうちに、通話が切られ
紀美子は翔太に事情を簡単に説明した。話を聞いた翔太は深くため息をついた。「あの子たちはみんなしっかりした子たちだ。自分で決めたことなら、無理に引き止めるわけにはいかない。尊重してやらなきゃな。だが……こんな場所で気分転換するべきじゃない」「そういえば、翔太さんはここで何を?」佳世子は話題をそらすように尋ねた。翔太はバーの入口を一瞥しながら答えた。「あの連中は舞桜の遠縁の親戚たちなんだ」二人は顔を見合わせ、紀美子は怪訝そうに聞いた。「どうして舞桜の親戚と一緒に?」翔太は苦笑し、鼻をこすりながら答えた。「実はな、舞桜と一週間後に婚約する予定なんだ」「えっ!?」二人は声を揃えて叫んだ。「そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」紀美子は驚きを隠せなかった。佳世子は舌打ちした。「翔太さん、私たちより早いじゃない!」「彼らが帰ってから紀美子に話そうと思ってたんだ」紀美子は軽く眉をひそめた。「さっき見かけたけど、舞桜と同世代くらいの人たちみたいね。難しい人たちなの?」「なんというか……」翔太は小さくため息をついた。「茂の親戚と似たような連中だ。だから君には早く知らせたくなかったんだよ。彼らは本当に面倒を起こすから」「舞桜が止めないの?」佳世子は聞いた。「いつまでも我慢してばかりじゃダメよ!」「止めないわけじゃない」翔太は言った。「舞桜の父親からの試練のようなものだ。舞桜は彼らのことで父親と大喧嘩したんだ。でも、父親は自分だけでは決められないと言ったらしい。舞桜の祖父の意向もあるみたいで」紀美子は話の裏を読み取って聞いた。「もしかして、その祖父って……舞桜と兄さんの関係に反対してるの?」「そうだ」翔太は率直に認めた。「舞桜の祖父は、海軍の偉いさんでさ。我々のような商人のことを、なかなか認めてはくれない」「今どきそんな家柄を気にするなんて!」佳世子は呆れたように言った。紀美子はしばらく考え込んでから言った。「でも、そうでなければ、舞桜もここまで来て兄さんと出会うこともなかったわね」「うん、その通りだ。前に舞桜が俺に会いに来たことが、余計に彼女の祖父の反感を買ったらしい」「舞桜は良い子よ」紀美子は翔太を見つめて言った。
「結婚を発表する日に、この件も公表する」晋太郎はペンを置いてから答えた。今のところ、自分はまだ紀美子を正式に口説き落としていない。いきなりこんな話をしても、笑いものになるだけだ。夜。紀美子は佳世子に連れられ、帝都に新しくオープンしたバーに来ていた。入り口に入った瞬間耳をつんざくような音楽が聞こえてきて、紀美子は鼓動が早くなるのを感じた。彼女は佳世子の手を引き寄せ、耳元で叫ぶように言った。「佳世子、ここはやめようよ。あの人たちに知られたら、飛んでくるに決まってる」「どうしていけないの?」佳世子は紀美子の手を引っ張って中へ進んだ。「あの人たちはあの人たち、私たちは私たちよ。付き合ってるからって、こういう場所に来ちゃいけないルールでもあるの?正しく楽しんでるんだから、平気でしょ!」紀美子は佳世子が気分転換のために連れてきてくれたのだとわかっていた。だが、こういう騒がしい場所は苦手だった。理由は主に二つあった。一つは環境が乱雑なこと、もう一つは晋太郎の性格だ。彼が知れば、このバーごとひっくり返しかねない。自分でトラブルを起こすつもりもなければ、晋太郎に誰かに迷惑をかけさせるつもりもなかった。ボックス席に着いても、紀美子はまだ佳世子の手をしっかり握っていた。「佳世子、やっぱりここは嫌だわ。静かなバーに変えようよ?」「え、何?!」佳世子は聞き取れなかった。紀美子はもう一度繰り返し言った。「紀美子、まず座って落ち着いて話を聞いてよ」佳世子は言った。紀美子は彼女の意図を察し、しぶしぶ一緒に座った。佳世子は紀美子の耳元に寄った。「晋太郎、まだ記憶が戻ったって認めてないでしょ?」紀美子は彼女を見て尋ねた。「それがここに来ることと何の関係が?まさか、彼を刺激したいの?」佳世子は激しく頷いた。「男ってのはみんなそうよ。何か起こさないと本当のことを言わないのよ!」「だめだめ」紀美子は慌てて首を振った。「言わないのは彼の勝手よ。私がどうするかは私の自由。佳世子、本当にここにいたくないの」佳世子はまだ何か言いたげだったが、ふと目の端に映った人影に気づき、言葉を止めた。そしてじっとその見覚えのある姿を見つめながら言った。「紀美子、あの人……あなたのお兄
二人は涙を見せれば、ゆみがますます別れを惜しんでしまうことを恐れていたのだ。「ゆみ、待ってるから!毎日携帯見て、お兄ちゃんたちからの連絡を待ってるからね……ゆみはちゃんと大きくなるよ。ご飯もいっぱい食べて、悪さしないで……うう……早く帰ってきてね……」紀美子も、堪えきれず涙をこぼした。晋太郎がそっと近寄り、彼女を優しく抱き寄せた。この別れは、誰の胸にも重くのしかかっていた。ゆみは学校に行かなければならなかったので、佑樹と念江を見送った後、昼食を取るとすぐに急いで飛行機で帰って行った。紀美子は、がらんとした別荘を見回し胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われ、ソファに座ったまま呆然としていた。今にも、子供たちが階上から駆け下りてきてキッチンで牛乳を飲むような気がしてならなかった。そんな紀美子の様子を見て、晋太郎は携帯を取り出し佳世子にメッセージを送った。1時間も経たないうちに、佳世子が潤ヶ丘に現れた。ドアが開く音に、紀美子がさっと振り向いた。佳世子と目が合うと、一瞬浮かんだ期待の色はすぐに消えていった。佳世子は小さくため息をつき、紀美子の隣に座った。「紀美子、まだ子供たちのことで頭がいっぱいなの?」紀美子は微かに頷いた。「うん……なかなか慣れなくて。佑樹と念江も行っちゃったし、ゆみもすぐ帰っちゃったし……」「あの子たち、本当にあなたに似てるわ」佳世子は言った。「あなたが帝都を離れてS国に行った時も、こんな風に自分の目標に向かって突き進んでたもの」紀美子はぽかんとし、思わず苦笑した。「あれは状況に迫られてのことよ」「そんなこと言ったら、まるで子供たちがあなたから離れたくてたまらないみたいじゃない」佳世子は紀美子の手を握った。「そんな話はやめましょう。午後はショッピングに行くわよ!」「ちょっと!」紀美子は驚いたように彼女を見つめて言った。「どうして急に来たの?」佳世子はきょろきょろと周りを見回し、晋太郎の姿がないのを確認すると、小声で言った。「実は、あなたのご主人に頼まれて来たのよ!」紀美子は、ご主人様という言葉を聞いて顔が赤くなった。「え、え?ご主人なんて……私、彼とはまだそんな関係じゃないのよ……」「遅かれ早かれ、そうなるんだから!」佳
俊介は淡く微笑んだ。「晋太郎、子供たちは俺にとって実の孫同然だ。心配する必要はない」その言葉を聞いて、紀美子は少し安心した。一行は保安検査場の目の前まで来ると、紀美子は子供たちの前にしゃがみ込んだ。彼女は無理に笑顔を作りながら、子供たちの腕に手を置いて言った。「一時間後には搭乗よ。誰と一緒でも、自分のことはきちんと守って。無理しないでね」佑樹と念江は頷いた。「ママ、心配しないで。僕たち、できるだけ早く帰るから」佑樹は言った。「ママも体に気をつけてね」念江は笑みを浮かべて言った。「パパと一緒に、今度は妹を作ってよ」紀美子は一瞬固まり、念江の鼻をつまんで言った。「ママとパパはまだ何も決めてないの。その話はまた今度ね」ゆみを待っている晋太郎は、周囲を見回しながらふと紀美子の方を見た。口を開こうとした瞬間、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。「お兄ちゃん!!念江お兄ちゃん!!」ゆみの声が響き、一同が振り返った。ゆみは小さな体で次々と乗客の間を縫うように駆け抜け、全力で佑樹と念江の元へ突進してきた。そして両手で二人の首にしっかりと抱きついた。「間に合ったよ!」ゆみは泣きながら二人の肩に顔を埋めた。「お兄ちゃんたちの見送り、間に合って良かった」佑樹と念江は呆然と立ち尽くした。まさかゆみがこんなに遠くまで見送りに来てくれるとは思ってもいなかったのだ。二人の目が一瞬で赤くなった。これ以上の別れの贈り物はないだろう。二人はゆみをしっかりと抱きしめ、必死に冷静さを保ちながら慰めた。「もう、泣くなよ!」佑樹はゆみの背中を叩いた。「人がたくさんいるんだぞ。恥ずかしくないのか」念江の黒く大きな目は優しさに溢れていた。「ゆみ、わざわざ来てくれてありがとう。大変だったろう」ゆみは二人から手を放した。「向こうに行ったら、絶対に自分のことをちゃんと気遣ってね。時間があったら、必ず電話してよ。分かった?」佑樹と念江は、思わず俊介を見た。その視線に気づいたゆみは、俊介を睨みつけた。「あなたのくだらない規則なんて知らないよ!お兄ちゃんたちを連れて行くのはいいけど、連絡を絶たせるなんてひどいよ!ゆみは難しいことは言えないけど、家族は連絡を取り合うべきだってわか
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く