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第857話
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億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第862話
澤村は、心の底から思った――この女、本当に空気が読めない。ここは桃山の山頂、都心からは車で四、五時間もかかる。そんな場所に、真夜中にわざわざやって来るなんて、いったい何を考えているんだ？彼が鈴に「帰れ」と言おうとしたその瞬間、テントの外にふわりとランプの明かりが灯った。入口には唯が立っており、手にはスマホを握っている。「どうした？」澤村は眉をひそめた。唯の表情は冴えなかった。「おじいちゃんから電話があったの」「こんな時間に？何の用だよ？」唯は中にいる鈴の存在に気づき、直接は言いづらそうに澤村に目配せを送った。「はっきり言えよ」澤村が声を潜めずに言った。唯は仕方なく、小声で説明した。「おじいちゃん、私たちが一緒に寝てないの気づいたの。あなたが私のテントにいないって」「......」澤村は気まずそうに鈴を振り返った。「悪いけど、ちょっと外に出ててくれないか？」「......はい」鈴は渋々テントのファスナーを開け、外へと出ていった。唯は心の中でため息をついた――さっき「はっきり言え」って言ったくせに、今度は人払い？なんなの、この男。「それで、おじいちゃんが他に何か言ってたのか？」澤村が続けて尋ねたその時、彼のスマホが震え始めた。画面には、澤村お爺さんからのビデオ通話の着信表示。唯がため息をつきながら言った。「景之がいないのが寂しいから、ビデオをつなぎっぱなしにして寝ようって。しかも一緒に横になってるところを見たいって」「このじいさん......」澤村は額を押さえた。だが唯には、澤村お爺さんの気持ちもよくわかっていた。最近はずっと唯を実の孫以上に可愛がってくれ、どこへ行っても美味しいものや珍しいものを買ってきてくれる。この前のオークションでは、唯が何気なく「ネックレス、きれい」とつぶやいただけで、澤村お爺さんはとんでもない値段でそれを落札し、話題になったほどだった。「早く出ないと、余計な心配されるよ」澤村はしぶしぶ通話に応じた。「遅いっ！」画面越しに現れたのは、白髪混じりだが矍鑠とした澤村お爺さん。厳しい目つきでにらみつけた。「どこに行ってた？唯と一緒に寝てないのか？」「ちょっと......トイレに」「唯はどこだ？」唯は慌ててカメラの前に顔
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第861話
「鈴、お前、斎藤のおじいさんから『自重』って言葉、教えてもらわなかったのか？」啓司の薄い唇から発せられたその声は、大きくはなかったが、まるで鋭い刃のように鈴の胸に突き刺さった。鈴はその場で凍りついた。「ご、誤解だよ......そんなつもりじゃ......！」これまで啓司があまり鈴を叱らなかったのは、斎藤のおじいさんへの配慮があったからだ。だが今、啓司の目に映るこの女は、恥も外聞もない、ただの図々しい存在になり果てていた。「そんなつもりじゃないなら、最初から距離を取るべきだったな」もし相手が女性だったら、鈴もここまで恥ずかしがらなかっただろう。だが、相手は啓司だった。好きな人に、そんなふうに言われたことが、彼女の頬を一層赤く染めさせた。自分の焦りすぎを悟り、鈴は慌てて言い訳を重ねた。「ごめんなさい、啓司さん、お義姉さん。私、小さい頃に両親を亡くして、こういうこと、誰にも教わらなかったの......今夜は夜番をするから、寝ないで外にいるわ」そう言って、まるで紗枝たちにいじめられたかのような演技をしながら、涙目でその場を駆け出していった。その様子に、紗枝も思わず感心してしまう。立ち上がって外を見ようとすると、啓司が察して声をかけた。「どこに行くつもりだ？」「ちょっと外の様子を見てくるだけ」「雨が降っている。外に出るな。見る価値のあるものなど、何もない」「......雨？」紗枝がそっと手を伸ばすと、確かに空から小雨が落ちていた。啓司の目は今は見えない。それでも、彼の聴覚は常人を凌駕していた。一方、紗枝は補聴器に頼っている。頭だけをテントの外に出してみると、鈴が澤村の前で泣きながら何かを訴えているのが見えた。逸之と景之はすでに布団に入っており、さっき啓司が鈴を追い返したのを目にした二人の中で、彼への評価は一気に上がっていた。「ほんとに雨だね。じゃあ、もう寝ようか」紗枝は布団の端に横たわった。二人の子どもたちは、彼女の両側で眠っている。けれど逸之は、まだ眠りたくないようだった。「ママ、怖い話聞かせて」外では冷たい風がヒュウヒュウと吹きつけ、明かりもなく、ただでさえ心細い夜。紗枝にとって、それだけで十分に怖かった。でも子どもの頼みを断れず、恐怖を押し殺して話し始めた。「むかしむ
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第860話
山の上には、すでに五つのテントが張られていた。雷七が一つ、澤村が一つ。紗枝と啓司は子供たちと共に広めのファミリーテント、梓と牧野が一つ、そして唯が一人で一つ。日が暮れ、みんながそれぞれのテントに戻り始める頃、鈴が突然澤村の手を掴んだ。「澤村さん、私......テント、持ってきてないんだ」「は？」澤村は目を丸くした。「キャンプに来てテントを持ってこないって......お前、何しに来たんだよ？」ちょうどその時、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。すでに他の人々はそれぞれのテントに避難しており、ランタンの灯りだけがほのかに地面を照らしていた。鈴は肩を縮めて、小声で言い訳した。「山の中で売ってると思ってたのに......」「そんなわけあるかよ......」澤村はため息をつきながら、なぜか自分が責任を持たねばならないような気がして、鈴を連れて唯のテントまで来た。ランタンの灯りに照らされた淡いピンク色のテント、その中では唯が湯を沸かしながら静かに過ごしていた。ファスナーが突然開き、澤村の顔が覗いた。「......何か用？」唯は眉をひそめて言った。「狭いけど、女二人なら十分だろ。鈴が泊まる場所なくてさ。ちょっとだけ入れてやってくれないか？」「は？」唯は目を見開いた。後ろから鈴が控えめぶって顔を出した。「唯お姉さん、外......雨降ってるし、中でちょっと話そうよ？」唯は心底、この二人の顔面に蹴りを入れたい衝動に駆られた。澤村は人の心の機微を読まないし、鈴はまさに絵に描いたようなあざとい女だ。「ふざけないでよ。誰を泊めるかは私の勝手。あんたに私の空間を汚されたくないの」今日一日中、散々嫌味をぶつけられてきたのに、同じテントで眠るなんて冗談じゃない。「......別に、そこまで怒らなくてもいいだろ」澤村は驚いたように目を細めた。雨脚が強くなる中、彼は鈴を自分のテントへ向かわせようとするが――「啓司さんのとこ、空いてるかな......？」鈴がぽつりと呟き、澤村は思わず眉をひそめた。「おいおい、正気か？啓司さんと紗枝、子供二人も一緒に寝てるのに、空いてるわけねえだろ」だが、鈴は聞く耳を持たず、さっさと啓司たちのテントの方へ歩いていった。その頃、紗枝と啓司のテント
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第859話
画面に突然、鈴の顔が飛び込んできた。彼女は満面の笑みでカメラに手を振り、明るく挨拶する。「ハーイ！」その瞬間、配信画面は一気に弾幕の嵐に覆われた。「景ちゃん、この綺麗なお姉さん誰ー？」「えっ、もう私たちのこと愛してないの？うう......」「お姉さん、めちゃくちゃ可愛い！」鈴はその反応に満足げに微笑み、意気揚々と自己紹介を始めようとした。「私は、景之の──」「この人は、うちのお手伝いさんだよ！」逸之が突然遮るように割り込み、幼い声で続けた。「ママ、お腹に赤ちゃんがいるから、お手伝いさんが来てくれたの！」鈴の笑顔が一瞬で凍りついた。......お手伝いさん？確かに「世話をしに来た」つもりだった。だが、800万人の視聴者の前で「お手伝いさん」呼ばわりされるとは、屈辱以外の何物でもない。さらに弾幕には、こんなコメントが次々に流れ込んできた。「お手伝いさんってことは......景ちゃんの家、めっちゃお金持ち？」「若くて綺麗なお手伝いさんって現実に存在するんだ......！」「いや、やっぱり景ちゃんのママの方が上品だよね。この人、なんか素人っぽい」「妊婦の世話なら、もっと年配の人の方が安心だよ。この子、大丈夫？」鈴の表情はみるみる険しくなっていった。まさか、自分があの「地味で年増な女」と比べられるとは。ネットの連中は目が節穴か！と叫びたくなる。そんな彼女に、逸之は小悪魔のような笑みで上目遣いに尋ねた。「お手伝いさん、ママのところに行かなくていいの？」「......はい、今行きます」鈴は歯を食いしばりながら、その場を去っていった。視聴者の多くは女性だった。彼女たちは鈴の「狙い」を瞬時に見抜き、逸之に次々と忠告のコメントを送った。「景ちゃん、気をつけてね。パパに新しいお手伝いさん、お願いした方がいいよ」「この人、どう見ても下心ありそう......危険だよ！」逸之は画面に向かってウィンクしながら、軽く言った。「お手伝いさんね、恩返しに来たんだって。誰も頼んでないけど」「恩返し」という一言が火に油を注ぎ、視聴者の中には鈴の正体を検索し始める者まで現れた。そして――「え、これって斎藤家のお嬢様じゃん？」「お金持ちの令嬢がお手伝い？動機が純粋なわけないじゃん
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第858話
「あんた！」悔しそうに言葉を詰まらせた鈴に、唯はさらに鋭く言い放った。「何か文句でもある？別にあんたの家の飯で育ったわけじゃないし、斎藤家と黒木家が親戚でも、澤村家とは何の関係もないでしょ？気に入らないなら、澤村にでも言いつけたら？」まるで「あんたみたいな女、気に入らない」とでも言いたげな口ぶりだった。鈴は言い返せず、仕方なく紗枝の方へ助けを求める。「お義姉さん......」だが、紗枝が助けるはずもなく、むしろ梓と笑顔で談笑していた。三人の女性は、鈴をまるで空気のように扱った。居場所を失った鈴は、手にした焼き鳥を持って男性陣の方へ足を向けた。まずは啓司に差し出してみたが、あっさり断られた。次に牧野の前へ。「牧野さん、前は私が悪かったです。もう怒らないで......これ、私が焼いたの」「結構。もうお腹いっぱいだから。ありがとう」牧野は一切目を合わせず、冷たく言い捨てた。鈴は雷七の方へ行ったが、やはり冷ややかな声で断られた。仕方なく、最後の望みを二人の子供に向けるが――「鈴さん、僕たちもいらないよ」逸之がにっこり笑って、元気に断った。こうして、鈴が配りに行った焼き鳥は、ひとつ残らず手元に戻ってきた。不思議そうに澤村が訊いた。「みんなもうお腹いっぱいなのか？まだ焼こうか？」「夜食にたくさん焼きましょうよ」鈴は肩を落とし、目元に涙を浮かべて言った。「澤村さん......どうしてか分からないけど、みんな私のこと嫌ってるみたいで......ずっと意地悪されてるの。なんだか孤立しちゃってる気がするの」澤村は周囲を見回した。「考えすぎじゃないか？本当にみんなが君から距離置いてるなら、自分に何か問題があるんじゃないかって、考えた方がいい」そのひと言に、鈴は一瞬言葉を失った。しばらくして、ぽつりと呟いた。「でも......啓司さんは、私に優しいよ」「それでいいじゃん。お前はちょっとお転婆だけど、顔は悪くないし、女に嫌われるのも仕方ないさ」まるで慰めのような、的外れな「励まし」に、鈴はようやく口元をほころばせた。みんなが焼き鳥を食べ終える頃、澤村もグリルの前を離れ、啓司の隣に座って酒を飲みながら語り始めた。紗枝たち三人は盛り上がり、二人の子供も静かにしていて手がかからない。そし
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第857話
唯の顔がさっと曇った。「澤村、なんで鈴に手伝わせないの？まさか妊娠してるわけでもないでしょう？」澤村は面倒くさそうに返した。「......客だからな」「客？紗枝さんと啓司さんの世話をするために来たんでしょ？なんで私たちが彼女に仕えなきゃいけないのよ？」唯の怒りはさらに燃え上がった。「啓司さんの世話ならまだしも、あの子の面倒なんて、絶対ごめんだわ！」「そんなケチくさいこと言うなよ......」「私がケチですって？」唯の声が跳ね上がり、今にも爆発しそうな勢いだった。グリルの前で煙にまみれながら立ち働く自分とは対照的に、少し離れた桃の木の下で鈴は焼き串を片手にポーズを取り、気取った顔で写真を撮っている。その姿が視界に入るだけで、吐き気がした。妊娠中の紗枝ですら、食材を運び、各テントに防虫剤を撒いていたというのに。唯は梓の手をぐいっと引いた。「梓、行きましょう。誰かさんがゴマすりしたいなら、勝手にやらせておけばいいのよ！」「え......？」状況を理解できないまま、梓は唯に引っ張られ、その場を離れた。澤村は、まさに面食らった顔をしていた。唯はさらに牧野と雷七を呼び止めた。「二人とも、もう手伝わなくていいわ。私たちは友達であって、部下じゃないんだから。彼が一人で二人分やりたいって言うなら、好きにさせればいいの」雷七は澤村との関係が浅く、どう出るべきか迷ったが、牧野は内心苦笑していた。澤村を怒らせるのは得策ではないと知ってはいたが、今この瞬間、唯の「大胆不敵」な言動を目の当たりにして、なぜ澤村の祖父が、唯が子持ちであっても彼女を嫁に選んだのかが、妙に腑に落ちた。手に負えない男には、それ相応の強者が必要なのだ。「唯、お前ってさ......」澤村がついに声を荒げようとしたとき、不意に小さな視線が彼に突き刺さった。逸之だった。「澤村さん。曾おじいちゃんが言ってたよ。『外で唯おばさんの言うことを聞かないなら、すぐに報告していい』って」逸之は一呼吸おいて、さらに言葉を継いだ。「飛行機で来るのに、一時間もかからないって」澤村はたちまち沈黙した。実際、祖父がバックにいなくても、唯が紗枝の親友であること、そして何より、彼自身が、唯に怒鳴られることに妙な耐性がついてしまったことを思い出した
