ANMELDENスェミス国王の腹違いの弟イアン・ジョー・グゥインは、自身を「世界一幸福な男」だと自負していた。 初恋の女性と結婚できたからだ。 結婚四年目を迎える前日。 妻は「伝えたいことがあるの」と優しく笑っていた。 忘れられない結婚記念日になる――そう思っていた。 だが翌朝、妻は置き手紙を一つ残して姿を消す。 『貴方との結婚生活は最悪でした』 嫌われていたのか。それとも、妻の身に何か起きたのか。 初恋を拗らせた愛が重すぎる公爵と、『月の女神』と謳われる幸薄い年下妻が、もう一度夫婦として愛を育んでいく異世界ラブストーリー。
Mehr anzeigen「本当に好きなら、監禁すれば良かったのよ」
スェミス大国の王妃、ジェシカはそう言って紅茶を一口含んだ。六歳のイアンは『監禁』という単語が分からずに目の前に座る彼女を見る。
「母上。弟に聞かせて良い単語ではありません」
イアンと腹違いで五歳上の兄、ロイドが母親であるジェシカを戒めた。それを見て、良い言葉ではないのだとイアンは悟った。
「イアンも自分の父親がどれだけ愚かなのか知るべきだわ」
「父上を語るのに、そんな単語を聞かせなくても良いんです」 「この子ったら頭固いのね。そこは陛下に似なくても良いのよ」「顔だけで十分よ」とジェシカは肩を竦めた。
イアンは椅子の背凭れに背中を預けて足をぶらぶらさせながら二人を眺めた。脚の長い椅子に座っているせいで床に足がつかないのだ。行儀が悪いと教育係がいればイアンを叱責しただろう。王宮の庭園に居るのはイアンとロイド、ジェシカに彼女直属の近衛隊の騎士とイアンの護衛騎士二人が三人から距離を取るようにして背後に立って居るだけだった。口煩い家庭教師がおらず、イアンはいつも以上にのびのびしていた。 ──イアンの母親は庶民の出で美しい女だったという。現国王が少年と言える年齢で皇太子時代にお忍びで市井に出かけた時に彼女と出会った。パン屋で働く彼女に一目惚れをしてその場でプロポーズをし、見事に玉砕した。それでも彼は諦めなかった。口説いては断られ、また口説いては断られ──折れたのは彼女だったという。それから彼女は宮殿に連れて行かれて自分を口説いていた男の正体を初めて知った。 男は国王となりパン屋の娘を側室に迎えるつもりだったが、妾ならまだしも側室に迎える事を反対された。彼女は心無い言葉をかけられ、心神耗弱となり──宮殿から忽然と姿を消した。 その五年後にとある噂が国王の耳に入るのだ。『陛下と同じ瞳の色をした子供がいる』
『陛下の落胤ではないか』 スェミス大国の王族の血を継ぐ者は必ず『黄金の瞳』を持って産まれる。国王もロイドの瞳も
『あの子が私の為に焼いてくれたクロワッサンが大好きだったわ』
懐かしそうな目を浮かべて呟いたジェシカの碧い瞳に嘘はなかった。
※ オリヴィアは昼間、結婚記念日の計画に必要なものの一つ、『花冠』を用意する為に庭園で過ごした。庭師が手入れしているグゥイン公爵家の庭園は、レンガ色の石畳の道の左右に美しく整備された芝生があって、その芝生には左右対称で色彩豊かな花々が並んでいた。その先には涼やかな水飛沫を上げる丸型の噴水が広がっている。噴水を囲むように咲いている黄色、ピンク、白色のジャスミンのうちの白い花を摘んでから、オリヴィアはその噴水の低い石座席に座って花冠を編んだ。 ジャスミンを二本、垂直にクロスして、縦に置いたジャスミンにもう一本の茎を折れないように巻き付ける。それをひたすら繰り返しながら、オリヴィアはイアンと一緒にジャスミンの苗を植えた日を思い出していた。「──フフっ」 思い出し笑いをして、「私、イアンのことを本当に好きなんだわ……」とオリヴィアは再確認をした。一本一本花を編む度にイアンへの気持ちが胸に沁みて、愛しさが溢れ出すのだ。(イアンに伝えなきゃ――。いつも伝えられてばかりだから、私も同じだって伝えるの。少しでも貴方の想いに応えたいって、思ってる。それに、サーレン様に感謝をしなくちゃ) あの劇場で、サーレンから訊ねられなかったら、オリヴィアは今の生活を当然のように受け入れていたに違いないと思っている。多くの使用人達に支えられている事に、感謝一つせずに過ごしていたに違いない――イアンが汗と土にまみれて自分の手で花植えをしている姿を見て、屋敷の全ては、"誰か"の手で私達の為に準備されたものだって知る事が出来た。 (イアンに結婚記念日の朝に愛しているって言うわ。目が覚めて、一日の始めに瞳が映す|人《イアン》に。そして、イアンが初恋の人って告げるの。月夜のダンスを思い出してくれたら、嬉しいけど……)「私、言うわよ」宣言した方が良いかしら?「どうしましょうか」と首を傾けてオリヴィアは手を黙々と動かし続けた。 ジャスミンの花々を長く編んで、それから輪にした。重なる所を茎で結んで、余った茎を隙間に入れ込んで目立たないようにする。「完成だわ!」
ツイっと右に移動したイアンの視線を辿ると、花が咲いていない苗が大量に並んでいた。「あれは全部ジャスミン?」「そうだよ。今から植えたら俺達の結婚式までには全部咲いていると思って。ここへ二人で住む頃には色とりどりなジャスミンが咲いているはずだ」(あれを一人で植えようとしていたの? どうして?)「オリヴィアが大好きだからだよ」 オリヴィアの問いは心の中で言ったつもりなのに声に出ていたみたいだった。 (どうして、イアンは私なんか好きになったのかしら……取り柄なんてないのに。帝国で穀潰しと罵られた日々を過ごしていたのに)『君を帝国の兵士から助け出した時、一目惚れしたんだ』 イアンはそう言っていた。『髪の色と、夕焼けのような瞳も好きだ』(目が腐っているんじゃないかしら……?) オリヴィアは母親が褒めてくれた髪と瞳の色を幼少時は大好きだった。──大好きだったのに、罵倒され、髪をぐちゃぐちゃにされ、自尊心を傷つけられた。そのせいで、銀色の髪を見るのが嫌いになって鏡を覗く事さえも憂鬱だった。 自分ではそう思っているのに、そう告白したイアンの表情は慈しみに溢れていて、オリヴィアは昔のワンちゃんを思い出す。あの頃から変わっていない微笑みを見て、オリヴィアの心臓は痛いくらい締め付けられた。 「本当は内緒にしたかったんだけど、バレちゃったね」 頬を赤く染めたイアンを見ると、頬が汚れている事にオリヴィアは気が付いた。 その汚れをじっと見つめていると、その視線にイアンは気が付いたようだ。「さっき触った時に汚れたかな」 軍手をはめた右手で頬を擦ったからか、汚れが余計に広がっただけだった。「私が拭いてあげる」「拭いてくれるの……? あ、ありがとう」「しゃがんで」と言うとイアンはゆっくりと腰を下ろす。同じ目線の高さになって彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。金色の瞳は蜂蜜が
「カイロ領に行かれても、たまには戻ってこられるでしょう?」「戻りませんよ」「どうして?」 オリヴィアは思わず前のめりになって、強めに問い質してしまって、上目使いでサーレンを見上げた。 そうやって見上げてくる姿は庇護欲がそそられる。そんなオリヴィアにサーレンはただ優しげに微笑んだ。「カイロを立て直すには忙しく動き回るでしょうから。それに、私は身寄りがありませんからね」「お友達だっているし、イアンも寂しがるわ」と伝えると、演劇がもうすぐ始まる事を知らせるベルが鳴った。この時にやっと、アンから「行きましょう」とオリヴィアは話しかけられた。 まだ言いたい事があるオリヴィアだったが、サーレンから「それではレディ」と話を切り上げられてしまう。 オリヴィアは諦めて、サーレンにお辞儀をしてから彼の元を通り過ぎた。すると、サーレンから声をかけられてオリヴィアは後ろを振り返った。 「イアンと一緒に植えている花は育ちましたか?」「花?」「あの場所は水も豊富ですし、あの広さにきっと綺麗な花が咲くでしょうね」 一緒に植えている花なんてない。何の事を言っているのか訊き返そうとしたら「では、さよならレディ」と話を打ち切られてしまい、サーレンは来賓席に向かった。 そうしてオリヴィアとアンは観客席に赴き並んで座る。隣のアンは「先程はすみません」と、会話に助け船を出さなかった事をオリヴィアに謝罪していたものの、オリヴィアはアンの謝罪を聞いていなかった。 サーレンが言った「イアンと一緒に植えている花」なんて、存在しない。──サーレン様は何か勘違いをされているのかも。 (でも──)「水も豊富」「あの広さ」っていう単語が妙に引っ掛かる。 ブーっと演劇が開始される音が鳴り、広い噴水の周囲にあった土だけの花壇が、オリヴィアの脳裏を過った。 次の日、オリヴィアはアンの追跡を振り切って、結婚後に住む屋敷へ訪れた。 あの噴水の近くの花壇で汗で濡れた背中を見つけた。長袖を肘より上まで捲し上げてスコ
いつから、こういう状態だったのかしら、とオリヴィアはイアンを心配した。自分の計画を成し遂げる事に一生懸命で、イアンが具合悪そうにしている事に食事中気が付かなかった。 まるで、苦しんでいるように瞼を閉じるイアンに、オリヴィアは体温を測ろうと思って彼の額に掌を当てた。「熱はなさそ」 うね、と続けようとしたら、イアンが急に立ち上がって最後まで言えなかった。 オリヴィアは立ち上がったイアンを視線で追い、その顔を見上げた。「すまない、オリヴィア……具合が悪いようだから先に寝る事にするよ」「イアン……デザートは?」(デザートの心配をしているわけじゃないのに……) いつもと違う様子のイアンにオリヴィアは面食らってしまって、ついイアンの背後に給仕の従僕がプリンを運ぶ姿が目に入って口に出てしまった。 「オリヴィアが食べてくれ」「イアン、違うの。プリンじゃなくて」 誤解を解こうとして、立ち上がったイアンの手を掴もうと手を伸ばすと、オリヴィアの細い指が掠っただけで、その手を捕らえる事は出来なかった。イアンが後に一歩後退ったからだ。 「オリヴィアに風邪をうつすといけないから──今日は別々に寝よう」 目を合わせずに、イアンからそう言われたオリヴィアはキュッと唇を噛み締める。夕立の前触れのように瞳が潤み出した。「別々に寝よう」と言ってオリヴィアに背を向けたせいで、イアンは知る由もなかった。「ど、どうしてそういう事言うの……?」(結婚してから一日たりとも欠かさずに同じベッドで眠っていたのに。私がイアンじゃなくてプリンを心配したから怒っているの……?) オリヴィアの悲痛な叫びはイアンの耳には入らなかった。 彼は、オリヴィアから「別れの挨拶」を「結婚記念日の朝に告げる」と宣言をされたと勘違いをしているのだ。あれもこれもユングがイアンの誤解を解