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Sunny
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Novels by Sunny

愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました

愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました

四回目の結婚記念日。 それは、綾香にとって「離婚を決意した日」になった。 医師としてのキャリアを捨て、夫・優の“期限付きの契約結婚”に尽くしてきた四年間。 初恋の相手である愛人・咲子を優先されても、「あと半年で終わる結婚だから」と、自分に言い聞かせて耐えてきた。 ——けれど、四年目の結婚記念日に愛人を家へ連れ帰られた瞬間、綾香の心は限界を迎える。 そんな綾香の前に現れたのは、学会で出会った開業医・綾瀬隼人。 仕事も、住む場所も、人生の再スタートも。 隼人に背中を押され、綾香は少しずつ“妻”ではなく、“自分”を取り戻し始める。 これは、人生を奪われた女が、自分を取り戻し、本当の愛に出会う物語。
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Chapter: 第374話 成長したね、ってことで
「何頼む?」「綾香?」「前菜、これでいい?」「泊まったの?」「魚もおいしそう」「先生の家?」「美香」「いつ?」「はいはい」私はメニューを美香の前へ広げた。「もう話さないよ」「その黙り方は、ほとんど答えだけど」「話さない」「一昨日?」「もう離さないよ」そう言って。料理の写真を指で示す。「これにする?」美香は、まだ私の顔を見ていた。けれど。私が一切答えるつもりがないと分かったのか。やがて両手を軽く上げた。「はいはい。分かりました」「本当に?」「一旦、離します」「一旦って言った」「今は仕事の話を聞く」全く諦めてはいない。それでも。ようやく美香もメニューへ目を落とした。店員を呼び。ワインと料理を注文する。注文が終わると。美香は改めて私へ向き直った。「それで、転職の方は?」「まだ全部決まったわけじゃないよ」「病院を離れる可能性もある?」「それも含めて考えてる」「プロジェクトは?」「途中で投げるつもりはないけど」少し考えてから続ける。「だからって、全部を私が抱えるつもりもない」美香が一度、瞬きをした。「今、綾香がそれを言った?」「何、その反応」「だって前は」椅子へ身体を預ける。「頼まれたら、全部自分でやろうとしてたでしょう」「今も、その癖はあると思う」「でも」美香がこちらを見る。「引き受ける前に、自分がどうしたいかを考えるようにはなった?」「少しは」病院の仕事。地域医療のプロジェクト。転職。家族。隼人くんとのこと。どれも。誰かから必要とされるまま受け入れていれば。簡単に、自分の容量を超えてしまう。以前は。必要とされることと。自分が望んでいることを。ほとんど同じものだと思っていた。今は。一度立ち止まる。本当に私がやるべきなのか。私が望んでいるのか。断った先に、別の方法はないのか。完璧にできているわけではない。それでも。何も考えずに受け入れることは減った。「前よりは」私は言う。「自分で決められるようになったと思う」「うん」美香の返事は早かった。「私もそう思う」料理とワインが運ばれてくる。赤ワイン。小さな前菜。香ばしく焼かれた野菜。皿が並び終わると。美香がグラスを手に取った。「じゃあ」「何?」「自分で縁談を断れ
Last Updated: 2026-09-20
Chapter: 第373話 会ってない間に、色々ありすぎ
*** 久しぶりに美香と会ったのは。仕事を終えた後だった。駅から少し離れた場所にある、小さなビストロ。以前にも何度か、二人で来たことがある。店内には低い音量で音楽が流れ。仕事帰りの客の話し声に、グラスが触れ合う澄んだ音が混じっていた。先に着いていた美香は。私が向かいへ座るなり、メニューも開かずにこちらを見た。「何?」「会ってない間に、色々ありすぎ」呆れたように言われる。「まだ何も話してないけど」「少しは聞いてるから」美香は、数を確かめるように指を折った。「病院に戻って」「転職の話も進んでて」「仕事のプロジェクトまで始まって」「その上、お父さんが縁談を持ってきた」最後だけ。明らかに声が低くなる。「本人が離婚したばかりなのに」「次の結婚相手を、家の都合で用意しようとする?」「お父さんの中では」私は水のグラスへ手を伸ばした。「私が離婚したから、次を考えられる状態になったらしいよ」「人の離婚を、空いた枠みたいに言わないでほしいんだけど」「本当にね」「しかも」美香の眉間に、さらに深く皺が寄る。「綾瀬先生のお兄さんとか」「うん」「綾瀬先生、怒っただろうね」あまりにも自然に言われ。私はグラスを持ったまま、美香を見た。「何で分かるの?」「それくらいは分かるよ」「隼人くんは、郁人先生を信頼してるよ」「兄弟として信頼してることと」美香は当然のように言う。「自分の彼女との縁談を平気で受け止められるかは、別でしょう」そういうものなのだろうか。私がすぐに答えないでいると。美香が呆れたように息を吐いた。「その顔を見る限り、相当怒ったね」「怒ったというか」あの場での隼人くんを思い出す。父親たちの前へ現れた時の。冷たく、感情を削ぎ落としたような顔。綾瀬家の事業を継ぐと決め。縁談を成立させる理由そのものを消した。その後も。兄貴のことはあんなに褒めていたのにと。少し傷ついた顔をしていた。「かなり、嫌だったみたい」「でしょうね」美香には。私が分からなかったことが、簡単に分かるらしい。「でも」私は続けた。「縁談自体は、私が断ったよ」「ちゃんと?」「うん」「お父さんの前で?」「両家がいる前で」美香が少し目を見開く。「よく言えたね」「言わないと」あの場で黙れば。また、誰か
Last Updated: 2026-09-20
Chapter: 第372話 誰のせいだと思ってるの?
昨日のように。私の意思を置き去りにする強さではない。自分はそう望んでいる。けれど。決めるのは私でいい。その違いが、今は分かった。「考えておく」答えると。隼人くんの眉が、わずかに上がった。「置かないとは言わないんだ」「考えるって言っただけ」「十分」満足したような声だった。隼人くんの指が。私の手へ触れる。手の甲を軽く撫で。そのまま自然に指が絡んだ。「帰る?」「うん」「本当に一人で大丈夫?」もう一度だけ聞かれる。けれど。送らせようとする声ではなかった。私は、絡んだ指を少しだけ握り返す。「大丈夫」「分かった」今度も。隼人くんは、それ以上言わなかった。***玄関へ向かう。昨夜。この場所へ入った時のことを思い出す。扉が閉まった直後。靴を脱ごうとした瞬間に、腕を引かれた。唇を奪われ。立っていられなくなるほど、強く抱き寄せられた。今は。明るい玄関で、静かに靴を履いている。同じ場所なのに。昨夜とは、まるで違って見えた。隼人くんは、私の上着を持って待っている。立ち上がると。背後から肩へ掛けられた。腕を通す。襟元が整えられる。最後に。首の赤みが見えていないか、さりげなく視線で確かめていた。「見えてる?」「大丈夫」「本当に?」「少しだけ」「隼人くん」責めるように名前を呼ぶと。全く反省していない目で、少し笑った。「髪を下ろしてれば見えないよ」「誰のせいだと思ってるの?」「俺」また、あっさり認める。それ以上言い返せなくなった。扉の前で。隼人くんが鍵へ手を伸ばす。けれど。すぐには開けなかった。一度。私を見る。「綾香ちゃん」「何?」「また来て」さっき。服を置いてほしいと言った。それでも。こうして改めて言うところに。少しだけ不安が残っているのだと思った。昨夜。自分の意思でここへ来た。けれど。怒りも。家への不満も。すべて消えたわけではない。そして今。一人で帰りたいと言った。隼人くんは受け入れたけれど。それが、距離を置きたいという意味ではないのか。完全には確信できていないのかもしれない。「うん」私は答えた。「また来る」隼人くんの表情が。ゆっくりと和らぐ。「じゃあ」鍵が開く。「次は、服持ってきて」「考えておくって言ったでし
Last Updated: 2026-09-18
Chapter: 第371話 次に来る時は
***寝室へ戻ると。朝起きた時よりも、部屋がさらに明るくなっていた。カーテンの隙間から入った光が。ベッドの上へ広く落ちている。乱れたシーツ。床へ落ちている服。椅子へ置かれた上着。昨夜の痕跡が。朝の光の中では、隠しようもなく残っていた。目を向けた瞬間。頬が熱くなる。暗い部屋の中で起きたことが。一気に現実へ戻ってきた。私は、ベッドの端へ置かれていた服を手に取った。シャツのボタン。スカートの皺。来た時と同じ服なのに。今は、少し違うもののように見える。借りたシャツを脱ごうとして。寝室の扉が開いた。「綾香ちゃん」反射的に。裾を掴む。「何?」「着替える?」「見れば分かるでしょう」「じゃあ、外にいる」そう言いながら。隼人くんは、すぐには扉を閉めなかった。私の姿へ視線を止めている。借りたシャツ。乱れた髪。まだ完全には消えていない、首元の赤み。何を見ているのか分かって。落ち着かなくなる。「隼人くん」「うん」「閉めて」「ああ」ようやく。少しだけ名残惜しそうに、扉が閉じる。一人になると。急に部屋が静かになった。私は借りていたシャツを脱ぐ。布が肌から離れるだけで。昨夜、触れられた場所を思い出す。首筋。背中。腰。忘れたいわけではない。それでも。朝から一つずつ思い出すには、身体がまだ慣れていなかった。急いで自分の服を身につける。ボタンを留め。髪を手で整える。鏡の前に立つ。会食へ向かう前と同じ服なのに。映っている自分は、少し違って見えた。何が変わったのかは分からない。ただ。隼人くんと朝を迎えたことを。自分だけは知っている。そのことが。目元や頬に残っているような気がした。***寝室を出ると。隼人くんは廊下の壁へ寄りかかるように立っていた。スマートフォンを見ていたらしい。私に気づくと、すぐに画面を閉じる。視線が。私の顔から服へ、ゆっくり下りた。「何?」「戻っちゃったなと思って」「何が?」「昨日までの綾香ちゃんに」意味が分からず眉を寄せる。隼人くんは。私が脱いだ自分のシャツを、視線だけで示した。「俺の服を着てた方が」少しだけ口元を緩める。「ここにいる感じがしたから」胸の奥が、わずかに揺れた。「着替えないと帰れないでしょう」「分かってる
Last Updated: 2026-09-16
Chapter: 第370話 今日は、一人で帰りたい
朝食を食べ終える頃には、窓の外がすっかり明るくなっていた。夜の間は遠くに滲んでいた街並みが、朝の光の中で一つずつ輪郭を取り戻している。道路を走る車も。向かいの建物へ差し込む光も。高い場所から見下ろせば、どこか現実感が薄かった。テーブルの上には、飲みかけのコーヒーと、空になった皿が並んでいる。隼人くんはカップを持ったまま、私の皿へ一度目を向けた。「足りた?」「うん。十分」「本当に?」「朝からそんなに食べられないよ」「昨日、ほとんど食べてなかったでしょう」会食では料理が出ていた。けれど。縁談の話が始まってから、箸がほとんど進まなかったことを思い出す。隼人くんは、自分もあの場で余裕をなくしていたはずなのに。私が食べていなかったことまで見ていたらしい。「隼人くんも食べてなかったでしょう」「俺はいいよ」「よくないよ」そう返すと。隼人くんが、わずかに目を細めた。「心配してくれてる?」「普通に言ってるだけ」「そういうことにしておく」朝になって。少しずつ、いつもの会話が戻ってきていた。それでも。昨日までと同じではないことは、何気ないところで分かる。テーブルの下で。隼人くんの足が、時々私の足へ触れる。偶然かと思って少し位置をずらしても。しばらくすると、また近くにある。向かいへ座っているのに。完全に距離を取るつもりはないらしい。私も。触れるたびに足を引くことはしなかった。「そろそろ」時計を見る。「準備して帰らないと」隼人くんのカップが、途中で止まった。「もう?」「午後から仕事だから」「まだ時間あるでしょう」「一度家に戻って、着替えて準備したいの」今着ているのは。隼人くんに借りたシャツとルームパンツだった。会食へ着ていった服は、昨夜のまま寝室に置かれている。それを身につけ。髪を整え。自分の部屋へ戻らなければならない。ここへ来る時は。先のことまで、ほとんど考えていなかった。帰らないと言った。ただ、それだけだった。朝になってからのことも。どんな気持ちでこの部屋を出るのかも。何も想像していなかった。隼人くんは、カップをテーブルへ置いた。「送ろうか」昨夜までなら。送る、と決めたように言ったかもしれない。けれど今は。私の返事を待つ声だった。私は少しだけ迷ってから、首を振
Last Updated: 2026-09-15
Chapter: 第369話 簡単に言うの、ずるいよ
「手伝おうか?」「大丈夫」「本当に?」「綾香ちゃんは」フライパンへ卵を流しながら。少しだけ振り返る。「俺の服で、そこにいて」「それが手伝い?」「かなり」意味の分からないことを言っている。けれど。その目が少し嬉しそうだった。私はカウンターの椅子へ座った。借りたシャツの袖口を弄りながら。キッチンに立つ隼人くんを見る。コーヒーの香りが。少しずつ部屋へ広がっていく。卵が焼ける音。包丁がまな板へ触れる音。昨夜とは違う。静かで。日常的な音だった。それが。なぜか胸へ残った。これまで隼人くんとは。外で会うことが多かった。クリニック。食事。少しだけ立ち寄る場所。誰かに見られても困らないところ。この人が一人で過ごしている場所へ入り。朝の支度をする姿を見たことはなかった。恋人なのに。まだ知らない生活が、こんなにたくさんある。「綾香ちゃん」「うん」「さっきから静かだけど」隼人くんが皿を並べながら、こちらを見る。「何か考えてる?」「隼人くんの家にいるんだなって」「今?」「朝になったから」昨夜は。感情が大きすぎた。部屋を見る余裕も。ここが隼人くんの生活する場所だと、落ち着いて考える時間もなかった。「どう?」「どうって?」「思ってたのと違う?」部屋を見回す。高級で。整っていて。静かで。隼人くんが過ごすには、少し広すぎるようにも見える。「思ってたより」言葉を選ぶ。「ちゃんと暮らしてる」隼人くんが、わずかに眉を上げた。「どういう想像してたの?」「もっと、寝に帰るだけみたいな」「そういう時もあるよ」「でも」焼いた卵を皿へ移す。「ここは、わりと好きだから」「そうなんだ」「うん」コーヒーを二つのカップへ注ぎながら。隼人くんは何でもないように続けた。「綾香ちゃんがいる方が、もっと好きだけど」一瞬。返事ができなかった。さらりと言われたせいで。意味が少し遅れて胸へ届く。「そういうこと」私は視線をカップへ落とした。「簡単に言うの、ずるいよ」「簡単じゃないよ」隼人くんが、私の前へコーヒーを置く。身体を少し屈め。近い位置から目を合わせた。「ずっと言いたかったから」そのまま。額へ短く口づける。昨夜のような熱はない。朝の光の中で。自然に触れるだけの口づ
Last Updated: 2026-09-14
全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで

全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで

婚約発表のその日、 私は恋人と親友にすべてを奪われた。 三年付き合った恋人は、 私の成果で昇進しながら—— 隣に立っていたのは、私ではなく親友だった。 さらに私は、“関係を壊した側”として切り捨てられ、 地方の「あひるの支社」へと左遷される。 恋も、仕事も、居場所も失った。 ——けれど、それで終わりじゃない。 消されたはずの記録。 改ざんされたデータ。 そして、出張で東京に来ていた あひるの支社の代表・浅井拓真との出会い。 「それ、やっと気づいたんだ」 すべてを失った夜、私は“共犯者”を得る。 感情じゃない。 証拠で追い詰める。 奪われたのなら、取り返す。 これは、 会社と人生を懸けた復讐の物語。
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Chapter: 最終話:行ってきます
鍵を渡された日から、自然に。私と拓真は出発の準備をした。 早朝の羽田空港。まだ夜の名残を少しだけ残していた。高い天井。静かに響くアナウンス。行き交う人々の足音。大きなスーツケースを引く音が床を滑っていく。窓の外には何機もの飛行機が並び、その向こうの空はゆっくりと朝の色へ変わり始めていた。私は搭乗ゲート近くの椅子に座り、小さく息を吐く。手の中には搭乗券。足元にはスーツケース。そして隣には拓真がいる。それだけのことなのに、不思議な気持ちだった。少し前までの私は、こんな場所に座っている未来を想像できなかったから。婚約がなくなった日。すべてが終わったと思った。信じていたものが壊れて。積み上げてきた時間が消えて。頑張ってきた意味さえ分からなくなった。会社へ向かうだけで苦しかった朝もあった。未来を考えることが怖かった夜もあった。もう誰も好きになれないかもしれないと思ったこともある。あの頃の私は、自分がどこへ向かうのか分からなかった。だから今ここにいることが、少し不思議だった。「何考えてる」隣から低い声が落ちてくる。私は顔を上げた。拓真はペットボトルの水を片手に持ちながらこちらを見ていた。ラフなニットにジャケット。少し眠そうな顔。それなのに目元だけは柔らかい。会社では絶対に見せない表情だった。私は小さく笑う。「……不思議だなって思って」「何が」「こんな未来あると思ってなかったので」拓真は少しだけ黙った。それから窓の外へ視線を向ける。朝日に照らされた滑走路。ゆっくり動き始める飛行機。その景色を見ながら小さく笑った。「俺も」短い返事だった。でもそれが本音だと分かる。私たちはしばらく黙ったまま窓の外を見つめる。心地いい沈黙だった。何かを埋めるための会話はいらない。ただ隣にいるだけで安心できる。そんな関係になったことが、今でも少し信じられない。私はそっと肩を寄せた。すると拓真が何も言わず肩を抱く。自然だった。当たり前みたいに。気づけばその温度が私の帰る場所になっていた。アナウンスが流れる。ロサンゼルス行き搭乗開始の案内。周囲の人たちが立ち上がり始める。私は前を見た。これから両親に会う。拓真を紹介する。未来の話をする。少し緊張する。少し怖い。でも逃げたいとは思
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第105話:未来の話
夜のリビングには、食後の穏やかな空気が流れていた。ダイニングテーブルの上には、食べ終わったテイクアウトの容器がいくつか並んでいる。飲みかけのワイングラス。半分だけ残ったサラダ。シンクでは食洗機の低い音が響いていた。仕事帰りに一緒に食事をして、ソファで少し話をする。そんな時間が最近の当たり前になっている。少し前の私なら信じられなかった。誰かと過ごす日常が、こんなにも心地いいなんて。私はソファに座りながらスマホを眺めた。通知欄には母からのメッセージ。未読が三件並んでいる。思わず小さく息を吐いた。その様子に気づいたのか、キッチンから拓真の声が飛んでくる。「何」コーヒーを淹れながら振り返る。私はスマホを持ち上げた。「母です」「ん?」「最近全然連絡返さないから、いつLA来るのって」その瞬間、拓真が少し笑った。「圧強いな」「母なんで」私もつられて笑う。昔から変わらない。気になったらすぐ連絡してくるし、返事がないと追撃もしてくる。けれどその笑いは途中で少しだけ止まった。LA。両親。拓真。頭の中でその言葉が自然につながる。以前なら考えられなかった。未来を想像すると、不安の方が先に来ていたから。でも今は違う。気づけば、その未来の中に拓真がいる。それが当たり前になり始めている。拓真は二人分のコーヒーを持って戻ってきた。隣に腰を下ろす。肩が軽く触れる。その距離が自然だった。「行く?」不意に落ちてきた声に私は顔を上げる。「……え?」「LA」低く穏やかな声。まるで来月どこかへ旅行に行くかを相談するみたいな口調だった。私は少しだけ目を瞬く。「……いいんですか」「何が」「その……」言葉を探す。少しだけ緊張した。「私の両親に会うの」部屋が静かになる。拓真はしばらく何も言わなかった。それからゆっくり目を細める。「愛海が嫌じゃないなら」低い声。真っ直ぐだった。「ちゃんと挨拶したい」胸の奥が熱くなる。重すぎない。でも軽くもない。その言葉にはちゃんと未来があった。私は少し笑う。「……じゃあ、そのうち行きましょうか」拓真も笑った。安心したように。嬉しそうに。「うん」短い返事だった。でも、その一文字だけで十分だった。しばらく沈黙が落ちる。居心地の悪い沈黙じゃない。
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第104話:ここにいたい
夜のリビングは静かだった。テレビはついている。バラエティ番組らしい笑い声も流れている。けれど、二人ともほとんど見ていなかった。私は拓真の腕の中にいた。背中に回された腕。肩越しに伝わる体温。時折髪を撫でる指先。それだけで、不思議なくらい落ち着く。少し前までなら考えられなかった。誰かの腕の中で、こんなふうに安心する日が来るなんて。「今、めちゃくちゃ帰したくなくなった」耳元に落ちた声を思い出す。その言葉の余韻がまだ胸の奥に残っていた。私は小さく息を吐いた。すると頭の上から低い声が降ってくる。「愛海」「はい」拓真が少しだけ髪に顔を埋める。「今日、自分から帰りたくないって言った」どこか嬉しそうな声だった。私は思わず顔を熱くする。「……言いました」「うん」短い返事。でも、その一言だけで機嫌がいいのが分かる。少し前までの拓真なら、こんなことは隠していただろう。会社で見る彼はいつだって余裕があった。感情を見せない人だった。でも今は違う。私の前では驚くほど分かりやすい。「かなりやばい」「何がですか」そう聞くと、拓真が少し身体を離した。視線がぶつかる。近い。照明に照らされた瞳が柔らかく揺れている。「嬉しすぎる」真っ直ぐだった。飾りも冗談もない。ただの本音。その言葉に胸がぎゅっとなる。拓真は私の頬に手を添えた。親指がゆっくり肌を撫でる。優しいのに、妙に熱を持っている。私は無意識にその手へ頬を寄せた。すると拓真がふっと目を閉じる。まるで何かを耐えるみたいに。「……愛海」「え?」「最近、無自覚に煽るのやめて」思わず笑ってしまう。「煽ってません」「煽ってる」即答だった。その声が少し低い。私はまた笑う。すると拓真が腕を引き、私を引き寄せた。距離が縮まる。逃げられないほどじゃない。でも十分近い。「拓真」「ん?」「近いです」「知ってる」全然悪びれない。むしろ少し楽しそうだった。額にキスが落ちる。頬にも。鼻先にも。どれも優しくて、焦らすみたいにゆっくりだった。私は思わず目を閉じる。拓真が小さく笑った気配がした。「俺、ちゃんと待つって決めてるのに」「……」「愛海が近づいてくるから普通にしんどい」その声には困ったような響きが混じっていた。でも嫌そうじゃ
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第103話:帰りたくない
夜のリビングには、テレビの音が小さく流れていた。何の番組だったかは覚えていない。画面の中では誰かが話していて、時々笑い声も聞こえる。けれど私の意識はほとんどそちらへ向いていなかった。ソファの上で拓真の肩に身体を預ける。背中に回された腕。一定のリズムで髪を撫でる指先。その体温が心地よくて、気づけば肩の力が抜けていた。静かな時間だった。特別なことは何もしていない。出掛けるわけでもない。どこかへ行くわけでもない。ただ同じ部屋で過ごしているだけ。それなのに、不思議なくらい満たされていた。私はぼんやりと目を閉じる。すると頭の上から声が落ちてくる。「眠い?」低く穏やかな声。私は少し笑った。「……少しだけ」「寝る?」その言い方があまりにも自然で、思わず肩が揺れる。「拓真、最近甘やかしすぎです」すると隣から小さな笑い声が聞こえた。「今さら?」私は思わず顔を上げる。拓真はどこか楽しそうだった。「愛海、甘やかすとすぐ顔緩むから」「……」図星だった。悔しいけれど否定できない。拓真はそんな私を見て少しだけ目を細める。それから自然な仕草で頬にキスを落とした。触れるだけの軽いキス。けれどその優しさに胸が熱くなる。「……拓真」「ん?」「最近、幸せそうですよね」自分でも不思議な質問だった。でも聞いてみたくなった。すると拓真は少しだけ笑った。「幸せだから」迷いのない返事だった。当たり前のことを答えるみたいに。その声に嘘はなかった。私は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じる。拓真は少し視線を落とした。「こういうの好きなんだよな」「……こういうの?」「普通の恋人みたいなやつ」少し照れたように笑う。「家具見たり」「送り迎えしたり」「くだらないことで嫉妬されたり」最後だけ少し意地悪そうだった。私は思わず睨む。でも拓真は全然気にしていない。むしろ楽しそうだった。「全部好き」静かな声だった。飾り気もない。でも本音だと分かる。私はその横顔を見つめる。樹との恋も幸せだった。大切にされていた。愛されていたと思う。けれど今振り返ると、私はどこか受け身だった。相手が決める未来に乗っていた。相手の手を取って進んでいた。自分で選んでいるつもりでも、どこかで流されていた。でも今は違う。拓真
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第102話:選びたい
夜のリビングには、テレビの音だけが静かに流れていた。バラエティ番組だったと思う。誰かが何かを話していて、時々笑い声も聞こえる。でも、その内容はほとんど頭に入ってこなかった。私はソファの端に座り、拓真の肩へそっと身体を預ける。隣から伝わる体温が心地いい。すると拓真が自然に手を伸ばし、私の髪を指で梳いた。ゆっくりと。優しく。髪を撫でるその仕草に、以前のような焦りはない。付き合い始めた頃の拓真は、もっと真っ直ぐだった。好きだと言う。会いたいと言う。抱きしめたいと言う。その気持ちを隠そうとしなかった。でも今は少し違う。私が何を考えているか。どんな顔をしているか。ちゃんと見ながら触れる。待ちながら触れる。大切なものを扱うみたいに。その優しさが胸に沁みた。「……」気づけば私は拓真のシャツの袖を指先で触っていた。すると頭上から声が落ちる。「何考えてる」低くて穏やかな声。私は少し笑った。「別に」「嘘」即答だった。しかも少し笑っている。最近の拓真はこういうところがある。私の嘘を見抜くのが上手い。隠そうとしても、大体ばれてしまう。私は小さく息を吐いた。それから視線を落としたまま口を開く。「……拓真って」「ん?」「最初から距離近かったですよね」拓真が少しだけ笑う気配がした。「まあ」短い返事。そして迷いなく続ける。「好きだったから」心臓が跳ねる。相変わらずだ。こんなことを照れもせずに言う。私は思わず視線を逸らした。樹もそうだった。最初から真っ直ぐだった。積極的だった。気づけば付き合っていた。婚約もそうだった。私は流れに乗っていた部分が大きかった。好きだった。もちろん本当に好きだった。でも今振り返ると、どこか受け身だった気がする。相手に選ばれて。相手に手を引かれて。気づけば未来へ進んでいた。恋愛とはそういうものだと思っていた。でも。今は違う。私はそっと拓真のシャツを掴む。拓真の身体が少しだけ動いた。視線がこちらへ向く。「愛海?」私は少しだけ唇を噛んだ。恥ずかしい。でも、言いたかった。「私」声が少し震える。「今まで、自分から恋愛したことなかったかもしれないです」部屋が静かになる。テレビの音だけが遠くなる。拓真は何も言わない。急かさない。た
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第101話:過去
金曜日の夜の空気は少し冷たかった。ショールームを出ると、昼間の賑わいが嘘みたいに落ち着いていて。駐車場へ続く通路には柔らかな照明だけが並んでいる。隣を歩く拓真は、さっき圭吾に散々からかわれたことなんて気にしていないみたいだった。車のキーを指先で回しながら歩いている。その横顔を見ていると、また胸の奥がざわついた。「……」拓真がちらりとこちらを見る。「何」「別に」即答する。すると拓真が少し笑った。「嘘」その言い方に少しむっとする。だって仕方ない。さっきから頭の中が落ち着かないのだ。大学時代。海外時代。来る者拒まず。モデルが寄ってきていた。圭吾が笑いながら話していた言葉が、何度も頭の中を巡る。知らない拓真。私が会うずっと前の時間。当たり前なのに。なぜか少しだけ胸が痛かった。車に乗り込む。ドアが閉まる音。エンジンがかかる音。静かな車内に、夜の街の光が流れていく。しばらく黙っていたけれど、結局我慢できなかった。「……昔」窓の外を見たまま呟く。「かなり遊んでたんですか」数秒の沈黙。そのあと、隣で小さな笑い声がした。「何その聞き方」「だって」私は視線を戻さない。「森さん、普通に言ってましたし」拓真はハンドルを握ったまま苦笑した。「圭吾の話、八割盛られてるぞ」「じゃあ二割は本当なんですね」「そこ食いつく?」少し笑っている。その余裕が悔しい。すると拓真は観念したみたいに息を吐いた。「まあ、モテたのは事実」胸がちくりと痛む。「二十代は普通に遊んでたし」否定しない。変に誤魔化さない。だから余計に想像してしまう。海外の街。華やかなパーティー。綺麗な人たち。今の拓真からは想像できない世界。「……」窓ガラスに映る自分の顔が少し不機嫌そうで、嫌になる。すると信号で車が止まった。静かな車内。その瞬間、拓真が片手を伸ばしてきた。私の手を掴む。大きくて温かい手。そのまま親指が指先をゆっくり撫でた。まるで機嫌を取るみたいに。「……」心臓が跳ねる。「そんなに気になる?」低い声。からかうようでいて、ちゃんと私を見ている。私は少しだけ唇を尖らせた。「だって」言葉を探しながら続ける。「拓真って、絶対モテるじゃないですか」その瞬間。拓真が吹き出した。本当に可笑し
Last Updated: 2026-06-03
八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない

八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない

八年前、天才画家エレナは、自作が国際犯罪組織の証拠となったことで、恋人を守るため死亡を偽装し、朝倉エマとして港町で静かに生きていた。絵も過去も捨てたはずだった。だが、抑えきれない創作衝動に抗えず、誰にも知られぬ倉庫で再び筆を取る。そんな彼女の前に現れたのは、失われた「最後の一枚」を探し続ける元恋人・玲。正体に気づかぬまま、玲は面影ではなく今のエマ自身に惹かれ、その想いはやがて誰にも渡したくない執着へ変わっていく。気づかれてはいけない女と、知らずにもう一度彼女を選ぶ男。最後の一枚が隠す真実の先で、二人は過去ではなく、現在の自分として再び恋に落ちる。
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Chapter: 第103話:朝倉さんに会いたい
「ああ」玲は、驚きもしなかった。「結衣さんのことでしたら、交際していません」あまりにも即答だった。女性が少し目を丸くする。「そうなんですか?」「はい。昔からの知人です。それ以上の関係ではありません」きっぱりと。曖昧さを残さない。エマは。なぜか少しだけ胸が軽くなった自分に気づいて。すぐにグラスへ視線を落とした。何を。安心しているのだろう。「じゃあ、今は特定の方はいらっしゃらない?」別の男性が興味深そうに聞く。玲は一度。僅かに考えるように黙った。それから。視線が動いた。真っ直ぐ。エマへ。心臓が。嫌な音を立てる。「お付き合いしている方はいません」そこまでは。普通だった。「ただ」玲の声が。ほんの少し柔らかくなる。「今、好きな方はいます」一瞬。周囲が静かになった。誰かが玲を見て。その視線を追う。一人。また一人。エマへ。視線が集まってくる。逃げたい。そう思った時には。玲が続けていた。「皆さんは、僕がエレナ・カワサキの公式作品を、最後の一枚を除いて保有していることをご存じかと思います」突然出た名前に。エマの呼吸が浅くなる。何人かが頷いた。この場にいる人間なら。知らない方が珍しい。玲がエレナ・カワサキの作品へ異常なほど執着してきたこと。市場へ出れば買い。貸し出しもほとんど行わず。最後の一枚を今も探していること。「僕は、彼女を亡くしてから」玲は静かに続けた。「仕事以外のことに、ほとんど興味を持てなくなりました」周囲から笑いは消えていた。玲自身が。それを口にすることの重さを。皆が感じ取ったのだろう。「仕事はします。人にも会います。食事にも行きますし、誘われれば必要な場所には顔を出します」穏やかな声。「でも」玲の視線が。またエマへ戻る。今度は。逸らさない。「その人が何を考えているのか知りたいとか」エマの指先に力が入る。「何が好きなのか。何を見ているのか。今日どうしているのか」玲は。少しだけ笑った。「そういうことを、自分から知りたいと思うことはありませんでした」胸が。苦しくなる。知っている。それが。どれほど玲らしくないことなのか。エレナだった自分は。誰より知っている。「そんなエレナ以来に初めてです」玲が言った。「仕事以外の時間を
Last Updated: 2026-09-08
Chapter: 第102話:八年前に置いてきたもの。
二階へ戻ると、まだ三作目の前には人が集まっていた。一枚の絵を前に、美術関係者たちの話は尽きない。「この頃は、後年ほど色が研ぎ澄まされていませんね」「でも、その未整理さが魅力でもあると思います」「人物に対して、窓の外が明るすぎる気もするな」誰かが言えば、別の誰かが返す。作品について。作者について。何を考えていたのか。なぜ、この色なのか。エマは少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。昔から。評価する側は、よく話す。作者が何を感じて描いたのかを推測し、作品へ意味を与え、時には本人以上にその意図を理解したように語る。評価される側が、その言葉をどう聞くのかまで考える人は少なかった。それが。エレナだった頃から、あまり好きではなかった。作品は外へ出れば、作者だけのものではなくなる。分かっている。それでも。自分の中にあったものへ、他人が次々と言葉を置いていく光景には、いつも少しだけ息苦しさがあった。けれど今は。それ以上に、不思議だった。もう二度と。この絵を現物で見ることはないと思っていた。八年前に置いてきたもの。エレナの人生と一緒に、遠くへ切り離したもの。確かに自分が描いた。塗り重ねた場所も。何度描き直したかも覚えている。それなのに。今は、他人の作品を眺めているような感覚さえあった。その距離に。八年という時間の長さを、改めて思い知らされる。「朝倉さん」黒木に呼ばれ、顔を上げた。眼鏡の奥から、相変わらず真っ直ぐこちらを見ている。「実物をご覧になって、どうでした?」また。感想。けれど、さっきテラスで古典作品について話した時のようには答えられない。ここには。玲も。浜中さんも。美術館関係者もいる。「初期作品らしい柔らかさがあって、綺麗だと思います」無難な言葉を選んだ。「後年より、まだ色も素直ですよね」黒木の眉が、僅かに動いた。先ほどの会話との落差に、腑に落ちていないらしい。けれど。問い詰めることはしなかった。少し考えてから、声を落とす。「……後で、もう少し聞かせてください」エマは一瞬、黒木を見る。ここでは話しづらい。そう察したのだろう。やはり、浜中さんが信頼しているだけのことはある。「はい」短く答えた時。視線を感じた。玲だった。少し離れた場所で別の人の話を聞きな
Last Updated: 2026-09-07
Chapter: 第101話:連絡先
「信じています」その一言に。エマは、思っていた以上に揺れた。玲は穏やかに笑っているだけだった。問いたださない。疑わない。黒木と何を話していたのかも。なぜあんなふうに見つめられていたのかも。何一つ聞かず。ただ、信じていると言った。その言葉が。妙に深く残った。八年前。エレナだった頃の自分は、玲に何度も信じてもらっていた。説明しなくても。全部言わなくても。最後には、自分の言葉を選んでくれる人だった。その記憶と。今。朝倉エマへ向けられた言葉が重なる。胸が苦しくなる。違う。今の玲は。エレナを信じているのではない。エマを信じると言った。その違いの方が。むしろ、エマには重かった。「……ありがとうございます」どうにか、それだけ返す。玲はそれ以上追わなかった。代わりに。視線が少し下へ落ちる。「それ」エマもつられて見る。折り返した袖の端。隠したつもりだった青緑の絵の具が、僅かに残っていた。「絵の具ですよね」「……はい」「この間の色、使ってみたんですか」一瞬。答えを濁そうとした。けれど。ここで否定する方が不自然だ。「少しだけ」エマは静かに答えた。玲の表情が、ほんの少し柔らかくなる。「そうですか」それだけだった。見せてください。何を描いているんですか。以前なら。そう聞かれていたかもしれない。けれど。玲は言わなかった。「無理に見たいと言うつもりはありません」先回りするように、静かに続ける。「エマさんが見せてもいいと思った時に、もしその日が来れば」エマは思わず玲を見る。「……最近、ずいぶん上手くなりましたね」「何がですか?」「予防線の張り方が」玲が一瞬、目を瞬いた。それから、少し笑う。「学習しているので」「私相手に?」「はい」あまりにも素直に答えられて。逆に困る。以前なら。押されれば拒絶する理由があった。でも。今の玲は。エマが嫌がるところでは止まる。逃げ道を残す。そのくせ。自分の気持ちだけは隠さない。その距離の取り方が。以前よりずっと厄介だった。「……皆さん、二階にいらっしゃるんですか?」エマは話を変えた。「はい。そろそろ戻らないと」そう言って。室内へ向かおうとした時だった。「エマさん」少しだけ。声の温度が変わった。エマは
Last Updated: 2026-09-06
Chapter: 第100話:嫉妬
***階段を下りる。ガラス扉の向こうに。二人が見えた。黒木とエマ。話しているだけだった。距離も。不自然なほど近くはない。けれど。黒木の視線が。気に入らなかった。玲は足を緩める。黒木は、人の目を見て話す男だ。美術への熱意が強い。興味を持ったものへ真っ直ぐ向かう。裏がある人間ではないことも知っている。それでも。エマを見る目には。美術の話だけでは説明できない関心が混じり始めているように見えた。彼女が話せば。目を逸らさず聞く。エマが海へ視線を逃がしても。また顔を見ている。そのことが。胸の奥をざらつかせた。玲がガラス扉へ近づいた時だった。「朝倉さんの目は、不思議と見てしまいますね」黒木の声が聞こえた。玲の指が止まる。エマが。少し困ったように笑った。「そうですか」「はい」黒木は。やはり真っ直ぐエマを見ていた。「目の中に、ひまわりが咲いているようで綺麗です」胸の奥に。鋭く感情が落ちた。嫉妬。そう認めるまでに、時間はかからなかった。ひまわり。玲にとって。あの瞳をそう表現するのは。自分だけだと思っていた。琥珀と淡い茶色の中に。光が入ると、薄い緑が浮かぶ。エレナの瞳。初めて近くで見た時。目の中に小さなひまわりが咲いているようだと思った。エレナにそう伝えたこともある。それは。自分だけが見つけたものだと。どこかで勝手に思っていた。同じ瞳を持つエマへ。別の男が。同じ言葉を使った。理屈では。ただの偶然だと分かっている。それでも。気に入らなかった。「黒木さん」声は。普段と変わらず出た。黒木が振り返る。エマもこちらを見る。玲は黒木へ微笑んだ。「上で、エレナ・カワサキの初期作品をご紹介しています」「エレナの?」黒木の目が動く。「三作目です。浜中さんが、黒木さんにもぜひ、と」「三作目?」明らかに表情が変わった。美術の話になると。本当に分かりやすい。「実物ですか?」「はい」黒木はすぐにエマを見る。「朝倉さん、すみません。続きはまた後ほどでも?」「もちろんです」「ありがとうございます」黒木は玲へ軽く頭を下げると、室内へ入っていった。玲は。その背中をもう一度見た。端正な顔立ち。知識もある。落ち着いている。美術への熱意も本物だ。危険な人
Last Updated: 2026-09-03
Chapter: 第99話:自分だけだと思っていた
エレナの三作目を前に、人が集まっていた。玲は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。以前の自分なら。この光景を、心地よいとは思わなかったはずだ。エレナの作品を人に見せること。他人がそこへ意味を与え、好き嫌いを語り、それぞれの解釈を口にすること。それが嫌だった。自分だけが知っている彼女の一部を、知らない人間へ渡していくような感覚があった。だから作品を集めても、ほとんど外へ出さなかった。保存する。守る。二度と失わない場所へ置く。それでいいと思っていた。けれど今。美術館関係者たちが三作目を囲み、思い思いに言葉を交わしている。「この時期は、後年より色が素直ですね」「でも構図には、もう閉鎖性がある」「私はむしろ、この未整理な感じが好きです」賞賛もあれば。批評もある。それなのに。以前ほど気にならない。玲は、その変化をはっきり自覚していた。エレナを誰にも渡したくないという感覚が。少しずつ薄くなっている。忘れたわけではない。大切ではなくなったわけでもない。ただ。今の自分の感情を強く動かしているものが、別にある。エマ。彼女への気持ちが大きくなるほど。八年間、自分の中心を占め続けていた過去が、少しずつ形を変えている。そのことを。もう否定する気にはなれなかった。***今日は。少し緊張していた。それもまた。玲には珍しい感覚だった。ここは、半年間過ごすために借りた場所だ。東京の自宅とは違う。まだ自分のものもほとんど運び込んでいない。それでも。今の自分が生活する場所へ、エマを招いた。それだけで。妙に落ち着かなかった。気に入るだろうか。海は好きだろうか。人が多すぎれば疲れないだろうか。一人で来ることを警戒すると思って、浜中にも声をかけた。そんなことまで考えている自分に気づいて。玲は小さく息を吐いた。誰かを自分の生活する場所へ呼ぶだけで。こんなに緊張したのは、いつ以来だろう。スマートフォンが震えた。画面を見る。結衣からだった。『ビーチハウス、本当に借りたんですね。今度呼んでください』その下には。仕事で何度か顔を合わせた女優からも。『海の家、素敵だって聞きました。遊びに行きたいです』ほかにも数件。玲は画面を眺め。そのまま閉じた。返事をする気にならない。以前なら、必要な
Last Updated: 2026-09-03
Chapter: 第98話:ひまわりの瞳
テラスへ出ると、潮を含んだ風が頬を撫でた。室内の話し声はガラス扉一枚を隔てただけで遠くなる。黒木は手すりから少し離れた場所で足を止め、エマへ向き直った。改めて正面から見ると、思っていたより端正な顔立ちをしている。年齢はエマより十歳ほど上だろうか。細い黒縁の眼鏡の奥には切れ長の目があり、表情そのものは静かだった。けれど。よく目が合う。「朝倉さん?」「……すみません」エマは反射的に視線を外した。この人は、話す時に真っ直ぐ相手を見る。それだけなのだろう。けれど、人から長く見られることに慣れていないエマには、少し落ち着かなかった。「美術館のことは、浜中さんからどのくらい聞いていますか?」「企画展について、少しだけです」「では、前提からお話しします」黒木はそう言って、美術館の成り立ちから話し始めた。港町が観光地として整備されるより前から、土地に縁のある収集家たちが少しずつ作品を寄贈してきたこと。そのため、所蔵作品は一つの時代や地域に偏らず、日本美術から近代西洋絵画まで幅が広いこと。「それが面白さでもありますが、難しさでもあります」「展示に一本の流れを作りにくい?」黒木の目が、エマへ向く。「そうです」また。視線が重なった。エマは海へ目を移した。黒木は気にした様子もなく続ける。「今回、古典作品を中心に組み直す区画があります。今ある所蔵品だけでも成立はしますが、解釈と展示の方向性を明確にするため、二作品ほど借り受けの交渉をしていまして」黒木が大まかなテーマと、現在置かれている作品の構成を説明する。エマは頭の中で並べた。壁の長さ。時代。視線の流れ。人間と宗教。生と死。説明を聞き終える前に。二枚の作品が浮かんだ。「――と、――ですか?」作品名を二つ口にする。黒木が黙った。エマはそこで、ようやく彼を見る。眼鏡の奥の目が、僅かに見開かれていた。表情を変えない人だと思っていたのに。意外だった。「……どうして分かったんですか?」「テーマをその方向に置くなら、自然かなと」「自然」黒木が小さく繰り返す。まずかっただろうか。エマは少しだけ言葉を足した。「昔、美術館を見るのが好きだったので」嘘ではない。黒木は何かを考えるようにエマを見たが、それ以上は追及しなかった。「一枚目は、おそらく借りられ
Last Updated: 2026-09-02
隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる

隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる

32歳、広告代理店勤務の平原愛子は、誕生日当日、同棲中の恋人から突然別れを告げられた。新しい部屋で人生をやり直そうとした彼女の隣に住んでいたのは、五年前、自分から音信不通にして捨てた年下の元恋人・翔太だった。忘れたはずなのに、声も匂いも、触れられた記憶も身体だけが覚えている。一方、傷ついた愛子を支えたのは、五年来の親友で同期の正人。「試しでもいいから、俺と付き合わない?」穏やかな恋を選んだはずなのに、捨てた恋は壁一枚隔てた隣で、再び彼女の心を奪い始める。 自分を救ってくれる男と、捨てたはずなのに忘れられない男。新しい恋を選んだはずの愛子の心を、捨ててしまった恋が再び狂わせていく。
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Chapter: 第228話:引いてくれる人
正人の姿が、街灯の向こうで小さくなっていく。私はしばらく、その場に立ったまま見送っていた。帰っていいのに。もう実家はすぐそこなのに。正人は、私が角を曲がるまで見送るつもりなのだろう。昨日の改札でもそうだった。ちゃんと、最後まで見ている。押しつけがましくない。でも、こちらが振り返れば、そこにいる。その距離の取り方が、正人らしくて、胸の奥が静かに温かくなる。この人の期待に、ちゃんと応えたい。そう思った。思ったはずなのに。同時に、その期待に応えるためには、自分の中に残っているものを見ないふりできないことも、もう分かっていた。私は小さく手を振り返して、正人に背を向ける。角を曲がると、正人の姿は見えなくなった。見えなくなった瞬間、胸の奥にあった緊張が少しだけほどける。ほっとした。でも、そのほっとした自分に、また少しだけ後ろめたさを覚える。「で?」隣から声がした。楓だった。コンビニ袋を片手に、私の顔を覗き込んでくる。「彼氏?」早い。雑。でも核心。私は思わず視線を逸らした。「……まあ、そんな感じ」正確には、まだ違う。まだ返事はしていない。明日、ちゃんと話すつもりでいるだけだ。でも、たぶん。きっと。そうなるのだと思っている。だから、その言い方でいい気がした。楓は少し考える顔をする。「ふーん」コンビニ袋の中で、ペットボトルが小さく音を立てた。私は少しだけ身構える。楓はこういう時、遠慮がない。悪気もない。でも、身内だからこそ、言葉が変な角度から刺さってくることがある。「いい人っぽいじゃん」楓が言った。「ちゃんとしてるし」「うん」「イケメンだし」「そこ?」「大事でしょ」「まあ……」「あと、愛子のことめっちゃ好きそう」足が少しだけ止まりそうになる。正人の「あけるよ」という声が蘇る。待っていた人の声。仕事終わりに駅で待っていてくれたこと。青木くんのことを心配しながらも、責めずに笑ってくれたこと。楓の前でも自然に挨拶してくれたこと。全部が、静かに胸の中に戻ってくる。「……そうかな」「いや、そうでしょ」楓は当たり前みたいに言う。「見れば分かるじゃん」「見ればって」「愛子を見る時、空気が違った」言われた瞬間、少しだけ顔が熱くなる。楓のくせに。変なところを見ている。
Last Updated: 2026-09-08
Chapter: 第227話:今、結構見てたけど
ふと横を見る。街灯に照らされた横顔。高い鼻筋。少し疲れているのに、崩れない輪郭。仕事終わりの気怠さがあるのに、整っている。綺麗だな、と思った。その瞬間、ふと頭によぎる。この人が、自分の彼氏になる。少しだけ、恥ずかしくなる。まだ、ちゃんとは想像できない。でも、不思議と嫌じゃなかった。むしろ、そのうち慣れる気がした。この距離も。隣を歩く感じも。仕事終わりに、他愛もない話をして帰る時間も。少しずつ、馴染んでいくんだろう。無理なく。ゆっくり。そう思えた。熱ではなくて、安心。胸が締めつけられるような感情ではない。でも、静かに心が落ち着く。心地いい。その感覚が、自分の気持ちを、少しずつ固めていく。優しくて。誠実で。ちゃんと言葉にして。でも、押しつけない。丁寧に距離を作ってくれる。尊敬する。人として。たぶん、社会人になってから、一番。そんなことを考えていたら、正人が少しだけ覗き込んだ。「……何?」「え?」「どうしたの?」私は慌てて視線を逸らす。「なんでもない」「今、結構見てたけど」「見てない」「見てたよ」「見てないってば」正人が少し笑う。「そっか」そのまま、またゆっくり歩く。会社の話。最近の案件。青木くんのマブ制度。さやかの酒癖。たわいもない話。でも、心地よかった。正人は、青木くんの話を必要以上に掘らなかった。どこで飲んだのか。何を話したのか。楽しかったのか。そういうことを聞いてもよかったはずなのに、聞かなかった。ただ、青木くんが仕事に前向きならよかったね、と言っただけだった。その一言で、私はまた少し胸が痛くなる。この人は、聞きすぎない。でも、見ていないわけじゃない。たぶん、ちゃんと気にしている。気にしているのに、私が苦しくならない場所に言葉を置く。そのことが、今の私にはあまりにも優しかった。気づけば、実家の最寄り駅に着いていた。駅から少し歩くと、住宅街へ入る。いつもの自分のマンションとは違う道。低い建物。古い植え込み。夜でも明るいコンビニの灯り。少しだけ懐かしい匂いがする。実家の近くまで来ていた。私は小さく立ち止まる。少しだけ迷って、でも、決める。「……正人」「ん?」「明日、時間ある?」声に出した瞬間、心臓が少しだけ速くなった
Last Updated: 2026-09-07
Chapter: 第226話:帰り道の温度
青木くんとの居酒屋は、思っていたより普通に仕事の延長だった。最初こそ、「愛子さんって新人の頃から怖かったんですか?」とか、「会議で刺さる一言ってどうやって出すんですか?」とか、質問の方向が少し独特で、私は何度か焼き鳥を吹きそうになった。でも、話しているうちに分かった。青木くんは、距離が近い。言葉も軽い。勢いだけで人の懐へ入ってくるところがある。けれど、仕事に対してはちゃんと真面目だった。分からないことを分からないままにしない。褒められると素直に喜ぶ。注意されても、必要以上に落ち込まない。その軽さは、若さであると同時に、強さでもあるのだと思った。「今日、愛子さんに言われたやつ、めっちゃ分かりました」青木くんは烏龍茶のグラスを持ったまま、前のめりに言った。「クライアントが社内で説明しやすい形ってやつ」「うん」「俺、企画を面白くすることばっか考えてたんですけど、それを通す人のことまで考えてなかったなって」「そこに気づけるなら大丈夫」「ほんとですか?」「うん。伸びると思う」そう言うと、青木くんは分かりやすく嬉しそうな顔をした。子犬みたいだな、と思う。嬉しい時に、全身で嬉しそうにする。正人なら、たぶん少し目を伏せて、口元だけ緩める。翔太なら、ふっと笑って、少し皮肉っぽいことを返す。そこまで考えて、私は箸を止めた。また比較している。すぐに、誰かを思い出す。何を見ても、何を聞いても、心が勝手に二方向へ枝分かれしてしまう。私は慌てて水を飲んだ。「愛子さん?」「ううん。続けて」「はい!」青木くんは気づかない。その鈍さに少し救われる。一時間半、と言ったのに、店を出る頃には二時間が過ぎていた。青木くんは最後まで元気だった。「今日ありがとうございました!」「うん。明日、今日の話まとめておいて」「え、宿題あるんすか」「あるよ。飲んだだけで終わらせない」「厳しい」「優しい方です」「それ、今日二回聞きました」「大事なことだから」駅前で別れる時も、青木くんは深く頭を下げた。「マブ候補として、明日も頑張ります!」「だから会社でマブって言うのやめようか」「じゃあ、信頼構築フェーズで」「急にビジネスっぽくした」「こっちの方がいいですか?」「どっちも微妙」青木くんは笑って、違う路線の改札へ走っていった。
Last Updated: 2026-09-06
Chapter: 第225話:……マブ?
「ここは、まずクライアントが社内で説明しやすい形にした方がいい」「社内説明用っすね」「そう。意思決定者が見る資料と、現場が見る資料は少し違うから」「なるほど……。愛子さん、今の一言、メモっていいですか?」「いいけど、そんな名言ではない」「いや、刺さりました」「刺さらなくていい。理解して」「理解します!」やっぱり若い。元気がある。その元気が、今の私には少し眩しい。ふと、私は思った。……あれ?私の周り、なんかガタイ良い人しかいなくない?昨日のマッチョたち。正人。翔太。しかも、なぜか全員、肩幅が広い。気づけば近くにいる人たちが、妙に大きい。そこへ突然現れた、茶髪の、少し華奢寄りな子犬。なんというか、毛色が違う。私は一人、少し苦笑いした。いや、なんで今そこ比較した?仕事中に何を考えているんだろう。私はPC画面へ視線を戻した。けれど、青木くんが隣で真剣に資料を読んでいる姿を見ると、少しだけ気持ちが軽くなる。恋愛の気配がまったくない。変な緊張もない。ただ、若手の面倒を見る。仕事を教える。質問に答える。その関係性の分かりやすさに、少し救われた。気づけば、仕事はあっという間に夜だった。オフィスの照明が少し落ち着いた色に見える時間。チャットの通知も少し減り、人の声もまばらになっていく。青木くんがPCを閉じながら、こちらを見た。「愛子さん」「何?」「飯行きません?」あまりにまっすぐだった。疲れた顔。でも、少し嬉しそう。「腹減って死にそうっす」若い。分かりやすい。少し笑ってしまう。「死なれると困るから、いいよ」「やった」「どこ行きたい?」即答だった。「居酒屋!」元気。迷いがない。半年は密に関わる。距離感作りも大事だ。それに、今日かなり詰め込んだので、少し雑談する時間があってもいい。そう思った。「じゃあ、軽くね」「軽くの定義って何ですか?」「一時間半」「短っ」「若手指導は業務時間外まで無限延長しません」「厳しい」「優しい方です」そんな話をしながら、会社を出る準備をした。エレベーターへ向かう途中だった。「あ、正人さん」青木くんが急に言った。私は顔を上げる。正人がいた。媒体の打ち合わせが長引いたのだろう。少し疲れた顔で、スマホを見ながら誰かとテキストし
Last Updated: 2026-09-06
Chapter: 第224話:トレーナー
翌朝。さやかから連絡が来た。『あんま覚えてないけど、マッチョの輝きだけは覚えてる』数秒後。さらに追撃。『頭痛い』私は、朝のコーヒーを吹きそうになった。思わず笑う。昨日のさやかを思い出す。マッスル注射。妙に乙女みたいな顔。「肩ってどう鍛えるの!?」「私にはこういうトキメキないの!」と真顔で語っていた姿。そして、最後には完全に泥酔して、正人に支えられて歩いていたところまで。あの人、本当に自由だった。私はコーヒーカップを置いて、短く返す。『普通に二日酔い』すぐに既読がついた。『もう酒やめる』少し間が空いて、次のメッセージ。『って毎回言ってる』私は小さく吹き出した。確かに。さやかの「もう酒やめる」は、季節の挨拶みたいなものだ。真剣に受け取る方が負ける。スマホを伏せる。その瞬間、昨日のことが少しだけ蘇った。マッスルバー。正人。腕まくりされたシャツ。迎えに来た姿。場違いなはずの空間に、妙に自然に立っていた背中。酔ったさやかを当たり前みたいに回収して、店の人たちと軽口まで交わして、最後には私を駅まで送ろうとしてくれたこと。思い出すと、胸の奥に小さな熱が戻ってくる。翔太の時とは違う。一瞬で呼吸を乱されるような熱ではない。もっとゆっくり、後から効いてくるような温度。あの人は迎えに来る。必要だと思ったら、ちゃんと動く。意味の分からない場所でも、面倒な状況でも、空気を壊さずに入ってきて、誰も傷つけない形で場を整える。そういう正人の強さを、昨日の夜は妙にはっきり見てしまった。私はカップを持ったまま、少しだけ視線を落とす。でも、考えない。今日は。考えたら、また同じところへ戻ってしまう。正人に返事をしなきゃいけないこと。翔太と距離を置いていること。自分の中にまだ残っている、言えないもの。そういうものを、朝から全部取り出したら、また動けなくなる。私はコーヒーを飲み切って、カップを流しへ置いた。実家へ帰れば、楓が相変わらずうるさかった。「姉ちゃん、マリカやろ」リビングのソファで足を広げながら、当然みたいに言う。「今?」「今」「いや、疲れてるんだけど」「一回だけ」絶対一回じゃ終わらないやつだった。分かっていた。それでも、私はなぜかコントローラーを受け取っていた。そして、普通に三
Last Updated: 2026-09-03
Chapter: 第223話:プライベートの顔
「ほんとすみません」それから、眠っているさやかを見て、小さくため息をつく。でも、そのため息は呆れながらも優しかった。「でも助かりました。愛子ちゃんも正人さんも、本当にありがとうございます」夫婦の空気だった。穏やかで。ちゃんと信頼がある。さやかがどれだけ外で騒いでも、最後にはこの人が受け止めるのだろう。そう思うと、少し安心した。正人はさやかを旦那さんへ預ける時も、動きが丁寧だった。相手に負担がいかないように、ゆっくり体重を移す。「足元気をつけてください」「ありがとうございます」「水飲ませた方がいいと思います」「はい、そうします」会話があまりにも実務的で、少し笑いそうになる。でも、その実務的な優しさが正人らしかった。「じゃあ、また」旦那さんに見送られて、マンションを出る。気づけば、二人きりだった。夜が、少し静かになる。さっきまでの異様な熱気が嘘みたいだった。重低音。筋肉。マッスル注射。酔ったさやか。全部が現実感のない数時間だった。夜風が、少し気持ちいい。春が近い空気。冷たすぎない。でも、歩いていると頬が少しだけ冷えるくらい。私は小さく息を吐いた。「……なんか」言葉を探す。「色んな悩み吹っ飛ぶくらい、非日常だった」少し笑う。「マッスルバー、強烈すぎる」正人が隣で小さく吹き出した。「それは俺も思った」珍しく、本当に疲れた顔をしている。でも、どこか笑っている。「正直、一瞬意味分からなかった」「だよね……」「電話で、マッチョに絡まれてるって聞いて」正人が少し苦笑いする。「何それ、ってなった」「私も分からなかった」「しかも着いたら」少しだけ肩をすくめる。「愛子、めちゃくちゃ困ってそうだし」言いながら笑う。でも、その笑いの奥に、少しだけ本音が見えた。ちゃんと心配して来たんだ。それが、改めて分かる。「ちょっと一瞬、訳分かんなかったよね」その言い方が、責めるでもなく、茶化すだけでもなく、ただ事実として笑ってくれる感じで、少し救われた。私も肩の力を抜く。「私は、一回で十分かな……」本音が漏れる。「もう二度とマッスル注射すすめられたくない」「なにそれ」正人が笑う。「飲んでないけど、名前がもう無理」「名前が強すぎる」「そう。強すぎる」並んで歩く。繁華街の灯りが
Last Updated: 2026-09-03
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