目が覚めた時、隣にアレキサンダー皇帝はいなかった。
私は酷く寂しい気持ちに襲われた。
(また、捨てられるのが怖い⋯⋯)気だるい体を起こして、呼び鈴を鳴らすとクレアがやってきた。
服を着替えるのを手伝って貰い、食堂に向かう。 (ルミナは本当にどこに行ったのかしら⋯⋯後で陛下に聞かないと⋯⋯)陛下と一緒に食事をとれると期待したのに、私はまた1人で食事をするようだ。
「朝食に陛下はいらっしゃらないの?」
「陛下は既に朝食を済ませております」 (今日も、料理からほのかに草の匂いがする⋯⋯苦手な香りづけ⋯⋯)クレアの言葉に私はアレキサンダー皇帝の体が心配になった。
(まだ、日が昇って間もない時間なのに、もう働いているの?)「クレア⋯⋯私が陛下の為にできることはないかしら? お疲れの毎日でしょうに、私は昨晩陛下にわがままを言ってしまったの。陛下の負担ではなく助けになれる女になりたいのよ」
アレキサンダー皇帝の気持ちは全く分からない。
彼は帝国の皇帝らしく表情管理が完璧だ。それでも、彼は側にいて欲しいと願った私の為に、部屋を出ようとしたのに戻ってきてくれた。
(本当に優しい方だわ⋯⋯)「皇妃殿下ができる事は何もありません。今日は下がらせてもらいます」
私がおかしな質問をしたせいか、クレアを戸惑わせて気を遣わせてしまった。私は夢にまで見た人間になれたのに無力感に打ちひしがれた。
マルテキーズ王国にいた時、父や兄を支えたように政治的な面で陛下の役に立ちたい。
しかし、警戒されているだろうから、相当信用を得てからでないと仕事を任せてもらえないだろう。 犬の記憶が蘇った私は鋭い嗅覚と聴覚を持っている。 その能力も活用して陛下の役に立てないだろうか。人間としては特殊な能力である以上、自分自身で彼の為に何ができるか考えなければならない。
私は今度こそ利用されたり、捨てられたりするのではなく手を繋いで貰える家族になりたい。
朝食が終わって、何の制約もなかったので私は庭園に出た。
ここの庭園は本当に美しい。 マルテキーズ王国では見たことのないような花が沢山ある。 色とりどりに様々な種類の花が植えられていて、見ているだけで楽しく庭師のセンスを感じた。 きっと、取り寄せて見栄えの良いように庭師がデザインしたて庭園だ。私はルイのお母さんがルイに花の名前を教えながら、散歩していたのを思い出してた。
(アマリリス、ペラロゴリウム、フランネルフラワー、ペチュニア⋯⋯) ルイのお母さんのお陰で私も花に詳しくなった。 マルテキーズ王国は予算不足で枯れた花をそのままにしていた。 しかし、この帝国では花は枯れたら処分されて新しい花が植えられているようだ。 一点の曇りもない庭園は、花のことなど命と考えていない寂しさも感じる。(家族でも、命でもなかった犬のモモみたい⋯⋯)
私はマルテキーズ王国では家族ではなく駒だった。
私が死んでも父や兄も涙1つ流さないだろう。そして、側室だった私の母エミリアーナも父の寵愛を受けているとされていたが、代わりのきく存在だった。
父は母を毒殺した犯人が王妃と気づいても黙認し、すぐに新しい側室を娶った。
冷酷な父の役に立つ為に生きてきたのは、本当はいつか愛される日を夢見てたからだ。
そのような日は18年間1度も来なくて、当たり前のように私が死ぬ未来しかないバラルデール帝国へ出された。結局、私は前世での犬だった時のように家族ではなく、代わりのきくペットの枠を出られなかった。
代わりがきくという点で、母エミリアーナも父にとって家族ではなかった。
誰かの家族になるということは、とても難しいことだ。 アレキサンダー皇帝はきっと優しい方だ。彼の家族になりたい。庭園を抜けたところで、アレキサンダー皇帝が騎士団と訓練をしているのが見えた。
陛下は自ら戦場に出ることで有名だから、日々の鍛錬を欠かさないのだろう。
彼が汗をかいているところを見て、昨晩の情事が思い出されて顔が熱くなる。 まるで、自分が愛されていると勘違いしてしまうような時間だった。本当は私が起きるまで彼に側にいて欲しかった。
(私は本当に我儘な駄犬ね⋯⋯役に立つ賢いところを見せないと捨てられてしまうわ)
自分の新しい主人になる陛下がどんな方なのか知りたくて、騎士団の練習を気配を消して物陰からこっそり見ていた。
陛下は常に護衛騎士がついているような生活をしているだろうに、誰よりも剣術に長けているように見えた。
戦場に出るのが好きで、血を好む暴君と呼ばれているだけはある。
周囲の騎士も腰が引けているくらい、陛下を怖がっているのが分かった。
騎士団の練習が終わろうとしていたので、陛下に声をかけてお茶に誘おうと思った。瞬間、風を切る鋭い音が近づいてきた。
(ナイフ⋯⋯サンダース卿がナイフを投げたわ)レイ・サンダース卿は兄のお気に入りで、マルキテーズ王国御用達の暗殺者だ。
昨夜から会えなくて、どこにいるかと思っていたら狙いを定めていたようだ。 彼は彼で兄からアレキサンダー皇帝を狙うよう密命を受けていたのだろう。「アレキサンダー」
私は稽古を終えたアレキサンダー皇帝に飛びかかった。
レイ・サンダース卿は一流の暗殺者で、人が気を抜く瞬間を見逃さない。 稽古を終えて陛下から一切の殺気が消えた時を狙ったのだろう。もしかしたら、もっと賢い助け方があったかもしれない。
ルイをおじさんを噛んで助けた時のように、私の選択はきっと最良ではないだろう。背中に鈍い痛みを感じる。
きっとナイフには毒が塗ってあったのだろう。 体が毒に侵食されていくのを感じた。 意識が遠のいて自分の体から力が抜けていった。「退屈なんてさせてくれるつもりはあるのか? モモ、君はかなり愉快な女だぞ。それよりも、君こそ俺と2人きりで良いのか? その⋯⋯ジョージアを連れて来ても⋯⋯」 アレクはいまだに私とジョージの仲を疑っている。 私は彼に近づき唇を軽く舐めた。「えっと⋯⋯それは、俺だけで良いという返事なのか? だったら、口づけで返して欲しいのだが⋯⋯たまに、君の行動が犬っぽくて⋯⋯」 アレクは頭を掻きながら困惑していた。「これだけ一緒にいるのに、まだ私の気持ちを疑っている人には口づけなんてしません」「それは、君も俺だけを好きだと言うことで良いのか?」 いちいち言質をとって来ようとするアレクに深く口づけをする。 もう随分と慣れた私を安堵させる味を感じる。 彼も私を思いっきり強く抱きしめてきた。「アレク⋯⋯カイザーに譲位するまで、解決できる問題は全て解決しますよ。あの子の心を煩わせる全てのものを取り払うのです」「モモは俺以上にカイザーに対して特別な感情を持っている気がするのだが⋯⋯」 アレクは鋭い。 彼の言う通り、私は出会った時からカイザーと元飼い主のルイを重ねている。「当然です。私はカイザーの忠犬ですよ。そして、あなたが愛する妻です」 忠誠を誓う相手、私を家族のように愛してくれる人を見つけた。 私は、今、最高に幸せだ。
「本当に私だけを思い続けてくれますか? この先、私が老いて醜くなっても?」 彼の頬を包み込みながら伝えた自分の声が驚く程、震えていた。 美しさという武器を失えば、犬のモモであった時のように粗末に扱われそうで怖かった。「モモ⋯⋯確かに、君は美しい。だけれど、俺が愛しているのは君の繊細で傷つきやすい純粋な心なんだ。いつも陰で俺のために動いてくれているって知ってるんだぞ。君は尖って見せているが、とても優しい人だ。君がどのような姿になっても、たとえ犬でも愛している」 アレクは私が過去に犬だったことを知らないのに、まるで全てを知っているかのような言葉を伝えてきた。「アレクが他の女と一緒にいるのは本当は嫌です。カイザーが成人したらすぐに譲位し私と2人長いお散歩に出かけませんか? ずっと、2人きりだと退屈するかもしれませんが⋯⋯」 私は初めて包み隠さない心の内を彼に伝えた。 私は彼に12年後には退位をするように迫っている。 これは完全な私の我儘だ。 ずっと神経を張り詰めらせて暮らして来た。 皇宮の創られた空間ではなく、本当は季節を楽しみながら愛する人と色々な事を体験したい。 世界を巡りながら美味しいものを食べたり、喧嘩しては仲直りするような毎日を過ごしたい。 役に立たない存在になった私を彼に愛して欲しいと言う希望。
あれから1年の時が経った。 私の執務室の机には父からの手紙が机の上に積み重なっている。 私はその手紙の束から1つをとった。『モニカ、なぜ、手紙を返さない! まさか、あの若造皇帝にお前が誑かされたのではあるまいな⋯⋯』 手紙の内容は私を罵倒する言葉が羅列していた。(父は本当に私を道具としか考えていない⋯⋯) 人に忠誠を誓う元犬であった私。だけれども、私を捨てた相手までに忠誠は誓えない。 マルテキーズ王国の規模では私の助けなくバラルデール帝国を責めるのは不可能だ。 私は意を決して、席をたちアレクの執務室に急いだ。 ノックをして部屋に入るとアレクとその補佐官は私の登場に驚いていた。 アレクが手を挙げて補佐官を下がらせる。「モモ、どうした? お腹が空いたのか?」 アレクの的外れな言葉に思わず苦笑いが漏れた。 彼は不思議な人だ。 気性も荒く自分勝手で最初であった時は、対応に困った。 それでも、今は何よりも私を優先してくれているのが分かる。「アレク、カイザーを立太子させてください。私はもう子供を産めません」 今まで何度もアレクに他の女を迎えるよう提言してきた。 その度に彼は私以外は必要ないと言ってきた。 その言葉は私を喜ばせたが、同時にプレッシャーにもなってきた。 カイザーは皇位継承権を放棄しているが、本人とアレクが望めば彼が皇位を継ぐことが可能だろう。「モモ、本当にすまなかった。俺は償いようもない過ちを⋯⋯」 アレクが立ち上がり私をそっと抱きしめてくる。 彼は意外と感受性が豊かで私が苦しい気持ちになるとその気持ちを受け取るように目を潤ませる。 私は泣いている顔を隠そうとする彼の頬を包み込んだ。
「アレクが誰より想っているのは自分でしょ」モモはそう言うと俺の唇を少し舐めた。(これがご褒美ということで、納得しろって事なんだろうな⋯⋯)彼女を縛りつけても日に日に距離は遠ざかるばかりだ。俺ばかりが彼女のことを考えている。 俺が自分勝手で自己中心的であることは自覚している。それでも、俺は自分と同じくらいモモを大切だと思っていた。(毒を盛った俺が何を言おうとこの気持ちが伝わる気がしない⋯⋯)「スラーデン伯爵の爵位を剥奪し国外追放にするにした」俺の言葉にモモが苦笑いする「首を切ると脅せば、何か吐いたかもしれませんよ? 中途半端な処罰ですね。生きるか死ぬかの罰を犯した彼にとってはラッキーだったでしょうね」 モモは俺よりも多くをみえていて洞察力が鋭い。 俺もスラーデン伯爵の裏に誰か潜んでいるのは感じ取っていた。 しかし、そこは曖昧にしてしまってバランスを保つのが良いと思った。プルメル公爵一族を処刑した後で、帝国は処刑に対して敏感になっている。俺が言い淀んでいると彼女は少し呆れたような顔をした。 「アレクは今、私のご主人様です。あなたの意向に従います」 モモがぺこりと頭を下げるが俺が欲しいのはそんな彼女の反応じゃない。(ただ、俺のことが好きだと言って欲しい)「その⋯⋯ジョージアに会っても良いぞ⋯⋯」 情けないことに彼女に好かれる為に何をして良いのか全くわからなかった。だからと言って、彼女の希望を叶える為に浮気相手に会っても良いと言っている俺はどうかしている。「おびき寄せて、彼を殺す気ですか? 結構です。私と彼は会えなくても、心は通じ合ってますので」 モモは俺の傷つく言葉を平気で言ってくるようになった。 そのことから、彼女が早く俺から離れたいと思っていることが伝わってくる。 まるで、近くにいても心の通じない俺と彼を比べられているようだ。 誰かと比べられて劣っていると言われる事はおろか、誰かと比べられること
スレラリ草の毒に侵されている状態だと聞いたが、突発的な熱と不妊以外は気にする必要がないだろう。 私は私のやるべき事をやるだけだ。 私は朝から、ずっと私と過ごそうとするアレクを引き剥がして部屋で今後の対策をしていた。 アレクは私がブームなのだろう。 本当に人間とはどこの世界でもトイプードル、パグ、チワワとブームによって可愛がるペットを変える。 私はそのようなブームさえもない雑種犬だった。 今は時の皇帝のブームになっているのだから、感謝して彼に尽くすべきだろう。 ノックの音と共に、見知らぬ令嬢がやってきた。侍従に連れられてきたその少女は茶色い短い髪と瞳をした割と地味な女の子だ。 彼女からは私への敵意を感じないので、不思議な感じがした。 「モニカ・マルテキーズ皇妃殿下に、リアナ・エンダールがお目にかかります」 「エンダール伯爵の娘さん。どうぞ、入って」 私の言葉に緊張しながら部屋に入ってくる彼女をみて、私の警戒心はとけていった。「皇妃殿下、しょ、処刑されてしまったジョ、ジョージ・プ、プルメル公子よりお手紙を預かってきました⋯⋯」 泣き出すリアナ嬢はジョージが本当に死んだと思っているのだろう。 明らかに手が震えていて、今、遺言を私に託すとばかりに手紙を渡してくる。「とにかく、そこに座ってくれる?」 リアナ嬢は嗚咽を耐えながらソファーに座った。 手紙の封を開けて私は思わずため息をついた。(ジョージ⋯⋯この手紙の危険性に気がつけないの?) ジョージは私の悩みを解決しようと、私と友人になれそうな令嬢を探してくれていたようだ。 マリリンとは関係がない私の助けになってくれそうな、令嬢や夫人たちがリストアップしてある。 プルメル一族の処刑の後に建国祭があって、私が準備をしなくてはいけない事を心配してくれていたようだ。 リアナ嬢はジョージとアカデミー時代の同期だったらしい。 彼女は見るからに貴族世界で揉まれてきたとは思えない純粋そ
「アレク、起きてください! 重いです」 私の昨日の高熱の原因はスレラリ草の毒だったらしい。 もう、子が望めないと皇宮医が言っているのを聞いて泣いてしまった。 アレクは私を抱きしめて寝てしまったようだが、非常に重い。「モモ、熱は下がったのか」 起きるなり、私の額に手を当ててくる彼は心底私を心配しているようだ。「はい⋯⋯それから、アレクが私に申し訳ないと思う必要はないです。毒を盛られる可能性に気がつけなかった私に落ち度があるのですから」 私はランサルト・マルテキーズの娘で、私に子が産まれたら自分にとって危険だと感じ毒を盛るのは想像できた。 普段の私だったら予想できる事が、犬の記憶が蘇ったことで主人に対する疑念より忠誠の心が勝っただけだ。 「そんなこと言わないでくれ! 俺が毒については絶対に何とかするから」 アレクが私をキツく抱きしめてくる。 彼自身も、毒を何とかできるとは期待できないだろう。 そのような事ができていたらタルシア前皇后は死んでいない。「アレク、それよりもスラーデン伯爵の問題に集中してください。あと、おそらくマルテキーズ王国がまた刺客を送ってくると思います。レイ・サンダース卿より厄介な、ルイーザ・サンダース卿を⋯⋯」 「ルイ! ルイが来るのか?」 ルイーザ・サンダース卿はレイ・サンダース卿の双子の妹だ。 私がルミナを返したので、メイドという設定で送り込まれてくるかもしれない。 (ルイって、なぜ愛称で呼んでるの?)「アレクはルイーザ・サンダース卿をご存知なのですか? 彼女は女性ということで油断されますが、レイ・サンダース卿と並び立つ暗殺術を持っています。本当に女好きなのですね⋯⋯命が狙われるかもしれないというのに⋯⋯」「えっ? ルイーザ? 女? 違う、俺は女は好きじゃない。誤解してないでくれ、モニカだけが好きなんだ!」 アレクの言葉は嘘じゃないだろう。 確かに彼の瞳からは私への好意を感じる。 ただ、その好意はやがて気まぐれのように終わる事を私が知っているだけ