近づくにつれて、紀美子は恐怖で足がすくんだ。 めまいがし、胃が痛み吐き気が襲ってきた。 人混みに入った瞬間、周りの人の話す声が耳に入った。 「どんなに速く走ってたんだ?車がこんな風に壊れるなんて!」 「人が中に取り残されてる。もうダメかもしれない」 「地面に血が広がってる。生き残るのは難しいだろう……」 「ご冥福をお祈りします……」 彼らの言葉が耳に入った瞬間、紀美子の視界は暗くなり、その場に倒れ込んだ。 紀美子を支えられなかった朔也も、顔色が徐々に悪くなっていった。 彼は後ろから来たボディガードに言った。「彼女を頼む、俺は様子を見てくる!」 ボディガードは「わかりました!」と答えた。 朔也は人混みに飛び込んでいった。 紀美子は魂を失ったようにその場に座り込んでいた。 耳鳴りがし、頭は全く回らなくなっていた。 晋太郎…… 死んだんだ…… 彼は彼女と子供たちを置いて去ってしまった…… 自分が彼の命を奪ったのだ。彼を殺してしまった! ボディガードは紀美子の様子を見て、複雑な表情で言った。「気を強く持ってください」 紀美子は一瞬目を見開いた。 そして、突然、地面から立ち上がり、人混みの中に向かって歩き出した。 彼の遺体を引き取らなければならない。彼を一人にはさせない…… 彼のそばにいなければ、彼は一人でつらいに違いない…… 紀美子は人混みに向かおうとしたが、まだ二歩も進んでいないのに、足が再びもつれてしまった。 その瞬間、横から一人の影が飛び出してきて、彼女を抱きしめた。 その懐かしい香りが鼻に入り、紀美子は一瞬ぼんやりしたが、徐々に理性が戻ってきた。 晋太郎…… 紀美子は急に振り返り、自分を抱きしめている男性を見た。 その顔を見た瞬間、目の涙が再び溢れ出した。 「晋太郎?」 信じられない思いで彼を見つめて言った。「あなたなの?本当にあなた?」 晋太郎は、彼女がひどく苦しんでいる姿を見て、心が痛んだ。「ごめん、心配をかけた」 その声を聞いた瞬間、紀美子の涙腺は解き放たれた。 彼女は晋太郎の胸に飛び込み、彼の腰にしがみついて泣き叫んだ。 「死んだと思
晋太郎の声が震えていた。 ついに紀美子がこの言葉を口にしたのだ! 彼女はやっと全てを信じてくれた。 この日晋太郎は、長い間待ち続けていたことを実感した…… 晋太郎は優しく紀美子を抱きしめた。 彼女の細長い目は少し赤なっていた。「必ず君と子どもを一番幸せにするから」 …… 翌日。 紀美子は朝早く電話の音で目を覚まし、それに伴い晋太郎も目を開けた。 紀美子はスマートフォンを手に取ると、「晴」という名前を見て、咳払いをしてから電話を受けた。 晴の焦った声が聞こえてきた。「紀美子、あの日病院で一体何があったの?」 紀美子は黙った。「……」 晴は、病院で調査していたのか? しかし、彼の今の話し方からは、何も分かっていないようであった。 紀美子は起き上がってから言った。「もし何も調べていないのなら言うけど、佳世子はあなたに真相を知られたくないんじゃないかな」 「晋太郎は君のそばにいるの?」晴が尋ねてきた。「彼にスマホを渡してくれない?」 紀美子は少し迷ったが、晋太郎が起き上がりスマホを受け取った。 「何かあったのか?」晋太郎が尋ねると、晴は答えた。「晋太郎、医療スタッフに一言伝えてもらえないか?佳世子の病歴を俺に見せてもらえないか?」 「分かった」晋太郎はためらわずに答えた。 紀美子は唇を噛み締め、何も言わなかった。 電話を切った後、晋太郎はスマホを紀美子に返した。 紀美子は何も言わず、布団をめくって下に降りようとしたが、晋太郎は彼女の腕を掴んだ。「君は佳世子のために、僕は晴のために。僕の考えを理解できるはずだ」 紀美子は振り返り彼を見た。「もしあなたたち二人が原因を自分たちで調べ上げたのなら、私は関係ない。私が佳世子を裏切ったことにはならない」 彼女は正直、晋太郎と晴がこの件を知ってほしいと思っていた。 佳世子にこんな大きな苦痛を一人で背負わせたくはなかった。 晋太郎は手を放した。「子供たちを起こしてくる」 「うん」 紀美子は先に身支度を整え、階下に降りた。 彼女は別荘を出て、佳世子に電話をかけた。 しばらくして、佳世子がやっと電話に出た。「紀美子」
二階。 晋太郎は子供たちの部屋に立ち、黒いクマができた二人の息子をじっと見つめていた。 「言い訳は聞きたくない。ただ、どうして一晩中寝なかったのか教えてほしい」 晋太郎の声は厳しかった。 佑樹は不満げに口を尖らせた。「質問に答える義務があるの?」 念江が佑樹の肩をぽんぽんと叩いた。「いいから、話そう。どうせ言わなきゃならないんだから」 佑樹は念江をちらっと見た。「言うならお前が言えよ、俺は言いたくない」 念江は頷き、説明しようとしたが、晋太郎が遮った。「念江は言わなくていい。佑樹に教えてもらう」 「なんで俺が教えなきゃいけないんだ?」佑樹は反発した。「お前が母さんと一緒になったからって、俺のことに口を出す権利なんてない!」 晋太郎は冷たい目で彼を見つめた。 この子、なかなか生意気だな! 晋太郎は冷笑を浮かべて言った。「お前は俺の子供だ。父親として、お前に干渉してはいけないのか?」 その言葉に佑樹は固まった。 母さん、もう彼にすべてを話したのか?! 昨晩か? 佑樹は恥ずかしさから顔をそむけた。昨晩心配していたのは事実だが、突然この父親を受け入れるのは、やっぱりまだ難しかった。 佑樹が黙っているのを見て、晋太郎は薄く笑った。「どうした?お父さんと呼びたくないのか?」 その瞬間、寝ていたゆみが布団から飛び起きた。 「兄ちゃんが呼ばないなら、私が呼ぶ!」ゆみは晋太郎に向かって小さな手を伸ばした。「お父さん!」 晋太郎の心が一瞬止まった。娘が、自分を「お父さん」と呼んでいる。 晋太郎は胸の中の感情を押し込め、ゆみを抱き上げたが、目には愛情があふれていた。 「うん、お父さんだよ」 ゆみは晋太郎の首にぎゅっと抱きついて、小さな顔を埋めた。 「お父さんって、やっと呼べるようになった!ゆみはこの日をずっと待ってたんだよ」 晋太郎はゆみの背中をさすったが、佑樹は不快そうに彼女を一瞥した。「本当にお前は裏切り者だな!」 ゆみは急に彼を振り返って、怒りを露わにした。「ママも認めたんだから、ゆみは裏切り者なんかじゃないよ!」 佑樹は足を組んで、小顔をしかめながらベッドに座っていた。
「言ってごらん」森川晋太郎は満足げに笑みを浮かべた。入江佑樹は最近偵察した結果を晋太郎に報告した。「MKの技術部も気づいているはずだけど、相手はずっと挑発してきていて、もう暫くすれば彼らは動き出すはず」「それは分かっているが、相手がずっとIPアドレスを偽装しているから追跡できないんだ」「それは以前のことだ。相手はもうすぐ暴かれる!」佑樹はパソコン画面上の赤い丸の印を指さした。「お父さん、ちょっと見せてもらいたいものがあるんだけど、いい?」森川念江は尋ねた。「何だ?」「相手がファイアウォールを突破してきた時の記録データ、技術部ではもうまとめているかな?」「まだだとは思うが、もし必要あれば、技術部に指示する」「具体的な記録データがあれば、相手がどの会社に手を出そうとしているかを推測することができるはず」「君たちは今成長期だ。夜ふかしはするな。もうこの件から手を退け」佑樹と念江は黙った。2人は目を合わせ、互いの意志を確認しあった。しかし父の前では、彼らは不本意だが、約束するしかなかった。「そろそろ飯の時間だ」晋太郎はゆみを抱えて部屋を出ようとした。「このままだと、ゆみは甘やかされすぎるぞ」晋太郎が出た後、佑樹は念江に言った。「しょうがないよ、たった1人の妹なんだから」念江は笑って答えた。佑樹は絶句した。午後。杉本肇はMK社で記者会見を開いた。午後2時、晋太郎は黒ずくめのスーツを着て、堂々とした足取りで会議室に入ってきた。記者達は、彼が来たのを見て皆一斉にカメラを上げ必死に写真を撮り始めた。晋太郎は真ん中の席に腰を掛け、記者達を見渡した。「今日お集まりいただいたのは、とあることを宣告したいからです」記者達は真面目にメモを取り始めた。「本日を以て、私の父である森川貞則理事長は、永遠にMK社を脱退致します」その話を聞き、記者達は大騒ぎをし始めた。「森川社長、それは理事長ご本人の意思ですか?それともあなたの意思ですか?」「森川社長、この件は事前に理事長とご相談されたのでしょうか?」「既に株主総会を開かれたのでしょうか?森川元理事長はMKグループと関係がなくなるのですか?」「森川社長はどういう経緯でそう決断なさったのでしょうか?」「……
森川貞則が出て暫く経ってから、一人のボディーガードが慌てて走ってきた。もともと機嫌が悪い貞則は、ボディーガードのその挙動を見て、怒りを更に燃え上がらせた。「やかましい!」「貞則様、大変です!外に沢山の警察が集まっています!」「何だと?」「警察が、沢山来ています!」警察が来た?貞則は一瞬で険しい顔になった。ボディーガードに時間を稼げと指示しようとすると、警察は既に玄関から彼の所に向ってきていた。貞則はすぐ心の中の戸惑いを抑え、落ち着いた様子で警察を見た。警察は彼の前に来て、警察手帳を見せながら言った。「どうも、刑事事件捜査課の伊野木将一です。通報を受けたため、殺人の疑いで、署まで同行を願う」貞則の態度は冷え切っていた。「証拠がないなら、同行を断る!」「森川元理事長、我々がここにいるのは、十分な証拠を掴んでいるということです。20年前の殺人事件、及び前日貴宅で起きた執事殺害事件について、調査のご協力を願いたい」貞則の顔は曇った。その2件、極めて隠密に実行したのに、何故警察にバレたのだろうか?相手が答えないのを見て、将一は携帯を出して録音を再生した。録音を聞いた貞則は、思わず身が震え、目を大きく開いた。それは間違いなく自分の声だ!書斎での会話だった。書斎……誰かに侵入されていたのかと、貞則は横目で書斎の方を眺めた。「申し訳ないが、同行を願う!」警察はさらに強い態度で同行を求めた。貞則の表情は幾度と入れ替わり、暫く沈黙すると、無力感をあらわにした。やはり、世の中には漏れない秘密など存在しない。執事が連れていかれた時から、今の状況への準備を取るべきだった。貞則は警察について行った。狛村静恵は、外の騒ぎを聞いて動揺したが、やはり部屋から出られなかった。なぜなら、岡田翔馬がまだ捕まっていないからだ。彼女は今、じっとしていなければならなかった。でないと、自分の命も危うくなる!MKの記者会見は、入江紀美子も生中継で見ていた。その頃、貞則が会社を追い出されたニュースは、既にネット中に拡散されていた。紀美子は暫く、晋太郎がそうした理由が分からなかった。しかし、すぐにもう一通のトレンドが上がってきた。「驚き!MKグループ元理事長・森川貞則氏が、
「えっ?どんなニュース?」入江紀美子は冗談を飛ばした。「紀美子、兄さんが君のことが分からない嘘を見抜かないとでも思ってるのか?MKのニュースがこんなに轟いて拡散されているのに、君がは知らないワケがないだろ?」渡辺翔太は笑って言った。「はいはい、見たわよ。森川貞則が連れていかれたんだねわね」紀美子は笑いを禁じ得なかった我慢できなかった。「その反応、あんまり嬉しくないみたいけど?」翔太は尋ねた。「どんな気分でそれを受け止めればいいるか分からないの」紀美子はため息をついた。「お兄ちゃん。、私は実の両親のことを覚えていないから、実はあまり彼達に特別な感情を抱いていない。貞則にを法律の裁きを受けさせるのも、両親の実の娘としてそうしなければならないからだったけど……だ」翔太は暫く黙った。「分かってる。そう聞くべきじゃなかったかも聞き方が悪かったな」「お兄ちゃん。嬉しくなるのはいのは、あなたやおじ様とおば様のほうじゃない?」「そう言えば、彼達とはしばらく随分の間連絡を取っていないよな?」翔太は尋ねた。「今回の事件を解決したのは晋太郎のお陰お蔭だ。、君たちも仲直りしたし、皆で一緒に飯でも食べようるべきだ」「いいわ、あなたが時間を決めて」「じゃあ、土曜日にしよう。子供達もつれてきて」「分かった」夕方。紀美子がは子供達を迎えに出かけようとして、会社を出るとたら、見なられたメルセデスマイバッハが入り口に停まって止めていた。彼女が車に向って歩くと、運転席の手をしていた杉本肇も降りてきた。「入江さん、晋様もが一緒に子供達を迎えにいくそうですきます」一緒に行く?そんな簡単なことではないと、紀美子は思った。森川晋太郎がいきなり現れたのは、きっと何か緊急なことがあったからだ。紀美子は車に乗り込むとみ、晋太郎は目を瞑って休んでいた。「他にやりたいことが何か言いたいことがああるんじゃない?」紀美子は尋ねた。晋太郎はゆっくりと目を開き、彼女を見た。「女の勘ってやつか?」「他の人女の勘かは知らないけど、私の勘はなかなか当たるわ」紀美子は微笑んで答えた。晋太郎は紀美子の手を繋ぎ、彼女を懐に引き寄せた。「どうやら君は、俺今日の計画にあまり関心してい
杉浦佳世子のメッセージを読むと、入江紀美子は悲しくて仕方なかった。森川晋太郎は、一目でそのメッセージが見えた。彼がそれについて聞こうとすると、自分の携帯も鳴った。同じく佳世子からのメッセージだった。退職届だ。下までワイプすると、編集された文書もあった。「森川社長、今までお世話になりました。私の今の状態では、恐らくどんな仕事もこなせませんので、辞めさせていただきます。紀美子は私の大親友ですから、彼女が悲しまないよう、あなたのすべての優しさと安全感を与えてあげてください。」晋太郎はそのメッセージを紀美子に見せた。紀美子は涙を堪えて彼を見た。「佳世子からのメッセージだ」紀美子は携帯を受け取り、メッセージを読むと、涙をこぼした。何度も涙をふき取りながら、胸が塞がれたかのように声が出なかった。「彼女は何処にいくか言ってない?」晋太郎はティッシュを渡した。何を言っても無駄だと分かっていながら、紀美子に尋ねた。「分からないわ。教えてくれなかった」紀美子は首を振って答えた。晋太郎は黙り込んだ。このことは佳世子だけではなく、田中晴にとっても致命的な打撃であった。一番愛している人が、静かに姿を消すなんて、彼はその痛みを誰よりも分かっている。午後6時。晋太郎と紀美子は子供達を藤河別荘に送り返した。別荘から出てきて、晋太郎は杉本肇に警察署に行くように指示した。紀美子は晋太郎が自分を彼の父である貞則に合わせようとしているのが分かっていたが、若干抵抗があった。あんな人、会うたびに吐き気がする。紀美子がどう断ろうかと考えているうちに、肇は晋太郎に向って口を開いた。「晋様、ちょっとお話がありますが、よろしいですか?」晋太郎は暫く考えてから、紀美子に言った。「車の中で待っててくれ」紀美子は頷き、車のドアを閉めた。晋太郎と肇は少し離れた所に行った。「晋様、塚原先生のプロフィールを入手しました」「それで?」「彼は孤児で、幼い頃に母を亡くされ、色んな人の援助を受け育ったようです。彼の故郷は納多海ですが、その当時の隣人に話を伺うと、彼は幼い頃から物分かりが良く向上心があったとのことです」「彼の父親の手掛かりは?」晋太郎は暫く考えてから尋ねた。「おかしいの
森川貞則は晋太郎の話を聞かず、怒鳴り続けた。「またその下賤な女を連れてくるなんて、俺に恥をかかせるつもりか?早く弁護士を雇ってこんか!俺の冤罪を証明してくれ!そこに突っ立ってて死にたいのか?」「下賤な女」という言葉を聞き、晋太郎は一瞬で険しい顔になった。彼は貞則の前に来て、いきなり彼の襟を掴んだ。「これ以上紀美子のことをそんな風に呼んで、ムショの中でどうなっても知らんぞ!」自分の息子に襟を掴まれた貞則は、顔が真っ赤になった。「俺は何もやっておらん、何故ムショに入れられるんだ?愚か者め。簡単にあんな噂を信じてどうする?」「噂、だと?」晋太郎はさらに一歩貞則に近づいた。「俺がこの耳で聞いたのだ。ただの噂じゃない!」晋太郎の話を聞き、貞則急に悟った。「お前だったのか?俺の書斎に盗聴器をつけたのは!ありえん!ありえないぞ!あんな厳重なセキュリティを突破して侵入してくるなんてありえない!」その話を聞いた紀美子が驚いて晋太郎を見た。彼女は晋太郎が口を滑って子供達のことを言い出すのではないかと心配した。貞則はこの先、刑務所に入れられるのは決まっているが、事前に手を打たなければならない!彼女はどう晋太郎に注意するかを考えているうちに、晋太郎は口を開いた。「あんなザルみたいなセキュリティ、俺が突破できないとでも思ってんのか?大した自信だな。MKにはトップレベルのハッカーが何人いると思う?奴らに突破できないセキュリティなど、存在しない!」紀美子は杞憂だと分かって、ほっとした。晋太郎の頭脳は極めて賢く、子供達のことを漏らす可能性はなかった。貞則の顔は真っ青になり、目線を少し離れた所にいる紀美子に落とした。「ははっ!」貞則はいきなり大声で笑い出した。「お前、とんだ恋愛脳だな。たった一人の女の為に自分の父を刑務所に送るなんて!よその人達にどう見られるか、考えたことあるのか?そんなことをしたら天罰に当たる!冷血なやつめ。お前が殺されるのを待ちきれん!」この世の中で一番最悪な言葉は、親から子供への呪いであろう。紀美子は晋太郎を連れて帰ろうとしたが、彼にはまだまだ聞きたい話が沢山あると分かっていた。晋太郎は貞則の襟を離し、背を伸ばして彼を見下ろした。「そんなこと言って、次郎のヤツのこ
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く
「それは――龍介さんが自分で瑠美とちゃんと話すしかないんじゃない?」紀美子は微笑みながら言った。「紀美子、今夜は瑠美を呼んでくれてありがとう」龍介はグラスを持ち上げた。紀美子もグラスを上げて応じた。「龍介さんにはお世話になりっぱなしなんだから、こんな簡単なことでお礼言われると困るわ」夜、紀美子と晋太郎は子供たちを連れて家に戻った。紀美子が入浴を終えたちょうどその時、ゆみから電話がかかってきた。通話を繋ぐと、ゆみはふさぎ込んだ声で聞いてきた。「ママ、明日お兄ちゃんたち行っちゃうんでしょ?」紀美子はぎょっとした。「ゆみ、それは兄ちゃんたちから聞いたの?」「うん」ゆみが答えた。「ママ、お兄ちゃんたち何時に行くの?」浴室から聞こえる水音に耳を傾けながら、紀美子は言った。「ママも正確な時間わからないの。パパがお風呂から出たら聞いてみるから、ちょっと待っていてくれる?」「わかった」ゆみは言った。「ママ、それまで他の話しよっか」紀美子はゆみと雑談をしながら、十分ほど時間を過ごした。すると、晋太郎がバスローブ姿で現れた。ゆみの元気な声が携帯から聞こえてきたため、晋太郎は髪を拭きながらベッドの側に座った。「もう11時なのに、まだ起きてるのか?」紀美子が体を起こした。「佑樹たち明日何時に出発するのか知ってる?」晋太郎は紀美子の携帯を見て尋ねた。「ゆみはもう知ってるのか?」「知ってるよ!」ゆみは即答した。「パパ、私お兄ちゃんたちを見送りに行きたい」「泣くだろう」晋太郎は困ったように言った。「だから来ない方がいい」「嫌だ!絶対に行くの。だって次に会えるのいつかわからないんだもん」ゆみは強く主張した。その声は次第に震え始め、今にも泣き出しそうな顔になった。晋太郎は胸が締め付けられる思いがした。「分かったよ……専用機を手配して迎えに行かせる」そう言うと彼はベッドサイドの携帯を取り上げ、美月に直ちにヘリコプターを手配するよう指示した。翌日。紀美子は早起きして、子どもたちのために豪華な朝食を用意した。子供たちは、階下に降りてきてテーブルいっぱいに並んだ見慣れた料理を目にすると、驚いたように紀美子を見つめた。「これ全部、ママが一人
龍介は瑠美に笑いかけて言った。「瑠美、この前は助けてくれてありがとう」彼がアシスタントに目配せすると、用意してあった贈り物が瑠美の前に差し出された。「ささやかものだけど、受け取ってほしい」瑠美は遠慮なく受け取り、龍介に聞いた。「開けていい?」「どうぞ」瑠美は上にかけられていたリボンを解き、丁寧に箱のふたを開けた。中身を目にした瞬間、彼女は驚いて目を見開いた。「えっ!?これどうやって手に入れたの?!瑠璃仙人の作品でしょ!?」「前に君が玉のペンダントしてたから、好きなんだろうと思って」「めっちゃ好き!!」瑠美は興奮して紀美子に言った。「姉さん!これ梵語大師の作品よ!前に兄さんに探させたけど全然ダメだったのに!」紀美子は玉のことには詳しくないため、梵語大師が誰なのかもわからなかった。彼女はただ穏やかに微笑んで言った。「気に入ってくれて良かったわ」一方、晋太郎の視線は龍介に留まった。龍介の目には、かすかな熱意のようなものがある。紀美子を見る時には決して見せたことのない眼差しだ。もしかして、龍介は瑠美に気があるのか?晋太郎は探るように口を開いた。「吉田社長の狙いがこんなに早く変わるとはな」龍介は瑠美の笑顔から視線を外し、晋太郎の目を見つめて言った。「森川社長、それはどういう意味だ?」晋太郎は唇を歪めて冷笑した。「吉田社長、新しい対象ができたのに、なぜまだ紀美子に執着してるんだ?」それを聞いて、瑠美は驚いて顔を上げ、龍介と紀美子を交互に見た。紀美子は瑠美の視線を感じ取って、説明した。「私と吉田社長は何もないから、誤解しないで」「誤解なんてしてないよ」瑠美は言った。「でも晋太郎兄さんが言ってた『吉田社長の狙い』って、私のこと?」紀美子も、晋太郎のその言葉の真意はつかめていなかった。龍介のような、感情を表に出さず落ち着いていて慎重なタイプが、活発で明るい瑠美に興味を持つのだろうか。もしかすると、あの時瑠美が龍介を助けたことがきっかけなのか?二人の年齢差は10歳ほどあるはずだ。でも、性格が正反対なほど惹かれ合うって話もある。もし瑠美が龍介と結婚したら、みんな安心できるだろう。「もしよければ、瑠美さん、連絡先を教えてくれないか?」
そう言うと、晋太郎はさりげなく紀美子から車の鍵を受け取った。佑樹が傍らで晋太郎をじっと見て言った。「パパ、違うよ。ママが誰かとお見合いするわけじゃん」晋太郎は生意気な佑樹を見下ろしながら聞き返した。「じゃあ、何だって言うんだ?」佑樹は笑いながら紀美子を見て言った。「ママみたいな美人、お見合いなんて必要ないじゃん。ママに告白したい人を並ばせたら、地球を一周できるよ」念江も付け加えた。「前におばさんから聞いたけど、ママの会社の重役や課長さんたちもママに気があるらしい」晋太郎の端整な顔に薄ら笑いが浮かんだが、その目には陰りがあった。「ろくでもない奴らだ。君たちのママはそんなやつらに興味ない」重役と課長か……晋太郎は鼻で笑った。計画を早める必要がありそうだな。「そろそろ時間よ。遅れちゃうわ。三人とも、もう出発できる?」紀美子は腕時計を見て言った。一時間後。紀美子と晋太郎は二人の子供を連れてレストランに到着した。龍介が予約した個室に入ると、彼はすでに待っていた。紀美子を見て龍介は笑顔で立ち上がった。「紀美子、来たね」紀美子が前に出て謝った。「龍介さん、ごめん。渋滞でちょっと遅れちゃった」「気にしないで」龍介は晋太郎を見上げて言った。「森川社長、久しぶりだな」晋太郎は鼻で嗤い、皮肉をこめて言った。「永遠に会わなくてもいいんじゃないか」龍介はその言葉を無視し、子供たちにも挨拶してから席に着いた。紀美子が子供たちに飲み物を注いだ後、龍介に尋ねた。「今日は何の用?」「じゃあ単刀直入に言うよ」龍介の表情が急に真剣になった。「紀美子、瑠美は君の従妹だよね?一度彼女に会わせてくれないか?」紀美子は驚き、晋太郎と視線を合わせてから龍介を見た。「この前の件で瑠美に会いたいの?」龍介は頷き、率直に答えた。「ああ、命の恩人に対して、裏でこっそり調べたり連絡するのは失礼だと思ってね」「紹介はできるけど、彼女が会ってくれるかどうかはわからないよ」「頼むよ。あれからずっと、ちゃんとお礼も言えてなかったから」紀美子は頷き、携帯を取り出して瑠美の番号を探し出した。「今連絡してみる」電話がつながると、瑠美の声が聞こえた。「姉さん?どうした?
どっちみち焦っているのは晋太郎の方で、こっちじゃないんだから。これまで長い年月を待ってきたのだから、もう少し待っても構わない。2階の書斎。晋太郎はむしゃくしゃしながらデスクに座っていた。紀美子が龍介と電話で話していた時の口調を思い出すだけで、イライラが募った。たかが龍介ごときに、あんなに優しく対応するなんて。あの違いはなんだ?ちょうどその時、晴から電話がかかってきた。晋太郎は一瞥してすぐに通話ボタンを押した。「大事じゃないならさっさと切れ!」晋太郎はネクタイを緩めながら言った。電話の向こうで晴は一瞬たじろいだ。「晋太郎、家に着いたか?なぜそんなに機嫌が悪いんだ?」晋太郎の胸中は怒りでいっぱいになっており、必然と声も荒くなっていた。「用があるなら早く言え!」「はいはい」晴は慌てて本題に入った。「さっき隆一から電話があってな。出国前にみんなで集まろうってさ。あいつまた海外に行くらしい」「無理だ!」晋太郎は即答した。「夜は予定があるんだ」「午後、少しカフェで会うだけなのに、それも無理か?」午後なら……夜の紀美子と龍介の待ち合わせに間に合う。ついでに、あの件についても聞けるかもしれない「場所を送れ」30分後。晋太郎は晴と隆一と共にカフェで顔を合わせた。隆一は憂鬱そうにコーヒーを前にため息をついた。「お前らはいいよな……好きな人と結婚できて」晴はからかうように言った。「どうした?また父親に、海外に行って外国人とお見合いしろとでも言われたのか?」「今回は外国人じゃない」隆一は言った。「相手は海外にいる軍司令官の娘で、聞くところによると性格が最悪らしい」晴は笑いをこらえながら言った。「それはいいじゃないか。お前みたいな遊び人にはぴったりだろ?」「は?誰が遊び人だって?」隆一はムッとして睨みつけた。「お前みたいなふしだらな男、他に見たことないぞ!」「俺がふしだらだと?!」晴は激しく反論した。「俺、今はめちゃくちゃ真面目だぞ!」隆一は嘲るように声を上げて笑った。「お前が真面目?笑わせんなよ。佳世子がいなかったら、まだ女の間でフラフラしてたに決まってるだろ!」「お前だってそうだったじゃないか!よく俺のことを言える
晋太郎は思わず唾を飲み込んだ。言葉に詰まる彼を見て、紀美子は笑いながら頬の髪を耳にかけた。「晋太郎、隠してもね、ふとした瞬間に本心は漏れるものよ。言いたくないなら無理強いはしない。いつかきちんと考えがまとまったら、また話しましょう」そう言うと、紀美子は先を行く子供たちの手を取って笑いながら歩き出した。紀美子の後姿を見ながら、晋太郎は考え込んだ。……翌日。一行は荷物をまとめ、帝都に戻った。別荘に着くとすぐ、紀美子は龍介から電話を受けた。彼女はスピーカーをオンにし、子供たちのためにフルーツを準備しながら応答した。「龍介さん」そう言うと、電話の向こうから龍介の心配そうな声が聞こえてきた。「紀美子、大丈夫か?」ちょうどキッチンに入ってきた晋太郎は、はっきりとその言葉を聞いた。彼は眉をひそめ、テーブルに置かれた紀美子の携帯を不機嫌そうに睨みつけた。「相変わらず情報通だね。大丈夫だよ、心配しないで」「いや、情報通ってわけじゃない」龍介は言った。「今、トレンド一位が悟の件だ。まさか自殺するとは」紀美子はリンゴの皮をむく手を止めた。「もうその話はいいよ。過去のことだし」「悪い。今晩、空いてる?食事でもどうだ?」「無理だ!」突然、晋太郎の声が紀美子の背後から響いた。びっくりして振り向くと、彼はすでに携帯を奪い取っていた。龍介は笑いながら言った。「森川社長、盗み聞きするなんて、よくないね」「陰で俺の女を誘う方がよほど下品だろ」「森川社長、俺と紀美子はビジネスパートナーだ。食事に誘うのに許可が必要か?」晋太郎は冷笑した。「お前みたいなパートナー、認められない」「森川社長と紀美子はまだ何もないはずだ。『俺の女』って言い方、どうかしてるぞ」「……」紀美子は言葉を失った。この二人のやり取り、いつまで続くんだろう……「龍介さん、何か急ぎの用?」紀美子は携帯を取り返し、呆れた様子で晋太郎を一瞥した。「相談したいことがある。家族連れでも構わない」「わかった。後で場所と時間を教えて」「ああ」電話を切ると、紀美子は晋太郎を無視してリンゴの皮むきを続けた。晋太郎は腕を組んでキッチンカウンターに寄りかかり、不機嫌そうに聞いた。「俺とあいつが同
「お前の両親は納得したのか?」晋太郎がさらに尋ねた。「俺はあいつらと縁を切ったのさ。だから何を言われようと、俺は気にしない」晴は肩をすくめた。「子供たちを海外に送りだしたら、準備する」晋太郎は視線を紀美子と子供たちに向けた。「そう言えば、佑樹たちはいつ出発するんだ?」晴はハッと気づいた。「明日、まず彼らを帝都に連れ帰る。明後日には隆久と一緒に出発する予定だ」晋太郎は日数を計算した。「ゆみには言わないのか?兄たちを見送らせてやらなくていいのか?」晴は軽くため息をついた。「必要ない」晋太郎は即答した。「ゆみを泣かせたくない」「お前のゆみへの態度、日に日に親バカ度が上がってるように感じるよ。昨日佳世子と話してたんだ。『もう一人産んで、その子を譲ってくれ』って」晴は眉を上げた。「寝言は寝てから言え」晋太郎は足を止め、不機嫌そうに彼を見た。「お前と紀美子はまだ産めるだろうが、俺は無理なんだよ!」晴は言った。「今の医療技術なら、子供への感染を防ぐ方法も試せる」晋太郎は彼をじっと見た。「『試せる』って言ったろ」晴は落ち込んだ。「もし運が悪くて子供に感染したらどうする?」「たとえお前が俺の子供を自分の子のように育てられても、お前たちには大きな悔いが残るだろう」晋太郎は言った。「もういい。佳世子に毎日苦しみと自責の念を味わわせたくない。病気だけでも十分辛いんだ」晴はため息をついた。「俺は子供をやるつもりもない」そう言うと、晋太郎は紀美子たちの後を追った。「晋太郎!酷いこと言うなよ!金は弾むよ。少しは人情を持てよ!」晴は目を見開いた。晴の見えないところで、晋太郎の唇がかすかに緩んだ。夕食後。紀美子と晋太郎は、二人の子供を連れて外を散歩した。「会社の合併について考えたことはあるか?」しばらく歩くと、晋太郎は傍らの紀美子に尋ねた。「合併ってどういう意味?」紀美子は彼を見上げた。「文字通りの意味だ」晋太郎は、もし紀美子がまた妊娠したら、彼女に産休を取らせるつもりだった。「あんたの力に頼って会社を発展させる気はないわ。全てが無意味になる」「MKを見くびっているのか?」晋太郎は足を止めて彼女を見た。「MKの実力を馬
遠くのスナイパーも急いでライフルの安全装置を外したが、悟は自分のこめかみに銃を向けた。晋太郎は呆然とした。言葉を発する間もなく、悟は笑みを浮かべながら引き金を引いた…………紀美子が目を覚ました時、自分が元の部屋にいないことに気づいた。佳世子が傍らに座り、二人の子供たちと話していた。彼女がゆっくりと体を起こすと、その音に三人が一斉に振り向いた。「紀美子!」佳世子が駆け寄った。「目が覚めたんだね!」「どうやって戻ってきたの?」紀美子は尋ねた。「晋太郎が連れ帰ってくれたの。もう全部終わったわ」佳世子は明るく笑った。「終わったって……?」紀美子は理解できずに聞いた。「悟は?自首したの?」「彼、自殺したの」佳世子の瞳が少し潤んだ。自殺……紀美子は凍りついた。「晋太郎と二言三言交わした後、自分のこめかみに銃を向けて、みんなの目の前で死んだらしいわ。あの時彼があんたを再び部屋に連れ戻した理由が分かる気がする。自分の死に様を見せたくなかったんでしょうね」佳世子は続けて言った。紀美子は、ホテルのロビーで大河が撃たれた後、悟が彼女の目を覆ったことを思い出した。悟の結末を聞いて、紀美子は複雑な心境になった。悲しい?悟は数々の非道なことをしたのに、なぜ悲しいのか分からなかった。少しも嬉しい気持ちになれない。目が次第に赤くなっていく紀美子を見て、佳世子は心の中でそっとため息をついた。二人は、長年共に過ごした仲間だ。たとえ悟がどれほど冷血なことをしたとしても、紀美子は彼が優しくしてくれた日々を思い出さずにはいられないだろう。だって、あの優しさは本物だったから。「晋太郎は?」紀美子は長い沈黙の後、ようやく息をついて話題を変えた。「隣の部屋で会議中よ。会社の用事で、晴も一緒だわ」佳世子は答えた。紀美子は頷き、視線を子供たちに向けた。「この二日間、怖い思いをさせちゃったね」彼女は両手を広げ、微笑みながら言った。二人の子供は母の懐に飛び込んだ。「お母さん、怪我はない?」念江が心配そうに尋ねた。「うん、とくに何もされなかったわ」紀美子は首を振って答えた。「あの悪魔はもういないし、僕と念江も安心して出発できる」「うん、外でしっか
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言