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Sunny
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Novels by Sunny

愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました

愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました

四回目の結婚記念日。 それは、綾香にとって「離婚を決意した日」になった。 医師としてのキャリアを捨て、夫・優の“期限付きの契約結婚”に尽くしてきた四年間。 初恋の相手である愛人・咲子を優先されても、「あと半年で終わる結婚だから」と、自分に言い聞かせて耐えてきた。 ——けれど、四年目の結婚記念日に愛人を家へ連れ帰られた瞬間、綾香の心は限界を迎える。 そんな綾香の前に現れたのは、学会で出会った開業医・綾瀬隼人。 仕事も、住む場所も、人生の再スタートも。 隼人に背中を押され、綾香は少しずつ“妻”ではなく、“自分”を取り戻し始める。 これは、人生を奪われた女が、自分を取り戻し、本当の愛に出会う物語。
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Chapter: 第274話 緊張しているんですね
額を隼人くんの肩へ預ける。胸元へ身体がさらに近づく。隼人くんの腕が、再び私を包んだ。今度の抱擁は。最初よりも自然に深かった。私は。隼人くんの背中へ腕を回した。自分から抱きしめる。初めてだった。ジャケット越しに触れた背中は。細く見えていた印象よりも広く、硬かった。指先に、肩甲骨の動きが分かる。その身体が、一瞬だけ止まる。私が自分から腕を回したことに。隼人くんも、すぐには反応できなかったのだと思う。それから。背中へ回る腕へ、ゆっくりと力が入った。胸が、しっかりと重なる。隼人くんの顎が、私の髪へ触れる。「綾香ちゃん」耳元で名前を呼ばれる。「はい」「それをされると」かすかな笑いが、声へ混じる。けれど。抱きしめる力は緩まない。「今日は、帰したくなくなるんだけど」直接的ではない。それでも。今までの距離へ戻るつもりがないという言葉よりも、ずっと甘く胸へ残った。私は答えず。隼人くんの肩へ顔を伏せた。帰りたくないと。今すぐ言えるほど、自分の気持ちを理解してはいない。それでも。この腕の中から、すぐに離れようとは思わなかった。隼人くんも、答えを求めなかった。ただ。背中へ回した手を、ゆっくりと動かす。私が落ち着くように。そして。自分がどこまで近づきたいと思っているかを、無理に行動へ変えずに伝えるように。***どのくらい。そうしていたのかは分からない。会場で過ごした時間より短いはずなのに。ずっと長く感じた。隼人くんの胸元へ耳を寄せると、心臓の音が聞こえる。落ち着いた表情や。穏やかな声から想像していたより、少し速い。私を抱く腕は静かなのに。胸の奥だけは、隠せない速さで鳴っている。「隼人くんも」私は小さく言った。「緊張しているんですね」抱きしめる腕が、わずかに止まる。「今、気づいた?」「はい」「それは、少し格好悪いから言わないで」声には、低い笑いが混じっていた。その振動が、耳を寄せた胸元から直接伝わる。「格好悪くないです」私は顔を上げた。隼人くんの肩へ置いた手は、そのままにする。「私だけじゃないと分かって、安心しました」隼人くんは、しばらく私を見た。目元が、ゆっくりと柔らかく緩む。けれど。瞳の奥に残る熱は消えていない。「じゃあ」骨ばった手が、もう一度私の頬
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第273話 嫌じゃなかった?
「はい」答える。隼人くんは、すぐには触れなかった。目の奥が、わずかに熱を増す。「目、閉じられる?」少しだけ笑みを含んだ声だった。誘導されている。分かっていながら。私は目を閉じた。視界が暗くなる。その分。背中へ回った腕。胸元へ触れる自分の身体。すぐ近くにある呼吸が、はっきりと分かる。額の近くへ。隼人くんの髪が触れる。鼻先が掠めそうなところまで近づいて。一度、止まった。ほんのわずかな隙間。まだ戻ろうと思えば戻れる距離だった。私は、隼人くんのジャケットをつかんだ。胸元の生地を、指の中へ引き寄せる。自分から離れないことを伝えるように。その指の動きを。隼人くんは感じ取ったのだと思う。次の瞬間。唇へ、柔らかな温度が触れた。***最初のキスは。ずっと静かで、音のないものだった。唇が触れたと分かる程度の力で。ほんの少しだけ、短く重なる。けれど。柔らかな温度の奥に。触れる直前まで抑えられていた熱を感じた。隼人くんは、すぐに少しだけ離れた。唇の間へ、冷たい空気が入る。それでも。背中へ回った腕は、そのままだった。骨ばった指が。私の背中へ静かに触れている。「嫌じゃなかった?」目を開けると。すぐ近くから見つめられていた。距離が近すぎて。普段は意識しない瞳の色や。長い睫毛の影まで見える。「はい」声が、少し震えた。「本音で言ってる?」「はい」「もう一度するのは?」問いかけが、先ほどよりも甘い。嫌ではなかったかではなく。もう一度を望むか。私が肯定することを、隠さず期待している。「...してほしい」今度は、自分から言った。隼人くんの目が、ゆっくりと細められる。喜んだのだと分かった。声にはしない。ただ。背中へ回された腕の力が。ほんの少しだけ深くなる。二度目のキスは。最初よりも長かった。唇が触れる。今度は、すぐには離れない。互いの呼吸が重なるところで止まり。私が逃げないことを確かめるように、柔らかく押し当てられる。息をするために、わずかな隙間が生まれる。そのまま。もう一度、唇が重なった。隼人くんは急がない。けれど。最初の慎重さだけでは終わらなかった。私がジャケットをつかむ指へ力を込めると。背中へ回った腕が、私をもう少し強く引き寄せる。胸元へ身体が触
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第272話 離れた方がいい?
「嫌じゃない...です」「本音で言ってる?」「はい」隼人くんが、短く息を吐く。首筋へ温かな呼吸が触れた。「じゃあ」背中へ置かれた手が、わずかに力を緩める。「もう少しだけ、このままでいい?」「はい」今度は。隼人くんの掌が、さっきよりもゆっくりと動いた。肩甲骨の下から。背中の中央へ。腰へ近づきすぎないところで、一度止まる。指先だけではない。掌全体が、私の身体の形へ沿っている。私を落ち着かせるための動きでありながら。触れられる場所を、少しずつ確かめられているようにも感じる。隼人くんは。私の呼吸や。ジャケットをつかむ指の力を見ながら。触れ方を変えている。その丁寧さが。かえって、どこへ触れられているのかを強く意識させた。それでも。手は、腰より下へは行かなかった。ドレスの薄い生地越しに、私の身体の線は十分伝わっているはずなのに。さらに近い場所へ触れることもできるのに。隼人くんは、私の呼吸が揺れたところで止まっている。触れたい気持ちがないからではない。腕の力も。耳元へ落ちる呼吸も。自分を抱き込む身体の熱も。もっと近くへ行けることを伝えている。それでも。今の私が、どこまでを望んでいるのか。言葉になっていない距離まで、勝手に詰めようとはしない。そのことが。安心と。少しの物足りなさを、同時に胸へ残した。「綾香ちゃん」耳の近くで名前を呼ばれる。「はい」「顔、見てもいい?」抱きしめた姿勢から、少しだけ離れるという意味だと分かった。腕の中が温かい。離れるのが惜しい。そう感じたことへ気づく。「はい」答える。隼人くんの腕が、完全には離れないまま少し緩む。私は顔を上げた。すぐ近くに、隼人くんの顔があった。手を伸ばす必要もない距離。長い髪の一部が、肩へ落ちている。整えられていたはずなのに、少しだけほどけたその線が、会場にいた時よりも柔らかく見えた。視線が重なる。隼人くんは、すぐには何も言わなかった。私の目元。頬。唇。ゆっくりと、視線が移る。目が唇へ留まる時間が。さっきまでより長い。見られていることが、はっきり分かる。会場の人々が私へ向けた視線とは違う。評価するためでも。どの関係へ置けるかを測るためでもない。隼人くん自身が。私へ触れたいと思って見ている。その熱が
Last Updated: 2026-08-04
Chapter: 第271話 抱きしめてほしい
ジャケットの前がさらに開く。シャツに包まれた胸元。私より広い肩。膝の横へ置かれた腕。あの腕が動けば、もう簡単に距離はなくなる。そのことを。隼人くんも分かっているように、しばらく私を見ていた。「綾香ちゃん」「はい」「抱きしめたら、少しは落ち着きそう?」目が、私の表情をゆっくりと確かめる。抱きしめてもいいか、とは聞かない。私が肯定しやすい形へ、答えをほんの少しだけ導いている。隼人くん自身が。抱きしめたいと思っていることを隠していない。それでも最後は、私が言葉へするように。「たぶん、落ち着くと思います」答える。「たぶん?」目元が、わずかに細められる。甘く。少しだけ意地の悪い聞き返し方だった。「……はい」「それなら」隼人くんの手が、ソファの上をゆっくりと動いた。長い指が、私の手のすぐそばで止まる。掌を上へ向ける。手の中央には薄く線が走り、指の関節には、細い影が落ちていた。「こっちへ来る?」胸が大きく鳴った。腕を伸ばし。私の腰を引き寄せることもできたはずだった。隼人くんの腕の力なら。私が身構えるより先に、簡単に抱き込めると思う。けれど。最後の距離だけは。私が自分で縮めるように残している。私は、差し出された手へ自分の指を重ねた。隼人くんの指が閉じる。骨ばった指が、私の指の間へゆっくりと入り込む。今までの手のつなぎ方よりも深く。手のひら同士が重なる。そのまま。少しだけ引かれた。力は強くない。けれど、拒まなければ自然に隼人くんの方へ身体が動く、迷いのない引き方だった。私はソファの上で身体を寄せた。隼人くんの肩が近づく。開いたジャケットの胸元へ、額が触れそうになる。顔を上げる。隼人くんは、私を見下ろしていた。目の色が深い。会場で女性たちへ向けていた穏やかな笑みはなく。私がどこまで近づくのかを、確認しているかのように見えた。「ここまでは、いい?」低い声で尋ねられる。まだ抱きしめられていないことに気づく。手は深くつながっている。膝も。身体の側面も、触れそうなほど近い。それでも。腕を回す前に、もう一度待っている。「もう少し」私は答えた。自分の声が、驚くほど素直に出た。隼人くんの目が、ゆっくりと細くなる。「もう少し、どうしたい?」穏やかな声だった。けれど。
Last Updated: 2026-08-03
Chapter: 第270話 戻りたいと思った?
しばらくして。隼人くんが、私の手元へ視線を落とした。「水、ほとんど飲んでないね」会場でも。優は、減っていないグラスを見て、私の疲れへ気づいた。その記憶が、胸へ一瞬だけ触れる。私はグラスを口元へ運び、少し水を飲んだ。冷たさが喉を通る。「無理に飲まなくていいよ」「喉は乾いていました」「会場では?」「飲めませんでした」「どうして?」「ずっと、誰かと話していたから」それだけではなかった。グラスを口へ運ぶ間さえ。相手から目を外すことを気にしていた。一度何かを飲めば。張りつめていたものが崩れそうな気もしていた。「疲れたね」隼人くんが言う。労うために正しい言葉を置いたのではない。今日の私が疲れたという事実を、ただ受け取る声だった。「はい」今度は、すぐに答えられた。「すごく疲れました」「うん」「本当は、絵を見たかっただけなのに」「うん」「きれいな服を着て」声がわずかに揺れる。「自分が好きなものを見に行けることを、楽しみにしていたんです」隼人くんは、途中で口を挟まなかった。「でも、兄は最初から私を仕事のために呼んでいて」「優は」名前を口にした時。隼人くんの目が、ごくわずかに動いた。けれど。続きを止めようとはしない。「結婚していた時にはなかった言葉を、今になってたくさんくれて」胸に残っていた揺れが、また輪郭を持つ。「私が支えていたことも」「当時は見ていなかったことも」「今なら分かるって」「自分には、もったいない妻だったと言われて」声を保とうとした。けれど、最後は少し掠れた。「今の優が、結婚していた時にいたなら、って」言葉が止まる。隼人くんは、グラスをテーブルへ置いた。骨ばった手がガラスから離れる。その動きは穏やかだった。けれど。膝の上へ戻された手は、ゆっくりと握られた。「一瞬、考えた?」責める声ではない。それでも。視線は私の顔から外れなかった。曖昧に笑って終わらせることを許さない、少しだけ逃げ道を狭めた問いだった。「……はい」認める。隼人くんの表情は、大きくは変わらなかった。ただ。握られた手の甲へ、血管が少しだけ濃く浮かんだ。「戻りたいと思った?」また聞かれる。今度は、はっきりと答えられた。「それはないです」「本当に?」「はい」私は顔を上げた。
Last Updated: 2026-08-03
Chapter: 第269話 近くにいてください
「それに」声が、ほんの少し低くなる。「今なら、きちんと見ても怒られないみたいだから」隼人くんの視線が、もう一度ドレスへ落ちる。冗談に聞こえる程度の穏やかさを残している。けれど。見ている目には、冗談の軽さがなかった。私は何も返せず、視線を下げた。その動きを見て。隼人くんは、それ以上近づかなかった。「座ろう」先にソファへ向かう。逃がすためではない。立ったまま向き合い続ければ、私が自分の呼吸さえ忘れると分かっているような動きだった。***ソファは、大人が三人ほど座れる大きさだった。深い灰色の布地で、窓から見える夜景へ向けて置かれている。私は端に近い場所へ腰を下ろした。ドレスの裾を整える。隼人くんは、すぐには隣へ座らなかった。ジャケットのボタンへ手をかける。長い指で一つだけ外すと、前がわずかに開き、シャツに包まれた胸元が先ほどよりも近く見えた。ただ座りやすくするための動作なのだと分かっている。それでも。骨ばった指がボタンを外し。スーツの生地が緩み。会場で誰へも隙を見せなかった姿から、少しだけ外の顔が剥がれていく様子に目を奪われた。隼人くんはキッチンへ向かい、冷蔵庫から水を取り出す。腕を上げると、シャツとジャケットの袖が引かれ、手首の骨が覗いた。時計の金属が、照明を細く反射する。普段なら気にしなかった動作の一つひとつへ、今は視線が引き寄せられる。「温かいものの方がいい?」振り返られ、慌てて顔を上げた。「お水で大丈夫です」「本当に?」「はい」会場でも、何度も大丈夫かと尋ねられた。そのたびに。私は、相手が安心する答えを選んでいた。今の問いは違う。温かいものが欲しいと言えば。隼人くんは、どれほど時間がかかっても用意するつもりなのだと分かる。それでも今は。飲み物を待つより、早く隣へ来てほしかった。「お水がいいです」もう一度言う。隼人くんは、私の顔を少し見つめる。言葉の奥にあるものへ気づいたように、目元を緩めた。「分かった」二つのグラスへ水を注ぐ。戻ってくる足音が、静かな室内へ小さく響く。一つを私へ差し出した。受け取る時。指先が触れる。冷たいグラスを挟んでいるのに、隼人くんの指の温度だけがはっきりと分かった。節の浮いた長い指。私のものより大きな手。会場で腰へ回り、身体を支
Last Updated: 2026-08-03
八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない

八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない

八年前、天才画家エレナは、自作が国際犯罪組織の証拠となったことで、恋人を守るため死亡を偽装し、朝倉エマとして港町で静かに生きていた。絵も過去も捨てたはずだった。だが、抑えきれない創作衝動に抗えず、誰にも知られぬ倉庫で再び筆を取る。そんな彼女の前に現れたのは、失われた「最後の一枚」を探し続ける元恋人・玲。正体に気づかぬまま、玲は面影ではなく今のエマ自身に惹かれ、その想いはやがて誰にも渡したくない執着へ変わっていく。気づかれてはいけない女と、知らずにもう一度彼女を選ぶ男。最後の一枚が隠す真実の先で、二人は過去ではなく、現在の自分として再び恋に落ちる。
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Chapter: 第36話:アーティストか何かだったの?
ただの黒板だった。 海辺の広場に置かれた、いずれ雨に濡れ、誰かの手で消される大きな黒い板。 作品として残るわけではない。 自分の名前が添えられることもない。 発色とチョークの質を確かめるために、ほんの少し描いただけだった。 それなのに。 一度線を引き始めると、エマは手を止められなかった。 白いチョークを置いた瞬間、黒板の奥に海が見えた。 灰色を重ねれば、遠くの雲が水面へ落とす影が浮かんだ。 青の中へ薄い緑を混ぜれば、この町へ来てから何度も見てきた、名前をつけられない色になった。 次に何を置くべきか、考える必要はなかった。 指が知っていた。 目が先に選んでいた。 八年間、描かない時間を積み重ねても。 身体の中に残ったものは、消えていなかった。 むしろ。 描かずに見てきた時間が、以前とは違う海を作った。 エレナが描いていた海ではない。 朝倉エマとして、この町で暮らした自分が見てきた海。 漁へ出た船が戻る場所。 子どもたちが防波堤から覗き込む水面。 奏が店を開ける朝に、窓の向こうで光る海。 誰かの生活を受け入れている景色。 その海を、ほんの十分ほどで黒板へ引き出してしまった。 エマは、自分の手を見た。 指先には白と青の粉が残っている。 久しぶりに、描いたあとの熱が身体の奥にあった。 呼吸は落ち着いている。 それでも、胸の内側だけが速く動いていた。 描けたことへの安堵。 人前で描いてしまった恐怖。 周囲の視線を集めたことへの後悔。 そして。 ずっと自分を見ていた玲の存在。 エマは、黒板から目を離したあとも、玲の視線を意識していた。 彼は何も言わなかった。 誰よりも長く絵を見ていたにもかかわらず、すぐに近づいて感想を伝えることもしない。 少し離れた場所に立ったまま。 黒板と。 エマ自身を。 交互に見ていた。 あの目を、エマは知っている。 昔。 玲が作品へ強く惹かれた時にも、同じように口数が減った。 すぐに評価を言葉へしない。 画面の前に立ち、色が置かれた順番まで辿るように見つめる。 エレナが先に耐えられなくなり。 『何か言って』 と求めて、ようやく玲が口を開いた。 今日の玲も、よく似ていた。 だからこそ、落ち着かなかった。 エマとして描いたものを。 玲がどのように見たのか
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第35話:発色は、確認できたと思います
乾いた音とともに、最初の線が引かれた。長く、緩やかで。海と空の境界にも、波にも、風にも見える線だった。黒板の端から中央へ迷いなく伸び、途中で僅かに高さを変えながら、次の動きへ繋がっていく。下絵はない。引き直しもしない。一本の線を置いた瞬間、その周囲の黒い余白まで意味を持ち始めた。エマは灰色を取り、白の下へ重ねた。続けて青を置き、黒板そのものの色を残しながら、光の当たる場所だけを浮かび上がらせていく。平らだった黒板の奥へ、海が開いていった。誰かが小さく息を呑む。エマの手は速かった。青が短くなれば、画面を見たまま次の一本を取る。白を強く置く場所。黒を残す場所。灰色で奥行きを沈める場所。判断に迷いがない。それでも、急いで作られている印象はなかった。初めからそこにあった景色を、黒板の表面から掬い上げているようだった。エレナも速かった。描き始めるまでは長くキャンバスを見つめ、一度答えを見つければ、誰にも止められない速度で色を重ねた。記憶が、目の前の姿へ重なる。けれど、描かれていく海はまるで違った。エレナの海は、美しく冷たかった。誰もいない。見る人間を画面の外へ置き、近づくことを拒むような海だった。エマの海には、まだ人も船も描かれていない。それでも、誰かがそこにいた気配がある。岸へ帰ってこられる場所。光の中へ人が歩いていける余白。見る者を拒まず、静かに受け入れる温度があった。同じように迷いのない手でも。見ている世界は違う。玲の胸が強く鳴った。エレナに似ているから見たいのではない。朝倉エマが描いているから、この先を見たい。次にどの色を選ぶのか。どこへ光を置くのか。この海が、どこまで広がるのか。それだけだった。エマは最後に薄い緑を取り、青の中へごく僅かに混ぜた。海面へ白い光を散らし、手を止める。十分も経っていない。それでも、大きな黒板の一部には、遠くまで続く海が広がっていた。広場にいた誰も、すぐには声を出せなかった。エマは一歩下がり、自分が描いたものを確認する。集中が切れた瞬間。周囲から向けられている視線に気づいたのか、表情へ僅かな緊張が戻った。「発色は、確認できたと思います」いつもの穏やかな声だった。「消していただけますか」「でも、朝倉さん、この絵」担当者が、惜しむように黒板
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第34話:最初の線
「無理であれば、ほかの方にお願いしましょうか」担当者がそう提案すると、エマはほとんど間を置かなかった。「はいぜひ、そうしてください」穏やかな返事だった。けれど、その声には隠しきれない安堵が混じっていた。机の上には、複数のメーカーから取り寄せたチョークが並んでいる。太さや硬さ、発色、粉の飛び方を確かめるため、黒板へある程度の面積を描く必要があった。題材は何でもいい。描き終えれば、すぐに水で消す。写真も画材検証の記録として数枚残すだけで、作品として公表する予定はない。それでもエマは、自分の手で描くことだけは避けたがっていた。「では、事務局のデザイナーに——」「すぐに消しますので」玲の声が、担当者の言葉へ重なった。周囲にいた人々が、一斉に玲を見る。玲自身も、口を挟んでから、自分が何をしたのかに気づいた。エマが描く姿を見たい。その欲求が、考えるより先に言葉になっていた。「発色を確認するための試し書きですよね」玲はエマを見た。「一度、描いてみていただけませんか」声は静かだった。命じたつもりはない。それでも、神崎財団はこの企画の主要な出資者だ。玲の言葉を、単なる個人的なお願いとして受け取ることは難しい。エマの瞳に、わずかな警戒が浮かんだ。玲はその変化を見た瞬間、胸の奥に苦いものを覚えた。財団の力を使いたくはなかった。本人の意思を最優先するよう、事務局へ伝えたのも玲だった。望まないことをさせれば、エマはさらに距離を取る。それも分かっている。それなのに。ほかの人間が描くと決まろうとした瞬間、止めずにはいられなかった。エレナの面影を確かめたいからではない。朝倉エマが何を描くのか。まだ存在しないその絵を、どうしても見たかった。八年間、玲が求めてきたのは、すでに失われたものばかりだった。エレナの作品。消えた最後の一枚。取り戻せない時間。今、胸に生まれているのは、それとは違う欲だった。これから生まれるものを見たい。目の前にいる女性の、次の一手を知りたい。そのために立場をわずかに使ってしまった自分へ、玲自身がいちばん驚いていた。「もちろん、無理にお願いするつもりはありません」遅れて言葉を添えた。けれど、一度向けた期待までは取り消せない。エマはしばらく玲を見つめていた。琥珀と淡い茶色の中に、光を受け
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第33話:実際に少し色を試しましょうか
「最初に、全部を繋ぐ流れだけ作ります。境界ではなく、どこから入っても続けられるものを」玲は、無意識に息を止めていた。まだ何も描かれていない。それでもエマの中には、すでに画面の動きが見え始めている。完成図を押しつけず、子どもたちが自由に線を足せるようにする。けれど、散らばったものをただ並べるのでもない。一つの画面として成立させるための骨格だけを、最初に置く。その判断は、作品を構成する力がなければできない。「例えば、波ですか?」担当者が尋ねると、エマは少し首を傾げた。「波に見えても、風に見えてもいいものがいいと思います」「形を決めない?」「見る人が、少しずつ違うものを足せるように」言葉は少ない。けれど、エマの中にある美術への考えが、短い答えの端々から見える。玲は、純粋な興味を覚えていた。エマが何を描くのか。どうやって、この巨大な黒い面を人の線へ開いていくのか。それを知りたい。コレクターとして、多くの作品を見てきた。完成された画面だけではなく、制作資料や下絵、作者の思考に触れる機会も多かった。だから分かる。エマは、趣味で黒板を描いているだけの人間ではない。作品の中心と周辺。視線の導線。余白の呼吸。見る距離によって変わる印象。それらを考えることが、あまりにも自然だった。「朝倉さんは、展示のお仕事をされていたんですか?」財団の若い担当者が、何気なく尋ねた。エマの動きが止まった。ほんの一瞬だった。「いいえ」振り返った顔には、いつもの穏やかさが戻っている。「こういう場所は、初めてです」嘘ではないのかもしれない。港町の広場で、子どもたちと巨大な黒板を作ることは初めてなのだろう。けれど、質問の核心には触れていない。玲は、その答え方にも興味を引かれた。すべてを否定しない。必要な部分だけを選び、相手がそれ以上踏み込まない形で返す。朝倉エマは、そうやって距離を保つ。玲は、彼女の言葉の奥へあるものを知りたいと思った。同時に。エマが制作の準備へ入る姿を見ていると、記憶の中のエレナが僅かに重なった。エレナも、描き始める前に長くキャンバスを見た。何もしていないように見えて、頭の中ではすでに色が動いている。話しかけても返事が遅くなり、周囲の音が少しずつ届かなくなる。エマも今、似た静けさの中へ入っている。
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第32話:見えているものが違う
翌日の午後、海辺の広場には、制作準備のために数人の関係者が集まっていた。空は薄く曇り、海の青には灰色が混じっている。風は昨日より弱く、広場へ運ばれてくる潮の匂いも柔らかかった。中央に立つ大きな黒板は、光を吸い込むように黒い。その前に、エマは一人で立っていた。手には、担当者から渡された会場図とメモ用紙。まだチョークには触れていない。黒板を正面から眺めたあと、数歩右へ移る。少し立ち止まり、今度は左へ。それから広場の入口まで下がり、黒板と海を一つの景色として見直す。玲は、財団の担当者と話しながら、その動きを静かに追っていた。エマは、同じ場所へ留まらない。歩く人の視線を確かめるように、何度も位置を変える。正面。斜め。遠く。近く。時には黒板へ背を向け、海を見る人間がどのタイミングで絵の存在に気づくのかまで確かめているようだった。「朝倉さん、設置位置で何か気になる点がありますか?」地域企画の担当者が声をかける。エマは会場図から顔を上げた。「大きな問題はありません。ただ、正面だけを基準に構成を決めない方がいいと思います」「正面だけ?」「ここを通る人の多くは、黒板へ真っすぐ向かってくるわけではないので」エマは広場の入口を指した。商店街から来る人。倉庫街から歩いてくる人。海岸沿いの道を通り、防波堤の方から近づく人。それぞれ、最初に目へ入る部分が異なる。「中央に強いものを置きすぎると、横から見た時に、そこへ辿り着くまで何もない時間が長くなります」担当者は黒板を見た。「余白が多すぎるということですか?」「余白は必要です」エマは短く答えた。「ただ、視線が止まる場所と、次へ動く理由は、端からも作った方がいいです」玲の意識が、その言葉へ引かれた。簡潔で、説明しすぎない。けれど、ただ絵が上手いだけの人間から出る言葉ではなかった。作品を一枚の平面としてではなく、見る人間がどう近づき、どこで足を止め、どの順番で画面を受け取るのかまで考えている。展示空間を知っている者の視点だった。担当者も同じことを感じたのか、感心したように笑った。「朝倉さん、さすがですね」エマの表情が僅かに固くなる。褒められたことへの戸惑いを隠すように、すぐ会場図へ目を落とした。「大きいものなので、見え方が変わるだけです」「それにしても、私は正面
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第31話:消える絵に、何を残すのか
「大人が境界を決めるより、最初に大きな流れだけ置いて、あとは少しずつ繋がる方がいいかもしれません」「大きな流れというと?」エマはすぐには答えなかった。海をそのまま描くのか。港町の建物を入れるのか。子どもたちの考えた魚や船を、どう繋ぐのか。まだ、何も決めたくなかった。黒板の前へ立ち。この場所そのものを、もう少し見たかった。広場の向こうでは、年配の男性が犬を連れて歩いている。防波堤では、制服姿の子どもたちが海を覗き込んでいた。遠くから漁船のエンジン音が聞こえる。観光客らしい男女が足を止め、黒板を見上げてから、海を背景に写真を撮っている。この場所には、すでに人の流れがある。作品を置く前から。誰かの生活がある。エレナだった頃。キャンバスの前にいる時、考えていたのは自分のことだけだった。何を描きたいか。何を見せたいか。どこまで自分の世界を閉じられるか。人が見る場所へ絵を出しても、画面の中へ入れるつもりはなかった。見る側は、外にいればいいと思っていた。けれど、今度の黒板は違う。子どもたちが描く。町の人が参加する。誰かが足を止め。誰かが通り過ぎる。一人の内側を閉じ込める場所ではない。たくさんの人が、自分の見た町を少しずつ置いていく場所。そして。フェスティバルが終われば。雨や風に晒され。いずれ、何も残らなくなる。エマは、真っ黒な面を見つめた。消えるものに。何を残したいのだろう。絵そのものではない。名前でもない。作家としての証明でもない。ここで描いた人たちが。後から海を見た時に。あの黒板へ置いた色を、ほんの少し思い出す。それくらいでいいのかもしれない。「朝倉さん?」担当者に呼ばれ、エマは振り返った。「すみません。少し考えていました」「何を描くか、ですか?」「それよりも」エマは、もう一度海を見る。「何を残したいのかを」自分でも、言葉にして初めて気づいた。担当者が少し意外そうに目を瞬く。「消える絵ですよね」「はい」「だからこそ、描いている時間に何が残るのかを考えたいです」それ以上は、うまく説明できなかった。エマは言葉を切り、黒板へ近づいた。周囲の人間も、それぞれの確認へ戻っていく。ただ一人。玲だけが。少し離れた場所から、エマを見ていた。***玲は、黒板ではなく。
Last Updated: 2026-08-05
隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる

隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる

32歳、広告代理店勤務の平原愛子は、誕生日当日、同棲中の恋人から突然別れを告げられた。新しい部屋で人生をやり直そうとした彼女の隣に住んでいたのは、五年前、自分から音信不通にして捨てた年下の元恋人・翔太だった。忘れたはずなのに、声も匂いも、触れられた記憶も身体だけが覚えている。一方、傷ついた愛子を支えたのは、五年来の親友で同期の正人。「試しでもいいから、俺と付き合わない?」穏やかな恋を選んだはずなのに、捨てた恋は壁一枚隔てた隣で、再び彼女の心を奪い始める。 自分を救ってくれる男と、捨てたはずなのに忘れられない男。新しい恋を選んだはずの愛子の心を、捨ててしまった恋が再び狂わせていく。
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Chapter: 第155話:大事な人
日曜日。昼過ぎの街は、まだ休日の柔らかさを残していた。私はクローゼットの前で、少しだけ長く立ち止まっていた。クラシックのコンサートなんて、初めてだった。正人からは、事前に「少し綺麗めな格好の方がいいかも」とだけメッセージが来ていた。押しつけがましくもなく、でも迷わない程度には具体的で、相変わらず正人らしいと思った。黒だと少し重い気がして、淡いグレージュのワンピースを選んだ。首元は詰まりすぎず、動くたびに裾が少し揺れる。普段より少しだけ丁寧に髪を巻いて、耳元に小さなピアスをつける。鏡の中の自分は、仕事の日とも、翔太とふらっと出かけた日とも、少し違って見えた。ちゃんと、誰かに会いに行く格好。そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。スマホが震える。〈下に着いた〉バッグを持って、玄関を出た。マンションの前に停まっていたタクシーの横で、正人が待っていた。仕事のスーツとは違う、少し明るい色のジャケットだった。ベージュとグレーの中間みたいな柔らかい色で、ネクタイはしていない。白いシャツの襟元が少し開いていて、いつものきっちりした正人より、ほんの少しだけ休日の空気がある。「お待たせ」私が言うと、正人は一度だけ目線を下げ、それからすぐに柔らかく笑った。「全然」少しだけ間が空く。その目が、いつもより少し長く私に留まった。「今日の雰囲気、すごく合ってる」さらっと言う。「……ありがとう」最近、こういう言葉に少し慣れてきている自分がいた。最初は、ひとつひとつに戸惑っていた。でも正人は、褒める時に妙な重さを持たせない。逃げ道を残すように言ってくれるのに、ちゃんと届く温度だけはある。だから困る。慣れてきたのに、胸はまだちゃんと鳴る。正人はタクシーのドアを開けながら言った。「コンサート終わったら、少し歩こうか」「歩く?」「下北沢の方に、連れて行きたいバーがある」「下北沢?」「うん。ご飯も美味しい。昔からたまに行くところ」それから、少しだけこちらを見る。「疲れてたら、タクシーにするけど」「歩けると思う」「じゃあ、様子見ながら」その言い方に、少し笑った。相変わらずだ。ちゃんと整える。ちゃんと断る。ちゃんと相手に選択肢を置く。タクシーに乗り込むと、車内には静かな空気が落ちた。窓の外には、休日の
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第154話:ちょっとは心配してほしいけど
久しぶりだった。最近は意識的に減っていた距離。昔みたいに、何かあるたび喫煙スペースへ行くことはなくなっていた。でも、正人は昔からこういう時、煙草を吸いながら話す人だった。真正面で話すより、少し横を向いている方が本音を言える人。「……いいよ」ビルの外は少し寒かった。春は近いのに、夜だけまだ冬が残っている。喫煙スペースの明かりが白くて、ビル風が少し冷たい。正人は煙草を一本取り出し、ライターで火をつける。一瞬、火が横顔を照らした。伏せた目。煙草を挟む指。細く吐き出される煙。その静かな仕草が、妙に色っぽかった。仕事中の正人とも。箱根で肩を貸してくれた正人とも。また少し違う。昔から知っているはずなのに、今は少しだけ違って見える。正人が煙を吐いてから言った。「麻衣に告白された」少し目を瞬いた。予想はしていた。でも、実際に聞くと、胸が小さく揺れる。「断った」正人は前を向いたまま続ける。「そのせいで、麻衣が俺から少し距離取る可能性高い。今日もそんな感じだった」煙草を持つ指先が少し下がる。「でも今のローンチ、細かい事故が起きやすいと思う」媒体調整。納品。クライアント戻し。撮影素材。「俺も全部追うけど、麻衣のフォローアップとチェック、愛子にお願いするしかなくて」少しだけ間があく。「頼ませて」その言葉が、思っていたより胸にきた。正人は、こういう頼り方をあまりしない。自分で抱える人だから。誰かに迷惑をかけるくらいなら、自分で処理しようとする人だから。だからこそ、そこに信頼が混ざっているのが分かる。「分かった」私はすぐ頷いた。「私もチェック入る。自然にフォローする」正人が少し息を吐く。「助かる」少し沈黙が落ちる。夜風が冷たい。遠くの道路を走る車の音が、少し遅れて聞こえた。正人は何でもない顔をするみたいに、口元を少しだけ上げた。「愛子のことは話してないから安心して」煙草越しの視線。少し伏せた目。横顔が妙に色っぽい。胸が小さく跳ねる。「そこは全然心配してないよ」誤魔化すみたいに言う。正人が少し笑った。「そう?」煙を吐く。それから。少しだけ寂しそうに。「ちょっとは心配してほしいけど」胸が少し詰まる。冗談っぽいのに。少しだけ本気。正人は煙草の灰を落としながら言った。
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第153話:二つの熱
週が明けても、新商品のローンチ案件は落ち着かなかった。むしろ、撮影が終わったことで、本番が始まった感覚に近い。上がってきたゆうとのスチール写真を選定し、クライアント提案用に絞り込む。店頭。交通広告。SNS。媒体ごとに必要な表情も、商品の見え方も、余白の使い方も違う。午前から、私はモニターの前に座りっぱなしだった。撮影データは想像以上に多い。同じように見えて、微妙に違う目線。笑っているようで笑っていない口元。飲料を持つ指先の角度。ゆうとは、確かに撮られ慣れていた。どのカットも一定以上に完成されていて、アイドルとしての見せ方が上手い。媒体映えもするし、SNSで切り取れば確かにバズりそうだ。だからこそ。気づかないうちに、同じような写真ばかりに手が止まっていた。少しだけ視線を外した横顔。気怠そうに笑う口元。真正面より、少し崩れた表情。完成されたアイドルの顔よりも、少しだけ隙のある瞬間。「愛子さん、この辺ですか?」麻衣ちゃんが画面を覗き込む。「うん、SNSはこのあたりかな。自然体の方が商品との相性良い気がする」「確かに。こっちの方が親近感ありますね」私は仕事の顔で頷いた。もちろん、選定はちゃんとしている。プロとして見ている。クライアントに説明できる理由もある。若年層向け飲料なら、完璧なアイドル感より、“少し届きそう”な距離感の方が刺さる。真正面の決め顔より、ふとした横顔。作られた笑顔より、少し力の抜けた表情。その方が、商品も日常の中に入りやすい。ちゃんと理由はある。でも。そこに、ほんの少しだけ別の感情が混ざっていることを、私はまだ見ないふりをしていた。後ろから、椅子を軽く引く音がした。「候補、どこまで絞った?」正人だった。私は画面を少しずらす。「第一候補はこの辺。店頭は商品見え優先で、SNSは自然体厚め」正人は無言で数秒、モニターを見ていた。少し屈んで、画面に視線を近づける。仕事中の正人の顔だった。感情を乗せず、判断だけを置いていく顔。でも、その視線が、選んだカットの並びを追ううちに、ほんの少しだけ止まった気がした。それから、資料を手にしたまま何でもない声で言う。「……この辺」指先が数枚の写真を示した。少し目線を外したゆうと。気の抜けた笑顔。柔らかい空気のカット。「愛子の
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第152話:違う二人
私はすぐには自分のドアを開けられなかった。閉じた隣のドアを、一瞬だけ見てしまう。今日が本当に終わった。そう思うと、胸の奥が少しだけ空いた。でも、その空白を見なかったことにして、私は鍵を開けた。部屋の中は、朝出た時のままだった。テーブルの上には、飲みかけの水。ソファには畳み損ねたブランケット。一気に現実に戻ったはずなのに、胸のざわつきだけがまだ廊下に置いてこられなかった。コートを脱ぐ。バッグを置く。洗面所へ行って、鏡を見る。少し頬が赤い。お酒のせい。歩いたせい。たぶん。でも、さっきの翔太の声がまだ耳に残っていた。――あんまり軽く言わないほうがいいよ。軽く言ったつもりはなかった。でも、重くするつもりもなかった。その曖昧さごと、翔太には見えている気がして、少し怖い。私はソファに座り、スマホを手に取った。通知を確認しているうちに、ふと気づく。正人に、次の誘いをしていない。「また誘ってもいい?」と言った。一回じゃ少ない気がした、と言った。それなのに、その後まだ何も送っていない。正人は、待っているのだろうか。いや、待っていると言ってくれた。でも。麻衣ちゃんとご飯に行った。そのことを思い出すと、胸の奥に小さな棘みたいなものが残る。自分が返事を保留しているのに。勝手だと思う。それでも、気になる。今日の一日を思い返す。翔太との休日は、予想外の連続だった。台湾粥から始まって、美術館、上野公園、アメ横、雑居ビルの中華。五年前の話をして、今好きなものを聞いて、また次の約束までできた。きれいに整っていたわけではない。でも、どの瞬間も不思議と呼吸が合っていた。一方で、正人との箱根は、落ち着いていて、丁寧で、きれいにプランされた良い一日だった。美術館。海。ポストカード。ワイン。運転。帰り際の優しい笑顔。あれはあれで、確かに心地よかった。どちらがいい、という話ではない。本当に。どちらかを比べて、点数をつけるようなものではない。ただ、違う。翔太は、心を揺らす。正人は、心を落ち着かせる。翔太といると、気づけば笑っていて、ふとした言葉で息が止まる。正人といると、大事にされていることが積み重なって、安心の中で胸が温まる。どちらも、自分にとって特別な形で届いている。それを認めると、余計に苦し
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第151話:まだ終わらない気持ち
帰りの電車は、思っていたより静かだった。昼のアメ横のざわめきも、雑居ビルの中華料理店の熱気も、少しずつ身体の外側から剥がれていくみたいだった。窓には暗い車内がぼんやり映っている。その中に、少し疲れた自分の顔と、隣に立つ翔太の横顔が重なっていた。酔いは、まだ少し残っている。足元がふらつくほどではない。ただ、心の輪郭がいつもより柔らかい。今日あったことが、どれも少しだけ近い場所に残っていた。モネ。台湾粥。上野公園。昼飲み。五年前の話。辛い中華。翔太の知らなかった五年。コーヒー。ホラー映画。アートバー。顔で得た餃子。次の約束。あまりにも長い一日だった。でも、不思議と疲れていなかった。いや、身体はちゃんと疲れている。歩いたし、飲んだし、話した。それなのに、気持ちの奥がまだ温かくて、今日を終わらせるのが少し惜しかった。隣を見ると、翔太も窓の外を見ていた。車内の光が頬の線を薄く照らしている。昼間より少し静かな顔。でも、退屈しているわけではなさそうだった。時々、窓に映る私の方へ視線が動く。目が合いそうになる前に、また外へ戻る。そのさりげなさに、胸の奥が少しだけ揺れた。もしかして、翔太も同じように思っているのかな。今日が終わるのを、少し惜しいと思っているのかな。そう思いかけて、すぐに見ないふりをした。考えたら、また落ち着かなくなる。マンションの最寄り駅で降りると、夜風が少し冷たかった。翔太は改札を出てから、自然に私の歩幅に合わせた。駅前の明かりを抜けて、住宅街へ入る。昼間より人通りは少なく、コンビニの明かりだけが妙に眩しかった。「今日、長かったね」私が言うと、翔太は少し笑った。「美術館から昼飲みして、中華まで行ったので」「しかも五年前の話までした」「濃い休日でしたね」「ほんとに」その言葉で、また少し沈黙が落ちる。でも、気まずくはなかった。むしろ、今日一日でいろいろなものを話しすぎて、言葉が少し休憩しているみたいだった。「疲れてない?」翔太が聞く。「ちょっと疲れた。でも嫌な疲れじゃない」「分かる」翔太は短くそう言って、少しだけ目を細めた。街灯の下で見るその表情は、昼間よりずっと柔らかい。楽しかった、と口にしなくても分かる顔だった。そのことに気づいて、胸の奥がまた少し温かく
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第150話:好きだったでしょう?
「過去形?」「最近観れてないだけ」「じゃあ一緒ですね」その“同じ”が、妙に心地いい。「陶芸もたまに行きます」「え、陶芸?」「仕事で頭使いすぎると、無心でできるやつしたくなるので」知らない。そんな翔太。少し新鮮で、少し悔しい。「スポーツは?」「サーフィンは、まだよく行ってて」「ゴルフは付き合いでたまに」「金融っぽい」「金融なので」二人で笑う。「観る方は好きですよ、バスケとか野球とか?」翔太が続ける。「あ、ビリヤードとかもします。スポーツではないですけど」「それも知らなかった」翔太が少しだけ肩をすくめる。「聞かれてないので」責める言い方じゃない。でも、少しだけ胸がちくっとした。五年前。自分は本当に聞いてこなかった。翔太の人生を。ちゃんと。「じゃあ、私も今度紹介する」「何を?」「今の好きなもの」翔太が少しだけ目を上げる。「いいですね」その返事が、思っていたより柔らかかった。「昔好きだったものじゃなくて?」「今の」私は頷いた。「昔の私のことは、たぶん翔太もある程度知ってるけど」言いながら、少しだけ照れる。「今の私は、そんなに知らないでしょ」翔太はしばらくこちらを見ていた。それから、小さく笑った。「知りたいですね」低い声だった。その一言で、胸の奥が静かに揺れる。さっきまで辛さで熱かったはずの口元とは別の場所が、少し熱くなる。「じゃあ、今好きな本とか、映画とか、店とか」「店は助かります」「そこ?」「愛子が好きな店、普通に信用できるので」「雑な信頼すぎない?」「でも信頼してます」翔太の目は、やっぱり優しかった。五年前の話をした後なのに。むしろ、話したから少しだけ距離がほどけたみたいに。重い話をしたのに、気まずさではなく、少しだけ静かな親しさが残っている。そのことが嬉しかった。「あと」翔太がビールを置く。「アートバーとか、たまに行きます」「アートバー?」「飲みながら、絵を描くバーです」「あー、最近あるよね」「お酒飲み放題だし」「そこ推しなんだ」「大事じゃないですか」翔太が真面目な顔で言う。私は笑ってしまう。「飲み放題目当て?」「半分」「また半分」「半分は、愛子が行ったらどう描くのか気になる」その言い方が、何気ないのに少しだけ胸に残った。
Last Updated: 2026-08-04
全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで

全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで

婚約発表のその日、 私は恋人と親友にすべてを奪われた。 三年付き合った恋人は、 私の成果で昇進しながら—— 隣に立っていたのは、私ではなく親友だった。 さらに私は、“関係を壊した側”として切り捨てられ、 地方の「あひるの支社」へと左遷される。 恋も、仕事も、居場所も失った。 ——けれど、それで終わりじゃない。 消されたはずの記録。 改ざんされたデータ。 そして、出張で東京に来ていた あひるの支社の代表・浅井拓真との出会い。 「それ、やっと気づいたんだ」 すべてを失った夜、私は“共犯者”を得る。 感情じゃない。 証拠で追い詰める。 奪われたのなら、取り返す。 これは、 会社と人生を懸けた復讐の物語。
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Chapter: 最終話:行ってきます
鍵を渡された日から、自然に。私と拓真は出発の準備をした。 早朝の羽田空港。まだ夜の名残を少しだけ残していた。高い天井。静かに響くアナウンス。行き交う人々の足音。大きなスーツケースを引く音が床を滑っていく。窓の外には何機もの飛行機が並び、その向こうの空はゆっくりと朝の色へ変わり始めていた。私は搭乗ゲート近くの椅子に座り、小さく息を吐く。手の中には搭乗券。足元にはスーツケース。そして隣には拓真がいる。それだけのことなのに、不思議な気持ちだった。少し前までの私は、こんな場所に座っている未来を想像できなかったから。婚約がなくなった日。すべてが終わったと思った。信じていたものが壊れて。積み上げてきた時間が消えて。頑張ってきた意味さえ分からなくなった。会社へ向かうだけで苦しかった朝もあった。未来を考えることが怖かった夜もあった。もう誰も好きになれないかもしれないと思ったこともある。あの頃の私は、自分がどこへ向かうのか分からなかった。だから今ここにいることが、少し不思議だった。「何考えてる」隣から低い声が落ちてくる。私は顔を上げた。拓真はペットボトルの水を片手に持ちながらこちらを見ていた。ラフなニットにジャケット。少し眠そうな顔。それなのに目元だけは柔らかい。会社では絶対に見せない表情だった。私は小さく笑う。「……不思議だなって思って」「何が」「こんな未来あると思ってなかったので」拓真は少しだけ黙った。それから窓の外へ視線を向ける。朝日に照らされた滑走路。ゆっくり動き始める飛行機。その景色を見ながら小さく笑った。「俺も」短い返事だった。でもそれが本音だと分かる。私たちはしばらく黙ったまま窓の外を見つめる。心地いい沈黙だった。何かを埋めるための会話はいらない。ただ隣にいるだけで安心できる。そんな関係になったことが、今でも少し信じられない。私はそっと肩を寄せた。すると拓真が何も言わず肩を抱く。自然だった。当たり前みたいに。気づけばその温度が私の帰る場所になっていた。アナウンスが流れる。ロサンゼルス行き搭乗開始の案内。周囲の人たちが立ち上がり始める。私は前を見た。これから両親に会う。拓真を紹介する。未来の話をする。少し緊張する。少し怖い。でも逃げたいとは思
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第105話:未来の話
夜のリビングには、食後の穏やかな空気が流れていた。ダイニングテーブルの上には、食べ終わったテイクアウトの容器がいくつか並んでいる。飲みかけのワイングラス。半分だけ残ったサラダ。シンクでは食洗機の低い音が響いていた。仕事帰りに一緒に食事をして、ソファで少し話をする。そんな時間が最近の当たり前になっている。少し前の私なら信じられなかった。誰かと過ごす日常が、こんなにも心地いいなんて。私はソファに座りながらスマホを眺めた。通知欄には母からのメッセージ。未読が三件並んでいる。思わず小さく息を吐いた。その様子に気づいたのか、キッチンから拓真の声が飛んでくる。「何」コーヒーを淹れながら振り返る。私はスマホを持ち上げた。「母です」「ん?」「最近全然連絡返さないから、いつLA来るのって」その瞬間、拓真が少し笑った。「圧強いな」「母なんで」私もつられて笑う。昔から変わらない。気になったらすぐ連絡してくるし、返事がないと追撃もしてくる。けれどその笑いは途中で少しだけ止まった。LA。両親。拓真。頭の中でその言葉が自然につながる。以前なら考えられなかった。未来を想像すると、不安の方が先に来ていたから。でも今は違う。気づけば、その未来の中に拓真がいる。それが当たり前になり始めている。拓真は二人分のコーヒーを持って戻ってきた。隣に腰を下ろす。肩が軽く触れる。その距離が自然だった。「行く?」不意に落ちてきた声に私は顔を上げる。「……え?」「LA」低く穏やかな声。まるで来月どこかへ旅行に行くかを相談するみたいな口調だった。私は少しだけ目を瞬く。「……いいんですか」「何が」「その……」言葉を探す。少しだけ緊張した。「私の両親に会うの」部屋が静かになる。拓真はしばらく何も言わなかった。それからゆっくり目を細める。「愛海が嫌じゃないなら」低い声。真っ直ぐだった。「ちゃんと挨拶したい」胸の奥が熱くなる。重すぎない。でも軽くもない。その言葉にはちゃんと未来があった。私は少し笑う。「……じゃあ、そのうち行きましょうか」拓真も笑った。安心したように。嬉しそうに。「うん」短い返事だった。でも、その一文字だけで十分だった。しばらく沈黙が落ちる。居心地の悪い沈黙じゃない。
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第104話:ここにいたい
夜のリビングは静かだった。テレビはついている。バラエティ番組らしい笑い声も流れている。けれど、二人ともほとんど見ていなかった。私は拓真の腕の中にいた。背中に回された腕。肩越しに伝わる体温。時折髪を撫でる指先。それだけで、不思議なくらい落ち着く。少し前までなら考えられなかった。誰かの腕の中で、こんなふうに安心する日が来るなんて。「今、めちゃくちゃ帰したくなくなった」耳元に落ちた声を思い出す。その言葉の余韻がまだ胸の奥に残っていた。私は小さく息を吐いた。すると頭の上から低い声が降ってくる。「愛海」「はい」拓真が少しだけ髪に顔を埋める。「今日、自分から帰りたくないって言った」どこか嬉しそうな声だった。私は思わず顔を熱くする。「……言いました」「うん」短い返事。でも、その一言だけで機嫌がいいのが分かる。少し前までの拓真なら、こんなことは隠していただろう。会社で見る彼はいつだって余裕があった。感情を見せない人だった。でも今は違う。私の前では驚くほど分かりやすい。「かなりやばい」「何がですか」そう聞くと、拓真が少し身体を離した。視線がぶつかる。近い。照明に照らされた瞳が柔らかく揺れている。「嬉しすぎる」真っ直ぐだった。飾りも冗談もない。ただの本音。その言葉に胸がぎゅっとなる。拓真は私の頬に手を添えた。親指がゆっくり肌を撫でる。優しいのに、妙に熱を持っている。私は無意識にその手へ頬を寄せた。すると拓真がふっと目を閉じる。まるで何かを耐えるみたいに。「……愛海」「え?」「最近、無自覚に煽るのやめて」思わず笑ってしまう。「煽ってません」「煽ってる」即答だった。その声が少し低い。私はまた笑う。すると拓真が腕を引き、私を引き寄せた。距離が縮まる。逃げられないほどじゃない。でも十分近い。「拓真」「ん?」「近いです」「知ってる」全然悪びれない。むしろ少し楽しそうだった。額にキスが落ちる。頬にも。鼻先にも。どれも優しくて、焦らすみたいにゆっくりだった。私は思わず目を閉じる。拓真が小さく笑った気配がした。「俺、ちゃんと待つって決めてるのに」「……」「愛海が近づいてくるから普通にしんどい」その声には困ったような響きが混じっていた。でも嫌そうじゃ
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第103話:帰りたくない
夜のリビングには、テレビの音が小さく流れていた。何の番組だったかは覚えていない。画面の中では誰かが話していて、時々笑い声も聞こえる。けれど私の意識はほとんどそちらへ向いていなかった。ソファの上で拓真の肩に身体を預ける。背中に回された腕。一定のリズムで髪を撫でる指先。その体温が心地よくて、気づけば肩の力が抜けていた。静かな時間だった。特別なことは何もしていない。出掛けるわけでもない。どこかへ行くわけでもない。ただ同じ部屋で過ごしているだけ。それなのに、不思議なくらい満たされていた。私はぼんやりと目を閉じる。すると頭の上から声が落ちてくる。「眠い?」低く穏やかな声。私は少し笑った。「……少しだけ」「寝る?」その言い方があまりにも自然で、思わず肩が揺れる。「拓真、最近甘やかしすぎです」すると隣から小さな笑い声が聞こえた。「今さら?」私は思わず顔を上げる。拓真はどこか楽しそうだった。「愛海、甘やかすとすぐ顔緩むから」「……」図星だった。悔しいけれど否定できない。拓真はそんな私を見て少しだけ目を細める。それから自然な仕草で頬にキスを落とした。触れるだけの軽いキス。けれどその優しさに胸が熱くなる。「……拓真」「ん?」「最近、幸せそうですよね」自分でも不思議な質問だった。でも聞いてみたくなった。すると拓真は少しだけ笑った。「幸せだから」迷いのない返事だった。当たり前のことを答えるみたいに。その声に嘘はなかった。私は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じる。拓真は少し視線を落とした。「こういうの好きなんだよな」「……こういうの?」「普通の恋人みたいなやつ」少し照れたように笑う。「家具見たり」「送り迎えしたり」「くだらないことで嫉妬されたり」最後だけ少し意地悪そうだった。私は思わず睨む。でも拓真は全然気にしていない。むしろ楽しそうだった。「全部好き」静かな声だった。飾り気もない。でも本音だと分かる。私はその横顔を見つめる。樹との恋も幸せだった。大切にされていた。愛されていたと思う。けれど今振り返ると、私はどこか受け身だった。相手が決める未来に乗っていた。相手の手を取って進んでいた。自分で選んでいるつもりでも、どこかで流されていた。でも今は違う。拓真
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第102話:選びたい
夜のリビングには、テレビの音だけが静かに流れていた。バラエティ番組だったと思う。誰かが何かを話していて、時々笑い声も聞こえる。でも、その内容はほとんど頭に入ってこなかった。私はソファの端に座り、拓真の肩へそっと身体を預ける。隣から伝わる体温が心地いい。すると拓真が自然に手を伸ばし、私の髪を指で梳いた。ゆっくりと。優しく。髪を撫でるその仕草に、以前のような焦りはない。付き合い始めた頃の拓真は、もっと真っ直ぐだった。好きだと言う。会いたいと言う。抱きしめたいと言う。その気持ちを隠そうとしなかった。でも今は少し違う。私が何を考えているか。どんな顔をしているか。ちゃんと見ながら触れる。待ちながら触れる。大切なものを扱うみたいに。その優しさが胸に沁みた。「……」気づけば私は拓真のシャツの袖を指先で触っていた。すると頭上から声が落ちる。「何考えてる」低くて穏やかな声。私は少し笑った。「別に」「嘘」即答だった。しかも少し笑っている。最近の拓真はこういうところがある。私の嘘を見抜くのが上手い。隠そうとしても、大体ばれてしまう。私は小さく息を吐いた。それから視線を落としたまま口を開く。「……拓真って」「ん?」「最初から距離近かったですよね」拓真が少しだけ笑う気配がした。「まあ」短い返事。そして迷いなく続ける。「好きだったから」心臓が跳ねる。相変わらずだ。こんなことを照れもせずに言う。私は思わず視線を逸らした。樹もそうだった。最初から真っ直ぐだった。積極的だった。気づけば付き合っていた。婚約もそうだった。私は流れに乗っていた部分が大きかった。好きだった。もちろん本当に好きだった。でも今振り返ると、どこか受け身だった気がする。相手に選ばれて。相手に手を引かれて。気づけば未来へ進んでいた。恋愛とはそういうものだと思っていた。でも。今は違う。私はそっと拓真のシャツを掴む。拓真の身体が少しだけ動いた。視線がこちらへ向く。「愛海?」私は少しだけ唇を噛んだ。恥ずかしい。でも、言いたかった。「私」声が少し震える。「今まで、自分から恋愛したことなかったかもしれないです」部屋が静かになる。テレビの音だけが遠くなる。拓真は何も言わない。急かさない。た
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第101話:過去
金曜日の夜の空気は少し冷たかった。ショールームを出ると、昼間の賑わいが嘘みたいに落ち着いていて。駐車場へ続く通路には柔らかな照明だけが並んでいる。隣を歩く拓真は、さっき圭吾に散々からかわれたことなんて気にしていないみたいだった。車のキーを指先で回しながら歩いている。その横顔を見ていると、また胸の奥がざわついた。「……」拓真がちらりとこちらを見る。「何」「別に」即答する。すると拓真が少し笑った。「嘘」その言い方に少しむっとする。だって仕方ない。さっきから頭の中が落ち着かないのだ。大学時代。海外時代。来る者拒まず。モデルが寄ってきていた。圭吾が笑いながら話していた言葉が、何度も頭の中を巡る。知らない拓真。私が会うずっと前の時間。当たり前なのに。なぜか少しだけ胸が痛かった。車に乗り込む。ドアが閉まる音。エンジンがかかる音。静かな車内に、夜の街の光が流れていく。しばらく黙っていたけれど、結局我慢できなかった。「……昔」窓の外を見たまま呟く。「かなり遊んでたんですか」数秒の沈黙。そのあと、隣で小さな笑い声がした。「何その聞き方」「だって」私は視線を戻さない。「森さん、普通に言ってましたし」拓真はハンドルを握ったまま苦笑した。「圭吾の話、八割盛られてるぞ」「じゃあ二割は本当なんですね」「そこ食いつく?」少し笑っている。その余裕が悔しい。すると拓真は観念したみたいに息を吐いた。「まあ、モテたのは事実」胸がちくりと痛む。「二十代は普通に遊んでたし」否定しない。変に誤魔化さない。だから余計に想像してしまう。海外の街。華やかなパーティー。綺麗な人たち。今の拓真からは想像できない世界。「……」窓ガラスに映る自分の顔が少し不機嫌そうで、嫌になる。すると信号で車が止まった。静かな車内。その瞬間、拓真が片手を伸ばしてきた。私の手を掴む。大きくて温かい手。そのまま親指が指先をゆっくり撫でた。まるで機嫌を取るみたいに。「……」心臓が跳ねる。「そんなに気になる?」低い声。からかうようでいて、ちゃんと私を見ている。私は少しだけ唇を尖らせた。「だって」言葉を探しながら続ける。「拓真って、絶対モテるじゃないですか」その瞬間。拓真が吹き出した。本当に可笑し
Last Updated: 2026-06-03
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