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第920話

Author: 豆々銀錠
綾子は一瞬、我を忘れた。

逸之の震える声が、心の奥を激しく揺さぶる。まさか、自分の可愛い孫に「早死にする」などという言葉を浴びせる者がいるとは、怒りが頭のてっぺんまで突き上げた。

従姉妹たちは互いに顔を見合わせ、戸惑っていた。

「早死に」などとは言っていない。ただ「白血病は治りにくい」と言っただけ――そのはずだった。

しかし、逸之は完璧に「役」に入っていた。

綾子の胸にすがりつきながら、大粒の涙をこぼし、息も絶え絶えに叫んだ。

「おばあちゃん、僕......僕、もう長生きできないの?死にたくないよ......!」

その迫真の演技に、紗枝でさえ一瞬心が揺れたほどだ。

「この子......ちょっとした役者になれるかも」と、密かに感心しながら、目を伏せて笑いをこらえる。

綾子は胸を押さえてしゃがみこみ、逸之の頬を包むようにして涙をぬぐった。

「そんな馬鹿なこと言わないで!逸ちゃんはきっと百歳まで生きるわ!」

すぐに立ち上がり、鋭く親戚たちを見渡した。

その視線は、刃物のように冷たく研ぎ澄まされていた。

「うちの孫に『死ぬ』なんて言葉を吹き込んだのは誰?出てきなさい!」

昭子は顔面蒼白になり、他の従姉妹たちも気配を消そうと俯く。

場の空気が凍りついていた。

ようやく、一人の従姉妹が震える声で口を開いた。

「お、おば様......私たち、そんなつもりで言ったわけじゃ......「早死」なんて言葉は使ってません......」

「ならば聞くけれど、あの子がなぜ『死にたくない』なんて言葉を口にするの?どんな空気を作ったのか、自覚はあるの?」

綾子の声は鋭く、天井を突き抜けるようだった。

別の従姉妹が小さく答える。「白血病って、治りにくいってだけで......」

紗枝がすかさず冷たい声で追い打ちをかけた。

「『治りにくい』じゃなくて、『治らない』って、はっきり言ってましたよね?」

逸之の泣き声が、再び響いた。

「うぅ......おばあちゃん......僕......死にたくないぃ......!」

その健気な声が、親たちの胸をえぐる。

綾子は堪らず、皆を指差した。

「四歳の子に何を言っているの!?いい年をした大人が寄ってたかって、何てことを!」

一同は一斉に青ざめた。

綾子がここまで激昂するのは、彼女たちにとっても未体験だった。
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