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霧が晴れたら、君はいなかった

霧が晴れたら、君はいなかった

By:  ミントソーダCompleted
Language: Japanese
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杉山美緒(すぎやま みお)は思いもしなかった。自分の誕生日に、息子からアレルギーで死に至るほどのマロンケーキを差し出されるなんて。 意識が朦朧とする中、夫の杉山辰彦(すぎやま たつひこ)の激しい怒鳴り声が聞こえてくる。 「悠希、母さんが栗アレルギーだと知らなかったのか?」 杉山悠希(すぎやま はるき)の幼い声が、やけにはっきりと響いている。 「知ってるよ。でも、真理奈おばちゃんにママになってほしかったんだ。 パパだって、本当はそう思ってるんでしょ?」 「たとえ俺が……」 強烈な息苦しさが美緒を襲い、辰彦の最後の答えはもう聞こえない。 意識を完全に失う寸前、頭にはたった一つの思いだけが浮かんでいる。 もし目が覚めたら、もう辰彦の妻でいるのも、悠希の母親でいるのもやめようと。

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Chapter 1

第1話

杉山美緒(すぎやま みお)は思いもしなかった。自分の誕生日に、息子からアレルギーで死に至るほどのマロンケーキを差し出されるなんて。

意識が朦朧とする中、夫の杉山辰彦(すぎやま たつひこ)の激しい怒鳴り声が聞こえてくる。

「悠希、母さんが栗アレルギーだと知らなかったのか?」

杉山悠希(すぎやま はるき)の幼い声が、やけにはっきりと響いている。

「知ってるよ。でも、真理奈おばちゃんにママになってほしかったんだ。

パパだって、本当はそう思ってるんでしょ?」

「たとえ俺が……」

強烈な息苦しさが美緒を襲い、辰彦の最後の答えはもう聞こえない。

意識を完全に失う寸前、頭にはたった一つの思いだけが浮かんでいる。

もし目が覚めたら、もう辰彦の妻でいるのも、悠希の母親でいるのもやめようと。

……

五時間に及ぶ救命措置の末、ようやく命の危機を脱した。

再び意識を取り戻した時、息をするだけで痛み、顔全体がパンパンに腫れ上がっている。

必死に目を開け、無意識に二人の姿を探すが、病室はがらんとしている。

携帯電話はそばの棚の上。腕を伸ばして取ろうと試みる。

しかし、距離が遠すぎて届かない。なんとか体を起こそうとしたその時、点滴を交換しに来た看護師がちょうど入ってきて、慌ててその動きを制した。

「救急処置室を出たばかりですから、無理してはいけません。私が取ってあげます」

看護師は親切に携帯を渡してくれ、点滴を替えながら注意を促す。

「自分がひどい栗アレルギーだって知らなかったのですか?これからは栗の入った食べ物は絶対に口にしてはいけませんよ。今回は運ばれてくるのが早かったからよかったけど、もう少し遅かったら命はなかったんですよ」

どう答えたらいいか分からない。

まさか、自分の息子が栗アレルギーだと知りながら、わざとマロンケーキを選んで渡してきたなんて言えるはずもない。

計器だらけの自分の体に目を落とし、かろうじて口を開く。

「あの人たちは?」

今、辰彦と悠希を夫や息子、あるいは家族という言葉で呼びたくない。

看護師は一瞬考えたが、すぐに察したようだ。

「ご主人と息子さんのことですね。あなたを病院に運んで、支払いを済ませたら急いで帰りました。『用事がある』って。電話してみたらどうでしょうか?」

そう言ってから、小声で付け加える。

「奥さんや母親より大事な用事って何なのかしら。本当に薄情ですね」

胸に突き刺さる言葉に、心がずきりと痛む。

あの親子がそんなに慌てて立ち去る理由なんて、あの女のことしかない。

携帯を開くと、辰彦とのトーク画面は相変わらず自分が送ったメッセージしか表示されていない。

タイムラインを開くと、古山真理奈(ふるやま まりな)の投稿が真っ先に目に飛び込んでくる。

【急な呼び出しにも駆けつけてゴキブリを退治してくれた二人のナイトに感謝。やっぱり家には男の人がいないとね(笑)】

添付された写真には、辰彦が彼らしくもないほうきで床のゴキブリを押さえつけ、悠希は小さな両手を広げて真理奈の前に立ちはだかっている。

見慣れた二つの後ろ姿が、目の奥を熱くさせ、再び息苦しさがこみ上げてくる。

彼らは死の淵を彷徨った被害者である自分を置き去りにして、真理奈のゴキブリ退治に行った。

しかも、自分のアレルギー症状は悠希が引き起こしたものなのに。

それなのに、彼らには罪悪感も、心配する様子も微塵もない。

美緒は自嘲気味に唇の端を歪めた。

そうだね。悠希はこの母親が二度と目を覚まさなければいいと願っていたんだ。

辰彦に至っては、事情を知らなかったとはいえ、心の奥底では悠希と同じように、真理奈を妻にしたいと望んでいるのだろう。

こんなにも自分を疎む二人が、病院に残って付き添ってくれるはずがない。

携帯を置き、病院の眩しい蛍光灯を見つめながら、過去の記憶をたぐり寄せる。

自分と辰彦は同じ町で育った、いわゆる幼馴染だ。

辰彦は子供の頃から成績優秀で、何度も飛び級し、早くから海外に留学して家業を継ぐ準備をしていた。

一方、自分は内気な性格で、子供の頃はみんなが遊んでいるのをそばで見ているだけ。大きくなってからはさらに影が薄くなった。

そんな自分が、少女時代に光り輝く辰彦に恋をした。

この片思いは、辰彦が誰かと結婚する時に終わりを告げるのだと思っていた。

だが、予想もしなかったことに、帰国した辰彦は真っ先に自分の元を訪れ、「結婚してくれないか」と尋ねてきた。

突然の幸運に呆然とし、心の中で狂ったように育っていた想いを抑えきれず、二つ返事で頷いた。

こうして、美緒は辰彦の妻になった。

しかし、ある日酔った辰彦の口から、彼が留学中に深く愛した恋人がいたことを知る。

その女性は、彼が99回プロポーズしてくれたら、100回目に結婚を承諾すると言ったらしい。

辰彦はそれを信じた。

シエロの雪山、ルミナス塔、ニクスのサンドビーチ、アストラル大聖堂……

あらゆる場所が、彼のプロポーズの証人となった。

卒業当日、彼は100回目となる盛大なプロポーズを計画し、成功したらすぐに帰国して結婚式を挙げるつもりだった。

しかし、大勢の友人の前で、女性は100回目も彼を断った。

まだ早く結婚したくない、あと三年待ってほしいと。

辰彦は完全に忍耐の糸が切れた。

そして、腹いせに帰国し、適当な相手と結婚することにした。

そして美緒は、たまたま杉山家と一番近しい女性だったというだけ。

結婚の真相を知った当初は、気にしなかった。

時間が経てば愛情は生まれる、辰彦もいつか自分を愛してくれると信じている。

結婚して一年後、息子の悠希が生まれ、辰彦との関係も少しずつ縮まった。

周りから見れば、幸せな三人家族そのものだ。

一ヶ月前、辰彦の初恋の相手、真理奈が帰国するまでは。

彼は大学時代の100回の失敗したプロポーズを忘れたかのように、真理奈に近づき、彼女を気遣い、優しく接している。

次第に家に帰らなくなり、息子さえも頻繁に彼について真理奈に会いに行くようになる。

六年の夫婦生活、五年の母子の情があれば、あの親子も心のどこかでは自分のことを思ってくれているはずだと信じていた。

しかし今日、自分が作り上げた幻想から、ようやく目が覚めた。

六年間、辰彦の心を温めることはできない。

自分のお腹を痛めて産んだ子でさえ、父親と同じように、心の中に母親である自分の居場所はない。

バン!

ドアが開く音で我に返る。

美緒は無意識にドアの方を見ると、二つの人影が病室の入り口に立っている。

辰彦が悠希の背中を押し、厳しい表情で言う。

「行って、母さんに謝りなさい」

悠希は指をもじもじさせながら、少しずつベッドのそばに寄り、蚊の鳴くような声で言う。

「ママ、ごめんなさい」

美緒は顔をそむけ、返事をしない。

悠希の目に浮かぶ不本意な色を見逃しはしなかった。

辰彦が落ち着いた声で言葉を続ける。

「悠希に悪気はなかったんだ。お前が栗アレルギーだと知らなかっただけだ。もうきつく叱っておいたから、二度と栗の入ったものを渡したりはしない。

さっきは会社で急用ができてな。お前まだ意識がなかったから、先に会社に戻って仕事を片付けてきた」

季節は真夏で、空気は熱気を帯びているはずなのに。

真冬の厳寒よりも、百倍も千倍も寒く感じる。

自分が目を覚ましてから今まで、辰彦からのメッセージは一件も来ていない。

彼が部屋に入ってきてから口にした二つの言葉は、どちらも嘘だった。

黙っているのを見て、辰彦は不機嫌そうに眉をひそめる。

「いいだろう。今日はお前の誕生日だ。子供相手に怒るな。

息子と一緒にプレゼントを用意したんだ。気に入るか見てくれ。退院したらつけてやる」

そう言うと、ギフトボックスを取り出し、中からダイヤモンドのネックレスを美緒に見せる。

来る途中のデパートで適当に選んだものだと一目で分かる。

ちらりと一瞥しただけで視線を外し、静かに口を開く。

「私からも、あなたたちにプレゼントがあるわ」

辰彦は思わず尋ねる。

「お前の誕生日じゃないか。俺たちに何をくれるんだ?」

悠希も不思議そうにこちらを見る。

美緒は吹っ切れたような笑みを浮かべる。

「お返しってものでしょう?心配しないで、そのプレゼントは数日後には見られるから。きっと気に入るわ」

サイン済みの離婚届。それこそが、あなたたちが望んでいるものでしょう。

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松坂 美枝
5歳児にして離婚という漢字が読めるのすげえと思いながら読んだ クズ父子もクズ女も特に怪我もなく静かに終わったなあ 主人公も新たな恋の予感を滲ませつつ終わった 殺そうとする子供とは暮らせんよな
2025-10-07 11:36:02
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第1話
杉山美緒(すぎやま みお)は思いもしなかった。自分の誕生日に、息子からアレルギーで死に至るほどのマロンケーキを差し出されるなんて。意識が朦朧とする中、夫の杉山辰彦(すぎやま たつひこ)の激しい怒鳴り声が聞こえてくる。「悠希、母さんが栗アレルギーだと知らなかったのか?」杉山悠希(すぎやま はるき)の幼い声が、やけにはっきりと響いている。「知ってるよ。でも、真理奈おばちゃんにママになってほしかったんだ。パパだって、本当はそう思ってるんでしょ?」「たとえ俺が……」強烈な息苦しさが美緒を襲い、辰彦の最後の答えはもう聞こえない。意識を完全に失う寸前、頭にはたった一つの思いだけが浮かんでいる。もし目が覚めたら、もう辰彦の妻でいるのも、悠希の母親でいるのもやめようと。……五時間に及ぶ救命措置の末、ようやく命の危機を脱した。再び意識を取り戻した時、息をするだけで痛み、顔全体がパンパンに腫れ上がっている。必死に目を開け、無意識に二人の姿を探すが、病室はがらんとしている。携帯電話はそばの棚の上。腕を伸ばして取ろうと試みる。しかし、距離が遠すぎて届かない。なんとか体を起こそうとしたその時、点滴を交換しに来た看護師がちょうど入ってきて、慌ててその動きを制した。「救急処置室を出たばかりですから、無理してはいけません。私が取ってあげます」看護師は親切に携帯を渡してくれ、点滴を替えながら注意を促す。「自分がひどい栗アレルギーだって知らなかったのですか?これからは栗の入った食べ物は絶対に口にしてはいけませんよ。今回は運ばれてくるのが早かったからよかったけど、もう少し遅かったら命はなかったんですよ」どう答えたらいいか分からない。まさか、自分の息子が栗アレルギーだと知りながら、わざとマロンケーキを選んで渡してきたなんて言えるはずもない。計器だらけの自分の体に目を落とし、かろうじて口を開く。「あの人たちは?」今、辰彦と悠希を夫や息子、あるいは家族という言葉で呼びたくない。看護師は一瞬考えたが、すぐに察したようだ。「ご主人と息子さんのことですね。あなたを病院に運んで、支払いを済ませたら急いで帰りました。『用事がある』って。電話してみたらどうでしょうか?」そう言ってから、小声で付け加える。「奥さんや母
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第2話
辰彦は淡々とした表情で、特に気にも留めない。「病院でゆっくり休んでいればいい。プレゼントなんて気を使わなくていい」そう言って、スマホの画面に目をやる。隣の悠希も唇を尖らせ、興味なさげな様子だ。その父子の反応をすべて見届け、口の端を上げる。今は興味がなくても、離婚届を実際に見た瞬間、誰よりも興奮するくせに。ふと、この父子にとって自分はいったい何なのだろうと知りたくなった。感情の代用品?家政婦?それとも、ただ同じ屋根の下で暮らす、よく知った他人?そう思うと、自然と口からその問いがこぼれ出ていた。最後の言葉を言い終えるか終えないかのうちに、辰彦のスマホから心地よい女性の声が響いている。「辰彦、早く電話に出て。出ないと怒っちゃうからね!」美緒ははっとした。社長である辰彦の着信音は、いつも決まってスマホのデフォルト音だった。しかし、すぐに気づき、爪が掌に深く食い込む。これはきっと、辰彦と真理奈が付き合っていた頃に録音した彼女の声で、彼女専用の着信音に設定しているのだろう。あの無愛想な辰彦にも、こんな甘いことをしていた時期があったなんて。しかも、六年経った今でも、その着信音を消していない。おそらくこの六年間、彼はこの音が鳴るのを心待ちにしていたのだろう。辰彦はためらうことなく、電話に出た。電話の向こうから、かすかにすすり泣く声が聞こえる。辰彦は即座に立ち上がり、そばに置いてあったジャケットを手に取ってドアに向かう。「すぐ行く」その口調は珍しく優しい。ドアのところで電話を切り、何かを思い出したようにベッドの美緒を見る。「友人がトラブルに巻き込まれた。俺が処理してくるから、お前はゆっくり休んでろ」おそらく、真理奈のもとへ駆けつけたい一心で、自分の嘘があまりにも稚拙なことに気づかなかったのだろう。一体どんな友人のために、あんな着信音を設定するというのか。悠希は、辰彦が立ち上がるのと同時に、父の後ろにぴったりとついている。「ママ、僕もパパと一緒に行きたい」その時ようやく気づいた。この父子は自分の話を全く聞いていなかったのだと。真理奈の家から病院に駆けつけた後も、彼らの心にあったのは彼女のことだけ。スマホを見つめていたのも、彼女からの電話にいち早く気づくためだ。
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第3話
病院に丸一週間入院し、アレルギー反応はすっかり消えた。入院中の一週間、毎日、真理奈が投稿する写真を目にしている。辰彦が言っていたトラブルとは、真理奈の家のゴキブリが駆除しきれていなかった、というだけのことだった。父子は彼女と一緒に新しい住まいを探し、新しい家具を買い、三人でがらんとした部屋を少しずつ温かみのある小さな家に作り上げている。退院の日、一週間姿を消していた辰彦と悠希がついに現れる。美緒がすでに一人で退院手続きを終えているのを見て、男の険しい顔に珍しく申し訳なさそうな表情が浮かぶ。「すまない、ここ数日病院に来られなくて。友人のことで忙しかったんだ。彼女は帰国したばかりで、他に知り合いもいない。俺しか助けてやれる者がいないんだ」辰彦が自ら頭を下げることは滅多にない。以前の美緒なら、とっくに物分かりよく「気にしないで」と言っていただろう。しかし今回、ただ静かに車のドアを開けて乗り込んだ。「分かったわ。帰りましょう」辰彦は意外そうな視線を美緒に向ける。彼女は怒っているのか?しかし、すぐにその推測を打ち消す。結婚して六年、美緒はいつも優しくて聞き分けがよく、一度も彼に反抗したことはない。怒るはずがない。きっと考えすぎだろう。車に乗ってから、美緒はずっと目を閉じて休んでいる。しかし、じりじりと焼けるような視線が頻繁に自分に向けられているのを感じる。目を開けると、悠希の視線とぶつかった。こちらが起きたのを見て、悠希はおずおずと口を開く。「ママ、アレルギーはもう治ったの?」「ええ」そう答えたところで、車がちょうど停まった。ドアを開けて車を降り、二、三歩歩いたところで、後ろから小さな呟きが聞こえる。「残念だなあ、真理奈おばちゃんがママになれなくなっちゃった……」足が止まり、まるで心臓を氷の杭で抉られるような鋭い痛みが走っている。これが、十月十日かけて身ごもり、五年かけて育てた息子。母の命を奪いかけたことに対して、恐怖も罪悪感も微塵も感じていないどころか、彼の「真理奈おばちゃん」のために母という「障害」を取り除けなかったことを残念がっている。なんて皮肉なことだろう。胸の痛みを必死に抑え、まっすぐ寝室へと戻る。悠希、あなたの願いはもうすぐ叶うよ。夜、早々に
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第4話
この三日間、悠希の誕生日パーティーの準備に追われている。同時に、彼の六歳から十八歳までのプレゼントもすべて買い揃える。どうしたって血の繋がった子だ。今後会うことはなくても、十八歳になるまでは母親としての義務を果たさなければならない。悠希の誕生日当日、招待された客が大勢集まっている。美緒は悠希の手を引き、辰彦の隣に立って、人々の輪の中心にいる。毎年誕生日には大はしゃぎする悠希が、今日はなぜか浮かない顔で、足元の小石を蹴りながら、しきりにドアの外を気にしている。辰彦でさえ、頻繁に腕時計に目をやっている。パーティーの準備に不手際があったのかと思う。その時、ドアの向こうから女性の声がする。「悠希!」悠希はぱっと顔を上げ、目を輝かせ、目の前にいた美緒を突き飛ばしてドアへと駆け寄った。「真理奈おばちゃん!」美緒はよろめき、もう少しで転ぶところだったが、数歩後ずさってなんとか体勢を立て直す。悠希はそれに全く気づかず、まるで巣に戻るツバメのように真理奈の胸に飛び込み、さっきまでの沈んだ表情は一掃され、口角を高く上げている。「やっと来てくれたんだね。ずっと待ってたんだよ」真理奈は笑って彼の頬をつねり、優しく言う。「道が混んでて少し遅れちゃった。主役を待たせてごめんね」辰彦も真理奈の方へ歩み寄り、いつもは冷たい顔に笑みが浮かんでいる。足首のかすかな痛みをこらえ、人混みの中に立ち、夫と息子が自分を置き去りにして真理奈の周りに集まっているのを見て、苦い思いが心臓から全身へと広がっている。もっと早く気づくべきだ。あの親子がこれほど異常な態度をとる相手は、真理奈しかいないのだと。悠希が言っていた「すごく大事な人」というのも、彼女のことなのだろう。周りの賑やかな人々は途端に静まり返り、顔を見合わせた後、しばらくしてようやく口を開く。「あの方は誰?杉山社長と息子さんがわざわざ出迎えるなんて」「もしかして、あちらが本当の奥様で、さっきは私たちが人違いを?」「違うわよ。あれは杉山社長が海外留学時代に、どうしても手に入らなかった初恋の相手だって。最近帰国したばかりらしいわ」「まあ、可哀想に。夫の初恋の相手が、息子の誕生日パーティーに堂々と現れるなんて……」「しーっ、声が大きいわ。奥様がまだいらっしゃる
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第6話
もう三人の幸せな光景を見たくなくて、一人で裏庭へと向かう。ブーッ。携帯が震えた。画面をスライドさせると、一通のメッセージが表示される。【お客様のフライトは8時間後に出発いたします。時間通りにご搭乗ください】今日初めて、心からの笑みを浮かべた。携帯をしまい、荷造りのために二階へ上がろうとする。数歩歩いたところで、真理奈と鉢合わせた。彼女はにこやかに美緒の行く手を阻む。「美緒さん、このパーティーの女主人でしょう?どうして一人でこんなところに?」真理奈が見かけほど純真ではないことは知っている。でなければ、帰国初日にわざわざ自分の連絡先を手に入れ、その後も頻繁にタイムラインで辰彦親子との写真を自慢したりはしないだろう。「古山さん、何か用ならはっきり言って」真理奈はしばらくこちらを見つめた後、軽く笑い、仮面を剥がした。「美緒さんは賢い人よ。昔、私と辰彦は深く愛し合っていたのよ。彼は私に100回もプロポーズしたの。まだ早く結婚したくなかっただけ。でなければ、この『杉山夫人』の座はあなたのものにはならなかった。もし物分かりがいいなら、さっさと離婚を切り出して、自分の体面を保ちなさい」すでに離婚を決意していたが、だからといって第三者の挑発を許せるわけではない。即座に顔をこわばらせる。「私と辰彦の結婚がどうなろうと、あなたのような部外者に指図される筋合いはないわ」真理奈は気だるそうにネイルをいじりながら言う。「それがどうしたの?たとえ私が100回断ったとしても、辰彦の心は私を忘れられないのよ。この数日であなたも見たでしょう?辰彦が愛しているのは私。あなたの息子でさえ私に懐いて、私に母親になってほしいと願っているわ。私が『あなたが栗を食べれば、私が彼のママになれる』と言っただけで、悠希くんは本当にそうしたのよ」そう言うと、美緒を上から下まで値踏みするように見て、顔に嘲笑を浮かべる。「ただ、あなたがこんなに命拾いするとは思わなかったわ。本当に残念。あなたという邪魔者がもっと早く消えてくれればよかったのに」信じられないという顔で真理奈を見た。爪が掌に深く食い込み、怒りの炎が胸の中で燃え盛る。悠希が自分にマロンケーキを食べさせたのは、真理奈が唆したからだ。「あなた、どうして……」
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第7話
再び目を覚ました時、鼻をつくのは消毒液の匂いだ。辰彦は、こちらが目覚めたのに気づき、冷たい視線を一瞥し、低い声で言う。「真理奈が目を覚ましたら、謝りに行け」胸が詰まり、骨身に染みるような寒気が走る。目を覚ましたばかりの自分に、辰彦は一言の気遣いもなく、ただ真理奈に謝罪しろと言う。「私を道連れに水に落としたのは彼女よ。どうして謝らないといけないの?」辰彦は眉をひそめ、その顔にはあからさまな不信感が浮かんでいる。「まだ嘘をつくのか。悠希へのプレゼントがお揃いのTシャツだったことに嫉妬して、真理奈を突き落とそうとしたんだろう。結果的に自分も落ちてしまっただけだ」自分の半生をかけて愛したこの男を真剣に見つめる。彼の顔には、自分が水に落ちたことへの心配は微塵もなく、あるのは自分への怒りと非難だけ。六年間、日夜を共にしてきたというのに、彼からの信頼は少しも得られない。ふと笑い出し、その口調は極めて平静だ。「信じないなら、監視カメラを調べればいいわ」「辰彦の妻」であり「悠希の母親」であるという立場は、もうとっくに手放している。お揃いのTシャツごときで嫉妬などするはずがない。辰彦の眉間の皺はさらに深くなり、こちらの言葉が本当かどうか見極めるように、深く見つめてくる。彼は、最近の美緒がどこか違うと感じている。「お前……」彼が口を開く途端、電話の着信音がその言葉を遮った。受話器の向こうから、悠希の隠しきれない喜びの声が聞こえる。「パパ、真理奈おばちゃんが目を覚ましたよ!」彼の顔の険しさは急速に消え去り、目には喜びの色が宿った。「すぐ戻る」電話を切り、ベッドに横たわる美緒を一瞥し、声は再び冷たくなる。「自分で反省しろ。自分の妻が理性を失った嫉妬深い女だなんて思いたくないし、悠希もそんな母親は望んでいないだろう」そう言って背を向け、一瞬の躊躇もなく大股で去っていく。遠ざかる背中を見つめ、その目は死んだ水のように静かだ。ちょうどいい。こちらももうすぐ、「杉山夫人」でも、「悠希の母親」でもなくなる。ピロンとメッセージの通知音が、美緒を現実に引き戻した。【お客様のフライトは、あと3時間で出発いたします】退院手続きを済ませた。病院を出る時、ある病室の前を通りかかり、見慣れた人影に無意
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第8話
病院の病室。辰彦は真理奈を優しく支えて横にならせ、丁寧に布団をかけ直す。その目元は優しさに満ちている。「病院でゆっくり休んでいろ。数日間、俺が看病する」真理奈はその懐かしい優しさを感じ、目が赤くなる。当時の自分は若く、早く結婚する気はなかった。同時に、辰彦は無限に自分を受け入れてくれると思い込んでいた。たとえ100回プロポーズを断っても、彼はその場で待っていてくれると。しかし、真理奈は忘れていた。人の忍耐には限界があるということを。辰彦が自分のそばからいなくなったことに気づいた時には、彼が国に帰って結婚したという知らせを聞いていた。プライドの高い自分が、自ら頭を下げて国に戻って彼を探すはずもなく、この恋はこれで終わりだと思っていた。海外で六年過ごし、様々な男と出会ったが、辰彦ほど自分に良くしてくれた男はいなかった。昔の甘い瞬間が心に浮かび、ついに帰国せずにはいられなくなった。帰国して初めて、辰彦とその妻の間に五歳になる子供がいることを知った。それでも、諦めきれなかった。大学時代、あれほど燃えるような恋をした。今、辰彦の心に自分の居場所が少しもないなんて信じられない。案の定、何度か探りを入れるうちに、辰彦が自分のことを全く忘れていないことに気づいた。彼の子供である悠希でさえ、自分のことをことのほか気に入っていた。今度こそ、もう手放さない。「辰彦、美緒さんは何か誤解して、私を水に突き落としたんじゃないかしら?私、彼女に説明しに行くわ。全部私のせいなの……」真理奈は声を詰まらせ、そう言いながら布団をめくってベッドから降りようとする。辰彦は慌てて彼女の動きを制した。「どうしてお前のせいなんだ?謝るべきはあいつの方だ。お前は安心して病院で療養していろ」真理奈の目は赤く潤み、辰彦を見るその眼差しには抑えきれない懐かしさが宿っている。「昔、私がうっかり足を怪我した時も、辰彦が病院で昼夜問わず看病してくれたのを覚えてるわ。まさか六年経って、またこの温かさを感じられるなんて」辰彦は再び彼女の布団をかけ直し、穏やかな口調で言う。「俺たちは友人だ。それに、お前を水に落としたのは俺の妻だ。看病するのは当然だろう」その言葉に、真理奈の表情が一瞬こわばり、目に嫉妬の色がさっとよぎる。
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第9話
キーッ!辰彦は急ブレーキを踏んだ。彼は振り返り、真剣な顔で悠希を見つめる。「悠希、誰がお前に『離婚』なんて言葉を教えたんだ?」こんなに厳しいパパは今まで見たことがなく、さっきまでの興奮はすっかり消え失せ、少し怯えながら小声で答える。「ママが……」辰彦の心に、怒りの炎が燃え上がる。美緒はそこまで嫉妬していたのか。子供の前で離婚の話をするなんて、母親として失格じゃないか!?何度か深呼吸をして怒りを抑え、子供を怖がらせないようにする。「悠希、パパとママは離婚しないよ」悠希は唇を尖らせ、少し悲しそうに言う。「どうして?僕は真理奈おばちゃんにママになってほしいんだ。それに、パパも真理奈おばちゃんと一緒にいると楽しそうじゃないか」前回の教訓があったにもかかわらず、息子がまだ真理奈を母親にしたいと考えていることに驚いた。しかし、どう説明すればいいのか分からない。確かに、かつて真理奈と深く愛し合っていた。本気で彼女と結婚したいと思っていた。しかし、六年前、彼女が100回目のプロポーズを断った時点で、真理奈との関係は完全に終わっていた。ただ、深く愛した初恋の相手であるため、再会して無関心でいることはできず、彼女の頼みを断ることもできない。だから、何度も彼女のもとへ行き、彼女を助ける。しかし、美緒と離婚することは一度も考えたことがない。今の彼にとって、真理奈はただの友人なのだ。辰彦は真剣に悠希の目を見つめる。「悠希、真理奈おばちゃんとはただの友達だ。お前のママ、そして俺の妻は、永遠に美緒一人だけだ。もう二度とママを替えたいなんて話は聞きたくないし、ママの前でも絶対に言ってはいけない。ママを悲しませることになるからな。分かったか?」「でも……」悠希の視線は、その離婚届に落ちる。びっしりと書かれた文字の意味は分からなくても、協議書と届けに「杉山美緒」という文字がはっきりと書かれているのは見える。それはママの名前だ。パパが書類にサインする時、サインは同意を意味すると教えてくれた。ママはもう離婚に同意してるのに。「ママはもう……」「もういい、悠希」辰彦は彼の言葉を遮り、再び車を発進させる。「もうその話はするな。パパの前では二度と口にするんじゃない」悠希は手の中の離婚協
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第10話
退院?退院したのに、なぜ知らせなかったんだ。辰彦は携帯を取り出し、美緒にメッセージを送ろうとする。彼女とのトーク画面を開いて、はっとした。美緒からメッセージが来ていないのが、もう半月近くになる。以前は毎日飽きもせず、些細な日常の出来事を共有してくれた。青空の写真や、新しく覚えた料理のレシピなど……しかし、ここ半月のトーク画面は空っぽ。心の中のわずかな不安を必死に抑え、どこへ行ったのかとメッセージを送る。しかしなかなか返信がない。「既読」マークが表示されていない。辰彦は一瞬、呆然とする。まさか……美緒が自分をブロックした?諦めきれず、もう一度メッセージを打ち込んで送信する。結果はやはり、何の返信もない。なぜブロックするんだ?真理奈に謝罪しろと言ったからか?だが、真理奈を突き落としたのは美緒だ。謝罪するのは当然じゃないか?辰彦の心に、今までにない不安がこみ上げてくる。彼の記憶では、結婚して六年、美緒は一度も怒ったことがなく、いつも穏やかだ。彼女が反抗したのはこれが初めてだ。悠希に言った「離婚」という二文字を思い出した。まさか……離婚したいのか?いや!ありえない!その考えが浮かんだ途端、すぐにそれを打ち消す。美緒はあれほど自分を愛しているんだ。本気で離婚するはずがない。それに、二人には子供もいる。きっと、一時的な衝動で悠希に離婚の話をしただけ。そばにいた悠希は、病室に誰もいないこと、そして辰彦がずっとドアの前に立って一言も発しないのを見て、父の袖を引く。「パパ、ママはどうしてここにいないの?お家に帰ったのかな?」悠希の言葉で我に返った。そうだ、美緒はもう家に帰ったのかもしれない。きっと、一時的に話したくないだけだ。そう思うと、もうためらわず、悠希を抱き上げて大股でその場を去った。帰り道、アクセルをいっぱいに踏み込み、車はまるで矢のように道を駆け抜ける。普段は三十分かかる道のりを、今日はわずか十五分で着く。車が停まるやいなや、急いで悠希を抱えて降り、大股で寝室へと向かう。寝室のドアの前に立つと、自分の心臓がドキドキと高鳴っているのがはっきりと分かった。珍しく、緊張している。深呼吸をして心の中の不安を抑え、ドアを開ける。しかし、予
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