Mag-log in唯は和彦の隣に腰を下ろし、真剣な眼差しで尋ねた。「一体、何があったの?どうして一昨日、おじい様はあんなに怒っていたの?それに……啓司さんはどうしたの?」和彦はしばらく沈黙した後、低い声で言った。「これだけは分かってほしい。俺は決して善人じゃない。けど、極悪人でもない。だが拓司は違う。あいつは、笑顔の裏に刃を隠すような男だ。紗枝には、必ずあいつに気をつけるよう伝えてくれ」その真剣な口調に、唯は思わずため息をついた。「私の知る限りじゃ、拓司さんはずっと紗枝に優しかったわよ。子どもの頃から何度も助けてくれたし、いじめられたときも庇ってくれた。それに比べたら、あなたのほうがひどかったじゃない。彼女が啓司さんと結婚したばかりの頃、一番紗枝をいじめてたのは、他でもないあなたでしょ?」和彦は、はっと息を詰めた。唯の言葉は痛烈だったが、反論の余地はなかった。あの頃の自分は確かに、紗枝を何度も傷つけた。そのせいで彼女の聴力はさらに悪化し、今では補聴器なしでは生活できない。思い出すたびに後悔が胸を締めつける。だが、どれほど悔やんでも、償いきれるものではない。この数年、彼は軽度難聴の治療法を研究し続けてきた。けれど、成果はまだ遠く、一生、紗枝に負い目を背負って生きるしかないのだ。「唯ちゃん、今回だけは俺を信じてくれ」和彦は、真っすぐ彼女を見つめた。「俺は一生、絶対に紗枝に良くすると誓う」初めて「唯ちゃん」と呼ばれたが、唯は特に違和感を覚えなかった。彼がかつて、命の恩人を勘違いし、ずっと葵を助けていたことを彼女は知っている。だが今では真実が明らかになり、本当に彼を救ったのは紗枝だった。一本気な彼の性格を思えば、もう二度と彼女を傷つけるようなことはしないだろう。「安心して。紗枝ちゃんにはちゃんと伝えるわ。今では、彼女もあなたを見直してる。ただね、あなたの好き嫌いで、紗枝に『拓司さんと付き合うな』なんて言うのは、どうかと思うの」唯は穏やかに言った。友人として、彼女は紗枝が自分に優しくしてくれる人と一緒になるのなら、それでいいと思っていた。和彦は小さく息を吐き、頷いた。「ああ……分かったよ」「分かってくれればいいの」唯はふっと微笑んだ。そのとき、テーブルの上のスマートフォンが鳴った。紗枝からの
紗枝は静かに首を振った。「まだ無理なの。パパの容体が今、とても不安定だから……パパの体がもっと良くなったら、そのときに会いに行きましょう」逸之は素直に頷いた。「うん。じゃあ、行ってらっしゃい。お手伝いさんも梓さんもいるし、僕、ちゃんと良い子にしてるからね」「ええ、お願いね」息子の幼いながらもしっかりした言葉に、紗枝の胸に温かなものが広がった。こんなにも小さいのに、こんなに思慮深く、優しい子供たちが二人もいる。自分はなんと恵まれているのだろう。逸之を安心させたあと、紗枝は運転手に命じて荘園へ向かった。門に着いた瞬間、目に飛び込んできたのは、医師と看護師が啓司を押さえつけ、無理やり注射を打とうとしている光景だった。「何の薬を打っているんですか!」紗枝は駆け寄り、思わずその手を止めようとした。「ただの鎮静剤ですよ」傍らの執事が、無表情のまま冷ややかに答える。「先ほど、啓司様がまた暴れて人を殴りましたので」紗枝は眉をひそめた。「前にも言いましたよね。彼が発作を起こしたときは、必ず私に電話をくださいって。すぐに駆けつけますから」執事は、わざと困ったような顔を作りながら言った。「それは無理です。啓司様は暴れるとき、まるで我を失ったようになります。早く抑えなければ、人命に関わることもあり得ますので」そう言うと、執事は意識を失った啓司を運び入れるように指示した。彼が拓司の部下であることを紗枝は知っていた。だからこそ、反論しても無駄だと分かっていた。紗枝はただ後を追い、啓司のそばに寄り添い、もう二度と離れまいと心に誓った。他の者たちが去ったあと、紗枝は啓司の体を調べ、また新たな傷が増えていることに気づいた。やはり、執事の言葉など信じるべきではなかった。「あなた、こんなひどい目に遭うのは初めてだったでしょうね……」紗枝は救急箱を開き、ひとつひとつ傷口を丁寧に手当てしながら、かすかに呟いた。だが啓司は静かに寝息を立てているだけで、彼女の言葉に応えることはなかった。最初のうち、紗枝は「自分がここに残って看病していれば、彼の受ける痛みも少なくなる」と信じていた。しかし、現実はそう甘くはなかった。このままでは、彼の身が危うい。どうにかしてここから連れ出さなければ。けれど、すでに自
紗枝はすぐに錦子の意図を察し、感極まったように頭を下げた。「本当にありがとうございます。あなたにご迷惑をかけた分は、すべて私が個人的に補填します」「いいのよ。そんなことしなくて」錦子は静かに微笑み、紅い唇をゆるめた。「あなたが将来、采配を振るう立場になったとき、そのときにまた、私と手を組んでくれればそれでいいわ」錦子は、紗枝という人物が実直で、信頼できると確信した。錦子にとって、両社の提携は損どころかむしろ利益が大きく、他の会社と組むよりもずっと実入りが良かったのだ。「ええ、もちろん」紗枝は遠慮なく、力強く頷いた。まさか保護者会が、自分の抱えていた最大の悩みを解決するきっかけになるとは思ってもみなかった。紗枝は胸の奥から安堵の息を吐き、久しぶりに肩の力が抜けるのを感じた。まずは家に戻って逸之の様子を見てから、あの荘園へ行き、啓司を見舞おう――そう心に決めた。そのころ家では、逸之が景之からの調査報告を受け、荘園が拓司の私有財産であることをすでに知っていた。「お兄ちゃん、ママがあんなふうにしてるの、あんまり良くないと思う。でも、もしママが拓司さんと一緒になりたいなら、僕は応援するよ」頬杖をついたまま、彼は真剣な顔で続けた。「でも、拓司さんってもう昭子さんと婚約してるんでしょ?ママにちゃんとした籍をあげられるのかな。それに昭子さんのお腹には拓司さんの子がいるんだよ。きっと僕たちのこと、本当の息子だなんて思ってくれないよね。でも……ママの幸せのためなら、我慢できると思う」景之は呆れたように額に手を当てた。弟の節操のなさには毎度のことながら頭が痛くなる。さっきまで「クズ親父が可哀想だ」などと言っていたのに、今度は拓司を「義理の父親」として受け入れる気になっている。「考えすぎだよ。ママがあの人と一緒になるなんて、絶対にない」「どうして絶対ないって言えるの?」逸之は首をかしげた。彼の中では、拓司と啓司は顔立ちも似ていて、能力も大差なく、そのうえ拓司のほうが優しそうに見える。女の人って、優しい男の人が好きなんじゃないの?「じゃあ訊くけど、ママにとって、僕たちと拓司さんと、どっちが大事だと思う?」「もちろん、僕たちだよ!」「だったらそういうことだ。ママは僕たちに義理の父親を作ったりしない。
絵理は家に残してきた子供のことが気になり、席を立つ二人のあとに続いた。「私も、子供の様子を見に帰らなきゃ」三人が連れ立って立ち上がると、他の母親たちの中にもそれに倣う者が数人現れた。残ったのは、どう見ても夢美に取り入ろうとする面々ばかりだ。夢美はその空気を愉しむように受け止め、あえて何気ない口調でこう漏らした。「うちの昂司がね、もうすぐ黒木グループの本社に戻ることになったの」「本当ですか?どんな役職に就かれるんですか?」一人の母親が身を乗り出して尋ねる。夢美は微笑を浮かべ、わざと答えを曖昧にした。「そうね……きっと、低い役職ではないはずよ」「それはおめでたいですね!ぜひ、旦那様が本社にお戻りになったら、私たちにもご縁をつないでいただけませんか?」相手は探るように機嫌を取ったが、夢美は軽く受け流すだけで、返事をすることもなかった。その一部始終を、直子は黙って観察していた。帰り際、すぐさま紗枝に報告するつもりである。彼女の心には確信があった。たとえ紗枝が啓司と離婚したとしても、夢美より不幸な暮らしを送ることは決してないだろう、と。直子は改めて、紗枝と本当の友人になる決意を固めた。今度こそ自分の見る目に狂いはないと信じて。外に出ると、紗枝と錦子は絵理を先に見送った。運転手を待つ間、錦子が堪えきれずに切り出す。「ねえ紗枝、最近ちょっとした噂を聞いたの。あなた、黒木家の啓司様と離婚したって本当?」紗枝は隠すことなく、静かに頷いた。「ええ、離婚したわ」「どうしてそんなことに?景ちゃんも逸ちゃんもいるし、お腹には赤ちゃんまでいるのに?」錦子は信じられないというように眉をひそめた。紗枝が妊娠中にもかかわらず仕事を続けている理由が、その一言で腑に落ちた気がした。そして心の中で毒づく。啓司も結局、ろくな男じゃない。いや、この世の男なんて、たいていろくでもない。「その話は長くなるから、また時間がある時にゆっくり話すね」紗枝は穏やかにそう言った。啓司の現状を思えば、今は詳しく語らない方が賢明だと判断したのだ。たとえ今、錦子との関係が良好でも、万が一ということもある。「分かったわ」錦子はそれ以上追及せず、代わりに頼もしげに言った。「仕事で困ったことがあったら、私を頼って。今は大したことないかもしれ
拓司は報告を聞くと、すぐに執事へ指示を出した。「兄さんの一挙手一投足を監視しろ。特に、紗枝と一緒にいる時の様子を見逃すな」執事が恭しく頷き、「紗枝様は、啓司様を散歩に連れ出したいと申し出ておられます」と付け加える。拓司は一瞬考え込み、やがて低く言った。「屋敷の門を出ない限りは、好きにさせてやれ」紗枝がいつ啓司に会いに来るかわからない状況で、変に反感を持たれたくなかったのだ。「かしこまりました」その頃、黒木グループでは月末が迫っていた。社の規定では、月間成績が最下位の部署は即座に解雇されることになっている。営業五課はこれまで群を抜く成果を上げてきたが、最近、帳簿の数字に不審な点が見つかっていた。この事実が上層部や株主に知られれば、営業五課は不正会計の疑いをかけられ、容赦なく切り捨てられるだろう。紗枝はすでに独自に調査を進めていた。特に、最近夢美や営業一課と密に接触している社員に注目していたが、決定的な証拠は得られず、行き詰まりを感じていた。そんな折、幼稚園のママグループのチャットに一通の通知が届く。【会長、最近集まってなかったから、子どもたちの近況を話すついでに食事でもどう?】保護者会の会長を務める紗枝は、他の母親たちとの関係も大切にしなければならない立場だった。【いいわ】と短く返信し、早めに仕事を切り上げて約束のレストランへ向かった。だが、そこに夢美の姿があるとは思ってもいなかった。ママたちは彼女のことを好ましく思っていなかったが、「黒木家の嫁」という肩書に遠慮して、媚びるように笑顔を見せていた。その様子に、絵理と錦子はあからさまな軽蔑の表情を浮かべる。直子はすでに紗枝の味方に立つことを決めており、夢美に関する醜聞をこっそり紗枝に漏らしていた。それは、もはや彼女が夢美と和解するつもりがないという宣言でもあった。「夢美さん、うちの子、この前あなたに言われた通りにしたんです。最近は毎日、明一くんと仲良く遊んでますよ」一人の母親が、離婚した紗枝に気を遣いながらも、あえて夢美を持ち上げるように言った。夢美は涼しい笑みを浮かべた。「うちの明一に友達がいないわけじゃないの。ただ、学校は遊ぶところじゃなくて、勉強するところよ。今は基礎を固める大事な時期だもの」「ええ、ええ、そうですよね
鈴は結局、口を閉ざした。もし綾子に啓司を傷つけたことが知られたなら、結婚どころか、この屋敷から即刻追い出されるのは明らかだった。紗枝はもはや鈴と口をきく気にもなれず、「今度から気をつけなさい。次はないわ。そのときは平手打ちでは済まないから」とだけ言い残し、自室へ戻って休むことにした。翌朝、目を覚ますと啓司はまだ眠っており、すでに医師が往診に来ていた。「啓司様の外傷は、ほとんど治癒しております。ただ……脳の神経損傷については、今後の回復は難しいでしょう」医師は深い溜息をつきながらそう告げた。その言葉に、紗枝の顔に陰りが差した。以前はただ視力を失っただけだったのに、今ではもう、何ひとつ理解できなくなってしまっている。かつては天賦の才に恵まれた男だったのに、今の彼の人生はあまりにも過酷だった。執事が医師を玄関まで見送ると、部屋には紗枝と啓司だけが残った。出勤の支度をしていた紗枝は、突然啓司に手首を掴まれ、反応する間もなく力強く抱き寄せられた。「いい匂い……ぎゅーってして」子どものような声音で、彼は呟いた。紗枝の目頭が一瞬にして熱くなる。「啓司、私のこと、覚えてる?紗枝よ」だが、啓司は紗枝の言葉を理解していないようだった。ただ安心しきったように、彼女を抱きしめたまま目を閉じる。「おうちに帰りたい。連れて帰ってくれる?」その一言に、紗枝の胸がぎゅっと締めつけられる。「家?どこに帰りたいの?」彼が言う「家」とは黒木家の本邸のことなのか、それともかつて二人が暮らした牡丹別荘のことなのか、紗枝にはわからなかった。啓司はさらに力を込めて抱きしめる。「痛い……家に帰りたい……」紗枝は彼の背中を優しく撫で、落ち着かせるように囁いた。「どこが痛いの?お薬、塗ってあげるね」その穏やかな声が届いたのか、啓司は素直に従い、静かに薬を塗らせた。彼の体に新しく増えた傷跡は、すべて屋敷の護衛によるものだった。紗枝には、それが護衛たちの独断なのか、それとも拓司の命令なのか、判断がつかなかった。一方、女中たちは、啓司が紗枝に大人しく薬を塗らせている様子を見て、驚きを隠せずにひそひそと話していた。「啓司様って、どれだけ奥様のことをお好きなんでしょうね。何もわからなくなってしまったのに、あんなに従順だなんて。私