LOGIN紗夜は文翔を十年間密かに想い続け、彼との結婚を「念願叶った」と信じていた。 たとえ彼が冷たい鉄塊のような男でも、自分の愛で少しずつ温められると思っていた。 しかし、現実は彼の冷たい視線と無関心しか返ってこなかった。 彼は元カノにはとことん優しく接するのに、紗夜にはまるで捨てられたゴミのように冷たく、疎ましく、蔑むような扱いをした。 それでも紗夜は全てを耐えてきた。 二人の間にはひとりの息子がいたからだ。 息子のために、愛のない結婚という牢獄に身を閉じ込め、「長沢奥様」の肩書きを守ることを選んだ。 だが、彼女が誘拐された夜、文翔は彩の傍にいて一晩中帰って来なかった。 さらに、彼女が何よりも愛していた息子までが彼女を捨て、彩を「本当の母親」だと言い出したのだ。 紗夜はその瞬間、やっと悟った。 冷えきった夫も、心の通わぬ息子も、もう要らない。 これからは自分のために生きる、と。 離婚後、紗夜はかつての夢だったフラワーデザインの道を再び歩み始め、起業して大金を稼ぎ、数々の賞を総なめにした。 恋愛は花を育てるようなもの、自分自身をもう一度鮮やかに咲かせるために、彼女は日々を生きていた。 そんな彼女の元には男たちが群がり始め、焦った元夫・文翔は目を赤くして土下座しながら懇願した。 「紗夜、愛してる......頼む、離れないでくれ......」 紗夜は冷たく笑った。 「長沢さん、もう遅いのよ」 息子が彼女の脚にすがって泣いた。 「ママ、僕を捨てないで!」 彼女は無表情のまま彼を振り払い、言った。 「ママなんて呼ばないで。私はあんたの母親じゃないわ」
View More海羽は怒り心頭だった。ちゃんと約束していたのに、一輝は千芳が入院している住所を文翔に漏らしたのだ。――本当に、言うこととやることがまるで違う偽善者!心の中だけでなく口でも罵る。「この、信用ゼロの大嘘つき!」「大嘘つき?」一輝はくすっと笑い、スマホを左手に持ち替え、右手でハンドルを握った。「騙すって話なら、海羽、お前も大差ないんじゃない?」海羽は眉をひそめる。「どういう意味?」「俺が渡した薬、どうして飲まなかった」一輝が冷たく問いただした。海羽は一瞬言葉を失い、視線が揺れる。――そう、渡された薬を飲まなかった。自分がもう妊娠しにくいのは分かっていても、薬で何か予想外のことが起きる可能性は否定できない。完全に腹を括れたわけじゃなかった。だから、怖かった。「つまり最初から、俺の子を産む気なんてなかったってわけか」冷えた声が突き刺さる。まさか、自分が必死に隠していた甘さと迷いを、こんなあっさり暴かれるとは。しかも、約束を破った代償を、こうして突きつけられている。海羽は唇を噛み、返事に窮する。一輝は続けた。「先に裏切ったのはそっちだ。だから恨むなよ。あの都心のマンション、俺が与えたなら取り上げることもできる。お前の友達を守れたなら、文翔に渡すことだってできる」「わ、忘れてた!」海羽は慌てて言い訳した。「本当に飲み忘れただけで、わざとじゃない!」「忘れた?」一輝は薄く笑う。普段セリフは一発で覚える海羽の記憶力が、こんな都合よく弱いわけがない。「ほんとに忘れただけなの。今度はちゃんと飲むから」海羽は息を吐き、折れるように言った。短い沈黙。返事がなく不安になり、海羽は小さく呼びかける。「......一輝?」「次から忘れるなよ」淡々とした声。表情は影に沈んで読めない。理由がどれほど苦しい言い訳でも、追及はしなかった。彼が欲しいのは、海羽の「姿勢」だけ。まだ完全に拒絶する気がないのなら、続ければいい。「次の時間と場所は俺が決める」「うん」海羽はまつげを伏せた。「お母さん?誰と電話してたの?」次の瞬間、瑚々の声が飛んできた。海羽は一瞬固まり、通話中の画面を見て心臓が跳ねる。瑚々が続く前に慌てて切った。
彼女の言い終える前に、文翔はすぐさま支払い窓口へ向かって早足で歩き出し、上行きのエレベーターのボタンを押した。同じタイミングで、紗夜もエレベーター前に立ち、下行きのボタンを押す。チンと音がして扉が開く。緊張した面持ちの紗夜がその中に映った――その瞬間、文翔の声が聞こえ、彼女の指先がぎゅっと強張る。「悪い。通して」冷ややかな声が響いた。だが、それは左側のエレベーター。文翔が歩みを進めて中へ入り、紗夜はほっと息をつき、右側のエレベーターから出て病院の裏口へ向かう。同じ階、違う二つのエレベーター。上下にすれ違いながら、彼らは交わらなかった。紗夜は一歩たりとも止まらず、裏口へ一直線に急ぐ。外へ出ると、海羽の車が見えた。「紗夜ちゃん、早く!」紗夜は慌てて乗り込み、同時に海羽がアクセルを踏み込んで病院を離れる。文翔が駆け込んだときには、すでに後の祭りだった。彼の表情は陰鬱に沈む。「さ、や......!」歯噛みしながら、まさか自分が女一人追いかけられず、こんなに屈辱と苛立ちを覚える日が来るとは思わなかった。すぐに病院とその周辺を総出で捜索させ、必要とあらばドローンまで飛ばし――必ず居場所を突き止めるつもりだった。しかし、指示を出そうとした瞬間、スマホが鳴る。切るつもりだったが、画面には隣一の名前。わずかに間を置き、通話ボタンを押す。「......父さん」「父さんと呼ぶな、この出来損ないが!」電話の向こうで、隣一が怒鳴り散らす。「お前、自分が何したか分かってんのか!お前のせいでお母さんがひどい状態になってるんだぞ!」文翔は痛む目元を揉む。「俺はただ、自分の妻の身分を公にしただけだ」「お前の家庭のことなんざ知るか!今すぐ帰ってこい!お母さんが会いたがってる!嫌なら勝手にしろ!」言い捨てた隣一は、返事も待たず電話を切った。暗くなった画面を見つめながら、文翔の瞳はさらに深く沈む。隣一は雅恵を愛してはいても、息子に父子の情などない。ただ雅恵が連れてきた「付属物」、そして商業界の駒としか思っていない。価値がある間だけ利用し、不要になれば即座に捨てる――それがあの男だ。文翔はスマホを握る手に力を込めた。外からは想像もできないだろう。京浜で誰
紗夜は込み上げた酸味を吐き出し、少し楽になった。「紗夜ちゃん、本当に大丈夫?」海羽がコップの水を差し出し、心配そうに尋ねる。せっかく最近は少しずつ顔色が良くなってきていたのに、文翔のあの一件を見た途端、また一気に青ざめてしまった。まるで京浜にいた頃の状態に逆戻りしたみたいで、海羽は胸が締めつけられる。あのクソ男、と心の中で何百回も罵った。けれどそれより今は、紗夜の体の方が気掛かりだった。「病院、行った方がいい?」紗夜は首を横に振る。文翔の宣言で、ネット中が自分を「長沢奥様」だと知った今、無闇に外へ出るわけにはいかない。すぐに人目につく。余計な騒ぎは起こしたくない。口をすすいで深呼吸し、気持ちを整えると、彼女は海羽にかすかに笑ってみせた。「本当に平気。大丈夫だから」海羽が口を開く前に、紗夜は続けた。「母の体調も落ち着いてきたし、そろそろ療養型の施設へ移そうと思うの。広い環境の方が、その後の回復にも良いと思うし」そして、ここはもう安全とは言えない。場所を変える必要がある。「分かった。手伝おう」海羽がうなずく。「瑚々も行く!」瑚々が顔をのぞかせ、丸い瞳を弓のように細めて笑った。「こらこら」海羽が頬を軽くつまむ。......翌日、紗夜は早朝に病院へ向かい、退院手続きを済ませて千芳を車に乗せ、予約していた療養院へ送った。支払いのために受付に向かい、海羽たちは車で待つ。支払いを終え、出ようとしたその時――入口に止まっているロールスロイスが目に入った。文翔の車だ!紗夜の目が一瞬大きく見開かれる。ちょうどそのタイミングでスマホが鳴った。海羽からだ。「紗夜ちゃん!出ちゃダメ!文翔が病院の外にいるよ!」電話越しに海羽が叫ぶ。急いで千芳と瑚々にマスクをつけさせ、車を発進させて病院前から離れる。「分かってる。今見えた」紗夜は窓の外で大股に病院へ入ってくる文翔を見て、すぐに背を向け、消防通路へと駆け込んだ。昨日まで京浜にいたのに、もう爛上に戻ってきたなんて。紗夜の指先が震え、心臓が激しく跳ねる。絶対に会ってはいけない。文翔があのパーティーで言ったことは、世間には「後悔して妻を想い、身元を公表した誠意ある夫」と映るかもしれない。
それは、彼が初めて紗夜の美しさに打ちのめされた瞬間だった。これまでずっと、彼女を大した存在とも思わず、いてもいなくても同じ、彼に何の影響も与えない女だと決めつけていた。だが紗夜が迷いもなく彼を置いて去った時、ようやく気付いたのだ。とっくに彼女は、彼の心を揺らす存在になっていたことに。彼女の一言一行、その表情一つまでが、この数日、頭の中から少しも消えてくれなかった!この感情が何なのかうまく言葉にできない。けれど、今の彼はただ――彼女を取り戻したい。絶対に、このまま手放すつもりなどない。彼女が居場所を悟られたくないと言うなら、別の方法を取ればいいだけだ。長沢奥様としての正当な立場と待遇を望んでいたのなら、全部与えればいい。これから先、彼女は彼と縛られ続けるしかなくなる。そうすれば、紗夜だって逃げきれるはずがない。文翔は紗夜の写真をじっと見つめ、支配欲に染まった光を宿すと、ゆっくりと振り返り、まるで画面の向こうの紗夜を見ているかのようにカメラを見据えた。彼女が見ているかもしれない。だからこそ、知らせなければならない。「紗夜――どこへ逃げようと、俺は必ず見つけ出す。絶対に、絶対に逃がさない......」それは数少ない、互いに心が緩んだ夜に、耳元で落としたような囁きだった。かすれた色気のある声で呼ぶその名は、まるで恋人だけに許された甘やかな秘密の言葉のようだった。だが今、その言葉が、悪魔のような眼差しと重なった瞬間――耳元で呪いのささやきのように絡みついてくる。紗夜の膝が思わず崩れ、体がぐらりと揺れる。「紗夜ちゃん!」海羽が急いで支え、顔色を覗き込む。「大丈夫?」紗夜は呆然と首を振り、ただ画面に映る文翔の顔をぼんやりと見つめた。――文翔は、決して自分を放してはくれない。どうして。愛している女は自分じゃないくせに。紗夜の眉間にぎゅっと皺が寄り、胸の奥底に冷たい恐怖がじわりと広がる。海羽は紗夜の青ざめた顔を見て、画面に向かって怒鳴った。「はぁ!?このクソ男、よくもまあ綺麗事ばっか並べられるもんね!うちの紗夜ちゃんがその『長沢奥様』って肩書にどれだけ執着してると思ってんの?どこから湧いてくるんだその自信?吐き気がする!」瑚々も事情はよく分からないが、勢いで