INICIAR SESIÓN常盤台高校サッカー部のグラウンドを包む夕闇は、練習の終盤、最も密度を増す。
照明が灯り、白いボールが放物線を描く中、練習の締めくくりとなるミニゲームが佳境を迎えていた。Aチームの攻撃陣。右サイドの深い位置で動き直した桐生は、マークを外す一瞬のステップを踏みながら、中央のバイタルエリアへと視線を送った。そこには、ディフェンスの網の目に沈むようにして、天根蓮が立っている。
(……まだ、出ねぇか)
桐生は一瞬、走り込むコースを探した。だが、相手ディフェンスの寄せは速い。ボランチとセンターバックの間に、針の穴を通すような隙間が一瞬だけ生まれた、その刹那だった。
――来た。
思考よりも早く、視界の端で白い閃光が走った。
地を這うような鋭いグラウンダー。芝を切り裂く音が聞こえてきそうなほど、回転の効いた重いパスだ。(速い……ッ!)
桐生は反射的に身体を投げ出すように走り込んだ。
終業式の後、校門を出たところで蓮は一度だけ足を止め、グラウンドから断続的に響いてくるボールの音と掛け声に短く視線を向けた。 ボールの音が、一定の間隔で響いている。もう、部活は始まっているらしい。 しばらくそのまま見てから、何も言わずに視線を外し、そのまま歩き出した。 自宅に戻ると玄関には既にスーツケースが置かれていた。 リビングの扉の向こうからは、「遅い」と椿の声が飛んでくる。「準備は?」「終わってる」 短く返してそのまま自室に入り、あらかじめ用意していた服に着替え、シューズとノートをバッグに詰めて口を閉じる。 余計な確認はせず、そのままリビングに戻った。「行くわよ」「ああ」 二人はそのまま家を出た。キャリーケースの車輪が路面を擦る乾いた音だけを背後に引きながら、駅までの道を並んで歩く。 会話らしい会話は交わさないまま改札を抜けて電車に乗り込み、空いた席に並んで腰を下ろすと、流れていく景色の中で見慣れた街並みが少しずつ切り替わっていくのを黙って眺めた。「ここからどれくらいかかるんだ?」「2回乗り換えして、3時間半くらいね」「そこそこ遠いな」「まあね」 それ以上は続かず、電車の揺れと車内アナウンスだけが時間の経過を知らせた。 やがて降車駅に着くと二人は無言のまま立ち上がって改札を抜けた。 肌に当たる空気の温度と乾きが明らかに変わったのを感じながら、人通りの少ない駅前を抜けて住宅街へ入ると、舗装の状態や建物の配置を横目に見ながら奥へ進んでいく。 やがて椿が足を止めた先には、住居とそれに連なる別棟が同じ敷地内で機能を分けるように並んでおり、外観に派手さはないものの動線の整理された造りが一目で分かる。「ここよ」 そう言うと椿は、鍵を使って扉を開ける。 いつものマンションとは、違う鍵。「ただいま」 すぐに奥から足音が近づき、「おかえり」と明るい声が返ると女性が姿を見せ、椿の後ろに立つ蓮を一度で見
「天根くん、冬休みって空いてるかしら?」 冬休みを目前に控えたある日のこと、椿が切り出した。「冬休み……? 部活だけど……」 蓮は短く答える。 右脚の状態は問題ない。 軽い負荷なら違和感も出ていない。 そろそろ復帰できる。 その認識だった。 椿はそのまま蓮を見ている。「部活復帰、冬休み明けにできない?」 その言葉に蓮は、少しだけ眉を動かした。「なんで?」 理由が分からない。 復帰を遅らせる意味がない。 椿は一度だけ視線を落とし、すぐに戻す。「前に言ってたでしょ?トレーニングのコーチ、探すって」「……ああ、まだ見つかってないけど」「紹介できるかもしれない」 蓮はバッと顔を上げる。「見つけてくれたのか!?」「知り合いにいるから、当たってみただけよ」 椿は、食事の準備をしながら淡々と告げた。 それ以上は何も言ってこない。 蓮は息を一つ吐いた。 テーブルに視線を落とす。 ノートは開いたまま。 書きかけの文字が、途中で止まっている。「それで、なんて?」「冬休みの間なら、都合がつくって」「なるほど、それで冬休み中の予定を聞いてきたのか」「……そう。どうする?私が勝手に当たってみただけだから、断ることもできるけど」「いや、お願いしたい」 蓮は迷いなく答えた。 その回答の速さに、椿の手が思わず止まる。「……いいの?ボール、蹴りたいんじゃないの?」「大丈夫だ。ボールはどこでも触れるし。 それよりもフィジカルトレーニングだ。さすがにそろそろ見つけないとって思ってたんだ」 窓の外に視線を向ける。 日が落ち始めている。 グラウンドの照明が、遠くで点いている。「……それで、なんて人なんだ?有名
冬休みを目前に控えた朝。 外の空気は冷たく、吐き出した息が白く残った。 蓮は自宅前の路面に視線を落とし、アスファルトの感触をシューズ越しに確かめながら、右足の母指球へゆっくりと体重を乗せる。 痛みは、もうほとんどない。 炎症も治まり、医師から指示されたトレーニングを続けたことで、可動域も筋出力も怪我をする前の状態へ戻りつつあった。 だが、蓮の中にある理想の動きと、実際に身体から返ってくる感覚には、まだわずかな差が残っている。 ジョギングの速度から、一歩。 右脚へ体重を乗せ、地面を蹴る。 沈み込んだ膝が伸び、身体が前へ出る。 戻ってきている。 以前よりも明らかに力は入るし、踏み込んだ右脚にも痛みはない。 それでも蓮は、八割ほどまで出力を上げたところで、それ以上踏み込むのをやめた。(……これ以上は、今はやらない) できるかどうかを確かめるためだけに、限界まで試す必要はない。 それは、誠和戦の後に一度やった。 相手の圧に抗えず、思うように前を向けなかった。 その差を少しでも早く埋めようとして、焦ったまま一人で走り込みを続け、自分で身体を壊した。 結果として、練習どころか試合にも出られなくなった。 同じことを繰り返すつもりはない。 蓮は右脚を軽く振って状態を確かめると、玄関へ戻ってシューズを脱ぎ、リビング横のトレーニングスペースへ向かった。 部屋の隅には、ラバーチューブ、バランスディスク、低負荷の可変式ダンベルが並んでいる。 怪我を治し、元の状態へ戻すためには必要なものだった。 実際、これまで続けてきたメニューによって身体は順調に回復している。 だが、蓮が欲しいのは、元に戻った身体ではない。 誠和戦で押し負けた身体を、その先へ持っていく必要がある。 チューブを足へ掛け、ゆっくりと外側へ開く。 戻す。 もう一度。 筋肉の反応を確かめながら、決められた回数を繰り
夕方。天根家のリビングは、昼間よりも静かだった。 風呂から上がった蓮はソファに腰を下ろし、右脚を伸ばしたまま動かさない。無理に固定しているわけではない。ただ、そうしている方が自然だった。 テーブルの上には、ノートとペン。 開かれたまま、ほとんど書き込まれていない。 視線だけがそこに落ちている。「……何してるの?」 キッチンから、椿の声が飛んできた。「一応、整理」「何の?」「復帰までにやること」 椿は少し間を置いてから、こちらへ歩いてくる。 手にはボウル。中身は刻まれた野菜だった。「白紙じゃない」「……まだ途中だ」 椿はテーブルの横に立ち、ノートを覗き込む。 数秒だけ見て、小さく息を吐いた。「抽象的すぎるわよ、まったく」「そうか?」「“強度上げる”って、何をどう上げるのか書いてないじゃない」「……そこはこれから詰める」「詰める前に、今やることあるでしょ」 淡々とした口調だった。 責めているわけではない。ただ、順番を正している。 蓮はペンを置いた。「……何だ?」「回復よ。今のあなた、トレーニング以前の段階よ」「分かってる。だから、今はノート開いてる」 椿はボウルをテーブルに置き、そのまま向かいに座る。「それならいいけど。 ……どのくらい?」「何が」「足の痛み。まだ痛むでしょ」 蓮は少し考える。「……歩く分には問題ないな」「それは聞いてないわよ。痛み具合の話」「――力を入れると、引っかかる」「そう。今日のストレッチは?」「まだ、これから。手伝ってもらってもいい?」「ちょっと待って、野菜をキッチンに置いてくるわ」 椿は立ち上がり、ボウルを持ってキッチンへ戻る。 水の
食事は、もう終わりかけていた。 蓮は残っていた一口を口に運び、ゆっくりと噛む。味は変わらない。必要なものだけを削り出したような構成の中で、食べる側の負担だけが計算されている。 飲み込んでから、水を一口。 喉を通る感覚と同時に、右脚の奥に残る鈍い熱を意識する。 キッチンでは、椿が背を向けたまま手を動かしていた。包丁の音が一定の間隔で続いている。 蓮はその音をしばらく聞いてから、口を開いた。「……すまない」 包丁の音が止まる。 だが、椿は振り返らない。「今日、桐生先輩にも言われたんだ。焦っても、いいことはないって」 少し間を置く。「……分かってたつもりだった」 そこで一度、言葉が切れる。 椿は何も言わない。「でも、あの試合で何もさせてもらえなかった」 声は落ち着いている。 だが、抑えきれない何かが、わずかに滲む。「このままじゃダメだって、もっと強くならなきゃって。 それで……このザマだ」 視線が、右脚に落ちる。 キッチンは静かなままだ。「……橘さんの忠告を無視して、隠れてやって。 橘さんの管理から外れた途端に、この結果だ」 椿の指先が、わずかに動いた。「……だから、ごめん」 沈黙が落ちる。 椿はゆっくりと息を吐き、こちらを振り向く。「それでも、私は管理栄養士よ。あなたの体調の変化には敏感に気づくべきだった それなのに、壊してしまった。誰がなんと言おうと、私にも責任はあるわ。例えあなたでも、それは否定させない」 椿の断固とした意思を写した瞳に、蓮は苦笑を浮かべる。「頑固だな。徹底して隠してたんだから無理もないってのに」「なんで、隠してたの?」「だって怒られるだろ」「子どもなの……?」 今度は呆れたような目線と苦笑がキッチンから飛んできた。「……次は、やり方変
朝、目を覚ました瞬間に、蓮は右脚の存在を思い出した。 疼痛は昨夜よりもわずかに鈍い。だがそれは回復ではなく、損傷がそこに「居座っている」だけだった。太ももの裏に残る重い熱と硬さが、寝返り一つで神経を引きつらせる。 天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。 昨夜の光景が、頭から離れない。 椿が泣いていた。 あれは仕事の失敗に対するものではない。もっと個人的で、もっと深いところから崩れたものだった。 ――自分が壊した。その認識だけが、静かに残っている。 蓮は息を吐き、身体を起こした。 リビングへ向かうと、キッチンにはすでに椿が立っていた。 動きはいつも通りだった。食材を刻むリズムも、火加減の調整も、無駄がない。朝の光の中で見る横顔も、表面上は何も変わっていない。 だが、空気が違う。「……おはよう、天根くん」 振り返らないままの声。 平静を保っているが、意図的に均された硬さがあった。「……ああ、おはよう」 それだけで会話は途切れる。 テーブルに並んだ朝食は、完全に回復へ寄せられていた。消化負担を抑えながら、必要な栄養素だけを過不足なく摂取させる構成。昨夜のあとでも、この精度を崩していない。 蓮は箸を取る。「食べて」 ようやく椿がこちらを見た。赤みは引いているが、まぶたのわずかな腫れと、感情を伏せた視線が残っている。 蓮は何も言わず、食事を口に運んだ。 味は変わらなかった。 余計なものが削ぎ落とされた中でも、食べる側への配慮だけは消えていない。 その気遣いが、かえって重い。 昨夜見たファイルの内容と、この一皿が、完全に繋がっている。 何か言うべきだと分かっている。 だが結局、二人の間にあるのは最低限のやり取りだけだった。「薬は朝食後ね」「分かってる」「日中、水分はこまめにとって」「……ああ」 椿はそれ以上何も言わず、







