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第3話

Auteur: 小粒キャンディ
一花が車に乗り込もうとしているのを見て、慶は気持ちを切り替え、一緒に行こうとした。

この時間帯には、二人はいつも一緒に出勤する。

「あなたは秘書に送ってもらって。私は不動産屋さんと約束して部屋を見に行くの」

慶はそれを聞いて一瞬、訝しげにしていた。「だけど、今日は会社で重要な……」

「この物件はとても人気があるの。だから、今日行かないと誰かに取られちゃうわ」

一花は直接彼の言葉を切り捨てた。「あなたいつも言ってるじゃない。仕事が終わらなくても、ある程度のところで終わりにしないとキリがない、たまには自分を甘やしてやれってね」

一花は淡々とした口調で言っていて、感情を表には出さずに微笑んでいた。

しかし、その微笑みに、慶ななぜだか背筋がひやっとしてしまった。

すると彼はすぐに口角を上げた。「分かった。じゃあ、俺も今日は会社を休んで君と一緒に家を見に行くよ」

「その必要はないわよ」

一花は輝くような笑顔を見せ、振り返って、指で軽く彼の胸元を突っついた。「一人で選びたいの。選んでからあなたに見せに連れて行くから」

一花はもちろんこの時の慶の目論見が分かっていた。彼は別に彼女に付き添いたいわけではなく、見張っていたいだけだ。

慶に任せてしまい、夫婦の名義で家を購入することになれば、そこは彼と綾芽のものになってしまう。

一花が甘えるような口調で話すものだから、慶は突然ゾクッとして彼女の手をぎゅっと握りしめた。

「お楽しみってこと?」

「そうよ」

その瞬間、一花の口元はこわばり、すぐに手を引っ込めた。

「そうか、じゃ、君の言う通りにするよ」と慶は声のトーンを低くし、軽く彼女の肩を抱いた。

それを避けることができず、一花はただ気持ち悪いのを堪えるしかなかった。

そして一花が車でその場を去ると、慶の表情からスッと笑顔が消えた。

彼はどうも一花が少しいつもと違うように感じていた。

それとも、女性は敏感な生き物だから、何かに気づいて彼と綾芽の仲に嫉妬したのかとも考えていた。

慶はネクタイを整え、ソワソワする気持ちを抑えようとした。

一花に気持ちを持って行かれるわけにはいかなかった。

いくら一花が魅力的な女性で、心から自分のことを想っていてくれたとしても……

妻は綾芽、ただ一人なのだから。

それから一時間後、一花は全面ガラス窓から、オフィスエリアの風景を眺めていた。

彼女が目を付けたこのタワーマンションは、天井まで豪華な造りで、スマートホーム化されている。シンプルながらも高級感があり、レイアウトは完璧だった。総面積は90坪にもなる。

面積に関しては一番大きな部屋ではないのだが、オフィスエリアの一等地にある。

夜、街中がライトアップされれば、ここからの景色は最高だろうと一花はすでに想像していた。

「ここにします。手続きをお願いします。私の名前で契約しますね」

一花はとても満足して、この物件を担当する不動産仲介スタッフである河本にそう言った。

ここは契約すれば即入居可能であり、彼女はいつでもあの窒息しそうなほど息苦しい「家」から出て行けるのだ。

「かしこまりました」

河本は、彼女がただ見に来ただけの客だと思っていたので、即決してくれたことにとても喜んでいる様子だった。

すると一花に対する態度が一変し、担当者は一花を顧客専用の部屋へと案内し、他のスタッフに飲み物と茶菓子を持って来させた。そして自ら不動産契約書を取りに行った。

少しして一花は契約書にサインをし、一括購入を選び手付金の支払いを済ませた。その後の手続きに関しては、プロに頼んで代わりにやってもらうつもりだ。

一花が契約書にサインをしている時、甘ったるい女の声が耳に飛び込んできた。

「あなたが私が目をつけていた部屋を横取りしたのね?」

一花がその声のほうへ視線を向けると、そこにはブランド物に身を包み、めかし込んだ若い女の姿があり、勢いよく駆け寄ってきた。

彼女の後ろには二人のボディーガードと、不動産仲介の女性スタッフがいた。

「私のことですか?」

一花は一瞬驚き、すかさずそう尋ねた。

「当然でしょ、この部屋は私が先に目を付けていたのよ。この部屋を買うのはこの私よ!」

女がサングラスを外すと、その下からは魅力的な瞳が現れた。しかしその瞳には怒りを宿し、鋭い視線で一花を睨みつけていた。かなり横柄な態度の女だ。

「さっき、この部屋は誰かが予約しているなんて話は聞きませんでしたけど。あなただって手付金を支払ってはいないのでしょう?私が先に契約したので、ここは私のものです」

一花は冷たい声でそう言い放った。彼女は話の通じなさそうな相手とは言い争いたくなかった。そして彼女は立ち上がって他の席に座った。

その女は腹を立てて、あまりの怒りで何かを話す前にその場で地団太を踏んでいた。

「そんなことはどうだっていいのよ。別にあんたにお知らせに来たわけじゃないし。私には優先権があるのよ、だから私に逆らえる権利なんてあんたにはないんだからね!」

一花はまたその女のほうへ視線を戻し、理解できない様子で言った。「優先権?」

そして女の隣にいた不動産仲介スタッフの中野も淡々とした口調で言った。「我々には、家を購入できる資格があるかまずは審査をする権利がありますので、先に契約書にサインしていたとしても意味はないのです。お客様の家柄がまずは考慮されるのです」

そう話す彼女は一切一花に目を向けず、かなり相手を馬鹿にするような態度だった。

「そんな規定があるなんて、本当に……呆れて言葉も出ないわね」

一花は眉間に皺を寄せた。

そしてこの時、さっき契約書を取りに行った担当者も、申し訳なさそうな様子で戻ってきた。

そして一花の横で偉そうに腕組みしている女を見ると、小声で一花に話した。「申し訳ございません。こちらのお方は二階堂萌絵(にかいどう もえ)様とおっしゃって、国内で最も有名な玩具メーカーの会社のご令嬢なのです」

一花は有名な玩具製造会社、二階堂グループならもちろん知っている。

一花が莫大な遺産を継いだ後、家族について調査していた。南関市のビジネスランキングで、二階堂グループは第五位である。

だからこの目の前にいる二階堂お嬢様が、ここまで偉そうな態度を取れるのは当然のこと。

そして中野はまた口を開いた。「気分を害されたのは分かりますが、すみませんね、規定は規定ですので」

「別に気分を悪くはしていないけど、ただ不公平だと思っただけよ。だけど、そちらにそのような規定があるなら、その優先権とやらはそこにいる女性より私のほうが上よ」

一花は軽くため息をつき、続けて隣にいる担当者へ指示を出した。「すぐに手続きを終わらせてもらえますか。私、急いでいるので」

つまり一花は南関市の第五位に座する二階堂氏よりも格上だということだ。

「?」

その言葉に、萌絵と中野は呆然とした。

「何を言っているの。彼女のほうに優先権があるですって?」

萌絵は自分の聞き間違いかと思い、中野のほうへ目を向けた。

中野はすぐに手元にある予約表へ目を通した。

もし、二階堂氏よりも大口の顧客がここへ来るのであれば、彼らスタッフ一同には事前通達がされるはずだ。少なくとも、仲介マネージャー自ら出迎えることになる。

しかし、目の前にいる女性はいたって普通の格好をしていて、良くても宝くじで大金を当てただけの、一時的な金持ちだろうと中野は思った。二階堂家の令嬢を超える身分の人間などそうそう現れるわけがないと思っていた。

「お客様、私の言葉を理解されていないようですが、うちはお客様の家柄によって……」

「だったら、その審査とやらをしてみればいいじゃない」

一花は無駄話をしたくなかったので、再び身分証明書を突き出した。

彼女は怒っているわけではない。今までにこれ以上にムカつく連中なら嫌というほど見て来たのだ。このように人の身分にこだわる連中など屁でもない。

そして一花の担当をしている河本が少し訝しげにしていたものの、言われた通りに審査に入った。

この時、二階にあるVIPルームのカーテンが少し動いた。

後ろの背の高い人影が立ち上がってその場を離れた。

その傍にいた付き人がすぐに意味を理解し、部下に命令した。「行け、伊集院様がおっしゃっている。あの者たちにあちらのお嬢様の資産を審査をするのを止めさせろ。あの方は西園寺家のご令嬢だ」

南関市の西園寺家といえば、一つしかない。それは南関のトップ財閥家である。しかし、西園寺家に令嬢がいるという噂は今まで聞いたことがなかった。

一花はまたソファに座り直した。

この時、中野はもはや我慢できない様子だった。

「お客様、身の程を弁えられたほうがいいと思いますよ。さっきも言いましたが、我が不動産で住宅を購入される際には、その資格があるかどうか審査が必要なのです。手元に資金があっても、ここの家を買うだけで精一杯な程度でしょう。これ以上二階堂様のお時間を無駄にしないでください。でなければ、今すぐ警備員を呼んで追い出しますよ」

この時、萌絵はさっきまでの怒りを鎮め、鼻で笑うと中野を押し退けた。

「別にいいわ、ちょっとくらい待ってあげる。見せてもらいましょうよ。この女が一体どこの名家の娘なのかね。

お耳に痛い話をさせてもらうけど、もしあなたが二階堂の上をいく家柄でないのに、私の時間を無駄にしたのなら、土下座して謝るのよ。じゃなきゃ、容赦しないからね」

この女、二階堂萌絵は一花よりも少し年下で二十歳を少し過ぎたくらいだろう。完全に甘やかされて育ったわがままお嬢様だ。

一花は軽く笑った。「いいわよ、じゃ、あなたが言うその『優先権』とやらが私にあるならどうする?あなたも土下座して謝るのよね?」

「あんた……」

二人が話している時、スーツを来た男が額の汗を拭きながら一花のほうへ駆けてきた。

「お嬢様、大変申し訳ございませんでした。確かにお嬢様のほうに決定権がございます。とんでもない態度をお見せしてしまい、誠に申し訳ございませんでした!」

河本はさっき審査をしに行こうとしたところ、通知を受け、彼が担当している女性は総資産兆超えであると知り、度肝を抜かしてしまった。しかも、彼女はあのトップに君臨する財閥家、西園寺家が探し出した令嬢だったのだ。

中野はまだ一花に問い詰めようとしているところを、他の店員に引っ張られてこの件を伝えられた。するとその瞬間全身の力が抜けてしまい、床に膝をつき崩れてしまった。

しかし、彼女は我に返ると、跪いたまま謝罪し始めた。「も、申し訳ございませんでした、西園寺様。世間知らずのわたくしめが、先ほどは失礼な態度を取ってしまって、どうかお許しください……」

萌絵は目の前にいる女性が西園寺家の人間だと聞き、信じられない様子でいた。

彼女は自分が知っているあの西園寺家のことなのかと思っていた。

南関では、西園寺家が少し動くだけで、ビジネス界を大きく変えてしまうほどの実力を持っている。

「早く手続きを済ませてちょうだい。私、忙しいのよ」

一花は言い争う気もなく、ただその審査とやらをさっさと終わらせてもらいたかった。

それを聞いたマネージャーはすぐに契約書を持ってきて、一花にサインをしてもらうと、部下に手続きをしに行かせた。

「あなたが西園寺家の娘ですって?今まで会ったことなんてないはずよ」

萌絵は頭を棒で殴られたかのように衝撃を受け、呆然と一花を見つめていた。

西園寺家の同世代であれば、萌絵も知っている。しかし、唯一……この目の前にいる女とは顔を合わせたことがないのだ。

「なにが西園寺よ、絶対に嘘に決まってるわ!」

萌絵は考えれば考えるほどおかしいと思った。ここにいる全員が手を組んで自分を騙そうとしているとまで思ってしまった。そして合図一つで後ろにいたボディーガードが強引に止めようとした。

しかし、それを不動産スタッフが止めに入る前に、その場には黒服の男たちがなだれ込んで来て、萌絵たちの邪魔をした。

その一団の先頭に立っていた中年男が、朗らかな声で言った。「二階堂様、ご無沙汰しております。わたくしは西園寺家の執事、古谷と申します」

それを聞いて、萌絵だけでなく、一花も驚いていた。

西園寺家の人間がどうして突然ここへ現れたのだろうか?

スーツに革靴姿の中年男は、白髪交じりの頭に、黒ぶち眼鏡と白手袋をはめていた。非常に優雅な雰囲気を醸し出しているが、人を圧倒するオーラを持っている。

萌絵は古谷を見ると、さっきまでの勢いがしぼんでいった。

「古谷さん、彼女は……まさか、本当に西園寺家の令嬢なのですか?」

ここまで来ても萌絵は信じたくなかった。

萌絵が知るところでは、西園寺匠の妻は不妊症で、一人だけ養子をもらったはずだ。匠が他界してから、どうして何もないところから急に彼の娘が現れたのだろうか。

まさか……隠し子なのだろうか。

「間違いなく、こちらにいらっしゃるお方は、我が西園寺家の匠様の娘様でございます。そして今、唯一西園寺家を継ぐお方なのです」

そう言い終わると、古谷は萌絵を通り過ぎ、一花をじっと見つめた。

一花は見つめられて非常に慣れない様子だった。そして次の瞬間、古谷が丁寧にお辞儀をした。「お初にお目にかかります。一花お嬢様」

「お嬢様」

古谷がそう言うと、後ろに付き従っている黒服の男たちが一斉にお辞儀をした。

その光景に一花は驚き、萌絵も怯えた様子で思わずよろけてしまった。

萌絵はカバンをぎゅっと抱きしめ、すぐにその場を離れようとしたが、黒服たちに囲まれてしまった。

「お嬢様、こちらの二階堂様と何かあったようですが、解決いたしましょうか?」

古谷は萌絵のほうをちらりとも見ず、薄い笑みを浮かべて恭しく一花に尋ねた。

この時、萌絵は顔を真っ青にさせていた。さっき一花に言った言葉のように、ここで土下座をさせられるのかとおどおどしていた。

ここで土下座でもしてしまったら、今後上流社会の集まりでどんな顔をして出席すればいいのか。恥ずかしくてたまらない。

「……」

西園寺家が上流社会ではかなりの地位であることは知っていても、一花はこのような状況は初めてだから少し戸惑った。「いいです。別に何かされたわけじゃないですから」

「そうおっしゃられるのでしたら、二階堂様には我が西園寺家のお嬢様に謝罪の言葉を述べていただきましょう。そうしないと両家の面子というものがございますので」

そう言いながら古谷は背筋を伸ばした。一花が気に留めなくとも、如何なる人間もこの西園寺家に失礼な態度を取らせたままで終わらせるわけにはいかない。

古谷はニコニコと微笑んではいるものの、萌絵はその圧力に押し潰されそうに感じていた。

彼女はゴクリと唾を飲み込むと、大勢の前で一花に謝るしかなかった。「す、すみませんでした」

そう言い終わると、黒服たちはようやく萌絵に道を開けた。

萌絵は顔を真っ赤にさせて、すぐに付き人を連れてその場を去っていった。

萌絵が去った後、古谷が合図を送ると、さっき萌絵を担当していた中野も人に連れられていった。

一花が口を開く前に、古谷が前で進み出て、彼女に「どうぞ」と手を出口のほうへ向けた。

「こちらの事はわたくし達が処理しておきます。車が外に待ってますので、お嬢様は先にお乗りください」

古谷を見つめる一花の瞳は、最初警戒していた様子だったが、この時幾分か落ち着いていた。

彼女はすぐには動かず、ただ平然とした様子で尋ねた。「車って、どこへ向かうのですか?」

「もちろん、西園寺家にお戻りになるのです」そう答える古谷は穏やかだったが、相手に有無を言わさぬ口ぶりだった。
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