All Chapters of 俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜: Chapter 1 - Chapter 10

211 Chapters

1食目

 日本の四月は、天根蓮が覚えていたよりも、少し眩しく、少し騒がしかった。 三月まで過ごしていたドイツの街には、灰色の空と石造りの建物がよく似合っていた。冷えた空気の中で練習場へ向かい、ボールを蹴り、必要なものを必要なだけ積み上げていく毎日は嫌いではなかったが、私立常盤台高校へ続く通学路に並ぶ桜と、真新しい制服に袖を通した新入生たちの声は、そこにはなかったものばかりだった。 歩道の端に散った花びらが革靴の先で揺れる。 蓮は紺色のブレザーの襟元を軽く整え、校門へ向かう生徒の流れに混ざった。 プロになるために、日本へ戻る。 その選択に迷いはない。 ドイツで身につけた技術も、戦術理解も、世界基準の強度も、自分の中に残っている。けれど、それだけで届くほど、プロの世界が甘くないことも知っていた。 必要なのは、ピッチの外でも自分を崩さないこと。  そのために寮ではなく、一人暮らしを選んだ。 選んだ、のだが。 今朝、蓮はキッチンの前でしばらく動けずにいた。 目玉焼きは、きれいに焼けた。白身の縁は少しだけ焦げ、黄身は箸を入れれば流れるくらいに残っている。トーストも焦げていない。包丁の扱いも、火加減も、動画で見た通りにやれば大きく外れることはなく、料理そのものが致命的に苦手というわけではなかった。 問題はそこではない。 皿の上に並んだ朝食を見下ろしても、それがサッカーをする身体にとって正しい量なのか、午前中の活動に足りる内容なのか、放課後の練習まで見越してどうなのか、何一つ確信が持てなかった。 ドイツでは出されたものを食べ、足りなければ聞けばよかった。 練習量も、補食も、身体の変化も、誰かが数字と経験で支えてくれていた。 だが、一人暮らしの部屋に、その誰かはいない。 冷蔵庫の前に立ち、卵と牛乳と買っておいた野菜を見比べても、そこから正解が浮かび上がってくるわけではなかった。 結局、蓮は棚からプロテインバーを一本取り出し、鞄の外ポケットに突っ込んで家を出た。 正解が分からない。 それは、サッカーではあまり経験しない感覚だった。「ねえ、見て。あの人、新入生かな」 「かっこよくない? モデルみたい」 校門をくぐると、近くにいた女子生徒たちの声が耳に入った。 蓮はそちらへ目を向けず、掲示に従って体育館へ向かう。無視をしたつもりはない。けれど、
last updateLast Updated : 2026-08-06
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2食目

 入学式の翌日、放課後の常盤台高校は、昨日より少しだけ学校らしい音に満ちていた。 教室から吐き出された生徒たちの声が廊下に重なり、部活動見学へ向かう一年生の足音が階段へ流れていく。まだ制服の着方も鞄の置き方もどこか固い新入生たちの中で、蓮は迷うことなく更衣室へ向かった。 昼のうちに確認しておいた場所だった。 トレーニングウェアに着替え、靴紐を結び直し、入部届の入ったクリアファイルを鞄から取り出す。鏡の前で髪を軽く整えると、人工芝のグラウンドへ続く通路を抜けた。 フェンスの向こう側から、鋭いホイッスルの音が飛んでくる。  続いて、腹の底に響くような掛け声。 蓮は一度だけ足を止めた。 広い。 昨日、教室の窓から見下ろした時にも分かっていたが、実際にグラウンド脇へ立つと、人工芝の緑は思っていた以上に遠くまで広がっていた。その上を、赤いトレーニングウェアを着た部員たちがいくつもの集団に分かれて動いている。 ランニングをする組。  ボール回しをする組。  ゴール前でシュート練習をする組。  コーチの笛に合わせ、別の場所では守備のスライド練習が始まっていた。 百人はいる。  それだけでなく、誰も止まっていない。 ドイツで過ごしていたユースチームが、限られた人数で必要な強度を積み上げる場所だったとすれば、ここは一つの大きな組織だった。全員が同じ色を着て、同じ時間に、同じピッチの上で、それぞれの立場を取りに来ている。 日本のトップレベル。  蓮は芝の端に片足を乗せ、靴裏の感触を確かめてから、近くにいた学生マネージャーらしき上級生へ声をかけた。「一年、天根蓮です。入部届、持ってきました」「あ、はい。……え?君があの天根くん?」 上級生が名前を確認した瞬間、近くでボールを拾っていた部員の動きがわずかに遅れた。「あれが、ドイツ帰りの?」 「トップ下だろ? ユースにいたって聞いたけど」 「マジでいたんだな」 声は大きくない。  けれど、隠すつもりもないらしい。 蓮はそれらを聞き流し、グラウンドの中央へ視線を移した。自分を見る目があることは分かっている。期待も、好奇心も、試すような温度も、ピッチに立てばどれも同じだった。 何を見られているかではない。  何を見せるかだ。「天根。こっちだ」 コーチの一人が名前を呼ん
last updateLast Updated : 2026-08-06
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3食目

 駅前のスーパー『サニー』は、放課後の時間帯にしては思っていたより混んでいた。 学校帰りの生徒が菓子パンや飲み物を手に取り、仕事帰りらしい会社員が弁当の棚の前で足を止める。総菜コーナーには買い物かごを提げた主婦たちが並び、店内に流れる明るい音楽とレジの電子音が、練習後の身体には少しだけ遠く聞こえた。 蓮は買い物かごを手に、精肉コーナーの前で立ち止まっていた。 腹は減っている。それは分かる。 練習で使った分を補わなければならないことも、疲労を明日に残さないために食べるべきだということも、知識としては理解している。 ただ、棚に並んだ肉のパックを前にすると、そこから先が急に曖昧になる。 鶏むね肉。 脂質は少ない。タンパク質も取れる。価格も高すぎない。 蓮はしばらく表示を見比べ、一番量の多いパックをかごに入れた。 続いて青果コーナーへ向かい、ブロッコリーを手に取る。色は濃い。悪くなさそうに見える。ドイツで出されていた食事にも、似たような野菜はよく入っていた。 鶏むね肉。 ブロッコリー。 あとは水と、足りなければプロテインバー。 並んだ食材を見下ろしながら、蓮は小さく息を吐いた。 間違ってはいないはずだ。 少なくとも、身体に悪いものを選んでいるつもりはない。 けれど、ピッチでパスコースを見つけた時のような確信は、どこにもなかった。「……それ、本気で夕飯にするつもり?」 横から声がした。 蓮が顔を上げると、隣に立っていた少女がこちらのかごを見ていた。学校指定のスカートに、ブレザーではなく薄手のパーカーを羽織っている。手には自分の買い物かごがあり、中には魚の切り身や野菜、牛乳のパックが整然と収まっていた。 見覚えがあった。 昨日、校内案内の途中、狭い廊下で何度か同じ方向へ避けてしまった少女だ。「……あ。昨日の」 蓮がそう言うと、少女も少し目を細めた。「ああ、廊下で。えっと……天根くん、よね? ドイツ帰りの」「そうだけど」 名前まで知られていることには、もうあまり驚かなかった。グラウンドでも、同じような反応は何度か浴びている。 少女は蓮の顔と、かごの中身を順に見た。「練習帰り?」「ああ」「サッカー部、よね?」「そうだな」「それで、夕飯が鶏むね肉とブロッコリーだけ?」 確認するような声。責めているというより、どうにか
last updateLast Updated : 2026-08-10
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4食目

 スーパー『サニー』を出ると、駅前の明るさは少しだけ薄れ、夜に近い空気がレジ袋の持ち手越しに指先へ染み込んできた。 右手に食材の詰まった袋を提げた蓮の隣で、椿も自分の荷物を持ち直す。店内では気にならなかった重さが、外に出た途端にはっきりと腕にかかり、二人の足取りは自然と急ぎすぎないものになった。「……それにしても」 信号待ちで足を止めたところで、椿が横目で蓮のレジ袋を見た。「あなた、サッカー以外だと意外と危なっかしいのね」「危なっかしい?」「鶏むね肉とブロッコリーだけで練習後の夕飯を済ませようとしていた人に、他にどんな言い方があるの?」 穏やかな声ではある。 ただ、言っている内容はまったく穏やかではなかった。 蓮は少しだけ視線を逸らし、レジ袋の中で揺れるバナナと小松菜を見る。「効率を考えたつもりだった」「効率って、減らせばいいわけじゃないから。必要なものを、必要なタイミングで入れることまで含めて効率よ。削った結果、回復が遅れたら意味がないでしょう?」「……それは、そうだな」 言い返す材料はなかった。 ピッチの上なら、蓮は何を削って何を残すかを判断できる。触る回数を減らすのか、相手を引きつけるのか、味方が走る時間を作るのか。目的があれば、選択は自然と絞られる。 だが、食事になると違った。 身体に良いとされるものを並べたはずなのに、椿の言葉を聞いた後では、必要なものを落としたまま満足していたように見えてくる。「まあ、最初から全部分かってたら、スポーツ栄養科なんていらないもの」 椿はそう言って、信号が変わるのを見た。「これから覚えていけばいいんじゃない?」「橘さんは、そういうのをずっと勉強してるのか」「昔から少しずつね。管理栄養士になりたいって決めてからは、特に」 横断歩道を渡り、駅前の通りから住宅街へ入る。 人通りは少しずつ減り、店の明かりよりも街灯の方が目立つ道になった。歩道の脇には低い植え込みが続き、車が通るたびに二人の影がアスファルトの上で伸びたり縮んだりする。 椿は先ほどより少し歩幅を落としていた。 荷物が重いのかと思ったが、表情を見る限り、ただ急いでいるわけではないらしい。時々レジ袋の中を確認し、魚の切り身が傾かないように持ち手の位置を直している。(几帳面だな) 蓮はそう思い、それからすぐに、昨日の廊下で
last updateLast Updated : 2026-08-10
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5食目

 自分の部屋に入ってからも、蓮の中にはまだ先ほどの廊下の空気が残っていた。 四〇一号室。 四〇二号室。 同じ高校の同級生で、スーパーで食事を指摘してきたスポーツ栄養科の少女が、自分の隣に住んでいる。 冷静に考えれば、偶然の一言で片づけるしかない。けれど、靴を脱ぎ、廊下を通り、キッチンの照明をつけても、蓮の思考はまだその事実の処理を終えていなかった。 ただ、それ以上に目の前の問題は切実だった。 キッチンの作業台に、買ってきた食材を並べる。 椿に言われた通り、米もある。調味料も最低限は揃えている。包丁も、まな板も、フライパンも鍋もある。 食材はある。 理由も、少しだけ分かった。 練習後に必要な糖質。回復のためのタンパク質。明日の朝まで続く身体。魚を今日中に使った方がいいという指示。 そこまでは、理解した。 理解した、のだが。「……何を作ればいいんだ」 蓮は白身魚のパックを手に取ったまま、しばらく動けずにいた。 焼くのか、蒸すのか、煮るのか。 小松菜は一緒に使うのか、別にするのか。豆腐は味噌汁に入れるのか、そのまま食べるのか。鶏むね肉は今日使うべきなのか、明日に回すべきなのか。 食材一つひとつに役割があることは分かった。 だが、役割があるからこそ、適当に扱うのが怖くなる。 ピッチなら、味方の立ち位置を見れば次の選択肢は絞れる。右へ逃がすのか、中央で受けるのか、相手の背後を突くのか。ミスをしたとしても、その場で次を選べる。 けれど、キッチンの上に並んだ食材は、蓮を待ってくれない。 魚は今日中。 明日の朝にも使える豆腐。 練習後でも朝でも使えるバナナ。 言われたことが、逆に頭の中で渋滞していた。 蓮は数分ほど作業台の前に立ち尽くし、やがて小さく息を吐いた。 分からないなら、聞くしかない。 その判断だけは早かった。 ◇ 四〇二号室のインターホンを押すと、数秒置いてから室内で足音がした。 扉が少しだけ開く。 顔を出した椿は、まださっきと同じパーカー姿だった。髪も結んでおらず、スーパーで見た時より少しだけ気が抜けたような顔をしていたが、蓮の顔を見た瞬間、その表情が固まる。「……何?」「悪い。さっきの食材のことで聞きたい」「食材?」「ああ」 蓮は真面目な顔で続けた。「これで何を作ればいいのか分からない。レシピ
last updateLast Updated : 2026-08-10
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6食目

 蓮の部屋のキッチンを見た椿は、最初に冷蔵庫を開け、次に調味料の棚を確認し、最後に作業台に並べた食材を見た。「思ったよりは片付いてるのね」「使ったものは戻すようにしてるからな」「そんなことでドヤ顔しないで。 ......そこはできるのに、献立は組めないのね」「関連性が見えない」「あると思うけど」 椿はそう言いながら、白身魚のパックを手に取った。 さっきまで蓮にはただの食材に見えていたものが、椿の手に渡ると、次に置かれる場所まで決まっているように見える。 椿は手を洗い、袖を少し捲った。 包丁を持つ手つきは、慣れていた。 小松菜の根元を落とし、白身魚に軽く塩を振り、鍋に水を入れる。動きは速いが、雑ではない。使った道具はすぐ横へ寄せ、次に必要なものが置ける場所を自然に空けていく。 蓮は少し離れた場所で、その手元を見ていた。 ピッチ上の動きに似ている。 無駄な移動がない。 次に何をするかが決まっているから、迷って止まる時間がない。「見てるだけじゃなくて、米」「米?」「炊くんでしょう。練習後なら抜かない。量は……あなたの茶碗、どれ?」「これ」「じゃあ、今日はそれで一杯半くらい。足りなかったら明日以降調整。いきなり完璧を目指さなくていいから」「一杯半」「そう。覚えて」「分かった」 蓮は言われた通りに米をよそい、炊飯器の残りを確認する。 椿はその間に、白身魚をフライパンへ置いた。油は少量。火は強すぎない。小松菜はさっと茹で、冷水に取ってから水気を絞る。「油は使うんだな」「使うわよ。脂質は敵じゃないもの。量と種類とタイミングの問題」「なるほど」「今ので全部分かった顔しないで。細かくやると長いから」「分かってはいない。けど、敵じゃないのは分かった」「まあ、今はそれでいいわ」 椿は豆腐を切り、簡単な汁物に入れた。 調味料は多くない。 けれど、湯気が立ち、魚の焼ける匂いが部屋に広がると、蓮の胃がはっきりと反応した。 さっきまで空腹は重さだった。 今は、食べたいという感覚に変わっている。「……すごいな」「何が?」「同じ食材なのに、食事に見える」「食材なんだから、当たり前でしょう」「俺が見ていた時は、材料にしか見えなかった」 椿は一瞬だけ手を止め、それから何でもないように皿を取った。「それは、慣れよ」「
last updateLast Updated : 2026-08-10
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7食目

 天根蓮という少年は、徹底して真面目だった。 それは、連絡先を交換した翌日から届き始めた食事報告を見れば、すぐに分かった。『朝食。白ご飯。ゆで卵三個。小松菜と豆腐の味噌汁』『昼食。サラダチキン三つ。水』『夕食。鶏むね肉を茹でた。ブロッコリー。バナナ。プロテイン』 写真は毎回、きちんと撮られていて、量もだいたい確認できる。 送る時間も遅すぎない。 そういう意味では、報告としてはかなり優秀だった。 ただし、内容を除いて。「……何なの、これ。この人、なんで戻ってるの......?」 自分の部屋の机に向かいながら、椿はスマートフォンの画面を見つめていた。 送られてくる写真は、どれも色が少ない。 食材は悪くない。むしろ、一つひとつだけ見れば、運動部の高校生が選ぼうとする努力は見える。鶏むね肉も、卵も、ブロッコリーも、バナナも、プロテインも、目的を持って選んでいるのは分かる。 分かるからこそ、余計に厄介だった。 本人は真面目にやっている。 真面目にやって、これなのだ。『昼食。サラダチキン三つ。水』 その一文を見た時、椿はしばらく画面を見たまま動けなかった。 サラダチキン三つ。 三つ。 昼食として、サラダチキンを三つ。 それを平然と写真に撮り、何の疑問もなく送ってくる。 タンパク質を取ろうとしているのは分かる。 脂質を抑えたいのも分かる。 けれど、食事とはそういうものではない。 少なくとも、サッカー部であれだけ動いた高校一年生が、昼にサラダチキンを三つ並べて水で流し込むような生活を続けていいはずがなかった。「……これじゃ、食事じゃなくて補給作業じゃない」 椿は椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げた。 連絡先を交換した時、自分は確かに言った。 作らない。 基本はあなたが作る。 私は見て、気づいたことを言うだけ。 その線引きは必要だった。隣に住んでいるからといって、同じ高校だからといって、ましてや相手がドイツ帰りの有望選手だからといって、毎日ご飯を作るような関係になるつもりはなかった。 けれど、送られてくる写真は日に日に椿の中の何かを削っていった。 茹ですぎて硬そうな鶏むね肉。 冷凍のまま解凍しただけに見えるブロッコリー。 皿の上に直に置かれたバナナ。 ゆで卵三個とトーストだけの朝食。 サラダチキン三つ
last updateLast Updated : 2026-08-10
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8食目

 トントントン、と包丁の音が部屋に響く。 鶏むね肉を細かく切り、玉ねぎを薄くスライスする。フライパンに少しだけ水を入れ、調味料を加え、火をつける。玉ねぎを先に入れると、すぐに甘い匂いが立ち始めた。 蓮の視線が、その動きを追っているのが分かる。「見てるなら覚えて」「頑張る」「鶏むね肉は火を入れすぎると硬くなる。硬いものを我慢して食べるのが偉いわけじゃない。食べやすくして、ちゃんと続けられる形にするの」「......続ける」「そう。続けられない食事は、どれだけ理屈が合っていても失敗」 椿は溶いた卵を用意し、火の通りを見ながら鶏肉を入れた。 強すぎない火加減。 煮立たせすぎない音。 玉ねぎの甘い匂いと醤油の香りが混ざり、少し前まで無機質だったキッチンの空気が変わっていく。 蓮の部屋は片付いている。 道具もきちんと戻されている。 けれど、そこにはまだ生活の匂いが薄かった。 今、フライパンから立ち上る湯気だけが、この部屋にようやく夕飯らしい気配を作っている。「……匂いが違うな」 蓮が呟いた。「そりゃそうでしょう。茹でただけじゃないもの」「同じ鶏肉なのに」「同じ鶏肉だから、扱い方で変わるのよ」 椿は卵を回し入れ、少しだけ火を弱めた。 オートミールは、今日は無理に使わない。炊いてある米が残っていると言うので、そちらを使うことにした。冷凍ブロッコリーは解凍してそのまま添えるのではなく、軽く温めてから少しだけ味をつける。 十分ほどで、作業台の上には親子煮に近い一皿と、温めた米、小さな副菜が並んだ。 豪華ではない。 特別でもない。 けれど、少なくともそこには、食事としての形があった。「ほら。食べて」 椿が椅子を引くように目で促すと、蓮は素直に座った。 箸を取り、一口食べる。 鶏肉を噛んだ瞬間、蓮の動きが止まった。 椿は腕を組み、その反応を見る。「……美味い」 短い言葉だったけれど、昨日の「助かる」とは少し違う響きがあった。 蓮はもう一口食べ、米を口に運び、それから汁気の残った鶏肉をもう一度食べた。「同じ食材で、ここまで違うのか」「違うわよ。食べる人間に合わせて、調理も変えるんだから」「チーム寮の食事より、今の俺には合ってる気がする」 椿は一瞬だけ言葉を止めた。「……それは言いすぎ」「そうか?」「そうよ。
last updateLast Updated : 2026-08-10
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9食目

 翌朝。 七時を少し過ぎた頃、椿は四〇一号室のキッチンで朝食の片付けをしていた。 ご飯、豆腐と小松菜の味噌汁、卵、半分に切ったバナナ。 特別なものではない。けれど、昨日までの蓮なら、朝食としてそこまで並べることはなかった。「昼はこれ」 椿は手を拭き、玄関脇に置いていた保冷バッグを蓮に差し出した。「昼食?」「そう。学校の購買や学食が全部駄目って言ってるわけじゃないけど、今のあなたは選び方が極端すぎるから、しばらくは私が用意するわ。保冷剤も入れてあるから、教室に着いたらなるべく涼しいところに置いて」「了解。ありがとう」 蓮は保冷バッグを受け取った。 思っていたより重い。 ただ量があるというだけではなく、中でタッパーが動かないように詰められているのか、持ち手にかかる重さが妙に安定していた。 片付けを終えた椿は、小さく息を吐き、エプロンを外して整えた。「じゃあ、私は一度戻るわ。また放課後ね」「ああ」 椿が四〇二号室へ戻っていく。 蓮は玄関に残り、保冷バッグの取っ手を握り直した。 誰にも干渉されないはずだった一人暮らしは、開始数日で大きく形を変えていた。 けれど、それは不自由というより、自分では見えていなかった部分に役割が増えたような感覚に近かった。 昼休みの教室は、空腹を満たそうとする生徒たちの声で騒がしかった。 机を寄せる音、購買で買ってきたパンの袋を開ける音、学食へ急ぐ男子の足音が、教室のあちこちで重なっている。 蓮が自席で保冷バッグを開けると、近くの席の生徒が自然と目を向けた。 中から出てきたのは、三つのタッパーだった。 一つ目には、雑穀を混ぜた米。 二つ目には、鶏肉と白身魚を使った主菜。 三つ目には、小松菜、にんじん、卵、豆腐を使った副菜が詰められている。 派手ではない。 けれど、色がある。 昨日まで蓮が自分で並べていた白と緑だけの皿とは、明らかに違っていた。「……天根、それ弁当?」「ああ」「でかくない?」「そうか?」「いや、普通の弁当袋ではないだろ」 蓮は早速箸を持ち、主菜を一口食べる。 鶏肉は冷めている。 けれど、硬くない。 白身魚も崩れすぎておらず、薄い味付けの中に少しだけ香りがある。小松菜は昨日と同じ食材のはずなのに、弁当に入っていても水っぽくならず、卵と合わせると苦味が気にならなか
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