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第690話

Author: 豆々銀錠
世隆は手に入れた資金を即座に会社の運転資金に回した。

最近の経営状態は異常だった。以前は大きな利益こそなかったものの、損失も出なかった。

ところが近頃は、何を手がけても妨害に遭い、取引先のほとんどがIMグループに奪われていった。収支が徐々に悪化の一途を辿っていた。

美希はまだ知らなかった。自分の金が昭子に持ち去られ、すぐに使い果たされていたことを。

……

翌日の早朝。

「世界的バレリーナ、病気の義母をオペラへ」というニュースが、SNSのトレンドの首位に躍り出た。

記事の内容は、昭子が献身的な看護で疲れも見せず、義理の母を劇場へ連れて行った美談だった。

発作を起こした義母の世話も厭わず、自ら介抱して病院へ搬送したという。

紗枝は目覚めてそのニュースを目にし、苦い笑みを浮かべた。

昨夜、彼女の目の前で繰り広げられた光景は、まるで違った。昭子は美希に手を貸すどころか、その場から立ち去っただけだった。

紗枝はすぐにページを閉じた。

裁判に勝訴し、美希は二週間以内に資産を返還しなければならない。応じなければ強制執行となる。

資産の隠匿を警戒した紗枝は、雷七に監視を命じていた。

間もなく、雷七から写真と資料が送られてきた。「調査によると、美希の高額預金が今朝、世隆によって引き出されたそうです」

紗枝の眉間に皺が寄った。

やはり、返還の意思など最初からなかったのだ。

「十五日間、待たなければならないのが残念ね」

この証拠は、強制執行の際に資金の追跡に使えるはずだ。

紗枝は雷七に返信した。「引き続き監視を続けて。証拠は見つけ次第、すぐに保存してください」

「承知しました」

電話を切った紗枝は朝食を取りに階下へ向かった。

最近は食事量が増え、お腹もふくらみ、妊娠の兆しが少しずつ見え始めていた。

朝食を取っている最中、スマートフォンが鳴った。紗枝が画面を確認すると、拓司からだった。「最近、調子はどう?」

何気ない問いかけに、紗枝は丁寧に返した。

「まあまあよ。何かあった?」

「太郎くんから聞いたよ。美希との裁判のこと。返金を渋ってるんだって?太郎くんが一部、返すって言ってるんだ」拓司の声は落ち着いていた。

太郎くん?

「夏目太郎のことですか?」

紗枝は思わず聞き返した。

「ああ。話してみるか?反省してるって言ってるんだけど」幼
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