落札価格が十億円を超えた瞬間、会場の空気がわずかに変わった。息を呑む音と、抑えきれないざわめき。前方のスクリーンには、現実味のない数字が大きく表示されている。壇上にあるのは、灰色の空と雪解け前の川を描いた一枚の油絵だった。岸辺には、葉を落とした細い木が立っている。人影はない。それでも、つい先ほどまで誰かがそこにいて、何も告げずに去ったような気配が残されていた。エレナ・カワサキが二十二歳の頃に描いた初期作品。世界が彼女を天才と呼ぶより前の絵だった。「十二億」神崎玲が静かに告げると、会場中の視線が集まった。まだ三十二歳の若さで世界的な投資会社を率い、美術市場でも名を知られる男。濃紺のスーツに身を包んだ姿は、異常な価格を提示した直後とは思えないほど落ち着いている。少し離れた席から、別の札が上がった。「十二億五千万」玲は相手を確認することもなく、番号札を上げ直した。「十三億」迷いのない声だった。競売人が会場を見回す。新たな札は上がらない。木槌の音が響いた。「十三億円で落札です」拍手が起こり、驚きと羨望の入り混じった視線が玲へ向けられる。けれど、玲の胸には何も生まれなかった。また一枚、手に入った。ただ、それだけだった。「嬉しくないんですか?」隣に座る宮永結衣が、小さく尋ねた。肩を露出した黒いドレスに、光を受けて揺れるダイヤのイヤリング。国内外で活躍する人気女優であり、玲との交際を何度も報じられている女性でもある。実際には、財団の仕事で何度か同席しただけだった。「欲しかったので、買いました」「十三億も出して?」「金額には意味がありません」必要なら、二十億でも支払っただろう。金額は玲にとって障害ではない。仕事も、富も、名誉も、望めば大抵のものは手に入った。美しい女性から好意を向けられることも珍しくない。それでも、玲の内側は八年前から乾いたままだった。壇上から運び出される絵を見つめる。技術はまだ荒く、色にも若さがある。後年のエレナの作品ほど、残酷なまでに完成されてはいない。それでも、画面の奥に沈む孤独だけは、間違いなく彼女のものだった。エレナ。胸の中で名前を呼ぶと、乾いた場所に薄い痛みが残る。八年前、彼女は死んだ。遺体を見ることは許されなかった。葬儀もなく、墓もない。最後の言葉さえ交わせな
Terakhir Diperbarui : 2026-08-02 Baca selengkapnya