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第305話

Author: 無敵で一番カッコいい
ロシア・ムルマンスクから届いた手紙には、幻想的なオーロラの写真と、淳也がヘラジカと並んで写った一枚が入っていた。

黒いウィンタージャケットに身を包み、フードの隙間から覗く前髪には白い霜が凍りついている。

その瞳は、透き通るような静けさを宿していた。

明日香は微笑みながら、短く返信を打った。

【すごくきれい、ありがとう】

この景色を、代わりに見せてくれてありがとう。

ムルマンスクは今、極夜のただ中。太陽が昇らない静かな夜の街で、淳也はテントの脇に腰を下ろし、明日香からの返信を見つめていた。

背後から、ロシア語の呼びかけが飛んだ。

「ジュンヤ、食事の時間だぞ!」

彼は携帯をそっとしまい、寒空の中、テントへと戻っていった。

旅の道中で知り合ったバックパッカー仲間との日々は、彼にとって特別な時間になっていた。

その日、南苑の別荘では正月の準備が進んでいた。門松が飾られ、窓にはしめ縄が垂れ下がり、家中に正月らしい空気が漂っていた。

遼一と珠子は飾り付けに忙しく、病院から戻ったばかりのウメも手伝いに加わっていた。

とはいえ、明日香がどれほど長くこの家に居られるかは、誰にもわからなかった。階段を降りてきた明日香は、小さなバックを肩にかけていた。台所から顔を覗かせたウメが声をかけた。

「もうお正月なのに、どこへ行くの?」

「図書館。資料を借りに」

「えぇ、休みなのに勉強?ちょっとは休んだら?お団子作ってるのよ、すぐできるから食べていきなさい」

そこへ、使用人が封筒の束を手に駆けてきた。

「お嬢様、お手紙です!またロシアからですよ。この時代に、手紙なんて風流ですねぇ」

心臓がひとつ跳ねた。

淳也だ。

封筒を受け取ったその時、ちょうど遼一と珠子が買い物から戻ってきた。中村が両手いっぱいに正月用品を抱えて後ろをついてくる。

「遼一様、珠子ちゃん、ちょうどよかった。お団子できたから食べていきなさい」

ウメが笑顔で器を運んできた。珠子は買い物袋をテーブルに置きながら、楽しげに言った。

「ウメさん、こんなにたくさん......みんなで一緒に食べましょうよ」

そこへ芳江が温かい牛乳とサンドイッチを運んできて、ふと明日香の手元の封筒に目をとめた。

「お嬢様、何見とんじゃい?わあ、めっちゃきれいやねー!」

封筒から滑り落ちた写真が、テーブルの上に
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