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第2話

Author: ちょうどいい
電話の向こうで、真祐は珍しく数秒ほど沈黙した。それから、こう続けた。

「生花は、プロを目指し始めたのが俺たちより遅かったから、まだ三段なだけだ。その才能は俺に引けを取らない。その事実を認めろ。彼女が俺に勝っても何の不思議もない。

五年前、プロに昇進したばかりの俺が、無敵だったお前に勝ったときと同じだ。実力が及ばないなら、素直に認めるべきだ」

私はスマホを握りしめ、爪が手のひらに食い込んだ。

「それで?あなたに勝ったのが私ではなく彼女だから、彼女と結婚するっていうの?」

「絵凛!俺はそんなこと一度も考えてない!」

真祐は怒りを必死に抑え込み、低く沈んだ声で言った。

「だが、ずっと前に公の場で約束してしまったんだ。守らなければ、生花の面目が立たない。

ひとまず別れよう。お互い、少し頭を冷やすべきだ」

「ひとまず別れよう」という言葉が、まるで頬を強く叩かれたかのような衝撃となって、私を襲った。

こらえていた熱いものが溢れ出し、涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。

この五年間の想いも、焦がれ続けた結婚式も、最初から最後まで、私一人だけの独り芝居に過ぎなかったのだ。

電話を切り、車に乗り込んだ。

無理やり封じ込めていた記憶が、津波のように脳裏に押し寄せてきた。

真祐と初めて会ったのは、五年前の全国将棋選手権のときだった。

当時、18歳になったばかりの私は、「将棋界の天才少女」という肩書きを背負い、次々と対局に勝ち進んでいた。

それまでの18年間、私は一度も負けたことがなかった。

親たちが口を揃えて褒める「理想の子供」であり、将棋界の若きスターでもあった。

けれど、その大会の決勝戦で、私は真祐と出会った。

それまでは、その名前は「海外から帰国した謎の若手」という認識に過ぎなかった。

だが、対局席に座った彼が、難解な盤面を前にしてもなお余裕を崩さない姿を目の当たりにして、私は初めて圧倒的な存在感というものを理解した。

彼の一手一手は決して速くはなかったが、その一つ一つがまるでコンピュータのシミュレーションのように正確だった。

それでいて、その顔には相変わらずの余裕の笑みを浮かべていた。

あの対局で、私は決して大差で負けたわけではなかったが、心の底から完敗だと感じさせられた。

対局の後、真祐が歩み寄ってきて、私に一本のお茶を差し出した。

「君の序盤の構想は非常に目新しかったですが、攻めが鋭すぎて、まるで激流のようでした。中盤の攻防には、もう少し粘り強さが欲しかったです」

自分の戦法の弱点を的確に指摘されたのは、それが初めてだった。

そして、誰かにこれほど強い興味を抱いたのも、初めてのことだった。

後で分かったことだが、彼は子供の頃から将棋の天才だった。ただ海外に住んでいたため、国内の大会には出場していなかっただけだ。

あの日以来、私は自分から彼に近づくようになった。

読みを教わるという口実で、彼がよく通う将棋道場に足を運んだ。

彼は私の問いを拒むことなく、毎回の解説は筋が通っており、時折、私の思考の盲点を突いてくることもあった。

「絵凛、将棋は一手に全てを賭ける読みじゃない。全局を見据えた判断が求められるんだ。人生と同じで、取捨選択をわきまえなければならない」

やがて私たちは流れに寄り添うようになり、将棋界のおしどりカップルとして語られる存在となった。

周囲からは相性最高だと持て囃され、二人揃って将棋親善大使にもなった。

この五年間、私は自分の真心のすべてを真祐に捧げてきた。

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