LOGIN紗夜は文翔を十年間密かに想い続け、彼との結婚を「念願叶った」と信じていた。 たとえ彼が冷たい鉄塊のような男でも、自分の愛で少しずつ温められると思っていた。 しかし、現実は彼の冷たい視線と無関心しか返ってこなかった。 彼は元カノにはとことん優しく接するのに、紗夜にはまるで捨てられたゴミのように冷たく、疎ましく、蔑むような扱いをした。 それでも紗夜は全てを耐えてきた。 二人の間にはひとりの息子がいたからだ。 息子のために、愛のない結婚という牢獄に身を閉じ込め、「長沢奥様」の肩書きを守ることを選んだ。 だが、彼女が誘拐された夜、文翔は彩の傍にいて一晩中帰って来なかった。 さらに、彼女が何よりも愛していた息子までが彼女を捨て、彩を「本当の母親」だと言い出したのだ。 紗夜はその瞬間、やっと悟った。 冷えきった夫も、心の通わぬ息子も、もう要らない。 これからは自分のために生きる、と。 離婚後、紗夜はかつての夢だったフラワーデザインの道を再び歩み始め、起業して大金を稼ぎ、数々の賞を総なめにした。 恋愛は花を育てるようなもの、自分自身をもう一度鮮やかに咲かせるために、彼女は日々を生きていた。 そんな彼女の元には男たちが群がり始め、焦った元夫・文翔は目を赤くして土下座しながら懇願した。 「紗夜、愛してる......頼む、離れないでくれ......」 紗夜は冷たく笑った。 「長沢さん、もう遅いのよ」 息子が彼女の脚にすがって泣いた。 「ママ、僕を捨てないで!」 彼女は無表情のまま彼を振り払い、言った。 「ママなんて呼ばないで。私はあんたの母親じゃないわ」
View More週末の朝。未怜は複雑な案件資料の山に埋もれ、机に向かっていた。そのとき。バンッ、という音とともに、何の前触れもなく玄関のドアが外から開かれる。彼女ははっと顔を上げた。勢いよく駆け込んできたのは明だった。彼は何も言わず、まっすぐ彼女の前まで歩み寄り、きれいな紙袋を差し出す。「これを着てくれ。30分後に出発だ」袋を開けると、中には上品なカッティングのアイボリーのワンピース。まさに彼女のいちばん好きなスタイルだった。「明」彼女は口元を引きつらせ、どこか甘えるような声で言う。「予約もしないで......誘拐のつもり?」彼の子犬のような瞳を見た瞬間、理由もなく胸がふっとやわらいだ。――断れない。それはわかっている。でも......いったい誰に会わせるつもりなのだろう。家族?その可能性が頭をよぎった瞬間、ようやく落ち着き始めていた心が、また制御不能にざわめき出す。まだ、準備ができていない。もし、気に入ってもらえなかったら?4年前のあの屈辱的な取引は、決して癒えることのない傷痕のように、幸せを前にするたび、本能的な恐れと劣等感を呼び起こしていた。......車は、郊外の風光明媚な別荘の前で停まった。大きなガラス張りの温室が陽光を受けてきらきらと輝き、中には色とりどりのバラが咲き誇っている。まるで一枚の油絵のような美しさだった。庭では紗夜と文翔が理久を連れて水やりをしている。仁は脇のリクライニングチェアに腰かけ、のんびりとお茶を飲んでいた。その光景を目にして、胸につかえていた重石がようやく少しだけ下りる。ただの友人同士の集まりか。明はすぐには中へ入らず、門前で足を止めた。深く息を吸い込み、ゆっくりと彼女を振り返る。そして、そっと手を差し出した。その掌はわずかに湿っていて、彼の緊張を隠しきれていない。未怜は彼を見つめる。琥珀色の瞳の中に、小さな自分の姿が映っている。一瞬ためらい、やがて自分の手を、彼の大きな掌に重ねた。彼はぐっと握りしめる。まるで彼女を骨の髄まで自分のものにして、二度と離さないと誓うかのように。「あら、喜多村先生。ようやく許斐さんを連れてきたの?」紗夜が笑顔で歩み寄り、自然に未怜の手を引いて、温かな抱擁をくれた
未怜の体が、びくりと強張った。彼女は振り返らない。ただ静かに立ち尽くし、胸の奥で心臓が狂ったように打ち鳴らされていた。......二人は書店のいちばん奥、窓際の席に腰を下ろしていた。あの頃と同じ場所だ。ガラス窓を通して射し込む陽光が、テーブルの上にまだらな光と影を落としている。未怜は、失っていたはずの本を手に見つめながら、とうとう堪えきれず、胸の奥に4年間も閉じ込め、4年間自分を苦しめ続けてきた問いを口にした。「どうしてあのとき......言ってくれなかったの?宮本さんが、明の初恋じゃなくて、いちばんの親友だったって」コーヒーカップを持つ明の手が、わずかに震えた。彼は長いあいだ黙り込んだ。その沈黙があまりにも長く、未怜はもう答えは返ってこないのだと思いかけたほどだった。やがて彼はゆっくりとカップを置き、顔を上げて彼女を見る。琥珀色の瞳には、尽きることのない痛みと自責が満ちていた。「......怖かったんだ」かすれきった声だった。「自分に、あんなに暗い過去があったと知られるのが怖かった。親友が去っていくのを、ただ見ていることしかできなかった自分を、君に知られるのが......それに同情で、私を選ぶんじゃないかって。私は君のことを愛してるんだ。そんな君の気持ちの中に哀れみが混じることを、耐えられなかった。未怜に愛してほしかったのは、何でもできて、君を守れる明だ。同情されるような、情けない臆病者じゃなくて」彼女は彼を見つめた。いつも傲慢なほど誇り高かったその男が、今は自分の前で、いちばん弱く、いちばんみじめな部分を、何ひとつ隠さずさらけ出している。未怜の目が、抑えきれず赤く染まった。「ごめんね......明」声もまた、涙に詰まっていた。「信じてあげればよかったのに......」あのときの不信を。自分の滑稽な劣等感と不安から、彼を傷つけてしまったことを。彼女は心から謝った。4年前、すべての始まりであり、最も深く二人を傷つけた誤解は、この瞬間、ようやく溶けていった。......二人は、初めてデートしたあの西洋料理店に入った。そして、同じ窓際の席に腰を下ろす。明は料理を注文しなかった。代わりに、胸元から深い藍色のベルベットの箱を取り出し、開いて、彼
週末の朝。大きなガラス張りの窓から陽光が差し込み、部屋いっぱいにやわらかな光を落としていた。未怜はカーペットの上に座り込み、目の前に分厚い事件資料を山のように広げ、休日出勤の準備をしている。ピンポーン――唐突なチャイムの音が、静まり返った空間を破った。彼女は眉をひそめ、わずかに苛立ちながら立ち上がり、ドアへ向かう。扉を開けた瞬間――動きが止まった。そこに立っていたのは、明。手には二枚の演劇チケット。いつもの白衣でも、あの冷ややかなスーツ姿でもない。代わりに、シンプルなベージュのカジュアルシャツに、淡いカーキ色のパンツ。全体に清潔感があり、まるでキャンパスを出たばかりの大学生のようだった。「今夜、時間あるか?」声音は何でもないふうを装っているが、鋭いはずの琥珀色の瞳の奥には、彼女がよく知る緊張がちらついている。「友達にもらったチケットだ。無駄にするのはもったいない」未怜は彼を見つめる。明らかに考え抜いて選んだであろう普段とはまるで違う私服。平静を装いながら、視線の置き場すら分からずにいる不器用な様子。この男は、極めて不格好なやり方で、彼女をデートに誘っているのだ。笑いたいのに、胸の奥が少しだけ熱くなる。その下手な口実を暴くことはせず、ドア枠にもたれかかり、わざとからかう。「ふーん?喜多村先生にも演劇チケットをくれる友達なんているんだ」「......当然だ」一瞬言葉に詰まり、耳の後ろがうっすら赤くなる。声もわずかに固くなる。「行くのか?行かないなら他の人にやるけど」「もちろん行くわ」ついに堪えきれず、彼女は笑い出した。「誰も行かないなんて言ってないでしょ」......明はそのまま劇場へは向かわなかった。車を京浜大学近くの、見慣れた古い通りの入り口に停め、横目で彼女をうかがう。「少し歩こうか」窓の外には、プラタナスの木陰に覆われた懐かしい街並み。未怜は小さくうなずいた。並んで歩くその姿は、何年も前と何ひとつ変わらない。かつて恋人同士だった頃、何度も手をつなぎ、この道を歩いた。彼はタピオカを三倍に増やしたミルクティーを買ってくれた。道端にしゃがみ込み、野良猫を一緒に眺めた。彼女が疲れれば、黙って背負い上げ、甘えるのを許し
浩平の穏やかさと揺るぎない承認は、春の陽だまりの風のように、ひととき海羽の胸に立ちこめていた陰りを吹き払った。だが彼女は分かっていた。この晩餐会の本当の試練は、まだ終わっていない。案の定、晩餐会も半ばを過ぎ、熱気が最高潮に達したころ。先ほど一輝にやんわりと釘を刺された梅谷家と親しい安原は、それでも引き下がらなかった。酒の勢いを借り、グラスを手にふらつきながら、ホールの中央へと歩み出る。誰も見ず、ただ一気に酒をあおり、空になったグラスをテーブルに強く叩きつけた。パンッという乾いた音が響き、会場は一瞬で静まり返る。視線が一斉に彼へ集まった。その注目を楽しむかのように、彼は咳払いをひとつし、蛇のような視線を薫の隣に座る海羽へ向ける。「今日ははっきり聞いておきたい」声は大きく、酔いにまかせた無遠慮さと悪意を帯びていた。「名門たる瀬賀家は、自分の子の父親が誰かもはっきり言えないような女を、どうしてそう簡単に家に入れられるのか」その一言で、会場は騒然となる。無数の視線が、探照灯のように海羽へ突き刺さった。驚愕、軽蔑、そして面白がるような嘲り。顔から血の気が引く。衣を剥がされ、衆目の前にさらされたかのような感覚。悪意に満ちた視線で、ゆっくりと切り刻まれていく。反論したい。叫びたい。違うと訴えたい。けれど、できない。ここで声を荒げれば、「図星を突かれて逆上した」と言われるだけだ。さらに見下されるだけ。背筋を伸ばし、揺らぎかけた誇りだけを支えに、視線を受け止める。一歩も退かない。一輝の瞳に、瞬時に激しい怒りが燃え上がる。今にも歩み出て、あの無礼な者をゴミのように放り出そうとした――だが、その前に。薫が静かに立ち上がった。誰を見るでもなく、落ち着いた所作でグラスを手に取り、まだ口を開こうとしている安原の前へと歩み出る。完璧に整えられた微笑み。だが、そのよく手入れされた穏やかな瞳の奥には、鋭い刃が宿っていた。「安原さん」静かな声。「我が瀬賀家の嫁のことに、部外者であるあなたが口を挟む資格はありません」安原は凍りつく。梅谷家を陰で支え、海羽に敵意を向けていたはずの薫が――海羽をかばったのだ。「そ、それは......」言葉を探すが、薫