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第879話

Author: 豆々銀錠
青葉の差し出した手は、宙に浮いたまま静止した。

少女の瞳には、はっきりとした拒絶の意思が宿っていた。紗枝の裾を小さな手がそっと引っ張り、少女が怯えた声で言った。

「お姉さん、私を送って......怖いの。おじいちゃんに会いたい」

今の彼女にとって、信じられるのは紗枝だけだった。

「うん、いいよ」

紗枝は小さく頷き。少女の手をしっかり握りながら、青葉に向き直った。

「鈴木さん。本当にこの子を引き取りたいのなら、まずは本人の気持ちを聞くべきです」

青葉はゆっくりと手を引き、少しだけ視線を伏せた。

「私も一緒に行くわ」

少女に導かれ、三人は迷路のような路地をいくつも抜け、ようやく一軒の古びた住宅の前にたどり着いた。

都心にあるわりに慎ましい住まいだったが、紗枝の胸にふと疑問がよぎった。ここまで質素に暮らす必要が、本当にあったのだろうか?

まだ玄関にたどり着く前に――

「おじいちゃん!」

少女が紗枝の手を振りほどき、駆け出していく。白髪の混じる痩せた老人が、笑顔で両手を広げて迎えた。

「八重......!」

二人はしっかりと抱き合う。

「おじいちゃん、私、誰かの娘になんてなりたくない。ずっと一緒にいたいの」

少女は涙をこらえながら、老人の裾をぎゅっと握った。

「捨てないでね。今日、私、1万円も稼いだの!これからは私がおじいちゃんを養うから!」

その言葉に、老人の目尻が緩んだ。八重をそっと抱きしめながら、青葉たちに顔を向け、申し訳なさそうに言った。

「鈴木様......すみません。やっぱり、八重を養子には出せません」

そう言うと、八重を離し、上着のポケットから一枚のカードを取り出して差し出した。

「今日いただいたお金です。お返しします」

青葉は黙ってそのカードを見つめた。

まさか、翻意されるとは思っていなかった。彼が今日、一度は承諾した理由は痛いほど分かる。妻も、息子夫婦もすでに亡くなり、残されたのは八重一人。そして、八重にとっても、世界にたった一人の家族が彼だった。

最初は「自分が先にいなくなるかもしれない」と考え、子供にもっと安定した未来をと願った。

だが、空っぽの家に戻って気づいた。苦しくてもいい、この子と共に生きる道を選びたいと。

「わかりました。後悔しないようにしてください」

しばらくの沈黙ののち、青葉は短くそ
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