Share

第2話

Author: 小粒キャンディ
一花はすぐには避け切れず、そのままジュースをかぶってしまった。

その音を聞いて、使用人たちがすぐに一花のもとに駆け寄ってきた。

「颯太!」

すると颯太は血相を変えた慶に怒られたことに驚き、脱兎のごとく二階へと駆けあがっていってしまった。

慶が追いかけようとしたが、それを綾芽が立ち上がって引き留めた。「慶君、まだ子供なんだから、力で脅すような教育をしようとしても駄目よ。私が様子を見に行ってみるわ」

彼女はそう言い終わると、体にかかったジュースを拭き取っている一花へ視線をちらりと向けて、何か言いたげにしていた。

それで慶はようやく一花のほうへと意識を向けた。

「大丈夫だったか?見せてみて」

一花はこの時すでに拭き終わっていて、慶の手が彼女の顔のほうへ近づいてくると「汚いから、触らないで!」と咄嗟にそう口に出した。

しかし慶は一花の言葉の意味を理解していなかった。「ジュースくらいで俺が嫌がるわけないだろう?ただ君のことが心配なんだよ。

颯太がこんなにわがままだったなんて、知っていれば君に世話を任せるべきじゃなかった」

一花は軽く口角を上げて、皮肉交じりに言った。「そうね。もし実の母親が世話をしていたなら、私なんかよりもずっと立派に世話していたでしょうね。だけど残念ね、彼の母親は亡くなってるんだもの。養子を育ててる母親代わりの私では、本当にどうやって世話をしたらいいのか分からないわ」

それを聞いた慶は一瞬たじろぎ、顔をこわばらせた。「何を言っているんだ、颯太は俺たちが養子として迎えた子だぞ。彼には一花という良い母親しかいないよ」

そう言い終わると、彼は愛おしそうに一花の頭を優しく撫でた。

一花は警戒しておらず、それを避けることができなかったため、触られた瞬間に気持ち悪くて体を硬直させた。

部屋に戻ると一花はすぐにシャワーを浴びた。

すると慶も彼女に続いてすぐにやって来た。彼は綾芽を滞在させる件で相談したかったのだ。

相談と言えば聞こえは良いが、彼が自分の意見など全く聞かないことくらい一花は分かっていた。

あの二人は本物の夫婦で、一花はただ偽の肩書きを持っているだけなのだ。

「今会社は上場する前の大事な時期だし、颯太には誰か世話をしてくれる人が必要だ。それに会社は君を必要としているんだよ。

柏木先生は子供教育のスペシャリストだ。君も見ただろう、颯太は先生の言うことならよく聞いて……」

「いいわ、そうしましょう」

一花はこの男の声にはうんざりだった。聞けば聞くほど吐き気がする。

「一花、君なら理解してくれると思っていたよ。俺が君のことを考えてるんだって分かってくれるもんね」

慶は話がついたのを見て、真っ黒な瞳に優しさを浮かべた。そして立ち上がり一花の細い腰に手を回した。

しかし一花はすぐに身を躱し、携帯を彼の前に差し出した。

写真に映っていたのは川沿いにある家だった。その場所はオフィスエリアだ。

そこは多くの企業が経済活動を行っているビジネス街で、南関市の中心に位置している。そして今二人が暮らす慶の家よりも、その不動産価格は高い。

「慶、この家どうかしら?」

「もちろん良いに決まってるさ。このエリアは一等地だよ」

慶は一花がどういうつもりでそう言っているのか分かっていなかった。

「来月私の誕生日でしょ、この家すっごく気に入ったの。誕生日プレゼントとして買ってくれないかな?」

一花は笑顔になり、なるべく甘えた声で言った。

慶が2年もの間彼女を騙していたのだ。この2年間に彼女が失ったものの中には時間だけでなく、自分の成功も含まれている。

一花は慶の会社を立て直すために、大企業からのオファーを断ってまで、黒崎家のこの小さな会社のために力を尽くしてきたのだ。

2年という短期間で、彼女は慶の会社の状況を一変させた。そしてあと数カ月で、会社を上場させ、2千億もの莫大な価値を生みだすことに成功する。

しかし、彼女はもうすぐ全てを搾り取られて捨てられる運命なのだ。

一花はもちろん彼らの思い通りにさせる気などない。それにこのまま彼らを見過ごすことなどもってのほかだ。

慶は以前、一花に誠実な愛を貫いていた。彼女が欲しいものなら、彼ができる範囲で何でも彼女に買って満足させてくれていたのだ。

しかし、一花はもともと物欲は少なく、本気で何かを求めたことなどなかった。

この時、慶は少し戸惑った。「どうして突然家が欲しいだなんて言い出すんだ?この家で十分じゃないか?」

「私たちが今住んでいるこの家はもちろん素敵よ。だけど、投資価値はあまりないの。でもこの写真の家は違うわ。将来的にその価値はぐんと上がるはずよ。

それに、あなたの会社はもうすぐ上場するでしょ。将来、新しい邸宅でパーティーを開いて、みなさんを招待すれば、場所だって便利なところにあるし、自慢できるでしょ」

一花が出す言葉の一つ一つは慶のことを思っての言葉だったので、すぐに彼の心に浮かんだ疑問が払拭された。

そして彼は、やっぱり一花は俺のお金をただで使うのは惜しんで、心から俺のために将来のことを考えてくれているのだ、と思った。

この瞬間、慶は自責の念に駆られた。それに一花のことを可哀想だとも感じていた。

「俺には君がいてくれるだけで、鼻が高いんだ。それ以上は望んでいないよ」

慶はまた彼女を抱きしめようと手を伸ばしたが、また一花に避けられてしまった。

「私の誕生日プレゼントにって言ったでしょ。私のために買ったと思えば、惜しくはないじゃない?」

最後のセリフを一花は冗談めいた口調で言った。

この日の一花はいつもと様子が違っていた。慶はそんな彼女を見ていると自分の欲望を抑えきれなくなっていた。

慶もあまり深くは考えずに彼女に尋ねた。「その物件はいくらするんだい?」

「そんなに高くないわ。たったの15億よ」

一花は微笑んで言った。

その金額を聞いた瞬間、彼の顔はこわばった。

一花にケチな態度を取りたいわけではなく、実際その価格は高すぎるのだ。

しかし、会社ももうすぐ上場するという大切な時期に、一花の機嫌を損ねるようなことはできず、結局頷いてしまった。

「分かった、君が気に入ったのなら、買ってあげるよ」

慶はそう言い終わると、すぐに一花の目の前で財務部に電話をかけた。

その夜、一花の個人口座に15億振り込まれた。

そして慶は彼女の要求通りに、特別に振り込む際へメッセージを付け足してもらった。【一花への家の贈り物。誕生日おめでとう】

銀行カードの残高は300万から一気に15億300万に変わった。

二人が「結婚」してから、一花は家庭の財布は慶に握らせていたのだ。

そしてこのカードに残っていた金額は、彼女が大学時代にアルバイトでこつこつ貯めたものだった。

この2年間、彼女は会社から給料を一円ももらっていなかった。

そして翌日の朝、一花が部屋を出てくると、一階のダイニングでエプロン姿の慶が綾芽と楽しそうにおしゃべりしていた。

それに颯太もまるで子犬のように二人の後ろにくっついていた。そのお利口そうな様子に、一花は今までの彼はなんだったのかと思っていた。

しかし、この一家三人の仲睦まじいシーンは、一花の登場によってあっという間に幕を閉じた。

綾芽は慶の肩に置いていた手を瞬時に離し、慶も一花のほうへと近づいてきた。

「目が覚めた?今日は俺が腕によりをかけて作ったんだよ。早くこっちに来て食べてみて」

一花がテーブルに視線を向けると、そこには豪華な朝食が並んでいた。

屋敷にはお手伝いの家政婦がいて食事を作るし、慶も朝食を食べる習慣がないので、料理を作ろうともしなかった。

それに、普段彼らは朝食には魚や味噌汁など一般的なものを食べていたが、今日は全て外国の朝食が並び、その種類も多かった。それも一体誰のためなのやら。

それが誰のためなのか分かっているが口には出さずに、一花は笑顔で綾芽に言った。「これって、全部先生が好きなものなんですね?」

「そうよ、慶君ったら本当におもてなしの心があるのよね。私が食べ慣れない物があってはダメだと心配してくれたの。彼みたいにここまで気遣いのある男性ってそうそういないわよ。水瀬さん、あなたって本当に幸運の持ち主よ。こんなに素敵な旦那さんを見つけてくるなんてね」

綾芽は自然にその言葉に返事をし、一花の目を見つめて絶妙な優越感を滲ませていた。

「そうですよ。慶は昔からずっと優しい人です。私だけにじゃなく、どんな女性にも優しく、紳士的に振舞っているんですよ」

「一花のそんな適当な話は無視してください。俺はそんなことありませんから」

慶は焦って否定してきた。一花は意味深なセリフを吐いたが、その軽い口調が、まるで愛があるからこそからかって言ったように周りに聞こえさせた。

しかし、綾芽は笑えなかった。

颯太は綾芽の不機嫌なオーラを感じ取り、一花が取ろうとした最後のオムレツの上に、これでもかとケチャップをかけた。

力を込めて絞り出したので、その勢いでケチャップが白く透明感のある一花の手に落ちた。

「颯太、一体何をやっているんだ!?」

すると慶が顔を暗くさせた。

綾芽は急いで一花にティッシュを渡し、颯太のほうを向いて低い声で言った。「颯太君、お腹がいっぱいになっても、食べ物を無駄にしてはいけないでしょ。

見なさい、お母さんの手まで汚しちゃって、彼女に謝りなさい」

颯太はこっそり一花に白目をむき、不服そうに言った。「ごめんなさい」

一花は手を拭きながら、この親子二人を一瞥した。

颯太は偉そうに顎を突き出して謝罪をしたし、綾芽の言った言葉も完全に重要な事から外れた曖昧な言い回しだった。

「いいから、食べ終わったなら、先に部屋に戻っていなさい」

颯太が謝罪の言葉を述べた後、一花がそれに返事する隙も与えず綾芽が先に言葉を発した。

「待って」

颯太が部屋に戻ろうとした時、一花が立ち上がり、サッと彼を捕まえた。そして壁際に追いやった。

「しっかり立ちなさい」

「このクソ女、放せ!」

颯太は抵抗しようと必死にもがいていたが、一花は彼の扱いに慣れているので、力強く彼の両肩を壁へと押さえつけた。そしてすぐ傍に置いてあった花瓶から棘のついた薔薇を手に取ると、それを思い切り彼のお尻に叩きつけた。

「うわぁぁぁぁぁ!!」

痛みと恐ろしさで、彼は大泣きしてしまった。

「水瀬さん、一体何をしているの?颯太君は謝ったでしょ、そんな体罰で子供の教育をするつもり?」

綾芽は焦って、一花を止めに入った。

「柏木先生、颯太は私の子供です。母親として、ものの道理をしっかりと教えないといけなんです。そんなに焦ってこの子を庇おうとして、まるで……彼の本当の母親みたいですけど?」

一花は冷ややかに綾芽に返事しながら、颯太を叩く手は止めなかった。そう言う間に何度も彼のお尻を叩いていた。

綾芽は顔を真っ青にさせて、拳を握りしめて怒りを堪えるように言った。「わ……私はただこの子がまだ小さいから……それに、颯太君だって別に大きな間違いを犯したわけでは……」

「小さな間違いでもきちんと正しておかなければ、大人になってからもっと取り返しのつかない大きな過ちを犯しますよ。私は柏木先生のような教育の専門家ではないですから、うまい方法は知りません。ですので、こうやって痛めつけないと、言うことを聞かないんです」

一花の言葉に綾芽は完全に押し黙ってしまった。この状況では、一花のほうが優勢で綾芽には阻止する立場がなかった。

慶も非常におかしいと感じていた。いつもならいくら厳しかったとしても、一花も叱責する程度で、手を出すことなどなかった。

確かに颯太はやり過ぎたが、綾芽から見つめられると慶は耐えられず、一花の手を掴んだ。

「分かった、落ち着いて。もう十分叩いただろう」

確かに一花は何度も颯太を叩くことで、心の中に湧いていた怒りが少し収まっていた。

すると彼女は薔薇の花を床に捨てた。颯太は素早く綾芽の後ろに身を隠した。

彼は息もうまくできないほど大泣きしていて、一花にかかっていくような余裕はなかった。

綾芽は眉間に皺を寄せて、どうもスッキリせず息を吐き出すと、何も言わずに颯太の背中を叩いてあげていた。

「颯太、覚えておきなさい。私があんたの母親である以上、年上に対する態度を良くしなさい。また立てつくような態度を取るというのなら、今度は容赦しないわよ」

一花は相手に有無を言わさぬ態度でその言葉をはっきり吐き捨てていった。それで颯太もあまりの恐ろしさに泣けなくなってしまった。しかし、彼女はこの時笑顔で話していたのだ。

慶はそんな彼女を見てとても驚いていた。

一花はそう言い終わるとダイニングを出ていった。

慶は何も考えずに彼女を追いかけようとしたが、綾芽に手を引っ張られてしまった。「慶……」

この時、綾芽は悲しそうな瞳で彼を見つめた。彼女は本気でこれ以上我慢できないのだ。

綾芽は慶が自分のことを長年愛してくれて、二人の愛情はとても深いことは分かっていた。それで、彼女も安心感があり、どんなことに対しても大らかな態度でい続けることができた。

しかし……

水瀬一花とかいう女は、本当に人を馬鹿にするにも程がある!

当時、黒崎家のおじいさんが断固として彼らの仲を認めなかった。

その頃の慶はまだ大学生で、祖父に抗う力などなかった。綾芽は危うく職を失うところだった。後々、大学の職員も続けられなくなり、職業を変えて、子供の教育を担う先生へ転身した。

そうして壁に突き当たったところで、慶は一花という隠れ蓑を見つけたのだ。

綾芽も慶にどうして水瀬一花を選んだのかと尋ねたことがある。

慶は綾芽に、当初一花を実家に連れて行くと、家族は一花を見てこれだけ綺麗だから慶も惚れて当然だと思ったらしいと教えた。

そして後で慶が一花について調査してみると、彼女は孤児で誰も頼れる人間がおらず、ビジネスの才能がある女性だと気がついた。多くの有名企業がこぞって彼女を招き入れようと必死になっていた。

一花と仲を深めれば、慶の事業にも一役買ってくれることになる。

しかし、綾芽を安心させるために、慶は一花と付き合い始めてからそう経たずに、綾芽とこっそり結婚してしまっていたのだ。

こうすれば、慶が一花と一緒にいたとしても、夫婦の共同財産も綾芽に渡すことができる。

慶も彼が将来、家業を継いだら、発言権が持てるようになるから、その時に二人の関係を公にすると約束していた。

そして彼ら二人にとって、水瀬一花という人間は初めから終わりまで都合の良い道具でしかなかった。

しかし今、この道具が偉そうな態度を取り始めて、綾芽は我慢できなくなったのだ。

慶はもちろん綾芽のことを可哀想だと心を痛めている。しかし、今はまだ一花と争って仲違いなどできない。彼はただ綾芽をしっかりと抱きしめてやることしかできなかった。そして苦しみをぐっと抑えこみ、一花の後を追いかけていった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Comments (5)
goodnovel comment avatar
横山煌
痛いよぉぉぉぉぉぉぉ
goodnovel comment avatar
又丸千章
とんでもない旦那、女も子も一緒
goodnovel comment avatar
飯田未央
両親が居ないからというだけで、人間扱いされないのはどういう了見だよ! 旦那の考えが詐欺師だとも思える
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 偽物クズ夫に別れを告げ、スパダリと政略結婚します   第840話

    「それでも、すべて個人的な行動だと主張しますか」「……」浩之は、相手がこんな一手を打ってくるとは思っていなかった。どれほど反応が良くても、弁解の余地はなかった。ギャロップの代表は皆、慌てふためいた。会場も大きく騒ぎ出した。「まさか、ギャロップがここまで汚い手段を使うなんて?どうやら伊集院グループはわざと話題作りをしたんじゃなくて、本当に被害者だったんだ……」「前の如月さんの件の偽の動画も、おそらくギャロップが仕組んだものでしょう?」「ビジネスの競争でここまでやるとは、あまりにも卑劣だぞ!」「……」浩之は深く息を吸い込み、無理に冷静さを取り戻そうとした。プロジェクト側も落ち着いていられなくなった。会場がこれだけ混乱している以上、ネット上は見なくてもおそらく大騒ぎになっているだろう。これで見ると、ギャロップのやり方はあまりにも酷い。プロジェクトをギャロップに任せれば、利益は出ても大衆の信頼を失い、下手をすればどんな問題を引き起こすかわからない。その責任を誰も負いたくない。この状況を見て、審査会側は入札を中断し、結果は後日改めて発表することにした。しかし、柊馬は一花の手を引き、注目の中でステージへと上がった。陽菜はすぐにマイクを柊馬の手に渡した。「皆様、この間、私が伊集院グループを離れ、入札を欠席したのは、決して故意ではなく、実際に体調を崩していたためです。その間、会社の全ての業務は、私の妻に全面的に仕切りを任せておりました。ですから、この機会をお借りして、妻に感謝を申し上げるとともに、皆様の当社へのご支援に、心より感謝申し上げます」柊馬の言葉が終わるや否や、一花がそれに続き、優しい声でさらに言った。「皆様への感謝の気持ちとして、私と夫は、伊集院グループ及び西園寺製薬を代表し、二つの約束をさせていただきます」柊馬は横を向き、一花と微笑み合った。その顔に浮かべた優しさを見ると、まるで甘いハチミツの中にいるかのようだった。陽菜は傍らでそれを見て、一瞬で我を忘れた。やはり、二人はお似合いだった。会場は一瞬静まり返り、誰もが興味深そうに二人の言葉を待った。感謝を表したいと?彼らは一体何をするつもりなのか?修治と美穂は顔を見合わせたが、柊馬と一花に対しては、今は完全に安心

  • 偽物クズ夫に別れを告げ、スパダリと政略結婚します   第839話

    事の流れがおかしくなっていくの見て、審査員が柊馬に注意を促した。二人にまずは席に着くよう合図した。陽菜のほうは焦って、直接浩之に言い返した。「どうして変更できないって言うんですか?ルールに、緊急事態には代表を変更してはいけないとは書いていませんわ。私も今日はあくまで臨時に伊集院グループを代表してステージに上がっただけです。伊集院社長と西園寺社長ご夫妻が来た以上、当然、引き続き発言する権利があります」「緊急事態ですね?では、伊集院グループは具体的な事情を審査会に報告したのですか?」浩之は再び口を開いた。しかし、今度は柊馬も口を開いた。「代表は、変えなくていいです。皆様もご覧の通り、我々のプロジェクトの計画や誠意、もうありのまま示されています。仮に発言する代表を変えたところで、これ以上補足することはありません」一花は柊馬の落ち着いた声を聞き、そっと口元を綻ばせた。彼はやはり昔と変わらず、堂々として、自信満々のオーラを放っていた。皆、柊馬と一花が何をしようとしているのか分からず、会場は再び静まり返った。浩之も少し迷いを見せた。その時、会場の扉が再び開かれ、湊が一人の男を連れて入ってきた。その傍には制服を着た二人の警官が付き添い、一花と柊馬のそばに歩み寄った。「社長、連れて参りました」「皆様、二分ほどお時間を頂戴します。この場をお借りして、弊社は皆様に一つ、事実をはっきりと説明させていただきます」浩之は何かおかしいと薄々感じ、立ち上がって止めようとしたが、一花の言葉に阻まれた。一花は審査会のスタッフに向かって言った。「近頃、ネット上には伊集院グループを標的にした多くの偽の情報が出回っております。プロジェクトに責任を持ち、南関市の全ての投資家、及び我々に関心を寄せるネットユーザーたちに責任を持つため、我々にはその疑いを晴らす義務があります。それに、これらの事柄は伊集院グループに関係するだけでなく、ギャロップにも関係しています。入札結果に公平競争を期待するため、皆様も真実を知りたいとお思いでしょう」一花のこの言葉に、会場全体に異論はなかった。ましてや今は生中継が行われており、大勢の目の前で、正当な理由なくこれを止めることはできない。許可を得て、湊は警察と協力し、みんなの前で説明を行った。湊が

  • 偽物クズ夫に別れを告げ、スパダリと政略結婚します   第838話

    この時、柊馬の淡々とした冷たい声が、会場全体に響き渡った。浩之だけでなく、その場にいた全員が一瞬静まり返り、その後、一気に盛り上がった。伊集院柊馬だ!まさに、ネット上ですでにこの世にいないと噂されていた伊集院グループの社長……伊集院柊馬ではないか!柊馬を見て、陽菜は体中の力が抜けたように感じた。彼女は目が突然輝き、両手で講壇の端をしっかりと掴んだ。柊馬と一花……二人とも無事だった!「……」美穂と修治は、入口からゆっくりと歩み寄る二つの影を見て、一瞬、何も言葉が出なかった。美穂は全身の感覚が痺れ、ポカンとしてから、涙が止まらなくなった。修治でさえ、目を赤くし、口元をわずかに開き、表情も歪んだ。「どうして……」周囲のざわめきはますます大きくなり、会場では同時生中継が行われており、ネット上も大騒ぎになり、コメントが飛び交った。全員は、柊馬と一花の突然の出現に、驚き、衝撃を受けた。これは現実のビジネスの競争なのに、どうしてテレビドラマよりも衝撃的なのか?以前、ネット上で伊集院グループの社長はもういないと噂されていたが、やはりそれはただの噂だったのか?伊集院グループがただこの「逆転劇」を上演するために、自ら会社の内部をここまで混乱させるはずがないだろう。この行動は注目を集める以外、入札に何の利益ももたらさず、むしろギャロップを好き勝手にさせただけだ。つまり……すべてはギャロップの陰謀なのか?伊集院グループの社長が姿を現せない隙に、噂を流し、伊集院グループから公衆の信頼を奪うつもりなのか。そう考えると、もしかすると一花の失踪もギャロップと関係があるのではないか?これは、面白い展開になりそうだ!元々は単なる入札だが、わずか数分で大きな注目を集めた。プロジェクト側もこんな状況は初めてで、少し慌てて、すぐにスタッフに会場を落ち着かせるよう指示した。浩之はしばらくしてようやく我に返り、黙って拳を握りしめた。「伊集院社長、西園寺社長。お二人ともこの間、ずっと姿を見せませんでしたので、もっと重要な用事でお忙しいのかと思っておりました。お二人がお越しになるなら、なぜもっと早く来られなかったのですか? 今、如月さんが既に伊集院グループを代表して発言されました。伊集院グループは臨時に代表を変更され

  • 偽物クズ夫に別れを告げ、スパダリと政略結婚します   第837話

    しかし、それはあくまでネット民の意向だけで、結局のところプロジェクト側を動かすことはできなかった。ギャロップ側は全く気にしていなかった。浩之は相変わらず、会社の専門性がどれほど圧倒的かという路線で宣伝を行い、利益と国目標を強調した。この一手は、南関市でこの産業プロジェクト分野に関心を持つ多くの人々の支持を勝ち取り、その内容が充実していて、確かに伊集院グループよりもいくらか上回っていた。しかし、総合的に見れば、伊集院グループであれギャロップであれ、どちらがプロジェクトを請け負っても問題はないだろう。ただ、このプロジェクトは二社ともに任せることはできない。さもなければプロジェクト側も両者の提携によるウィンウィンを望んだだろう。結局、最終入札のプレゼンテーションでは、プロジェクト側は公平のため、またこの機会にプロジェクトの影響力をさらに拡大するため、直接、生放送を行うことにした。浩之はギャロップの代表として、多くのことを経験したベテランでもあり、最後のプレゼンテーションは完璧にこなした。プロジェクト側はもちろん、伊集院グループでさえ、反論の糸口を見つけられなかった。しかし、やはり中には、ギャロップの過去のスキャンダルを利用して、質問する者もいた。だが、浩之はとっくに準備をしており、質問に巧妙に答えただけでなく、ついでに伊集院グループの非難を込めた質問にも応じた。彼は、技術的な革新には必ず過ちが伴うものであり、ミスを恐れていては進歩はないと主張した。さらに歴史を鑑みに、強者が超えるべき相手は自分自身だけだと述べた。その自信満々の発言は、盛大な拍手をもらえた。もともと緊張していた陽菜は、ますます自信を失った。陽菜が出る前、如月家の人々と美穂は彼女に恐れずにやるようにと励ました。たとえ入札に失敗しても、彼らは最善を尽くしたのだ。柊馬と一花が今、行方不明である以上、彼らには他のことを考える余裕など全くなかった。たとえ伊集院グループが入札に勝ったとしても、どうなるというのか?どんなに重要なプロジェクトでも、彼らの子供より価値があるはずがない。修治もこの時悟った。彼は一生、強情であり、柊馬に対する要求も非常に厳しく残酷だった。柊馬が既に伊集院グループをうまく管理しているというのに、彼は決して満足しなか

  • 偽物クズ夫に別れを告げ、スパダリと政略結婚します   第836話

    その後、夏海は先に警察署へ行き、事情聴取に協力した。昨夜のことを話すうちに、夏海の涙がぽろぽろとこぼれ落ち、声も震えていた。「もういい、もう大丈夫だから」一花は心を痛めて彼女を抱きしめ、必死にその気持ちを落ち着かせた。彼女は、和香が陸斗にそこまで非情な手を使うとは、まったく思っていなかった。一花と陸斗は、和香が彼にさせたのは、単に彼を捨て駒にして罪を着せるためだと思っていた。幸い、危ないところだったが、何とか皆無事で済んだ。夏海と一花が話していると、湊も駆けつけてきた。一花を見た時、彼は自分の感情を抑えきれなかった。「奥様!」「来栖さん」一花は微かに微笑んだ。そして、湊の顔は一瞬強張り、その視線はまるで何かを探しているようだった。一花が入り口の車の中に目をやると、湊もすぐに察した。その時、警察署の外に停まっている黒いセダンの後部座席には、柊馬がいた。「社長」柊馬を見て、湊は危うく涙が零れ落ちそうだった。彼は慌てて顔を背け、みっともない姿を見せまいとした。何しろ、社長の秘書になった初日から、柊馬は彼に外では体面を保つようにと厳しく言い聞かせていたのだ。「来栖、ご苦労だったな」柊馬は低い声で言い、そっと手を上げて湊の肩を叩いた。湊は腰をかがめ、相変わらず悲しそうな様子だった。この数日間、彼は決して感情を表に出さないようにしてきた。一花に影響を与えることを恐れていたからだ。しかし、今はもう我慢できなかった。感情を抑えようとすればするほど、抑えきれず、すぐ手をあげて涙を拭った。「馬鹿者、何を泣いてるんだ。俺は無事だっただろ?」「すみません、社長……私、ただ……あまりにもお会いしたくて……あなたが、これほどの苦しみを……」「……」湊の自分に対してこれほど心配しているのを見て、柊馬は非常に感動した。ちょうど優紀が車を降りてタバコを吸おうとすると、柊馬は彼の方に手を伸ばした。優紀は当然のように彼にタバコを一本差し出したが、柊馬は眉をひそめた。「ティッシュが欲しいんだ」優紀は探してみたが、持っていなかった。そばにいるアシスタントに聞こうとしたところ、夏海が素早く前に出た。ティッシュを柊馬に差し出した。「伊集院社長、お帰りなさい」夏海は思わず微笑んだ。一花が本当

  • 偽物クズ夫に別れを告げ、スパダリと政略結婚します   第835話

    和香は力が一瞬で抜けたように、ぐったりと崩れ落ちた。誰かに支えられながらも、そのまま地面に跪いた。涙が止まることなく、どんどん溢れ出ている。彼女はとても憎んでいた。しかし、その憎しみは、今はすっかり行き場をなくしていた。匠を憎むべきなのか?それとも一花を憎むべきか?あるいは、これほど努力してきたのに、結局悲惨になった自分自身を憎むのか?掴みたいと願ったすべてのものは、たとえかつては確かに握りしめていたとしても、結局はすべて失ってしまった。「父があなたに残したものは、このままあなたに残すわ。でも、それを手にする機会があるかどうかは、あなた次第ね」一花は淡々と言い終えると、振り返りもせずに去っていった。和香は我に返り、地面に落ちた手紙の破片を見て、はっとしたように地面に這いつくばり、慌ててそれらを拾い集めた。……あの紙屑こそが、匠が彼女に残した最後のものだった。そして、それは彼女のこの人生で……最後の慰めでもあるだろう。「一花さん!」一花は弁護士と共に警察署のロビーに出ると、自分を待っていた夏海のことが見えた。夏海は早朝から警察署に通報しに来て、ずっと待っていた。空が白み始めた頃、パトカーが人を連行するのを見て、一花がこの数日間無事だったことを知り、泣きそうになるほど喜んだ。一花はすべてを計画する時、湊にだけ伝え、他の誰にも一切説明していなかった。彼女は夏海を信頼していなかったわけではない。しかし、この件はあまりに多くの人間が知ると、かえって計画の進行に不利になる。もし彼女が行方不明になって、身近な人間が皆冷静だったら、明らかに怪しまれるではないか?湊と誠がいるので、一花は夏海のことを心配していなかった。それに、陸斗が夏海と会社で対立しているように見せかける必要もあった。そうすることで、和香側の人間が陸斗に対して警戒を緩めるからだ。「夏海さん」一花は彼女の憔悴した顔を見て、この数日間、自分のことで苦労したのだとわかり、心を痛めて彼女の頬を撫でた。「ごめんね、心配かけて」夏海は首を横に振った。「大丈夫ですよ。これくらい何でもありません。あなたが無事だとわかって、私は本当に嬉しい!」一花は夏海の手を取ると、すぐにまた彼女の状況を確認した。「陸斗さんと昨晩、誰かに狙

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status