Mag-log inその夜も倉庫へ行った。疲れている。明日は朝から仕事。分かっているのに。どうしてもキャンバスを見たかった。棚の奥から、ゆっくりと引き出す。海。そして。まだ輪郭しかない、一人の男。玲。ずっと前から描いている。完成させないために。少しずつ描いているような絵だった。この町の海なのに。光の入り方には、八年前。玲と一緒に見た海が混ざっている。だからこそ、絶対に玲には見せられない。それでも。最近、この絵の色が急に動き始めた。ジャンと展示について話す。光について。余白について。作品と作品の間に。何を残すのかについて。その度に。倉庫へ来ると。試したいことが増えている。「……嫌だな」誰もいない空間で小さく笑った。認めたくない。でも、明らかにジャンに触発されている。エレナだった頃。絵について、遠慮なくぶつかれる人間は。多くなかった。ジャンはその数少ない一人だった。そして今。エマとしてもう一度、その刺激を受けている。ただ。描かれるものは、昔とは違う。筆を取る。昨日置いた、濁った緑を見る。今日はその上に薄い青を重ねる。少し離れる。違う。もう少し暗い。でも、黒にはしたくない。何色かを混ぜる。置く。「……」呼吸が止まった。海が一段深くなった。そして。その海の前にいる玲の輪郭が。昨日よりずっと孤独に見えた。胸が痛んだ。「違う」思わず、声に出す。孤独にしたいわけではない。でも、消すこともできなかった。この絵の玲には。八年前。私が置いていった人が混ざっている。今。目の前でエマに惹かれている玲と。エレナを失った玲。二人が、同じ輪郭の中にいる。だから描き切れない。それでも、筆を置けなかった。一時間。 二時間。気づけば日付が変わっていた。少し離れた場所から、キャンバスを見る。エレナとは、全く違う。昔の私はもっと一つの感情を強く描いた。今は。違うものが。同じ色の中に重なっている。奏への穏やかな感謝。町への愛着。玲への言葉にできない感情。過去への痛み。そして。もう一度、描けるようになったことへの。怖いほどの喜び。それが。少しずつ、今の自分の作風になっている。完成させたい。初めて、はっきりとそう思った。残したいとは、まだ思えない。誰かに見
翌日。「エマ」ジャンがカウンター越しに私の手を見る。「何ですか」「爪」反射的に、手を引いた。「何が」「色ついてる」親指の爪の脇。昨日使った顔料が僅かに残っていた。「掃除です」「何の?」「なんでもいいでしょう」「うん」意外にもジャンはそれ以上聞かなかった。ただ、少しだけ目を細める。その顔が嫌で。「何ですか」「別に」「なら見ないでください」「君、本当に僕には容赦ないね」「しつこいからです」「それも慣れた」「良かったですね」コーヒーを置く。ジャンが笑う。「そういうところ、エレナとは——」「ジャン」少し低く名前を呼ぶ。言葉が止まった。「前にも言いましたよね」「……はい」「似てるのか何なのか知りませんけど」カップを彼の前へ押す。「別人の故人の話を、私に当てはめないでください」「分かった」今日は素直に引いた。「ならいいです」背を向けようとすると。「でも」また声がする。「今の君の方が面白いよ」足を止める。振り返る。「何と比べてるんですか」「比べてない」「今、比べたでしょう」「言い方が悪かった」珍しくジャンが少し考える。「エマという人間が、思っていたより面白い」「そうですか」「反応薄いな」「あなたに興味を持たれて喜ぶ理由がないので」数秒、ジャンが黙る。そして小さく笑った。「本当に久しぶりだな」「何がですか」「僕にそんな態度取る人」「周りに気を遣わせすぎなんですよ」「多分ね」「改善してください」「それは難しい」「なら知りません」私が離れる。後ろで、ジャンがまた笑っていた。「楽しそうだね」声がして、顔を上げる。奏がいた。「誰がですか」「エマ」「そう見えます?」「うん」奏は、ジャンへ一度だけ視線を向けた。以前なら、それで終わった。最近は終わらない。「結構、仲良くなったね」「毎日来るので、慣れただけです」「そっか」穏やかに笑う。その目が、少しだけ寂しそうに見えた。「今日、何時まで?」「七時です」「じゃあ俺もそのくらいに上がる」「何かあります?」「送る」「歩いて帰れます」「知ってる」すぐに返される。少し困ったように笑った。「でも、俺が送りたい」「……」奏は、少し変わった。いや。多分、態度がわかりやすくなった
ジャンは、翌日も来た。その次の日も。四日目になると。 入口のベルが鳴っても、私は顔を上げなくなっていた。「いつもの?」コーヒーマシンの前から聞く。「まだ何も言ってないけど」「違うものなら先に言ってください」「いつもので」「はい」カップを用意する。ジャンは当然のように、いつものカウンター席へ座った。ここ数日。午前中は美術館。 午後はヨーロッパ側との調整。その隙間を縫うように、一日に一度はカフェへ来る。忙しい日は十分。 時間があれば三十分。最初の二日は警戒していたのに。毎日顔を合わせているうちに。 私の方も、少しずつ慣れてしまった。「そんなに暇なんですか」二日目に聞いたら。「暇に見える?」と返された。「見えないから聞いてます」「なら、時間を作ってるんだよ」「どうして」「君が面白いから」あっさり言われた。玲に同じことを言われたら。 その言葉の裏にある感情まで考えてしまう。でもジャンは違う。面白いから。 知りたいから。 話す。少なくとも今は。 それだけだった。だからこそ。 私も少しだけ楽だった。*「今日は随分遅いですね」午後四時を回っていた。「展示室で揉めた」「また?」「僕が悪いみたいに言わないで」「毎回いるなら、原因の一部ではあるでしょう」「照明を妥協しろと言われた」「それは嫌ですね」即答すると。 ジャンの眉が上がった。「そこは僕の味方?」「作品の味方です」「冷たいな」「何を期待してるんですか」コーヒーを置く。ジャンが笑った。「見て」差し出されたスマートフォンには。 同じ作品を異なる照明で撮った二枚の写真。「どっち?」「……右」「早いね」「写真だけなら」画面を少し近づける。「左は色が綺麗に出すぎてます」「綺麗なのは悪い?」「この作品なら」少し考える。「影が残った方がいいと思います」「どうして」「最初に色を見せすぎると、それだけで満足する人がいるので」指で画面を拡大する。「少し沈ませた方が、表面の色じゃなくて、その下にある層を見ようとするでしょう」言ってから。 気づいた。少し話しすぎた。ジャンの指が、画面の上で止まっている。「……何ですか」「いや」私を見る。「やっぱり面白いなと思って」「またそれですか」「褒め
「なるほど」「何がですか」「エマという人間が」「また評価?」「評価じゃない」「じゃあ何ですか」「興味」ジャンは。さらりと答えた。「出さなくていいです」「それは僕が決めること」「本当にそういうところが面倒です」「覚えておくよ」「直す気は?」「ない」即答。思わず。小さく笑ってしまった。ジャンの目が。一瞬だけ細くなる。「今の方がいい」「何が」「笑った顔」「そういうことを普通に言うのもやめてください」「どうして」「面倒だからです」また。笑われた。*少しして。ジャンは、ふいに海へ視線を向けた。「でも」「何ですか」「君は、人を見るね」「……」「昨日の展示もそうだった」コーヒーのカップを置く。「作品そのものより、見る人の順番や目線から考えていた」私は。少しだけ目を細めた。「作品だけで展示はできないでしょう」「もちろん」「なら普通です」「普通ではないよ」ジャンの声は。少しだけ真面目だった。「作品を知っている人ほど、作品そのものから考えたがる」その言葉に。昔の自分が。一瞬だけ浮かんだ。確かに。エレナだった頃の私は。そうだった。自分が何を描いたか。何を見せたいか。どの色を置いたか。自分の中から。外へ。いつも。その順番だった。今は違う。誰かが。どう見るのか。何を感じるのか。その人の中へ。どう残るのか。以前より。ずっと考える。「人は変わるんじゃないですか」小さく言う。ジャンが。こちらを見る。「そうだね」「経験すれば」今度は。慎重に言葉を選ぶ。「見方が変わることくらいあると思います」「君も?」「私だって三年前と同じではないですよ」「なるほど」「それだけです」ジャンは。しばらく。何かを考えるようにこちらを見た。けれど。追及しなかった。そのことに。少しだけ安心する。「面白いな」また。言われる。「何がですか」「君」「だから、その評価いらないです」「評価じゃないって」「興味もいりません」「でも、僕は出てきた」「困ります」「それは残念」全く残念そうではない。私は。ため息を吐いた。*テラスへ続く扉が開いた。「エマ」奏だった。「そろそろ三十分」「あ」時計を見る。ほとんど三十分。「すみませ
「本当に遠慮しないね」「何回言うんですか」「珍しいから」「そろそろ慣れてください」「努力する」全くする気のない顔だった。「昨日さ」ジャンが続ける。「どうして、あの作品を次の部屋へ移した?」「昨日言ったでしょう」「建前じゃなくて」「建前じゃありません」「じゃあ、もっと詳しく」「嫌です」「どうして」「仕事じゃないから」「僕は仕事」「私は違う」即答する。ジャンが。また笑った。「君、絵の話になると頑固だね」胸の奥が。僅かに硬くなる。でも。顔には出さない。「興味があるだけです」「それだけ?」「それ以上、何が必要ですか」「描かない?」「描きません」「見るのは好き?」「好きですよ」「どれくらい」「面接ですか?」「興味」「答える義務は?」「ない」「なら答えません」ジャンは。しばらく黙った。その沈黙に。ほんの少しだけ緊張する。けれど。次に出てきた言葉は。予想していたものとは違った。「君は、エレナとは全然違うな」指が。止まった。一瞬。心臓が強く鳴る。それでも。顔を上げる時には。表情を整えた。「……似てるのか何なのか知りませんが」少しだけ。面倒そうに息を吐く。「別人の故人の話を、私に当てはめないでもらえます?」ジャンの目が。明確に止まった。意外そうだった。その反応すら。少し煩わしい。「何ですか」「いや」「また観察ですか」「少し驚いただけ」「何に」「エレナの話を嫌がるんだなと思って」「嫌がっているというより」私はサンドイッチを置いた。「知らない方のことを、似てるという理由だけで何度も私に重ねられても困ります」ジャンは黙っている。「亡くなった大切な方だったのは分かります」少しだけ声を落とす。「でも、それはあなたの思い出でしょう」目を見る。「私にまで背負わせないでください」言い切ると。ジャンはしばらく。本当に何も言わなかった。その顔に。初めて。少しだけ戸惑いが見えた。「……結構、言うね」「だから何ですか」「いや」ジャンは。ゆっくり笑った。「やっぱり久しぶりだ」「何が」「僕に、そこまで面倒そうな顔をする人」「自覚あるんですね」「あるよ」「なら直してください」「それは無理」「じゃあ仕方ないです」ジャンの笑
翌日。ジャンは、本当にカフェへ来た。昼の混雑が一段落し。空いたカップを下げていたとき。入口のベルが鳴る。顔を上げる前に。なんとなく分かった。「こんにちは、エマ」「……本当に来たんですね」「昨日、来ると言った」「社交辞令かと思ってました」「僕が?」「それはそうですね」自分で言って。少し笑う。ジャンも口元を緩めた。昨日と違って。今日はジャケットを着ていない。薄手のシャツにパンツ。それでも。この町では少し浮いて見える。「同じのでいいですか?」「昨日の?」「はい」「じゃあ、それで」当然のようにカウンターへ座る。私はコーヒーを用意して。ジャンの前へ置いた。「ありがとう」「どういたしまして」そのまま仕事へ戻ろうとすると。「エマ」呼び止められた。「何ですか」「昨日の展示の話」「まだ何か?」「ある」嫌な予感しかしない。ジャンは資料を一枚、カウンターへ置いた。昨日。展示室を移動させた方がいいと言った作品だった。「この作品、やっぱり次の部屋へ移すことになった」「そうですか」「嬉しくない?」「どうして私が」「君の案だから」「決めたのは皆さんでしょう」ジャンが。少しだけ目を細める。「そういうところ」「何ですか」「面白い」また。それ。「人を観察するの、やめてもらえます?」「無理だな」即答される。「仕事だから」「私は作品じゃありません」「知ってる」コーヒーへ手を伸ばす。「だから面白いんだよ」意味が分からない。そう言おうとしたところで。「エマ」奏の声がした。振り返る。「はい」「休憩、まだでしょ」時計を見る。確かに。「あとで取ります」「今行ってきて」「でも」「昼のピーク終わったから大丈夫」そう言って。奏の視線が。ジャンへ向いた。ほんの一瞬。以前なら。気にしていても、もっと綺麗に隠しただろう。最近は違う。エマが誰といるのか。誰と話しているのか。少しずつ。気になることを隠さなくなっている。それでも。何かを制限しようとはしない。また私へ目を戻した。「ちゃんと飯も食べて」「……はい」「三十分ね」「分かりました」エプロンを外す。「裏にいます」そう言って歩き出したところで。後ろから椅子を引く音がした。振り返る。ジャ