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評価の仕方2

Author: 氷高 ノア
last update Huling Na-update: 2025-12-21 12:59:34

大分日が昇った。シャッターを閉めていた店が次々と顔を出し始める。

その中でも、少し早くから開いた美容院に足を踏み入れた。

「すみません。予約してないんですが、いけますか?」

ヒノキの香りが鼻腔を引っ掻き回す空間に、綺麗なスタイルの女性スタッフが二人。

もちろんと言うように笑顔で受け入れてくれた。

「今日はどういったようにしましょう」

私の髪を櫛で整えながら、金色に艶めく髪を巻いた女性が言った。

手入れされてないことが一目でわかる私の髪とは大違いだ。

「うーん、そうですね。ちょっとね、人生の晴れ舞台に似合うような髪型にしてほしいんですよ」

「あら、それでしたら、可愛くアレンジもしませんとね」

鏡を通して彼女と私は視線を絡めた。やる気に満ちた表情から、生気があふれているように思える。おそらく、まだ私の笑顔が死んでいるとはバレていないだろう。

美容師はテンポよく私の髪を整えていく。伸びきって枝毛だらけの一部が床に捨てられる。

おめでとう、良かったね。最後まで私と一緒にいる必要なんてないよ。

髪の毛に語り掛けていることなど気付くはずもない美容師は、おしゃべり好きなのか職業病なのか、どうでもいいことをひたすら話しかけてきた。

もうすぐ十月になるのに暑いですねとか、電気代もばかにならないとか。

そして最後に、聞くであろうと思っていたことをやはり聞いてきた。

「失礼ですが、今日はどちらに行かれるんですか?」

「ふふっ、どこだと思いますか?」

はたから見たら、ただ楽しそうに会話をしている客とスタッフ。彼女は「えー、どこだろう」と幸せそうに考えを巡らせているようだった。

「結婚式とかですか?お姉さん、きれいな格好してますし」

「はは、残念!こんなの引っ張り出してきただけですよ。結婚式じゃありません。そんなものよりもっと幸せなことです」

「ええ!教えてくださいよ~」

「いいですけど、聞いたら後悔するかもしれませんよ?」

意地悪く笑った。なお一層興味をそそられた彼女は、これまで以上に興奮した様子で尋ねてくる。

「ふふっ。実はね、今日念願の自殺をしに行くんですよ」

敢えて視線を合わせずに、鏡へ伝えた。そうして跳ね返ってくる表情と言葉。

それは何の変化もなかった。

「やだ〜。冗談はやめてくださいよ〜。はい、どうですか?」

一瞬、笑顔を吐き捨てるような表情をしていた気がする。冗談だと小馬鹿にされたのか。

私は何も言わず、揃えられた髪を見て「いいですね」と言った。

鏡に映る私の笑顔は、腐った泥団子にスパンコールを塗《まぶ》したようだった。

丁度胸の辺りまでの長さになった髪を、もう一人の女性が優しく洗う。

適温のシャワーとマッサージのような手つきに、思わず眠りの世界へ溶かされそうになる。

そんな私を現実に繋ぎ止めたのは、やはり職業病の会話だった。

いや、きっと彼女だって私と話したくはないはずだ。でも話せと教わったのか、それが所謂《いわゆる》『普通』なのか。彼女の引き出しからは、様々な類の話を出してくる。

でもさっきの会話を聞いていたのか、決して私の行き先には触れない。私の事情に入り込まない。上手く躱《かわ》して、そのまま排水溝《ゴール》に流れる。

賢い人だ。礼儀なのか、一般常識なのか、客と店員の間に引かれた絶対的な線なのか。

ただ私たちは、どうでもいい話を無理矢理盛り上げて、その時間を終わらせた。

それからは早かった。再び担当が変わり、カットしてもらった女性に髪を乾かしてもらって、今度は可愛らしくアレンジをしてもらう。

クルクルと巻かれた髪はトリートメントのお陰か、やや艶めきを増していて、先程掛けてもらった甘い香りは、少し揺れるだけで蝶が飛んできそうだ。

あれだけ酷かった髪が、一瞬にして輝く。カットをして、かつ巻かれた髪は、肩より少し浮くくらいに短くなっている。

更にこめかみの辺りには、小さな花が咲いていた。

「凄いですね!髪の毛で花を作るなんて!」

「いえいえ。普段は後ろの方で大きな一輪を作るのですが、お姉さんは巻いた方が似合うかと。でも、今日は晴れ舞台らしいので、小さくお花を咲かせてみました!」

まるで、何かはわからないけど晴れ舞台だから、と言っているようだ。周りに飛び散る、目に見えない花弁が代弁している。

無かったことにされた。きっとこれが普通の反応だ。

「ありがとうございます。今日一日、楽しみますね!」

今日一日、だけ。

今度は二人体制でメイクをしてもらった。秋らしいブラウンとゴールドのアイシャドウが目の上に散らされる。

丁寧に引かれた黒のアイライン。瞬きする度に、団扇《うちわ》を扇いでいるのかと思われるほど伸びた睫毛。

ファンデーションが毛穴を覆い隠し、その上にピンク色のチークをデコレーションされる。

最後に、唇が真っ赤に彩った。

まるで別人だ。ここまで着飾ったのはいつぶりだろうか。

仮面を被っているようにまで思えた。

「やっぱり化粧で人は変わりますね〜!」

顔面と髪型が出来上がった私は、そう言って会計を済ます。二人はわざわざ玄関口まで見送ってくれた。

ヒノキの香りが、自動ドアが開くと同時に店内の奥へと引っ込む。

「素敵に仕上げてくださって、ありがとうございました!」

子供みたいなやり方だった。

感謝の気持ちとして、折り紙やビーズで作った指輪などをあげる感覚と同じ。

彼女たちの手に渡したのはハートの4と7。

唖然とした表情を後目に店を出る。

「無かったことにする。問わない」

風に乗って、彼女達に聞こえただろうか。いや、そんなことはどうでもいい。どうせもう二度と合わない。今日することや会うもの、全てが最後。

酷いかな。人の悪いところばかりを見て、こんな形で評価するなんて可笑しいかな。

馬鹿げてると思われたっていい。私が狂ってることなんてわかってる。彼女たちが一般的に正しいことも。

それでも一つだけ確かなことがあった。

風が私の髪を操る。顔を覆って、不気味なこの表情が明るみに出ないように。甘い香りが汚い口に入る。

これはとんでもなく面白くて楽しい、最期の遊びだ。

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