私は待ち続け、あなたは狂った

私は待ち続け、あなたは狂った

By:  カフェイン中毒男Updated just now
Language: Japanese
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名家同士の政略結婚で強制的に結婚をさせられた、愛のないこの婚姻生活は苦しみながらも3年間は続いた。 夫は夜になっても帰ってこない。夫は女癖が悪い。そして、夫の心は他の女に向いている。 井上葉月(いのうえ はづき)はもう我慢できなくなっていた。絶対に、絶対に離婚する。 しかし葉月が離婚を切り出すと、清原逸平(きよはら いっぺい)はまるで別人のように変わり、葉月が行く先々で逸平の姿が見えるようになった。まるで怒られても逃げず、殴られてもへこたれないように。 表向きでは逸平はこう言ってる。「俺たちはまだ離婚していない。離婚していないなら夫婦だ。だから妻がいるところには俺もいる」 この結婚の始まりは決して美しくなく、打算と取引に満ちていた。逸平と葉月が幸せになれないことは最初からすでに決まっていた。 葉月は逸平がかつて口にした「これはただの政略結婚であって、恋愛感情などは一切存在しない」という言葉を忘れられなかった。 葉月の恋心は、一文の値打ちもないのだ。 葉月は決然とした口調で言った。「汚れた男は、もう要らない」 逸平はシャワーで自分をきれいに洗った後、葉月がいるベッドに飛びかかり、まるで犬のようにしっぽを振って懇願した。「葉ちゃん(ようちゃん)、俺はもうきれいになったよ」 十年の時を越えても、若き日に寄せたあの人への想い、この人生で変わることはない。

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Chapter 1

第1話

「チクタク……チクタク……」壁掛け時計が22時を指し、時報が鳴った。井上葉月(いのうえ はづき)は窓の外を見た。夜の闇はまだ深く、かすかに黄色い街灯の明かりが見える。

彼は今夜も帰ってこないだろう。

今日は葉月の27歳の誕生日であり、夫と結婚してちょうど3年目の結婚記念日でもある。

3年間連れ添った夫は今、外で他の女性を抱きしめ、いちゃいちゃしている。

30分前、葉月はネットでトレンド入りしたニュースを見た——【新人女優が夜に謎の男性と密会】

パパラッチが撮った写真はぼやけており、男の顔は見えない。

しかし葉月にはわかった。彼が着ているあの服は、昨夜自分が選んであげたものだからだ。

葉月は軽く笑い、手元のお酒を一気に飲み干した。苦く辛い味が喉を刺さり、ようやく胸の痛みを抑えることができた。

「南原さん、これ全部片付けておいて」

南原(なんばら)は、葉月が午後いっぱいかけて準備した飾り付けと食卓いっぱいの料理を見て、もったいないと思った。

南原は葉月が気の毒でたまらなかった。何時間もここで主人の帰りを待っていたのに、主人からは一言の連絡もない。

夜が更け、一階から聞き慣れた車の音がした。葉月は布団に頭をうずめ、耳を塞いで聞こえないようにした。

しばらくするとドアが開き、清原逸平(きよはら いっぺい)が外から入ってきた。

逸平は今日たくさん酒を飲んだのもあり、全身に酒臭さが漂っていた。逸平はそのまま浴室に向かった。

シャワーの音が響きわたり、葉月は完全に眠気が覚めた。

逸平がシャワーから出てくると、葉月はベッドが沈むのを感じた。男は後ろから腕を自然と葉月の腰に絡ませ、首筋に顔をうずめた。「葉月……」

葉月はネットのトレンドニュースで見た写真を思い出し、ふいに寒気に襲われて逸平を押しのけた。葉月の声は冷たい。「あなたの匂い、気持ち悪いから触らないで」

逸平は一瞬きょとんとした後、すぐに体を起こし、葉月の背中をじっと見つめてしばらく黙っている。

逸平は身を乗り出して再び葉月を抱きしめようとしたが、葉月は突然起き上がり、距離を置いた。逸平を見る目にさえ、いくぶんか嫌悪の色が増している。

何のマネだ?

逸平は目を細めて葉月を見た。

またこの目だ。まるで自分が吐き気を催す汚れ物であるかのように。

葉月は逸平の方を見ようともせず、ただ淡々と言った。「今日がどんな日か、まだ覚えてる?」

逸平は眉を軽く上げ、幾分か気だるげに答えた。「覚えてるよ」

逸平の口から出たその言葉は、あたかも取るに足らないことかのように軽々しい。

「今晩は帰って来ないって分かってたけど、まさか外で好き勝手してたとはね!」葉月は怒りたくなかったが、引き裂かれるような心の痛みに耐えきれず、怒りを抑えられない。

逸平は突然葉月の顎を掴み、指先で柔らかな唇を撫でながら、圧倒的な威圧感を込めて言った。「どうした、これにも口を出すつもりか?」

結婚して3年。葉月が自分のプライベートに構ったことなど一度もなかったのに、今さら芝居がかったことを言いやがって。

逸平の露骨な挑発に、葉月の堪忍袋の緒がついに切れた。

いったい自分は何をまだ期待しているのだろう?

葉月は逸平の手を払いのけ、冷たい声で言い放った。「ただ自分がみっともないと思っただけ」

葉月はもう我慢できない。こんな結婚生活には本当にうんざりしていた。

「逸平、離婚しましょ」

空気が一瞬にして凍りついた。逸平は自分の耳を疑ったように、しばらくしてからようやく俯いて笑った。さっきまでの甘くときめく気持ちは、跡形もなく消え去る。

逸平は後ろに仰け反り、ベッドに両腕をもたれかけ、喉からふと笑い声を漏らした。「今日遅くなったのは仕事の用事だ。何か償って欲しいなら何でもしてやるが、口にすべきでない言葉には気をつけろ」

葉月ただただ滑稽に思えた。逸平の言う「仕事の用事」とは他の女といちゃいちゃすることだったのか。

葉月の表情は冷め切っており、恐ろしいほど冷静だ。「離婚したいの。私、井上葉月は、あなた、清原逸平と離婚する。わかった?」

さっきまでお酒でぼんやりしていた逸平はすっかり酔いから醒め、葉月を射抜くような視線でじっと見つめた。

その細長い目はまるで冷たい池のように澄んでいて、冷たさの中には計り知れない深みが漂っている。

葉月は言った。「早く済ませよう。お互いこれ以上苦しめ合うのはやめましょ」

葉月の言葉を聞き、逸平はまた笑ったが、それは相手を馬鹿にするような笑い方だ。「苦しめ合う?葉月よ、この3年間お前は清原夫人という肩書きで十分すぎるほど恵まれてきただろう。よくもまあ『苦しみ』なんて言葉が口にできたものだ」

逸平の言葉一つ一つが葉月の心をえぐり、葉月に自分の立場をはっきりと認識させた。

葉月の心は完全に冷え切っていった。

葉月が黙り込んでいるのを見て、逸平の目には焦燥の色が浮かんだ。

逸平はベッドから降りて服に着替え、袖口を整えながら葉月に言った。「夢を見るのはやめろ。離婚なんてありえない。清原夫人という立場に、どのみちいてもらわないといけない」

そう言い残すと、逸平は振り返りもせずに去り、葉月にこれ以上視線を向けることすら面倒くさがっている。

ドアは激しく閉められ、大きな音に南原までが目を覚ました。

慌てて駆けつけた南原は、逸平が怒りに満ちた表情で歩き去る姿を見た。周囲に漂う恐ろしい冷気に圧倒され、逸平に言葉をかけることさえできない。

「これは一体……」旦那さんは帰ってきたばかりなのに、どうしてまた怒りながら出て行かれたのだろう。

南原は葉月を心配し、しばらく躊躇してからそっと寝室のドアをノックした。「奥様、大丈夫ですか?」

部屋の中で、葉月はベッドシーツを強く握りしめ、平静な声を装って答えた。「大丈夫よ、南原さん。早く休んでちょうだい」

南原はドアの外から、葉月の声に込められた苦しみを聞き逃すことはなかったが、どうすることもできず、心を痛めながらため息をついて去った。

葉月は泣きたくなかったが、ベッドに座っていると涙が止まらなくなり、自分自身に腹が立った。「自分から離婚したいって言ったのに、何を泣いているのよ」

3年間の結婚生活がこんなにみじめに終わるとは。葉月はようやく悟った。自分を愛してもいない人に、どれだけ強く求めても無駄なのだと。一層のこと相手を解放し、自分も解放しよう。

葉月は一睡もできず、夜明けまでベッドに座り続けた。

翌朝早くに、葉月は弁護士に連絡し、離婚届の作成依頼をした。

二人の間に子供がいなかったのは、かえって好都合だ。

残りの家も車もお金も、葉月はすべていらない。

でもこの結婚に関しては、絶対に解消してやる。しかもなるべく早く。

向かいに座っている弁護士は、葉月の要求を聞きながら何度も葉月を見た。

逸平が保有する膨大な資産を考えると、離婚するなら多少なりとももらっていいはずだ。逸平だってそんな細いことなんか気にしないだろうに。

しかし、葉月は財産分与の話いっさいしない上に、しかも離婚を急ぐように強く弁護士に要求しているので、かえって弁護士の好奇心をかき立てる。

葉月の要求通りに離婚届が作成された後、弁護士は余計な一言を言ってしまった。「井上さん、大変失礼ですが、なぜ清原さんとそんなに急いで離婚なさるのですか?」

逸平の家柄にしろ本人のルックスにしろ、上流階級全体を見渡してもなかなか右に出る者はいない、そんな引く手あまたの男性を葉月が潔くあきらめるとは、誰もが好奇の目を向けずにはいられない。

葉月は書類をきちんとしまい、その質問を予期していたかのように、弁護士に向かって淡く微笑んだ。もともと華やかな美貌の持ち主が微笑むと、艶やかさが一層増し人の心を揺さぶるようだ。

葉月はその赤い唇がそっと開き、穏やかで抑揚のある、ゆったりとした口調で言った。「逸平はね、女癖が悪いから、性病がうつるのが怖いの」

弁護士は葉月の言葉を聞いて一瞬呆然としたが、意味を理解すると眼鏡を直しながら苦笑した。「それは離婚された方がよろしいでしょう」

葉月の気分は少しばかり晴れた。こんな時に逸平にちょっとした嫌がらせができれば、それだけで葉月は十分満足だ。
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第1話
「チクタク……チクタク……」壁掛け時計が22時を指し、時報が鳴った。井上葉月(いのうえ はづき)は窓の外を見た。夜の闇はまだ深く、かすかに黄色い街灯の明かりが見える。彼は今夜も帰ってこないだろう。今日は葉月の27歳の誕生日であり、夫と結婚してちょうど3年目の結婚記念日でもある。3年間連れ添った夫は今、外で他の女性を抱きしめ、いちゃいちゃしている。30分前、葉月はネットでトレンド入りしたニュースを見た——【新人女優が夜に謎の男性と密会】パパラッチが撮った写真はぼやけており、男の顔は見えない。しかし葉月にはわかった。彼が着ているあの服は、昨夜自分が選んであげたものだからだ。葉月は軽く笑い、手元のお酒を一気に飲み干した。苦く辛い味が喉を刺さり、ようやく胸の痛みを抑えることができた。「南原さん、これ全部片付けておいて」南原(なんばら)は、葉月が午後いっぱいかけて準備した飾り付けと食卓いっぱいの料理を見て、もったいないと思った。南原は葉月が気の毒でたまらなかった。何時間もここで主人の帰りを待っていたのに、主人からは一言の連絡もない。夜が更け、一階から聞き慣れた車の音がした。葉月は布団に頭をうずめ、耳を塞いで聞こえないようにした。しばらくするとドアが開き、清原逸平(きよはら いっぺい)が外から入ってきた。逸平は今日たくさん酒を飲んだのもあり、全身に酒臭さが漂っていた。逸平はそのまま浴室に向かった。シャワーの音が響きわたり、葉月は完全に眠気が覚めた。逸平がシャワーから出てくると、葉月はベッドが沈むのを感じた。男は後ろから腕を自然と葉月の腰に絡ませ、首筋に顔をうずめた。「葉月……」葉月はネットのトレンドニュースで見た写真を思い出し、ふいに寒気に襲われて逸平を押しのけた。葉月の声は冷たい。「あなたの匂い、気持ち悪いから触らないで」逸平は一瞬きょとんとした後、すぐに体を起こし、葉月の背中をじっと見つめてしばらく黙っている。逸平は身を乗り出して再び葉月を抱きしめようとしたが、葉月は突然起き上がり、距離を置いた。逸平を見る目にさえ、いくぶんか嫌悪の色が増している。何のマネだ?逸平は目を細めて葉月を見た。またこの目だ。まるで自分が吐き気を催す汚れ物であるかのように。葉月は逸平の方を見ようともせず、ただ淡々
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第2話
逸平はその後4日間も家に帰らなかった。あの夜出て行って以来、逸平は会社に泊まり込んでいた。逸平は連日残業をしていたため、他の社員たちも帰りづらくなっている。3日連続で23時まで働かされたある社員が我慢の限界に達し、逸平の秘書に聞いた。「在原さん、社長は一体どうしたんですか?家に帰らないんですか?」在原行人(ありはら ゆきと)は首を横に振った。在原に聞かれても分からない。「あなたたちだけじゃない。私も限界だ」専属秘書として逸平のペースに常に合わせなければならず、他の社員以上に苦労している。「どうにかしてください。今まで定時で帰れてたのに、急に残業なんて無理ですよ」「そうですよ。あなたは社長のお気に入りなんですから、説得することぐらいお得意じゃないですか。お願いしますよ」在原は社員たちにせがまれ、自分自身のためにもと覚悟を決めて逸平に相談に行った。入ってきた在原の様子を見て用件を察した逸平は「用件があるなら早く言え」と切り出した。在原は切り出した。「社員一同、社長がいつお帰りになるか気になっておりまして……社長が帰られないと誰も帰れないのです」逸平は書類をめくる手を止め、ガラス越しに外を見やると、社員たちは慌てて散っていった。在原に視線を戻した後、「皆は通常通り帰ってよい。俺のことは気にしないでくれ」と返した。在原は困った顔で、「社長がお帰りにならないと、私たちも帰れません」と言った。逸平が時計に目をやると、針はまだ17時を指していない。逸平は考えた。4日も経てば、流石に葉月の機嫌も直っているだろう。逸平はそうして書類を閉じて立ち上がり、上着を手に取ると「今日は早めに帰る」と在原に告げた。在原は返す間もなく、逸平はドアを開けて出て行った。お庭が美しい夕焼けの色に染まっている中、車を止めた逸平はハンドルを握り、右手人差し指でリズムを刻んでいた。なぜか家に入る勇気がない。車の助手席には花束と赤いベルベットの長方形の箱が置かれていた。贈り物の箱は、あの日喧嘩別れした際に渡せなかったプレゼントで、中にはルビーのネックレスが入っていた。葉月は肌が白いから、これを付けたらきっと似合うだろうと逸平は思った。車の中で15分ほど座った後、逸平はようやく荷物を手に取りドアを開けて降りた。逸平がこんな
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第3話
逸平はそれを聞いて軽く笑った。「葉月、それはどういう意味だ?お前を無視した俺が悪いというのか?」葉月は指先を少し震わせたが、「そんなつもりはないわ。言ったでしょ、ちゃんと自分のことをわきまえているって」と答えた。逸平の目は暗くなり、口元に冷たい笑みが浮かんだ。「そうか、自覚があるならいい」「だから、今すぐここから出て行ってもらえる?」葉月は今、逸平の顔を見たくなかった。ただ逸平から遠くへ離れたいと思っていた。遠ければ遠いほどいいのだ。逸平は葉月を病床から引きずり起こした。葉月の肩は痩せてて弱々しく、逸平が少し力を入れるだけで葉月は身動きが取れなくなった。「葉月」逸平は冷たい声で、葉月に自分の方を向くよう強いた。「何をグズグズしてるんだ?」葉月は逃げようとしたが、力の差は明らかで、葉月は諦めるしかない。かつて葉月をときめきに溺れさせたその瞳は、今では窒息するような圧迫感しかなく、見つめ合うことさえ避けたくなる。「放して」葉月の声は微かに震えている。逸平は嘲笑い、手を緩めるどころか、むしろ身を乗り出して葉月の耳元に息を吹きかけながら言った。「どうした、今では俺を見るのも嫌か?」「そうよ」葉月は目を閉じ、胸から溢れ出す感情を抑えてから再び目を開けた。その瞳にはもはやぼんやりさしか漂っていなかった。葉月は逸平と視線を合わせた。「離婚届はもう用意してもらった。寝室の右側にあるベッドサイドテーブルの引き出しに入れてある」葉月の口調は至って落ち着いており、まるで取るに足らない話をしているかのようだった。「あなたの方で他に要求があれば、内容を変更できるわ。私は何もいらない。ただ離婚がしたいだけ」空気は一瞬にして凍りつき、逸平の手の力が抜けた。前回の離婚話はただの怒りに任せて言ったのかと思っていたが、葉月は本気だ。二人は、喧嘩したり仲直りしたりを繰り返しながらもう3年が経ったが、離婚の話は一度も出たことがなかった。葉月が本当に離婚を決意するとは思わなかった。逸平は葉月を放し、立ち上がって背を向けた。逸平は何とか冷静を保とうとした。さもなければ、事態がさらに収拾がつかなくなる恐れがあったからだ。葉月は逸平の後ろ姿を見た。出会って13年、結婚して3年、もうそろそろ終わりにしよう。「両親のことは心配しなくて
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第4話
葉月が借りたのは3LDKの部屋で、家賃は決して安くはないが、立地が良く、葉月の仕事場からも近く、則枝の家からも近い。そのため、この部屋を見つけた時、葉月はすぐに契約を決めた。則枝は葉月が引っ越すのを知り、わざわざ一日休みを取って手伝いに来てくれた。「私に言わせれば、あのクズ男とはとっくに離婚するべきだったわ!」則枝はドアに寄りかかり、腕を組んでいる。逸平のことを思い出すだけで不愉快になる。逸平がこの数年やってきたことは、則枝も大体知っている。女癖の悪いろくでなしで、家にも帰らない。学生時代はあんな男だとは思わなかったのに、どうして葉月と結婚した途端、別人のようになってしまったのか。娶っておきながら大切にしないなんて、やはり男はあてにならない。葉月はベッドを整えながら、則枝の言葉には直接返さず、「今日はありがとうね。夜ご飯、何が食べたい?作ってあげるよ」と言った。逸平と結婚して3年、葉月も3年間料理を作り続けてきた。最初は逸平の好物を意識して作っていたが、次第に事務作業のように機械的に作るようになっていった。逸平が葉月の手料理を食べた回数も、指で数えられるほどしかなかった。そしてついに、葉月は料理を作る気力も失ってしまった。しかしこれからは、愛する人のために料理を作ることはあっても、その中に逸平は含まれないだろう、と葉月は思った。食事を終え、片付けを済ませ、葉月と則枝はリビングでしばらく話をした。あっという間に21時を過ぎ、翌日も仕事があるため、則枝は帰宅することにした。「葉月、明日の仕事が終わったら待っててね。一緒に外で夕飯を食べよう!」則枝はとても美味しいお店を見つけたので、葉月と行きたがっている。葉月は笑って頷き、「わかった、明日仕事が終わったら連絡するね」と伝えた。葉月は則枝がエレベーターに乗って降りていくのを見届けてから、ドアを閉めて部屋の中に戻った。しかし2分も経たないうちに、またインターホンが鳴った。葉月は独り言のように「則枝、何か忘れ物でもしたのかしら?」と呟いた。葉月はドアに向かい、そのまま開けた。すると、背の高い人影が重くのしかかるように入ってきて、廊下の光を完全に遮った。葉月は驚き、思わず半歩後退りしたが、来訪者の顔がはっきりと見えた瞬間、葉月は凍りつくように動けなくなった。「ど
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第5話
夕暮れが迫る中、則枝は葉月を連れて、以前から気になっていた小さなお店にやってきた。ドアを開けると、暖色系の灯りが広がり、心温まる個性的な装飾が店内全体に活気を与えている。お店を営むのは若い夫婦で、夫はキッチンで忙しく働き、妻はバーカウンターに立ち、1歳ぐらいの子供を抱いている。子供はとてもおとなしく、騒ぎもせず、ただ丸々とした大きな目で通り過ぎる客を見つめている。葉月はそのおとなしく可愛らしい子供を見て、心がほんのり温かくなった。則枝は笑いながら葉月をからかった。「どうしたの、子供が好きなの?好きなら一人作ればいいじゃない。あなたと逸平の遺伝子なら、生まれてくる子が可愛くないなんてありえないわ」この言葉をもしもっと前に聞いていたら、本当に心が動いたのかもしれないが、今はもう離婚寸前の二人だ。「もう遅いわ」葉月は諦めたように笑った。則枝は葉月の考えを一目で見抜く。「何を怖がっているの?逸平から精子を借りるだけだと思えばいいじゃない。養えないわけでもないし、その後は父親なしで子を育てればいいのよ」「井上家が、私が子供を一人で育てるのを許してくれると思う?」則枝は考え込んだ。確かに無理かもしれない。逸平にはまだ子供がいないのだから、最初の子を井上家が手放すわけがない。葉月は静かにグラスの中のストローをかき混ぜ、氷がコロンと当たって澄んだ音を立てた。「昨日……逸平が私の家に来たの」葉月の声は優しく、まるで自分とは関係のない物語を語っているようだ。それを聞いた則枝は机を叩きそうになる。「葉月、逸平はあなたの目の前で一体どんな芝居を演じたわけ?」葉月は軽く笑った。「私にもわからないわ。勝手にやっとけって感じ」「それに、私には理解できないけど、なぜあなたは裸一貫で家を出ていくの?バカじゃないの?こんな時こそ、あのクズ男からできるだけ多く搾り取るべきだわ!」則枝は想像しただけで、この先の人生はもう安泰だと思った。葉月の表情が少し曇った。きっと誰もが葉月を馬鹿だと思うだろう、逸平と3年間夫婦関係にいたのに、裸一貫で去ろうとするなんて。しかし葉月自身はわかっている。こうしないと、自分の良心が許さないのだ。3年前、清原ホールディングスは破産宣告まであと一歩のところまで追い詰められ、まるで風が軽く吹いただけで、
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第6話
翌日。逸平が会社から帰宅すると、南原がすぐに迎えに来た。「井上様」南原の手にはベルベットの箱があり、逸平は一目見ただけでそれが何かわかった。この箱には葉月の結婚指輪が入っており、3年もの間、葉月はめったに指輪を外すことはなかった。3年前の結婚式で、逸平は自らこの箱からダイヤモンドリングを取り出し、葉月の薬指にはめ、二人を結びつけたのだ。「奥様が今日いらっしゃって、これを井上様に渡すようにと言われました」逸平はその箱を睨みつけ、目つきは険しかったが、口元には冷たい笑みを浮かべた。「他に何か言ってたか?」南原は箱の様子から、中身が何かおおよそ察しがついた。今日の午後葉月が戻ってきた時、南原は葉月が気が変わったのかと思い喜んでいたら、ただ物を渡すように頼まれただけだ。「井上夫人はただ、『元の持ち主に返す』とおっしゃいました」逸平はゆっくりと手を伸ばして箱を受け取った。箱はとても新しく、大切に保管されていたことがわかる。逸平は指輪を握りしめ、力が入っていたのか、指の関節が白くなった。逸平は声は低くして冷酷に言い放った。「これで清算できると思っているのか?」南原はしばらく言葉を失い、ただ黙ってその場に立っている。逸平は箱を開け、中に見慣れたダイヤモンドリングを見て、目に怒りが渦巻く。しばらくして、逸平は突然箱を閉じ、感情を一切込めずに言った。「葉月に伝えてくれ、離婚なんて諦めろと」こんな子供じみたことをして、これで関係を断ち切れると思うなんて、葉月はあまりにも甘い。葉月は自分でメイクアップスタジオを経営している。スタジオは二階建てで、広さは約300平方メートル以上あり、葉月を除いて13人のスタッフが在籍している。スタジオには、普段ふらっと来てはスタッフたちとおしゃべりする警備員のおじさん以外は、全員女性だ。スタジオの隅々にまで、女性ならではの繊細さと、暮らしへの愛情がにじみ出ている。窓辺にはいつも新鮮な花が飾られ、ティールームにはさまざまなお菓子や健康茶のパックが置かれ、魅惑的な香りがスタジオに漂っている。当初、全員女性でチームを組むのに、葉月はかなり苦労し、その過程で多くの問題にも遭遇した。しかし4年が経ち、スタッフ同士の関係もますます良くなり、みんなは同僚から友達になり、今では家族
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第7話
広々とした豪華な宴会場で、来賓たちが続々と集まり、談笑している。逸平は宴会場の隅のソファに座っている。濃いグレーのオーダーメイドスーツを纏った逸平は、スラリとした長い脚を組んでおり、動くたびにスラックス越しにも洗練された体のラインがはっきりと浮かび上がる。両手は軽く重ねられ、その所作の一つひとつに、気品と落ち着きがにじみ出ている。シャンデリアの光が逸平を照らし、肌は冷たく白い光沢を放ち、喉仏が微かに動く様は、言葉では言い表せないような色気がにじみ出ている。目立たぬよう隅に身を潜めていても、逸平に注がれる視線は後を絶たない。逸平の表情は終始淡々としていて、どこか近寄りがたい。会場にいた来賓たちは皆、逸平と何らかの繋がりを持ちたがっており、せっかく逸平が来ているから、多少は話ができるだろうと思っていた。しかし、誰の目にも逸平の機嫌が悪いことは明らかで、話しかけるのを躊躇う者も多い。だが、自ら動かなければ、今夜の宴会に来た価値が大きく損なわれることになる。「井上社長、一杯いかがですか?」スーツが似合う中年男性が逸平の前に現れ、グラスを差し出した。誰かが先陣を切ると、他の人もうまみを奪われまいと、この見えない権力争いで後れを取るまいと、あっという間に逸平の周りに人だかりができた。逸平は今日一滴もお酒を口にしておらず、飲む気はなかった。昨日、葉月の前であの女性を抱きしめたせいで、服にはあの女性の強烈な香水の香りが染みつき、胃がひっくり返るほど不快だ。今でもその鼻を刺すような香りが残っているようで、こめかみがずきずきと痛む。逸平はさりげなくソファに寄りかかり、適度な距離を保ちながらグラスを受け取らず、「今日は体調が優れませんので、悪しからず」とだけ言った。男は笑顔でうなずき、気を利かせてグラスをテーブルに置いた。クリスタルグラスの底がテーブルに触れ、澄んだ音を立てた。「お体が第一ですから」そう言いながら、男は自然な流れで逸平の隣に座り、ふと逸平の横の空席に目をやると、「井上社長、今日はお一人でいらしたのですか?」と意味深に尋ねた。宴会場には男女が入り混じり、多くの人がパートナーを連れ添っている。ある人は夫人の腕を取り、声を潜めて会話し、ある人は秘書を連れて人混みの中を立ち回っている。さらには、何人かのビジネスパ
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第8話
逸平はソファに座っていた。アクセルを踏み込んで猛スピードで車で駆けつけたため、今もまだ興奮が冷めやらない。葉月が逸平の前に立ち、口を開いた。「何しに来たの?」葉月の冷たくよそよそしい口調を聞きながら、逸平はネクタイを緩め、ようやく楽に呼吸をすることができた。逸平は葉月の手首を掴み、軽く自分の方へ引くと、葉月は反応する間もなく逸平の膝の上に座らされた。「放して!」あの夜のことを葉月は思い出し、恐怖がよみがえった。逸平が放すはずもなく、片手で葉月の両手首を固く握り、もう片方の手で腰を抱き締め、逃げられないようにした。「聞いたよ……お前が一方的に離婚を発表したって?」逸平は低い声で問い詰め、温かい息を葉月の顔にそっと吹きかけた。葉月は不快そうに顔を背けた。「答えろ!」逸平は強硬な態度をとった。葉月は逸平がまたどうかしたのかと思った。自分はいつ他人に離婚したなんて話をしたのだろうか。しかし振り返ると、逸平の襟元に残った赤い跡が目に入った。明らかに女性が使う化粧品の跡だ。自分が不貞を働いておきながら、よくもそんな高圧的な口調で話せるものだ。葉月は笑い、逸平の視線を捉えて軽薄な口調で言った。「逸平、次からこんな質問する時は、まず自分の服についた跡をきれいに拭ってからにしてくれない?でないと見てるだけで吐き気がして、話せないから」「何を言ってるんだ?」葉月は逸平の襟元を見た。逸平も葉月の視線を追って襟元を見ると、赤い痕がついているのに気づいた。逸平は心の中で呪った。さっきの女が触れた時に付いたのに違いない。「これは話せばわかってくれる……」「もういいわ。もうあなたが誰と一緒でも私とは関係ないもの」無駄な話はしたくない。ここまで来たら、もう話すことなどない。逸平は言葉に詰まり、喉元に刺さった骨のように苦しくなる。「放して」逸平は一瞬、言い返す言葉を失って、言われた通りに手を放した。葉月は立ち上がり、テレビ台の引き出しから書類を取り出した。葉月は書類とペンを逸平に渡した。「いつまで経ってもあなたのサインがされた離婚届が届かないから、ちょうど今日ここにいるうちにサインして」逸平はその紙に書かれた「離婚届」という大きな文字を見ると、こめかみがまた脈打つように疼き始めた。逸平は歯を食いし
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第9話
「あらまあ」卓也は「やっちまったなあ」と言わんばかりの表情でしきりにチッチッチと軽く舌打ちし、イライラしてしまうほどうるさい。逸平の頬に残った手形の跡を見ながら、卓也は首を傾げた。「逸平、これって……どこかの野良猫に引っ掻かれたの?」野良猫?葉月がゴミでも見るような目で自分を見てたことを思い出すと、怒りが込み上げてきた。逸平は卓也を見上げながら言った。「暇そうだな?仕事でもしてもらおうか?」卓也は即座に口を閉ざし、ソファに座って頬杖をつき、唇を堅く結びながらも何か言いたげな様子で逸平を見つめた。だが結局我慢できずに卓也は口を開いた。「まさか……葉月さんに殴られたんじゃないだろうな?」逸平の手が震え、書類には不自然なインクの線が描かれた。逸平は黙ったままだが、卓也の心にはすでに答えがある。「マジかよ」卓也は長い息を吸い込んだ後にまた言った。「葉月さん、なかなかやるじゃないか」「卓也」逸平はゆっくりと汚れた書類を脇にどかし、脅しを含んだ視線を卓也に向けた。「どうやらお前は本当に仕事がしたくてたまらないようだな」「やめてよ」卓也は逸平のデスク前に歩み寄り、ニヤニヤしながらデスクの上に座り、へつらうような表情を浮かべた。逸平は眉をひそめ、明らかに嫌悪の色を目に浮かべて言い放った。「消えろ」「今日は本当に用事があって来たんだ」卓也はデスクから下りるどころか、さらに前のめりになった。「本当のことを言うと、俺の会社で臨時のメイクアップチームが必要になって、葉月さんのスタジオがぴったりだと思ったから、直接一度話ができたらと思って」「商談するなら直接本人に会いに行け」逸平は相変わらず書類から目を離さず、指先で机を軽く叩いた。卓也はため息をついた。「だって君の妻だろ?俺たち兄弟みたいなもんだからさ、まずは君に相談するのが筋だろ」卓也は意味ありげに眉を吊り上げて続けた。「それに、いきなり葉月さんに会いに行ったら、誰かさんが酷く嫉妬しちゃうんじゃないかと思って」逸平は一瞬たじろぎ、パン、と書類を閉じると冷たい声で言った。「お前たちの問題だ。俺には関係ない」卓也が机から飛び降りた。「言質は取ったからな。じゃあ今すぐ葉月さんに連絡するからね?」逸平は再び下を向いて新しい書類に目を通した。「さっさと出て行け」卓也はふ
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第10話
月曜日の午後、卓也のアシスタントが葉月に連絡を取った。その時、葉月はお客さんと話をしていたが、卓也のアシスタントからのメッセージを見て、七海を呼んだ。「卓也のアシスタントの連絡先をあなたに渡すから、彼と連絡を取ってちょうだい」七海は「わかりました」と返事した。七海はすぐに卓也のアシスタントと会う約束を取り付けた。七海は葉月のところに戻り、「葉月さん、澤口社長の方から今夜一緒に食事をしながら話をしたいということです。葉月さんのご意向を聞かせてほしいと言われました」と報告した。葉月は時間を確認し、うなずいた。「いいわ、準備して私と一緒に行きましょう」葉月は商談のために外出することは滅多になく、七海も葉月の会食に同席することは今までなかった。そう考えると、今日が初めてだ。七海はこういった場での経験がないため、自分が何か迷惑をかけるのではないかと心配していた。葉月はとてもリラックスした様子で、七海を慰めた。「心配しなくていいわ、卓也は身内のようなものよ。もし問題がなければ一緒に仕事をすればいいし、無理なら別に何も影響はないわ。今日は、私と私の古くからの友人との昔話に付き合ってくれるつもりでいてくれればいいの」七海は好奇心いっぱいに目を瞬かせた。「葉月さんは澤口社長とお知り合いなのですか?」葉月はうなずいた。「もう10年の付き合いだね」葉月の祖母が亡くなってから、葉月は国内に残って勉学に励み、一の松市の学校に通って卓也たちと知り合った。みんな同い年だったが、卓也だけが1歳年下だった。以前はよく卓也をからかい、「姉貴」と呼ぶようによく強要したものだ。あの頃のことを思い出すと、葉月の表情は自然と柔らかくなった。葉月は笑いながら七海に言った。「卓也は一見頼りないように見えるけど、実は信頼できる友達なのよ」葉月は真剣な表情で続けた。「でも覚えておいて、仕事以外では卓也から距離を置くのよ」卓也は義理堅く、性格も素直でさっぱりしている。たまに頼りないところはあるが、全体的に見れば悪くない男だ。しかし、私生活となると、卓也の振る舞いは到底褒められたものではないと葉月は思っている。約束の場所に着いた七海は、きらびやかで贅沢の限りを尽くしたホテルを見て驚いた。回転ドアの向こうからはクリスタルガラス製のシャンデリアの光が溢れ
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