四月の初めに大雨が降った。病院の出口。痩せた夏目紗枝の細い手に、妊娠検査報告書が握られていた。検査結果は見なくても分かった。報告書にははっきりと二文字が書かれていた――『未妊』!「結婚して3年、まだ妊娠してないの?」「役立たずめ!どうして子供を作れないの?このままだと、黒木家に追い出されるよ。そんな時、夏目家はどうする?」夏目美希は派手な服をしていた。ハイヒールで地面を叩きながら、紗枝を指さして、がっかりした顔を見せていた。紗枝の眼差しは空しくなった。心に詰まった言葉が山ほどあったが、一言しか口に出せなかった。「ごめんなさい!」「ごめんなどいらない。黒木啓司の子供を産んでほしい。わかったか?」紗枝は喉が詰まって、どう答えるか分からなくなった。結婚して3年、啓司に触られたこと一度もなかった。子供なんか作れるはずはなかった。弱気で意気地なしの紗枝が自分と一寸も似てないと夏目美希は痛感していた。「どうしても無理があるなら、啓司君に女を見つけてやって、あなたのいい所、一つだけでも覚えてもらったらどうだろう!」冷たい言葉を残して、夏目美希は帰った。その言葉を信じられなくて紗枝は一瞬呆れて、お母さんの後ろ姿を見送った。実の母親が娘に、婿の愛人を探せというのか冷たい風に当たって、心の底まで冷え込んだ。......帰宅の車に乗った。不意にお母さんの最後の言葉が頭に浮かんできて、紗枝の耳はごろごろ鳴り始めた自分の病気が更に悪化したと彼女はわかっていた。その時、携帯電話にショートメールが届いた。啓司からだった。「今夜は帰らない」三年以来、毎日に同じ言葉を繰り返されていた。ここ3年、啓司が家に泊まったことは一度もなかった。紗枝に触れたこともなかった。3年前の新婚の夜、彼に言われた言葉、今でも覚えていた。「お宅は騙して結婚するなんて、いい度胸だね!孤独死を覚悟しろよ!」孤独死......3年前、両家はビジネス婚を決めた。双方の利益について、すでに商談済みだったしかし結婚当日、夏目家は突然約束を破り、200億円の結納金を含め、全ての資産を移転した。ここまで思うと、紗枝は気が重くなり、いつも通りに「分かりました」と彼に返信した。手にした妊娠検査報告書はいつの間にか
「啓司、ここ数年とても不幸だっただろう?」「彼女を愛していないのはわかってるよ。今夜会おう。会いたい」画面がブロックされても、紗枝はまだ正気に戻れなかった。タクシーを拾って、啓司の会社に行こうとした。窓から外を眺めると、雨が止むことなく降っていた。啓司の会社に行くのが好まれないから、行くたびに、紗枝は裏口の貨物エレベーターを使っていた。紗枝を見かけた啓司の助手の牧野原は、「夏目さんいらっしゃい」と冷たそうに挨拶しただけだった。啓司のそばでは、彼女を黒木夫人と見た人は一人もいなかった。彼女は怪しい存在だった。紗枝が届けてくれたスマホを見て、啓司は眉をひそめた。彼女はいつもこうだった。書類でも、スーツでも、傘でも、彼が忘れたものなら、何でも届けに来ていた......「わざわざ届けに来なくてもいいと言ったじゃないか」紗枝は唖然とした。「ごめんなさい。忘れました」いつから物忘れがこんなにひどくなったの?多分葵からのショートメールを見て、一瞬怖かったせいかもしれなかった。啓司が急に消えてしまうのではないかと心配したのかな......帰る前に、我慢できず、ついに彼に聞き出した。「啓司君、まだ葵のことが好きですか?」啓司は彼女が最近可笑しいと思った。ただ物事を忘れたではなく、良く不思議なことを尋ねてきていた。そのような彼女は奥さんにふさわしくないと思った。彼は苛立たしげに「暇なら何かやることを見つければいいじゃないか」と答えた。結局、答えを得られなかった。紗枝は以前に仕事を探しに行ったことがあったが、結局、黒木家に恥をかかせるとの理由で、拒否された。姑の綾子さんにかつて聞かれたことがあった。「啓司が聾者と結婚したことを世界中の人々に知ってもらいたいのか?」障害のある妻......家に帰って、紗枝はできるだけ忙しくなるようにした。家をきれいに掃除していたが、彼女はまだ止まらなかった。こうするしか、彼女は自分が存在する価値を感じられなかったのだ。午後、啓司からショートメールがなかった。いつもなら、彼が怒っていたのか、取り込み中だったのかのどちらかだったと思ったが......夜空は暗かった。紗枝は眠れなかった。ベッドサイドに置いたスマホの着信音が急にな
「あなたはたぶん今まで恋を経験したこともなかっただろう。知らないだろうが、啓司は私と一緒にいたとき、料理をしてくれたし、私が病気になった時、すぐにそばに駆けつけてきたのよ。彼がかつて言った最も温もりの言葉は、葵、ずっと幸せにいてね......」「紗枝、啓司に好きって言われたことがあるの?彼によく言われたの。大人気ないと思ったけどね......」紗枝は黙って耳を傾け、過去3年間啓司と一緒にいた日々を思い出した。 彼は台所に入ったことが一度もなかった......病気になった時、ケアされたことも一度もなかった。愛してるとか一度も言われたことがなかった。紗枝は彼女を冷静に見つめた。「話は終わったの?」葵は唖然とした。紗枝があまりに冷静だったせいか、それとも瞳が透き通って、まるで人の心を見透かせたようだったのか。彼女が離れても葵は正気に戻らなかった。なぜか分からなかったが、この瞬間、葵は昔に夏目家の援助をもらった貧しい孤児の姿に戻ったように思えた。夏目家のお嬢様の目前では、彼女は永遠にただの笑われ者だった......紗枝は葵の言葉に無関心でいられるのだろうか? 彼女は12年間好きだった男が子供のように他の女を好きになったことが分かった。耳の中は再び痛み始め、補聴器を外した時、血が付いたことに気づいた。いつも通り表面から血を拭き取り、補聴器を置いた。眠れなかった...... スマホを手に取り、ラインをクリックした。彼女宛のメッセージは沢山あった。開いてみたら、葵が投稿した写真などだった。最初のメッセージは、大学時代に啓司との写真で、二人は立ち並べて、啓司の目は優しかった。2枚目は2人がチャットした記録だった。啓司の言葉「葵、誕生日おめでとう!世界一幸せな人になってもらうぞ!」3枚目は啓司と二人で手を繋いで砂浜での後姿の写真......4枚目、5枚目、6枚目、沢山の写真に紗枝が追い詰められて苦しくなった......彼女はそれ以上見る勇気がなくて、すぐに電話の電源を切った。この瞬間、彼女は突然、潮時だと感じた。 この日、紗枝は日記にこんな言葉を書いた。――暗闇に耐えることができるが、それは光が見えなかった場合に限られる。翌日、彼女はいつものように朝食を準備した。しかし
今思えば、お父さんはとっくに分かっていた。啓司が紗枝の事が好きじゃなかったことを。 しかし、お父さんは彼女の幸せのため、黒木家と契約を結び、彼女が望むように啓司と結婚させた。 でも、意外なことに、二人が結婚する寸前に、父親が交通事故に遭った。お父さんが他界しなかったら......弟と母親は契約を破ることもなかった......資産譲渡についてのすべての手続きを彰弁護士に任せて、彼女は家へ向かった。帰り道の両側に、葵のポスターがたくさん並べられていた。ポスター上の葵は明るくて、楽観的できれいだった。紗枝は手放す時が来たと思った。啓司を解放して、そして自分も解放されると思った。邸に戻り、荷物を片付け始めた。結婚して3年経ち、彼女の荷物はスーツケース一つだけだった。離婚合意書は、昨年、彰弁護士に用意してもらっていた。 たぶん、啓司の前では、自分が不器用で、プライドがなくて、感情的だったと思った。だから、2人の関係が終わりを迎える運命にあると思って、とっくに離れる準備をしていた...... 夜、啓司からショートメールがなかった。 紗枝が勇気を出してショートメールを送った。「今夜時間ありますか?お話したいことがあります」向こうからなかなか返事が来なかった。 紗枝はがっかりした。メールの返事でもしたくなかったのか。朝に戻ってくるのを待つしかなかった。向こう側。黒木グループ社長室。啓司はショートメールを一瞥して、スマホを横に置いた。親友の和彦は隣のソファに座っていた。それに気づき、「紗枝からか?」と尋ねてきた。啓司は返事しなかった。和彦は何げなく嘲笑した。「この聾者は黒木夫人だと思ったのか。旦那の居場所まで調べたのか?「啓司君、彼女とずっと一緒に過ごすつもり?現在の夏目家はもうだめだ。紗枝の弟の太郎は馬鹿で、会社経営も知らなくて、間もなく、夏目家は潰れるだぞ」「そして、紗枝のお母さんは猶更だ!」 啓司は落ち着いてを聞いていた。「知ってるよ」 「じゃあ、どうして離婚しない?葵はずっと待ってるのよ」和彦は熱心に言った。彼の心の中では、シンプルで一生懸命努力する葵は腹黒い紗枝より何倍優れていると思った。 離婚と思うと、啓司は黙った。 和彦はそれを見て、いくつかの言葉
紗枝は自分の部屋に戻り、沢山の薬を無理やりに飲み込んだ。 耳の後ろに手を伸ばして触れると、指先が真っ赤に染まっていた。 医師のアドバイスが頭に浮かんできた。「紗枝さん、実際には、病気の悪化は患者の気持ちに大きく関わってます。できるだけ感情を安定させ、楽観的になり、積極的に治療に協力してくださいね」楽観的に、言うほど簡単ではなかった。紗枝はできるだけ啓司の言葉を考えないようにして、枕にもたれかかって目を閉じた。外が薄白くなったとき、彼女はまだ起きていた。薬が効いたせいか、彼女の耳がいくらか聴力を取り戻した。 窓から差し込む些細な日差しを見て、紗枝はしばらく茫然としていた。 「雨が止んだ」 本当に人を諦めさせるのは、単なる一つの原因ではなかった。 それは時間とともに蓄積され、最終的には一撃があれば。その最後の一撃は草でも、冷たい言葉でも、些細なことでも可能だった...... 今日、啓司は出かけなかった。 朝早く、ソファに座って紗枝からの謝罪を待っていた。後悔する紗枝を待っていた。 結婚して3年になったが、紗枝がひねくれたことはないとは言えなかった。しかし、彼女がすねて泣いてから暫く、必ず謝りに来た。啓司は、今回も変わりはないと思った。 紗枝が歯磨いて顔を洗ってから、普段着ている暗い服を着て、スーツケースを引きずり、手に紙を持っていた。 紙を渡されたから啓司は初めて離婚合意書であることが分かった。 「啓司君、時間がある時に、連絡してください」 紗枝は啓司にごく普通の言葉を残してスーツケースを引きずりながら出て行った。雨が上がり、澄み切った空だった。 一瞬、紗枝は新たな命を与えられたように感じた。 啓司は離婚合意書を手に取り、リビングルームのソファで凍りついた。 長い間、正気に戻ることができなかった。 紗枝の後ろ姿が彼の前に消えてから、あの女がいなくなったと初めて気づいた。 ただ一瞬だけ落ち込んだが、すぐ冷たい自分に取り戻し、紗枝の家出を忘れた。どうせ、彼の電話一つ、言葉一つで、紗枝は瞬く間に彼の側に戻り、これまで以上に彼を喜ばせるだろうと思った。 今回も、間違いなく同じだろう。 四月最初の週末だった。 例年のこの時期に、啓司は紗枝を連れて実家に戻りお墓参りを
一日中、紗枝から電話もショートメールも一つもなかった。「どのぐらい我慢できるか見て見よう!」啓司はスマホを置いて立ち上がり、厨房に向かった。 冷蔵庫を開けた瞬間、彼は呆れた。 冷蔵庫の中には、一部の食べ物を除いて、漢方薬が沢山入ってた。彼は手にパックを取り、「不妊治療薬」と書かれた。 不妊......啓司は漢方薬の臭い匂いを鼻にした。 以前、紗枝の体に漂っていた薬の匂いを思い出した。その由来をやっとわかった。彼は心の中で嘲笑した。一緒に寝てないのに、どれだけ薬を飲んでも、妊娠することは不可能だろう!薬を冷蔵庫に戻した。啓司は今、紗枝が拗ねる理由を分かった。すぐ気が晴れてリラックスとなった。メインルームに戻って寝た。紗枝がいなくなり、今後、彼女を避ける必要はなく、帰るときに帰ればいいと思った。啓司はぐっすり眠れた。 今日、和彦とゴルフの約束をした。 そこで、朝早くクロークでスポーツウェアに着替えた。 着替えた後、居間まで行き、いつものように紗枝に今日は帰らないと話しかけた。「今日は......」 そこまで話して始めて気づいた。今後、彼女に話す必要がなくなった。ゴルフ場。 啓司は今日いい気分で、白いスポーツウェアをしたため、ハンサムで冷たい顔がかなり柔らかくなった。 びっしりの体型で映画スターのように見えた。スイングすると、ボールはまっすぐ穴に入った。 和彦から褒められた。「啓司君、今日は上機嫌だね。何か良いことでもあったのか......」 紗枝が離婚を申し出たこと、一日たって、周りの人たち皆知っていた。 和彦は知らない筈がなかっただろう...... 彼はただ啓司から直接聞きたかった。ずっと待っていた葵を呼んでこようかと思った。啓司は水を一口飲んで、さり気無く答えた。 「何でもない、ただ紗枝と離婚するつもりだ」それを聞いて、和彦はまだ不思議と思った。啓司の友人として、紗枝のことをよく知っていた。彼女は清楚系ビッチで腹黒い女だった。啓司に付き纏っただけだった。もし離婚できたら、二人はとっくに別れていただろう。3年間待つことなかった。「聾者が納得した?」和彦は聞いた。啓司の目が暗くなった。「彼女が申し出たのだ」和彦は嘲笑いした。「捕
通常、彼女は補聴器がなくても些細な音を聞こえた。 紗枝は暗闇に模索しながら起き上がり、ベッドサイドテーブルから薬を取り出し、苦くて渋い薬を口に入れた。 昨日、3年間続いて住んだ家から離れた。彼女は実家に一度戻った。 しかし、玄関に着いた時、母と太郎の会話が聞こえた。 「そもそもなぜこんな役立たずの娘を産んだのか。3年も経ったが、啓司に触れたこともなかった!」「彼女は今、健全な女性とも言えない。どうして離婚したいのか?」お母さんの怒りの言葉は、ナイフのように紗枝の心を突き刺さった。どんな女なら、お母さんにとって健全な女なのかよく理解できなかった。旦那さんに甘やかされた女なのか?それとも子供を持つ女なのか?弟の言葉はさらに酷かった。「姉さんは夏目家の人らしくない。噂では啓司の初恋が戻ってきた。彼女が離婚しなくても、追い出されるだろうね。」「だったら、我が家の将来を考えたらどうだ。小林社長の奥さんは最近亡くなったじゃないか?姉さんは聾者だけど、80歳のおじさんには余裕だろう......」聞いた言葉を思いながら、紗枝は空しくなった。彼女はこれらのことを考えないようにした。 スマホを取り出してみると、未読のショートメールがあった。 啓司からだと思ったが、彰弁護士からだった。メールの内容は次のようなものだった。「紗枝さん、すでに契約書を啓司に渡しました。彼の態度は良くなかったです。今後、自分自身のことをもっと考えてくださいね」紗枝は返事をした。「有難う。そうする」返信して、紗枝はまた暫く正気を失った。自分が持つ僅かの資産を啓司に渡したのは、自分が気高いじゃなかった。啓司にこれ以上の借りを作りたくなかった......残念なことに、彼女は結婚前に合意したほど多くの資産を出せなかった。一生出せなくて、結婚を騙した罪を負わなければならなかっただろう。2日間何も食べなかったが、お腹がすいてなかった。周りが静まり過ぎて、怖がるほどだった。補聴器を付けて、薬を飲んだのに、どうして何も聞こえなかったのか?啓司から離婚の電話を聞こえないと心配していた。彼女はタクシーを拾って近くの病院に行った。検査したら、耳に乾いた血の塊が見られた。すぐ、聴力回復の治療を受け、紗枝の聴力は少し回
おばさんの声が聞こえてきた。 「紗枝さん、起きた?朝飯ができたよ。熱いうちに食べてね」彼女の言葉を聞いて、今までのことを思い出した。家を出て、病院に行ってお医者さんに診てもらい、最後に出雲おばさんに会いに行くと出かけた。頭を軽く叩き、呆けた自分を心配した。記憶力はそんなに貧しくなったのか?起き上がろうとした時、寝ていたシーツに大きな血痕があった。右耳に触れると、粘り気なものがあった。手を見ると、血まみれになっていた......補聴器も赤く染まっていた......びっくりして、急いで紙で耳を拭き、すぐにシーツを取り出した。出てこないから、出雲おばさんは見に来ると、紗枝がシーツなどを洗い始めていた。「どうしたの?」「生理だったのです。シーツを汚れました」紗枝は笑顔で説明した。 洗濯終わって、出雲おばさんと一緒に朝食を食べて、安らぎのひとときを過ごした。おばさんの声は、時にははっきりで、時にはぼんやりだった。 二度とおばさんの声を聞こえないと思うと、彼女はとても怖くなった。おばさんに知られて悲しくなるのも心配だった。半日過ごして、彼女はこっそりと貯金の一部をベッドサイドテーブルに置き、おばさんに別れを告げた。 離れた時。おばさんが彼女を駅まで送り、しぶしぶと手を振りながら彼女と別れた。 紗枝の離れる後姿を見届けて彼女は向きを変えた。帰り道、痩せた紗枝を思い浮かべて、出雲おばさんは黒木グループの内線電話に電話をかけた。秘書が紗枝の乳母だと聞いて、すぐ啓司に報告した。 今日は紗枝が家出の3日目だった。 また、啓司が彼女についての電話を初めて受けた。彼はとても上機嫌でオフィスの椅子に座っていた。彼が言った通り、案の定、紗枝は3日間続かなかった。 おばさんの掠れた声が電話から聞こえてきた。「啓司君、私は子供の頃から紗枝の世話をしてきた乳母の出雲おばさんだ。お願いだが、お手柔らかにして、紗枝をこれ以上傷つけないでください」「彼女は見かけほど強くない。彼女が生まれて、聴覚障害のことで奥様に嫌われて、私に世話をさせてくれたのだ」「小学生の時に迎えてもらった......夏目家では旦那様以外、皆が彼女を使用人として扱いされた。子供の頃、彼女はよく私に電話をくれた。泣きながら夏
美希は一晩中眠れず、翌朝、珍しいことに昭子が顔を見せた。「お母さん、体調はどう?」美希は娘の姿を見るなり、パッと表情が明るくなった。「だいぶ良くなったわ」昭子は金の話を切り出すタイミングを探りながら、母の機嫌を取ることにした。「今日は天気もいいし、お日様に当たりに行かない?私が付き添うわ」だが美希は首を振った。「昭子、ダンスが見たいの。いいかしら?」人生で唯一の大きな情熱だったダンス。でも、ある事情で途中で断念せざるを得なかった。「でも、具合が悪いのに…何かあったらどうするの?」昭子は遠出したくなかった。母は頻尿の症状があり、事故が心配だった。「先生も回復は上々だって。大丈夫よ、付き合って」美希の瞳は切なる願いを湛えていた。「分かったわ。夜の部のチケットを取るわね」昭子は仕方なく承諾した。……一方その頃。紗枝はエイリーから長らく連絡がなかったが、突然、劇場のチケットが二枚送られてきた。「紗枝ちゃん」メッセージが届く。「早く帰って食事でも、と思ってたんだけど、ブラック事務所の連中が新しい仕事を入れてきてさ。当分帰れそうもないんだ」「友人からチケットもらったんだ。もったいないから、僕の代わりに観てきて」エイリーは紗枝がミュージカルに興味があることを知っていた。「ありがとう」紗枝は短く返信した。チケットを手に、紗枝は少し考えてから、唯を誘うことにした。二人で遊ぶのは久しぶりだ。この機会に再会を果たそう。午後。紗枝が身支度を整えている間、父子は居間で待っていた。「なぜ僕と一緒に観に行かないんだ?」啓司は少し寂しげに尋ねた。「唯と会うの、随分久しぶりで……」「ママ、僕もダンス観たいな」逸之も甘えた声を出した。「ごめんね。今日はママの女子会の時間なの」最近、色々なことが立て続けに起きて、友達と話してリフレッシュする時間が必要だった。「うん、分かった。でも早く帰ってきてね」「もちろん」紗枝は名残惜しそうな父子の視線を背に家を後にした。唯が外で待っていた。車に乗り込むと、二人は久しぶりの再会を楽しみながら話に花を咲かせた。見慣れた車とすれ違ったことにも気付かないまま。程なく劇場に到着。観客は程よい数だった。薄暗い客席で、遠くに座る美希と昭子の姿に紗
「たかが20、40億円だと?」世隆は目を剥いて美希を睨みつけた。その視線に美希は不機嫌になった。「何よ?悪いの?」「いや、驚いただけだ」世隆は慌てて笑みを浮かべた。「お前の金だ。好きに使えばいい」その言葉で、ようやく美希の機嫌が直った。世隆にはまだ美希を恐れる理由があった。一つは昭子を産んでくれたこと。もう一つは、今の自分の全ては美希のおかげということ。そして最も重要なのは、美希を怒らせれば、自分の過去の悪事を暴露されかねないという恐れだった。「お前、もう遅いし、病状も重いんだ。休んで、明日また病院で診てもらおう」世隆は優しく微笑みながら、美希の肩を支えて階段を上がった。美希を寝かしつけた後、リビングに戻った世隆は、深いため息を幾度となく繰り返した。「お父さん」昭子が心配そうに声をかけた。「本当に紗枝に全額返すの?」「バカな話」世隆の慈愛に満ちた表情が一変し、暗い影を帯びた。一度懐に入れた金を手放すなど誰がするものか。それに、会社を売り払わない限り、そんな大金は用意できない。「昭子、よく聞けよ」世隆は声を潜めた。「裁判で負けたのは美希だ。返済義務があるのも美希だ。我々には関係ない」「でも、夫婦でしょう……」「それがどうした?あいつにどれだけの命が残ってる?とにかく早めに隠し金を手に入れろ。200億円は軽く超えているはずだ」「分かってる」昭子は頷いた。「お母さんは私を可愛がってるから、きっと私に渡してくれる」「だが、あの馬鹿な太郎に渡す可能性もある」「病気になっても見舞いにも来ない太郎なんかに渡すはずないわ。それに渡したところで、水の泡よ」父娘は頭を寄せ合い、どうやって美希の隠し金を騙し取るか、綿密な計画を練り始めた。二階の寝室で、美希は眠れずにいた。ここ最近、目を閉じると夏目氏との思い出が走馬灯のように蘇る。あの頃は、家族みんなが本当に幸せだった。夏目は家の財産や資産の管理を全て任せてくれた。だが今の世隆は、初恋の相手なのに、まるで見えない壁に隔てられているよう。彼の心が全く読めない。時計の秒針が無情に時を刻む。今夜は世隆が一緒に寝てくれると思っていたのに、「邪魔したくない」と隣の部屋で寝ている。明らかに世隆の愛は冷めていた。でも病気になる前まではこんな感覚なかっ
全て鈴木家に渡してしまった金を、どうやって紗枝に返せというのか。そもそも返すつもりなど、さらさらない。「紗枝ちゃん」背を向けて歩き出した紗枝を呼び止め、急に声を柔らかくした。「お金は全部鈴木家に渡してしまったの。返せるわけないでしょう」紗枝は足を止め、ゆっくりと振り返った。「そう。なら強制執行を申し立てるだけよ」美希と太郎が必ず隠し財産を持っているはずだと、紗枝は確信していた。美希は一歩一歩、紗枝に近づいた。かつての威圧的な態度は微塵も感じられない。「私を殺す気?もう長くないのよ!」紗枝は冷ややかな目で見据えた。「自業自得でしょう」「私はあなたの実の母親よ!全てを失ったら、あなたも地獄を見ることになるわ。分かってる?」美希は脅しをかけてきた。「ふん」紗枝は嘲笑うように言い返した。「私が今、幸せに暮らしてると思ってるの?」美希は言葉を失った。「脅しなんて効かないわ」紗枝は目を見開いて言い放った。「父の遺産は必ず取り戻す。父の代々の財産を、あなたの愛人に与えて恥ずかしくないの?」「父はあなたをあれほど愛していたのに、その気持ちに応えられたの?」「末期がんになったのも、天罰よ!」紗枝は言い終わるとすぐに背を向けた。美希はしばらく呆然としていたが、やがて紗枝の背中に向かって叫んだ。「この畜生!地獄に落ちろ!」周囲の視線が集まってきて、ようやく美希は声を潜めた。紗枝は車に戻っても、しばらく黙り込んでいた。啓司も、美希が娘を呪う言葉を耳にしていた。牧野は心の中で舌打ちをした。実の娘に死ねと言う母親などいるものか。娘を畜生呼ばわりする母親こそ、何者なのか。「二人とも降りてくれ」啓司は運転手と牧野に指示を出した。理由は分からなかったが、二人は黙って従った。車内に二人きりになってから、啓司は静かに告げた。「泣きたいなら、泣いていいよ」その言葉に、紗枝は啓司の腰に抱きついた。啓司の体が一瞬こわばる。紗枝は涙を見せず、小さな声で呟いた。「大丈夫。裁判に勝って、やっと父さんのお金を取り戻せる」「嬉しいの。お祝いしましょう」啓司は紗枝の肩に手を添え、優しく撫でながら「ああ」と応えた。お祝いのはずだった紗枝の行きつけのレストランで、彼女はほとんど箸をつけなかった。啓司には
夕食後、黒木おお爺さんは景之にいくつかの基礎的な問題を出題した。予想通り、景之は全問正解だった。澤村お爺さんと同じように、黒木おお爺さんも景之と将棋を指したがった。だが明日は学校があるため、それは次回の楽しみとなった。帰り際、綾子は玄関先まで見送りに出て、なかなか別れを惜しんだ。「また近いうちに来てね」「うん!」逸之と景之は揃って元気よく答えた。車が走り出し、すぐに黒木家の屋敷は遠ざかっていった。車内で逸之は景之の肩に寄りかかり、疲れて眠り込んでいた。紗枝は仲睦まじい兄弟の姿を見つめながら、柔らかな微笑みを浮かべた。明日は遺産相続の裁判が始まる。帰宅後、紗枝は岩崎弁護士から送られてきた書類を再度確認した。予期せぬ事態に備えるためだ。美希と鈴木家の者たちは、資産移転の証拠など何もないと高を括っていた。裁判なんて物ともしていない様子だった。だが誰も知らなかった。かつて夏目太郎が資産を移転した際の記録も、夏目家の全ての資料も、啓司が確かにバックアップを取っていたことを。翌朝、双子を幼稚園に送り出した後。啓司は紗枝を法廷の入り口まで送り、自身は車の中で待機することにした。「何かあったら、すぐに言ってくれ」啓司が静かな声で告げた。紗枝は頷いて「分かった」と答えた。紗枝が中に入ると、啓司は牧野に尋ねた。「鈴木グループの様子は?」「もう長くは持たないでしょう。ただ、鈴木青葉と拓司さまが手を差し伸べる可能性が気がかりです」世隆は経営の才がなく、ここ数年は夏目家の遺産で食いつないでいるだけだった。啓司は青葉と拓司のことを思い、眉間を揉んだ。「青葉の動きは徹底的に監視しろ。何か仕掛けてくる前に」少し間を置いて、「拓司のことだが」と続けた。「最近、武田家と近づきすぎている。必要なら、警告しておけ」武田家の連中は実力はないが陰湿で狡猾だ。時として、そういう小物の方が手強い敵より厄介になる。拓司が彼らと付き合うのは、まさに毒蛇の巣に手を突っ込むようなものだった。法廷にて。太郎の姿はなく、美希が独りで出廷していた。鈴木家の者たちは誰一人として姿を見せなかった。紗枝が勝訴するなど、眼中にないといった様子だった。美希は青ざめた顔で、病院で見た時よりも容態が良くなった様子はない。紗枝を見つける
「おじさま、おばさま方。そう慌てないでください。明一くんの転び方を見てください。最初の転び方と、今回とでは違いますよね?」景之の言葉に、その場にいた大人たちは一斉に黙り込んだ。転び方に何の違いがあるというのか?皆が首を傾げる。「この生意気な!」夢美は景之を睨みつけた。「人を突き飛ばしておいて、まだからかうつもり?このガキ、ただじゃおかないわよ!」「触るんじゃないで!」紗枝は景之の真意を悟り、強い口調で制止した。夢美は紗枝の鋭い視線に気圧され、手を引っ込めた。「どこが違うっていうの?」親族たちは首を傾げていたが、一人の若い女性が気づいた。「あれ?お父さん、お母さん、明一くん、最初は前のめりに転んだのに、今回は仰向けじゃない?」その言葉に、皆が気づき始めた。確かに明一は最初、前の泥水で汚れていたが、今度は背中が泥だらけになっている。でも、それが何を意味するというのか?「まあ、景ちゃんも悪戯が過ぎるわねえ」誰かが笑い声を立てた。「最初は顔から転ばせて、今度はお尻から。やんちゃ坊主め」景之は周囲の理解力の低さに内心で溜め息をつきながら、丁寧に説明を始めた。「おじさま、おばさま方。明一くんが転ぶ前の状況を覚えていらっしゃいますよね?彼は僕と逸之に向かって歩いてきて、お互い向かい合っていました。もし私が押したのなら、今回のように仰向けに転ぶはずです。でも、うつ伏せに転んだということは…」「前のめりに転んだのは、自分で滑って転んだからとしか考えられません」「皆さまにより分かりやすくお見せするために、小さな実験をさせていただきました」景之は明一の前に立ち、凛とした表情で続けた。「一回目は僕が押していないので、謝る必要はありません。二回目は押す前に謝りましたから、これで相殺です」その明晰な論理に、その場の大人たちは言葉を失った。監視カメラの有無に気を取られ、こんな単純な事実に気付かなかったことが恥ずかしく感じられた。逸之は小さく欠伸をしながら、緊張していた心をほぐした。先ほどまで兄が謝罪する意図が分からなかったが、今になって理解できた。「人の安全を実験に使うなんて!」夢美は諦めきれない様子で声を上げた。「もし明一に何かあったらどうするの?」今や正論を得た綾子は、夢美の駄々っ子のような態度を見過ごす
逸之は明一が勢いよく自分に向かって倒れかかってくるのを見て、目を見開いた。咄嗟のことに景之は逸之を自分の側に引き寄せた。明一は逸之とすれ違い、勢いを止められずに足を滑らせ、「ドシャッ」という音を立てて地面に転んだ。「うわあああん!」子供の泣き声が辺りに響き渡った。「明一!大丈夫!?」夢美が駆け寄った。紗枝も近づき、逸之の無事を確認した。景之に守られていた逸之には怪我一つなく、彼女はほっと胸を撫で下ろした。その時、逸之の瞳に冷たい光が宿り、地面に這いつくばって泣く明一を睨みつけた。明一が自分を突き飛ばそうとしていたのは明らかだった。夢美は泥だらけになった明一を抱き起こすと、景之と逸之を睨みつけた。「あなたたち、何をしたの?どうして明一を突き飛ばしたの?」ずいぶん手際の良い責任転嫁だった。「義姉さん」紗枝は眉をひそめ、「どこの目で私の子供たちが明一くんを突き飛ばすのを見たの?明一くんが自分で走ってきて、逸之を突き飛ばそうとして転んだだけでしょう」「そりゃ自分の子供の味方をするでしょうね。でも、私はちゃんと見ましたよ」夢美は明一に向かって優しく声をかけた。「ねぇ、そうよね?」明一は小さく頷いた。「うん。景ちゃんと逸ちゃんが、僕を押したの」監視カメラもない場所で、みんなの前で否定なんてできないと思ったのだろう。啓司は二人の前に立ち、「本当に押したの?」と尋ねた。逸之は慌てて首を振った。「パパ、僕たち押してないよ」「啓司さん」夢美が割って入る。「目が見えないからって、贔屓しないでください」啓司の眉間に皺が寄った。「オレが甘やかしているとして、それがどうしたというんだ?」近くで話を聞いていた黒木おお爺さんが歩み寄ってきた。「啓司、何を言っているんだ?」「親というものは子供の手本にならねばならん。間違いを犯したのなら、謝罪するのが当然だろう」目の衰えた黒木おお爺さんには、明一が自分で転んだのか突き飛ばされたのか、はっきりとは見えていなかった。自然と怪我をした子供の味方をしてしまう。逸之は小さな拳を固く握りしめた。騒ぎを聞きつけた綾子が人混みを掻き分けてやって来た。事情を聞き、おお爺さんの意向を察すると、むやみに肩入れするわけにもいかないと判断した。「逸ちゃん、景ちゃん、
祖先への祭祀を終えると、一行は墓参りへと向かった。明一は、景之に人前で面目を潰されたことが許せず、車中ずっと仕返しの機会を窺っていた。「明一」車の中で夢美は息子に諭すように言った。「ひいおじいちゃんの機嫌を取るのよ。そうすれば、あの私生児たちなんて敵じゃないわ。分かった?」明一は力強く頷いた。「ママ、大丈夫。あいつらには絶対に上に立たせないよ」「そう」夢美は息子の頭を優しく撫でながら満足げに微笑んだ。「それと、弱いところから攻めるのよ。逸之、体が弱いんでしょう?」「分かったよ、ママ」幼い明一の目には、残虐な光が宿っていた。黒木家の私設墓地に到着すると、皆が続々と車を降りていった。夢美は明一におお爺さんの元へ行くよう促した。明一が離れると、昭子が夢美の傍らに寄って来た。「お義姉さん」夢美は軽く頷き、形だけの質問を投げかけた。「妊娠初期なのに、よく来てくださったわね」「早いうちに、ご親戚の皆様とお近づきになりたくて」昭子は丁寧に答えた。夢美は表向きは何も言わなかったが、心の中で嘲笑した。まだ籍も入れていないのに、随分と先走った考えを持っているものだ。昭子は夢美の皮肉な眼差しに気付かない様子で、さらに続けた。「紗枝さんのお子さんたち、本当に賢いですわね。明一くんよりもしっかりしているみたい。私の子も、あの子たちに及ばないんじゃないかしら」明らかに夢美の神経を逆なでするような言い方だった。案の定、夢美は我が子の批判に耐えられなかった。「あの子たちが本当にそんなに賢いと思ってるの?きっと紗枝が事前に教え込んでおいて、お爺さまの機嫌を取ろうとしているだけよ」「まさか」昭子は驚いたふりをした。「そんなふうには見えませんでしたけど」「お義姉さん、素直に認めた方がいいんじゃないですか?さっきも皆さんが『景之くんは小さい頃の啓司さんにそっくり』って」「ご存知でしょう?啓司さんって子供の頃、経営部の部長さんを言い負かしたそうじゃありませんか」「あんなに賢い子が大きくなったら、どうなることやら」昭子は立ち去りながら、まだ呟き続けていた。その言葉が遠ざかっていくのを聞きながら、夢美は将来への不安に駆られた。認めたくはなかったが、確かに紗枝の子供たちは明一より賢かった。夢美は足を止め、昂司を人気のな
明一は景之の冷たい眼差しに出くわし、思わずびくっとした。「べ、別に何も……」こんなに大勢の前で、景之が自分に手を出すはずがないと、明一は高を括っていた。「お兄ちゃん」逸之は景之の袖を引っ張った。「さっきあいつ、僕たちのことバカで私生児って言ったんだよ」景之の目が一層冷たさを増した。もう装う必要もないと判断し、黒木おお爺さんの前で親戚たちへの挨拶を始めた。一番近くにいた昂司と夢美に向かって。「おじさま、おばさま」そこから外側へと順に。「大おばさま、いとこおじさま、いとこおばさま……」黒木家の親戚の多さに、景之が全員を呼び終えるまでに30分もかかった。しかも、一つも間違えることなく。初対面なのに、これほど早く全員の顔と呼び方を覚えてしまうとは。皆、その記憶力の凄さに驚きの声を上げた。親戚への挨拶を終えた景之は、明一をじっと見つめた。明一の顔が瞬く間に真っ赤になり、信じられない様子で目を見開いた。「どうやって覚えたの?」自分なら百人以上の顔と呼び方なんて、絶対に覚えられない。明一の両親も驚きの中に、嫉妬の色を浮かべていた。「そんなに難しいことなの?」景之は皮肉っぽく答えた。「でも、さっきは覚えてないって……」明一は言葉に詰まった。「謙虚って言葉、知らないの?」逸之が笑いながら言い放った。明一の顔が更に赤くなった。傍らで見守っていた黒木おお爺さんは、喜色満面だった。「まあまあ、もう喧嘩はやめなさい。従兄弟なんだから、仲良くするんだよ」そう言いながら、景之に慈愛のまなざしを向けた。なるほど、澤村お爺さんが景之を手放したがらなかったわけだ。こんなに賢い曾孫なら、自分だって離したくないと思った。離れた場所から双子を見守っていた紗枝も、心の中で驚きを隠せなかった。景之の記憶力が良いことは知っていたが、まさかここまでとは。まるで写真でも撮ったかのような記憶力だった。黒木おお爺さんは双子を座らせると、紗枝の方を向いて言った。「もう二人とも黒木家に戻ってきたのだから、夏目の姓は改めないといけないな。啓司と一緒に戸籍の手続きをして、族譜にも記載しよう」紗枝はその言葉に即答しなかった。姓など記号のようなものだと理解してはいたが、黒木おお爺さんの『夏目の姓は使えない』という言い方に違和感を覚えた。「
皆が二人の男の子と啓司をじっと見比べると、確かに同じ型から作られたかのようだった。特にその瞳は、啓司そのもので、黒曜石のように人を魅了する輝きを放っていた。女性陣の何人かは紗枝の顔の傷跡に目を留め、舌打ちをした。「紗枝さんの顔、あんな長い傷跡、手術で消せばいいのに」紗枝があえて傷跡を残しているのは、毎朝鏡を見る度に、景之を危険に晒した犯人と、自分に顔を傷つけるよう仕向けた相手を決して忘れないためだった。深く心に刻み付け、二度とそんな危険を繰り返さないために。そして、誰にも自分と子供たちを傷つけさせないほど、強くなるために。上座には黒木おお爺さんが陣取り、その傍らには明一が王様のように座っていた。親戚の子供たちは明一を見るなり三歩も下がって、逆らうことなど考えもしなかった。所詮、明一は黒木おお爺さんのお気に入りなのだから。「これが景ちゃんかね?本当に瓜二つだねぇ」黒木おお爺さんは景之を見つめながら、手招きした。「こっちにおいで。ひいおじいちゃんによく見せておくれ」景之は背筋をピンと伸ばし、皆の視線を浴びながらも少しも怯むことなく、一歩一歩黒木おお爺さんの元へと歩み寄った。「ひいおじいちゃん」その声は逸之のような茶目っ気はなく、まるで小さな大人のようだった。「よしよし。後でひいおじいちゃんが、お前と逸之に親戚の顔を覚えさせてやろう」黒木家に来てから、景之も逸之も親戚のことをよく知らなかったため、これは良い機会となるはずだった。「はい」実は景之はすでにネットで親戚のことを調べ上げていた。この場にいる全員が誰で、どんな事業を持っているのか、一目見ただけで分かっていた。しかし、それを悟られるわけにはいかない。実力を隠しておく必要があった。父の啓司が目が見えない今、表向きは慈愛に満ちた親戚たちも、裏では何を企んでいるか分からない。もし自分と弟が狙われても、この年では身を守ることもできないだろう。普通の子供を装っておく方が賢明だった。しかし明一はそんな考えとは無縁で、すかさず声を上げた。「ひいおじいちゃん、僕が二人に教えてあげる!」黒木おお爺さんは満面の笑みを浮かべた。「そうかそうか。明一、おじさんやおばさんたち、みんな覚えたかな?」「もちろんです!」明一はまだ四、五歳なのに、この場に