Se connecterドイツ屈指の名門育成組織から帰国した高校生MF・天根蓮。 世界基準の才能を持つ彼にとって、食事はただの”機能”だった。 しかし、隣に住むスポーツ栄養科の同級生・橘椿は、その食生活を真っ向から否定する。 「その食事じゃ、成長期の身体は壊れるわ」 独学に限界を感じていた蓮は、自らの身体を”被検体”として預け、椿は管理栄養士の卵として彼を支えていく。 変わったのは身体だけではない。コンディション、判断力、プレー精度、そして二人の距離。 これは、 世界を目指す天才サッカー少年と、 その身体を支える少女が紡ぐ、 三年間の成長譚。
Voir plus冷たい冬の風が、シュトゥットガルトのスタジアムを吹き抜ける。
灰色の雲は低く垂れ込み、試合開始を待つ観客席にはまだ空席が目立っていたが、ピッチではそんな空模様など気にも留めず、二十二人の選手が激しくボールを追っていた。その中心にいる黒髪の少年へ、縦パスが入る。
「Ren, benutze die Seite!(蓮、サイドを使え!)」
味方の声が飛ぶより早く、蓮は足元へ収めたボールを半歩だけ前へ運んだ。
センターバックが距離を詰める。
それを見たサイドバックが内側へ絞る。
右サイドに残った数メートルの余白へ、左足が迷いなくボールを送り出した。
「Okay, los geht’s.(よし、いくぞ)」
低く滑るパスを右ウイングが受けると、そのまま縦へ持ち出す。相手ディフェンスは一斉に食いつき、中央にはわずかな歪みだけが残った。
蓮はそこへ走る。
右から中へ。
折り返しが来る前から、その先に何があるのかは決まっていた。
ワンタッチ。
身体を寄せてきたセンターバックを背中で外しながら、視線だけがゴール前をなぞる。
センターバックとサイドバックの間。
三十センチにも満たない隙間へ、味方フォワードが斜めに走り込む。
「Mach ihn rein.(ほら、決めろよ)」
左足のインサイドが軽く触れただけで、ボールはディフェンスラインを裂き、誰も触れられない軌道のまま味方の前へ転がった。
スタジアムが沸く。
ネットが揺れるより早く、蓮はもう次のプレーへ身体を向けていた。
◇
「Wie immer war es genau richtig!(相変わらずドンピシャだったな!)」
試合を終え、タオルを首に掛けた蓮の肩をチームメイトが軽く叩く。
「Danke. Dein Laufweg war perfekt.(そっちこそ。絶妙な抜け出しだったよ)」
二人が笑い合っていると、コーチがゆっくり歩み寄ってきた。
「Dein Spiel heute war perfekt. Aber ist das wirklich in Ordnung?(今日のプレーも完璧だった。……だが、本当にいいのか?)」
蓮は答えず、続きを待つ。
「Du wärst dem Profidasein näher, wenn du in der Jugendmannschaft weiterspielen würdest. Willst du wirklich nach Japan gehen… und dann auch noch zu einem Verein?(このままユースで続ければ、プロはもっと近い。それなのに本当に日本へ、それも部活動へ行くつもりなのか?)」
灰色の雲が流れ、切れ間から淡い光がピッチへ落ちた。
蓮はその光を一度だけ見上げる。
ここで学べることは、もう十分に学んだ。
次に必要なのは、ボールを蹴る技術でも、戦術でもない。
静かにコーチへ向き直る。
「Ja.(はい)
Es ist notwendig, um ein Profi zu werden.(プロになるために必要なことですから)」
コーチはしばらく蓮を見つめ、それ以上は何も言わなかった。
ロッカールームへ向かう蓮の足取りは変わらない。
曇天の向こうにある空はまだ見えない。
それでも、向かう場所だけは決まっていた。
日本。
高校サッカーという、新しい舞台へ。
常盤台高校サッカー部のグラウンドを包む夕闇は、練習の終盤、最も密度を増す。 照明が灯り、白いボールが放物線を描く中、練習の締めくくりとなるミニゲームが佳境を迎えていた。 Aチームの攻撃陣。右サイドの深い位置で動き直した桐生は、マークを外す一瞬のステップを踏みながら、中央のバイタルエリアへと視線を送った。そこには、ディフェンスの網の目に沈むようにして、天根蓮が立っている。(……まだ、出ねぇか) 桐生は一瞬、走り込むコースを探した。だが、相手ディフェンスの寄せは速い。ボランチとセンターバックの間に、針の穴を通すような隙間が一瞬だけ生まれた、その刹那だった。 ――来た。 思考よりも早く、視界の端で白い閃光が走った。 地を這うような鋭いグラウンダー。芝を切り裂く音が聞こえてきそうなほど、回転の効いた重いパスだ。(速い……ッ!) 桐生は反射的に身体を投げ出すように走り込んだ。 何度も受けてきた、蓮のパスだ。だから、通ることだけは確信できる。 だが、今の一本は、桐生の筋肉が走り出す、その直前。すでにボールは、彼が向かうはずのスペースへと送り出されていた。 桐生は吸い付くようなトラップで勢いを殺し、そのまま反転してシュートを叩き込む。 バシュッ、と小気味よい音が響き、ゴールネットが激しく揺れた。「ナイス、桐生さん!」「今のパス、エグいな……」 周囲から上がる歓声。桐生は軽く手を上げて応えたが、その視線はすぐにパスの出所――センターサークル付近で、呼吸一つ乱さず立っている天根蓮へと向けられた。 全体練習が終わり、各自がボールやマーカーを片付け始める時間。桐生は首にタオルをかけ、ベンチでスパイクを脱いでいる蓮に歩み寄った。「天根」「……はい?」 蓮が顔を上げる。その表情は相変わらず鉄面皮で、激しいミニゲームの後だというのに、肌には
午後の日差しが、アスファルトの熱を孕んで肌にまとわりつく。校門を出た椿の隣には、弾むような足取りの陽菜がいた。吹奏楽部の練習を完全に休み、軽装で歩く彼女からは、好奇心の昂ぶりが隠しようもなく漏れ出している。対照的に、椿の指先はエコバッグの持ち手を無意識に強く握りしめていた。「ねえ椿、そんなに緊張しなくても減るもんじゃないし。私はただ、噂の天才プレーヤーさんを支える献立の裏側を拝みたいだけだよ」「……その言い方、本当にやめて。別に、そんな大層なものじゃないわよ」 椿は前を見据えたまま、短く応じる。言葉とは裏腹に、彼女の脳内ではすでに今日の献立のシミュレーションが始まっていた。インターハイ予選まで一ヶ月。昨日の蓮の動きには、わずかながら判断の遅れが見えた。それは肉体的な疲労だけでなく、司令塔として戦況をスキャンし続ける脳の疲労の現れ。今日の夕食は、練習後でも箸が進むことと、寝る前に身体を重くしすぎないことを優先する必要があった。 スーパーの自動ドアが開くと、冷気が一気に二人を包み込む。椿はカゴを手に取り、精肉コーナーの奥深く、内臓肉の棚へと迷いなく足を向けた。「え、ちょっと椿。最初に行くのそこ? 普通、ひき肉とかバラ肉とかじゃないの」 陽菜が眉をひそめて覗き込んだ先には、パックに詰められた鮮烈な赤色の鶏レバーがあった。椿はそれを一つずつ手に取り、蛍光灯に透かして色味を確認する。「……今日はこれが必要なの。練習強度が上がっているから、鉄分とビタミンB群は意識して補っておきたいの。これ以上に効率的な食材はないもの。見て、こっちの方がハリがあって色が明るいでしょ? 鮮度が命なのよ」「うわぁ……。レバーの鮮度を熱弁する女子高生、初めて見たかも。でも、それって下処理とか大変じゃない?」「それが私の仕事だから」 椿は淡々と答え、次に野菜コーナーへ。小松菜の束を手に取り、茎の太さと葉の色の濃さを吟味する。カルシウムと鉄分を補強し、レバーのクセを抑えるための名脇役だ。さらに、疲労感のある日でも箸が進むよう、香りの強いニラと、辛味の穏やかな
五月の柔らかな夜気が、マンションのベランダを吹き抜けていく。 四〇一号室のダイニングでは、食後の静かな時間が流れていた。 シンクでは、蓮が蛇口をひねり、慣れた手つきで食器を洗っていた。スポンジが皿をなでる音と、蛇口から流れる水の音。椿はカウンターの傍らで、蓮から共有されたタクティクスボードの図面を見つめながら、明日の練習強度を再確認している。後片付けを終えた蓮が、濡れた手を拭きながら椿の隣に腰を下ろした。「……やっぱり、明日も陽菜が何か言ってくるかしら」 椿は、水の音が止まった静寂の中で独り言のように漏らした。 蓮は視線をボードに向けたまま、短く応じる。「気になるなら、釘を刺しておけばいい」「それができれば苦労しないわよ。陽菜は、私がムキになればなるほど面白がるタイプなんだから」「なら、放っておけばいいんじゃないか?プロを目指すためにサポートを受けるのは、欧州では当たり前の選択肢だ。それがたまたま隣人で、同じ高校の生徒だというだけだろ。説明がつかないことは何もない」「それを世間では、たまたまで済ませないのよ……」 蓮の言うことは正しい。しかし、彼の理屈は、陽菜のような勘で動く人間には通用しないことを椿は知っていた。 翌日。 放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、椿はいつものように教室を後にした。 校門を抜け、駅前の大きなスーパーへ向かう。今日は、練習の強度が徐々に上がっている蓮のために、良質なタンパク質と鉄分を補給できるカツオを仕入れる予定だった。 自動ドアをくぐり、カゴを取ろうとしたその時、背後から軽やかな足音が近づいてきた。「つーばき! やっぱりここだ」 振り返ると、吹奏楽部の練習があるはずの陽菜が、楽器ケースを肩にかけたまま立っていた。「陽菜。……練習は?」「今日は個人練習だけだから、ちょっとサボり。それより、椿の買い出しに興味あってさ。付き合っていいでしょ?」 陽菜は拒否する隙を与えず、椿の隣に
五月の午後の陽光は、すでに初夏の気配を孕んでグラウンドの人工芝を熱していた。 ピッチの上では、鋭いホイッスルの音と共に、肉体と肉体がぶつかり合う鈍い音が絶えず響いている。インターハイ予選を一ヶ月後に控え、Aチームの練習は実戦形式のメニューが組まれていた。 蓮は相手ディフェンスの網の目に身を置きながら、絶えず首を振って周囲をスキャンしていた。バイタルエリアにわずかな隙間が生じた瞬間、彼はそこへ滑り込み、味方からの縦パスを呼び込む。 足首に触れたボールは、複雑な回転を殺され、吸い付くようにその場に収まった。一瞬の静止。そこから放たれたラストパスは、ディフェンダーの視界の外を通り、走り込んだ味方の足元へ完璧な精度で届けられた。「ナイス、天根!」 声を上げたのは、二年生の桐生だった。ネットを揺らした桐生が、汗を拭いながら親指を立てる。蓮は短く頷き、すぐに自陣のポジションへと戻った。 彼の動きは、練習の終盤でも、蓮の判断は鈍らなかった。 足元の精度も、首を振る回数も、最初のメニューから大きく落ちていなかった。 同時刻。 西日が差し込む専門教室の窓際で、椿は一冊のノートに向き合っていた。 周囲では同じ課程を歩む生徒たちが、実習の片付けや放談に興じている。その喧騒を遮断するように、椿のペン先は迷いなく動いていた。そこには蓮から共有された今日の練習メニューと、それに基づき算出された推定消費エネルギー、そして脳のパフォーマンスを維持するための栄養管理の計画が、緻密に刻まれている。 その時、机の端に細長い影が落ちた。「つばき、最近ずっとそれやってるね? 放課後なのに熱心だねー」 声をかけてきたのは、友人の陽菜だった。吹奏楽部の練習に向かうべく楽器ケースを肩にかけた彼女は、覗き込むような仕草で椿の顔を覗き込んだ。「陽菜。……別に、ただの調べ物よ」 椿は表情を崩さず、静かにノートを閉じると、鞄の奥へ滑り込ませた。だが、陽菜の口角は面白そうに上がっている。悪意はないが、隠し事を見つけた時の子供のような純粋な好奇心がそこにはあった。