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Sunny
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Novels by Sunny

愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました

愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました

四回目の結婚記念日。 それは、綾香にとって「離婚を決意した日」になった。 医師としてのキャリアを捨て、夫・優の“期限付きの契約結婚”に尽くしてきた四年間。 初恋の相手である愛人・咲子を優先されても、「あと半年で終わる結婚だから」と、自分に言い聞かせて耐えてきた。 ——けれど、四年目の結婚記念日に愛人を家へ連れ帰られた瞬間、綾香の心は限界を迎える。 そんな綾香の前に現れたのは、学会で出会った開業医・綾瀬隼人。 仕事も、住む場所も、人生の再スタートも。 隼人に背中を押され、綾香は少しずつ“妻”ではなく、“自分”を取り戻し始める。 これは、人生を奪われた女が、自分を取り戻し、本当の愛に出会う物語。
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Chapter: 第426話 後ろめたかったんじゃないの
「そのままの意味って?」聞き返すと、隼人くんは一度だけ深く息を吐いた。背もたれに預けていた身体を、少しだけ起こす。怒鳴らない。声も荒げない。それでも。その呼吸の重さに、ずっと抑えているものがあるのが分かった。「仕事として丸く収めるって」隼人くんが、ゆっくり言う。「何?」「だから」「和人兄さんが綾香ちゃんにだけ必要以上に細かく聞いてきても」こちらをまっすぐ見る。「綾香ちゃんが全部答えられるようになれば、それで解決なの?」言葉に詰まる。「起きてること自体が」声が、少しだけ低くなる。「恣意的に、綾香ちゃんのためにならないことでも?」胸の奥が、嫌な音を立てた。「それは……」「大体」隼人くんは、私の言葉を待たずに続けた。それも珍しかった。普段なら。私が何を言おうとしているのか、最後まで聞く。「丸く収めるって何?」少しだけ眉を寄せる。「東郷さんの力を借りること?」一瞬。何を言われたのか分からなかった。次の瞬間。胸の奥が一気に熱くなる。「……何それ」自分でも驚くくらい、声が硬くなった。隼人くんの目が、わずかに動く。「優の助けなんて」膝の上で握っていた手に、自然に力が入る。「頼んで借りてない」「綾香ちゃん」「向こうが、自分でやっただけでしょう」止まらなかった。感情的になってはいけない。そう思っていた。でも。この言い方だけは。どうしても流せなかった。「なのに、なんで」私は隼人くんを見る。「私が優に助けてもらおうって思ってるみたいに言うの?」隼人くんは黙る。その沈黙が、さらに腹立たしかった。「今までのことだって知ってるよね」胸が苦しくなる。怒っている。でも。それだけじゃない。悲しかった。この人にだけは。そう見られたくなかった。「私が優との結婚でどうなったか」喉の奥が熱くなる。「隼人くん、知ってるよね」声が少し震えた。「そんなこと言うなんて」一度、息を吸う。「信じられない」言ったあと。部屋が急に静かになった。自分の呼吸だけが、やけに近く聞こえる。隼人くんは少しだけ視線を落とした。怒らせた。そう思った。でも。次に上がった顔は、怒りより疲れて見えた。「綾香ちゃんが」ゆっくり息を吐く。「そう思ってなくても」声は低い。「向こうがそう思ってて
Last Updated: 2026-11-06
Chapter: 第425話 言えなかった理由
言葉が出なかった。テーブルの上では、さっき隼人くんが淹れてくれたお茶からまだ細い湯気が立っている。部屋の照明はいつも通り柔らかく、ソファも見慣れたものなのに、今日はどこか落ち着かなかった。私はカップに触れたまま、何も言えずにいた。隼人くんも、急かさない。ただ、少し離れた隣に座ったまま、静かにこちらを見ている。触れてこない。それが、かえって気になった。いつもなら、こうして私が黙れば、指先くらいは触れてくる。でも今日は、それすらない。「……綾香ちゃん」しばらくして、隼人くんが口を開いた。声は落ち着いていた。ただ、いつもより少し低い。「どうして言えなかったのかは、分かってる」思わず顔を上げる。隼人くんは、私を見たまま続けた。「俺が聞いたら動くと思ったんでしょう」胸の奥が、小さく揺れる。「和人兄さんに何か言うかもしれないし、仕事の進め方を変えるかもしれない」一度だけ視線を落とし、膝の上で指を組む。「綾香ちゃんは、それをされたくなかった」かなり近い。というより。ほとんど、その通りだった。「自分のことは自分で決めたい。それも分かってる」そこまでは、理解を示すような声だった。でも。次の言葉の前に、隼人くんは少しだけ息を吐いた。「分かってるけど」目が、またこちらを向く。「それと、俺が嫌じゃないかは別なんだよ」その言い方に、胸が詰まった。穏やかではある。でも。もう柔らかくはない。「元夫の東郷さんには話せて」言葉が、静かに落ちる。「彼氏の俺には言えない」私は、反射的に視線を逸らした。カップの中で揺れるお茶を見る。その動きを、隼人くんは何も言わず見ていた。「その状況が」少しだけ間が空く。「俺は嫌だよ」「それは……」口を開く。でも、うまく続かない。優には相談していない。それは本当だった。でも。結果として優は知っている。隼人くんは知らなかった。その差だけを見れば。どう説明しても、言い訳みたいに聞こえる気がした。「それに」隼人くんが続ける。「今日、俺が話したいって言わなかったら」声は変わらない。でも、語尾が少しだけ硬い。「綾香ちゃん、絶対に自分から言わなかったよね」胸の奥が、かっと熱くなる。「そんなことない」思ったより早く、言葉が出た。隼人くんは黙る。私は、その視
Last Updated: 2026-11-05
Chapter: 第424話 どこまで知っているの
助手席に座って、シートベルトを締める。隼人くんが運転席へ回り込み、ドアを閉めた。車内に、外の冷たい空気が少しだけ残る。エンジンがかかると、低い振動と一緒に車内の照明が落ちた。「寒かった?」隼人くんが前を向いたまま聞く。「少しだけ」「暖房、上げる?」「大丈夫」「そっか」それだけ。もっと何か言われると思っていた。病院の前まで迎えに来た理由も。昼間、優と何を話したのかも。でも隼人くんは、それ以上触れなかった。車がゆっくりと走り出す。病院の明かりが後ろへ流れていく。私は窓の外を見ながら、隣の気配をずっと意識していた。「今日、遅かったね」「うん。最後に病院側の確認が入って」「例の資料?」「それも」「進んだ?」「だいぶ」「よかった」信号で車が止まる。隼人くんは、いつものように落ち着いた声で仕事の話を聞いてくる。どこまで進んだのか。誰との確認が残っているのか。今日の会議で決まったことは何だったのか。どれも、本当に普通の質問だった。だからこそ。違和感があった。今日。優を呼び出した。そのあと、一度も連絡をしてこなかった。わざわざ病院まで迎えに来た。それなのに。今は何事もなかったように、私の仕事の話を聞いている。「次の資料で、一旦大きいところは終わると思う」「じゃあ、少し楽になる?」「多分」「最近ずっと遅かったからね」隼人くんが一度こちらを見る。目元は柔らかい。「ちゃんと寝てる?」「それは隼人くんに言われたくない」「あ、それはそう」少し笑う。私もつられて笑いそうになった。でも。その笑いがすぐに消える。表面だけなら、いつも通りだ。なのに。何かが違う。隼人くんは、昼間のことを避けているのではなく。たぶん。話す場所を決めている。それまでは何も言わないつもりなのだ。そう思うと、余計に落ち着かなかった。赤信号が青へ変わる。車がまた動き出す。私は膝の上で指を重ねた。何て説明しよう。そのことばかり考える。和人さんに言われたこと。優に話した経緯。自分で何とかしたかった理由。全部を話せばいい。分かっている。でも。言葉にすると。隼人くんに言わなかったことそのものが、もっとはっきりしてしまう気がした。***家に着くまで。隼人くんは結局、その話をしなかった。
Last Updated: 2026-11-04
Chapter: 第423話 今日は話したい
最後の確認を終えた頃には、病院の中もかなり静かになっていた。昼間は絶えず人が行き交っていた廊下も、今は足音が遠く響くくらいで、受付周辺の照明も一部落とされている。スマートフォンを見る。隼人くんからは、結局あれから一度も連絡がなかった。私からもしていない。普段なら、どちらかが一度くらいは何か送る。帰る時間でも。夕飯でも。本当にどうでもいいことでも。今日は、それがなかった。昼間。優と二人でどこかへ行ったあと。隼人くんが何を聞いたのか。何を思ったのか。分からないまま、時間だけが過ぎていった。考えても仕方がないと思いながら、私は仕事を続けた。それでも。病院を出る直前になって。ふと。今日は自分の家に帰ろうと思った。隼人くんの家へ行けば。きっと、昼間のことを聞かれる。まだ。何をどう説明すればいいのか、自分の中でも整理できていなかった。だから。少しだけ時間が欲しかった。建物を出ると、夜の空気が思ったより冷たかった。私はコートの前を少し閉じ、スマートフォンを取り出す。タクシーを呼ぼうと画面を開いた時だった。少し先の車寄せに、見慣れた車が停まっている。その横に。人が立っていた。足が止まる。街灯の下で、黒いコートの輪郭だけが浮かんでいる。でも。近づく前に分かった。「……隼人くん?」声をかけると、ゆっくりこちらを向いた。短くなった髪。片手をコートのポケットに入れ、もう片方の手には車の鍵を持っている。「お疲れ」声は穏やかだった。いつもと同じように聞こえる。でも。笑い方が少しだけ薄い。目元も柔らかいのに、その奥に何かが残っている。読めない。「どうして?」聞くと、隼人くんは少しだけ口元を緩めた。「迎えに来た」「でも、連絡」「してないね」静かに返す。それから。ほんの少しだけ視線を落とした。「今日」一度、言葉を選ぶように間が空く。「ちゃんと話したかったから」胸の奥が、少しだけ固くなる。「電話でもよかったんだけど」隼人くんは、私を見る。「綾香ちゃん、多分」少しだけ笑う。「今日は自分の家に帰ろうとすると思った」図星だった。何も返せない。「だから」車の方へ視線をやる。「先に来た」その言い方が。妙に隼人くんらしかった。感情のまま押しかけたというより。私が逃げるか
Last Updated: 2026-11-03
Chapter: 第422話 俺との結婚のせいで
*** 綾香は、最後まで少し居心地が悪そうな顔をしていた。会議が終わったあとも、資料を抱えたまま郁人さんの近くに立っている。たぶん。俺と隼人さんが何を話すのか、気になっている。それでも、自分からは何も聞かない。そういうところは昔から変わらない。いや。正確には。変わらなかったのではなく、俺との結婚で、もっと慎重になった。そのことを、最近になってようやく分かるようになった。「東郷さん」隼人さんに呼ばれて、俺は視線を戻した。「少しいいですか」「はい」綾香を見る。ほんの一瞬だけ目が合った。不安そうだった。だから。大丈夫だという意味で、少しだけ笑った。それ以上は何もしない。何を話すかを決めるのも。どこまで話すかを決めるのも。本来なら。綾香自身であるべきだから。俺は隼人さんのあとを追って、会議室を出た。***案内されたのは、廊下の奥にある小さな打ち合わせスペースだった。扉が閉まると、外の音が少し遠くなる。隼人さんは向かいへ座り、さっきの資料をテーブルに置いた。「さっきの意味なんですが」すぐに本題へ入る。「和人兄さんに聞かれると思ったから、あそこまで細かく資料を作った」資料の一部へ指を置く。「そういう意味ですよね」「そうです」「普通なら、ここまで必要ない?」「必要ないです」即答すると、隼人さんの目がわずかに細くなった。「綾香ちゃんにだけ?」そこで、少し考える。綾香は。自分からこの人に話していない。それには理由がある。そして俺は、その理由まで知っている。「少なくとも、俺が見ている範囲では」慎重に答える。「他の人より明らかに細かいです。担当範囲じゃないところまで聞かれることもある」「だから、東郷さんが先回りしてる?」「契約周りなら俺が見られるので」資料へ視線を落とす。「聞かれる可能性があるなら、先に潰しておいた方が早いですから」隼人さんは、しばらく何も言わなかった。表情は穏やかだった。でも。ページをめくる指が途中で止まる。「綾香ちゃん」少しだけ視線を落としたまま言う。「俺には何も言ってないんですよ」和人さんへの怒りとは違うものが、その声に混じっている。「多分、自分で何とかしたいんだと思います」「それは分かってます」返事は早かった。そのことに少しだけ安心した。
Last Updated: 2026-11-02
Chapter: 第421話 気づき始める
数日後。珍しく、隼人くんも同じプロジェクトの会議に出ることになった。会議室へ入った時、少し離れた席にいる隼人くんと目が合う。ほんの一瞬だった。でも。目元がわずかに柔らかくなる。それだけで、家にいる時とは違うのに、私にはちゃんと分かる。仕事中の隼人くんは、クリニックにいる時とほとんど変わらなかった。必要なことだけ話し、相手の意見もきちんと聞く。私にだけ特別な態度を見せるわけでもない。家での、私に触れることをためらわない隼人くんとは少し違う。でも、その切り替えが私は嫌いではなかった。むしろ。こういう時の隼人くんを見ると、改めて仕事ができる人なのだと思う。ただ。一つだけ気になったことがあった。和人さんの視線。隼人くんが発言するたび。ほんの少しだけ。確認するように見る。私と目が合ったあと。今度は隼人くんを見る。何かを比べているような。そんな視線。それでも。会議そのものは順調だった。私の資料にも大きな指摘はなく、優が補足した契約部分もそのまま通った。計画は、ようやく前へ進み始めている。そのことに、少しほっとした。***会議が終わると、和人さんは先に部屋を出た。私は残った資料を整理しながら、優と次回までの確認をしていた。「ここ」優が一枚指す。「次までに、この条件だけ足せば大丈夫」「分かった」その時。「東郷さん」声がして、二人とも顔を上げた。隼人くんだった。いつもの穏やかな顔。でも。目は、少しだけ資料の方へ向いている。「ちょっといいですか?」「はい」優が自然に向き直る。隼人くんは私たちの間にある資料を取り、一枚ずつ軽く目を通した。「これ」ページをめくる。「前にも見たんですけど」少しだけ眉を寄せる。「ここまで権利関係を細かく決める必要あります?」胸が。少しだけ固くなる。優は、特に迷わなかった。「和人さんに聞かれると思ったので」あまりにも普通に言う。隼人くんの目が、ほんの少し止まった。「和人兄さんに?」「はい」優は資料を見ながら、そのまま続けた。「前に綾香に、かなり細かい質問をしたことがあったので」空気が、ほんの少し変わる。私は、息を止めた。「今回も似たところを聞かれる可能性があると思って」優は言う。「俺の判断で、先にまとめただけです」隼人くんは、す
Last Updated: 2026-10-31
全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで

全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで

婚約発表のその日、 私は恋人と親友にすべてを奪われた。 三年付き合った恋人は、 私の成果で昇進しながら—— 隣に立っていたのは、私ではなく親友だった。 さらに私は、“関係を壊した側”として切り捨てられ、 地方の「あひるの支社」へと左遷される。 恋も、仕事も、居場所も失った。 ——けれど、それで終わりじゃない。 消されたはずの記録。 改ざんされたデータ。 そして、出張で東京に来ていた あひるの支社の代表・浅井拓真との出会い。 「それ、やっと気づいたんだ」 すべてを失った夜、私は“共犯者”を得る。 感情じゃない。 証拠で追い詰める。 奪われたのなら、取り返す。 これは、 会社と人生を懸けた復讐の物語。
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Chapter: 最終話:行ってきます
鍵を渡された日から、自然に。私と拓真は出発の準備をした。 早朝の羽田空港。まだ夜の名残を少しだけ残していた。高い天井。静かに響くアナウンス。行き交う人々の足音。大きなスーツケースを引く音が床を滑っていく。窓の外には何機もの飛行機が並び、その向こうの空はゆっくりと朝の色へ変わり始めていた。私は搭乗ゲート近くの椅子に座り、小さく息を吐く。手の中には搭乗券。足元にはスーツケース。そして隣には拓真がいる。それだけのことなのに、不思議な気持ちだった。少し前までの私は、こんな場所に座っている未来を想像できなかったから。婚約がなくなった日。すべてが終わったと思った。信じていたものが壊れて。積み上げてきた時間が消えて。頑張ってきた意味さえ分からなくなった。会社へ向かうだけで苦しかった朝もあった。未来を考えることが怖かった夜もあった。もう誰も好きになれないかもしれないと思ったこともある。あの頃の私は、自分がどこへ向かうのか分からなかった。だから今ここにいることが、少し不思議だった。「何考えてる」隣から低い声が落ちてくる。私は顔を上げた。拓真はペットボトルの水を片手に持ちながらこちらを見ていた。ラフなニットにジャケット。少し眠そうな顔。それなのに目元だけは柔らかい。会社では絶対に見せない表情だった。私は小さく笑う。「……不思議だなって思って」「何が」「こんな未来あると思ってなかったので」拓真は少しだけ黙った。それから窓の外へ視線を向ける。朝日に照らされた滑走路。ゆっくり動き始める飛行機。その景色を見ながら小さく笑った。「俺も」短い返事だった。でもそれが本音だと分かる。私たちはしばらく黙ったまま窓の外を見つめる。心地いい沈黙だった。何かを埋めるための会話はいらない。ただ隣にいるだけで安心できる。そんな関係になったことが、今でも少し信じられない。私はそっと肩を寄せた。すると拓真が何も言わず肩を抱く。自然だった。当たり前みたいに。気づけばその温度が私の帰る場所になっていた。アナウンスが流れる。ロサンゼルス行き搭乗開始の案内。周囲の人たちが立ち上がり始める。私は前を見た。これから両親に会う。拓真を紹介する。未来の話をする。少し緊張する。少し怖い。でも逃げたいとは思
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第105話:未来の話
夜のリビングには、食後の穏やかな空気が流れていた。ダイニングテーブルの上には、食べ終わったテイクアウトの容器がいくつか並んでいる。飲みかけのワイングラス。半分だけ残ったサラダ。シンクでは食洗機の低い音が響いていた。仕事帰りに一緒に食事をして、ソファで少し話をする。そんな時間が最近の当たり前になっている。少し前の私なら信じられなかった。誰かと過ごす日常が、こんなにも心地いいなんて。私はソファに座りながらスマホを眺めた。通知欄には母からのメッセージ。未読が三件並んでいる。思わず小さく息を吐いた。その様子に気づいたのか、キッチンから拓真の声が飛んでくる。「何」コーヒーを淹れながら振り返る。私はスマホを持ち上げた。「母です」「ん?」「最近全然連絡返さないから、いつLA来るのって」その瞬間、拓真が少し笑った。「圧強いな」「母なんで」私もつられて笑う。昔から変わらない。気になったらすぐ連絡してくるし、返事がないと追撃もしてくる。けれどその笑いは途中で少しだけ止まった。LA。両親。拓真。頭の中でその言葉が自然につながる。以前なら考えられなかった。未来を想像すると、不安の方が先に来ていたから。でも今は違う。気づけば、その未来の中に拓真がいる。それが当たり前になり始めている。拓真は二人分のコーヒーを持って戻ってきた。隣に腰を下ろす。肩が軽く触れる。その距離が自然だった。「行く?」不意に落ちてきた声に私は顔を上げる。「……え?」「LA」低く穏やかな声。まるで来月どこかへ旅行に行くかを相談するみたいな口調だった。私は少しだけ目を瞬く。「……いいんですか」「何が」「その……」言葉を探す。少しだけ緊張した。「私の両親に会うの」部屋が静かになる。拓真はしばらく何も言わなかった。それからゆっくり目を細める。「愛海が嫌じゃないなら」低い声。真っ直ぐだった。「ちゃんと挨拶したい」胸の奥が熱くなる。重すぎない。でも軽くもない。その言葉にはちゃんと未来があった。私は少し笑う。「……じゃあ、そのうち行きましょうか」拓真も笑った。安心したように。嬉しそうに。「うん」短い返事だった。でも、その一文字だけで十分だった。しばらく沈黙が落ちる。居心地の悪い沈黙じゃない。
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第104話:ここにいたい
夜のリビングは静かだった。テレビはついている。バラエティ番組らしい笑い声も流れている。けれど、二人ともほとんど見ていなかった。私は拓真の腕の中にいた。背中に回された腕。肩越しに伝わる体温。時折髪を撫でる指先。それだけで、不思議なくらい落ち着く。少し前までなら考えられなかった。誰かの腕の中で、こんなふうに安心する日が来るなんて。「今、めちゃくちゃ帰したくなくなった」耳元に落ちた声を思い出す。その言葉の余韻がまだ胸の奥に残っていた。私は小さく息を吐いた。すると頭の上から低い声が降ってくる。「愛海」「はい」拓真が少しだけ髪に顔を埋める。「今日、自分から帰りたくないって言った」どこか嬉しそうな声だった。私は思わず顔を熱くする。「……言いました」「うん」短い返事。でも、その一言だけで機嫌がいいのが分かる。少し前までの拓真なら、こんなことは隠していただろう。会社で見る彼はいつだって余裕があった。感情を見せない人だった。でも今は違う。私の前では驚くほど分かりやすい。「かなりやばい」「何がですか」そう聞くと、拓真が少し身体を離した。視線がぶつかる。近い。照明に照らされた瞳が柔らかく揺れている。「嬉しすぎる」真っ直ぐだった。飾りも冗談もない。ただの本音。その言葉に胸がぎゅっとなる。拓真は私の頬に手を添えた。親指がゆっくり肌を撫でる。優しいのに、妙に熱を持っている。私は無意識にその手へ頬を寄せた。すると拓真がふっと目を閉じる。まるで何かを耐えるみたいに。「……愛海」「え?」「最近、無自覚に煽るのやめて」思わず笑ってしまう。「煽ってません」「煽ってる」即答だった。その声が少し低い。私はまた笑う。すると拓真が腕を引き、私を引き寄せた。距離が縮まる。逃げられないほどじゃない。でも十分近い。「拓真」「ん?」「近いです」「知ってる」全然悪びれない。むしろ少し楽しそうだった。額にキスが落ちる。頬にも。鼻先にも。どれも優しくて、焦らすみたいにゆっくりだった。私は思わず目を閉じる。拓真が小さく笑った気配がした。「俺、ちゃんと待つって決めてるのに」「……」「愛海が近づいてくるから普通にしんどい」その声には困ったような響きが混じっていた。でも嫌そうじゃ
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第103話:帰りたくない
夜のリビングには、テレビの音が小さく流れていた。何の番組だったかは覚えていない。画面の中では誰かが話していて、時々笑い声も聞こえる。けれど私の意識はほとんどそちらへ向いていなかった。ソファの上で拓真の肩に身体を預ける。背中に回された腕。一定のリズムで髪を撫でる指先。その体温が心地よくて、気づけば肩の力が抜けていた。静かな時間だった。特別なことは何もしていない。出掛けるわけでもない。どこかへ行くわけでもない。ただ同じ部屋で過ごしているだけ。それなのに、不思議なくらい満たされていた。私はぼんやりと目を閉じる。すると頭の上から声が落ちてくる。「眠い?」低く穏やかな声。私は少し笑った。「……少しだけ」「寝る?」その言い方があまりにも自然で、思わず肩が揺れる。「拓真、最近甘やかしすぎです」すると隣から小さな笑い声が聞こえた。「今さら?」私は思わず顔を上げる。拓真はどこか楽しそうだった。「愛海、甘やかすとすぐ顔緩むから」「……」図星だった。悔しいけれど否定できない。拓真はそんな私を見て少しだけ目を細める。それから自然な仕草で頬にキスを落とした。触れるだけの軽いキス。けれどその優しさに胸が熱くなる。「……拓真」「ん?」「最近、幸せそうですよね」自分でも不思議な質問だった。でも聞いてみたくなった。すると拓真は少しだけ笑った。「幸せだから」迷いのない返事だった。当たり前のことを答えるみたいに。その声に嘘はなかった。私は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じる。拓真は少し視線を落とした。「こういうの好きなんだよな」「……こういうの?」「普通の恋人みたいなやつ」少し照れたように笑う。「家具見たり」「送り迎えしたり」「くだらないことで嫉妬されたり」最後だけ少し意地悪そうだった。私は思わず睨む。でも拓真は全然気にしていない。むしろ楽しそうだった。「全部好き」静かな声だった。飾り気もない。でも本音だと分かる。私はその横顔を見つめる。樹との恋も幸せだった。大切にされていた。愛されていたと思う。けれど今振り返ると、私はどこか受け身だった。相手が決める未来に乗っていた。相手の手を取って進んでいた。自分で選んでいるつもりでも、どこかで流されていた。でも今は違う。拓真
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第102話:選びたい
夜のリビングには、テレビの音だけが静かに流れていた。バラエティ番組だったと思う。誰かが何かを話していて、時々笑い声も聞こえる。でも、その内容はほとんど頭に入ってこなかった。私はソファの端に座り、拓真の肩へそっと身体を預ける。隣から伝わる体温が心地いい。すると拓真が自然に手を伸ばし、私の髪を指で梳いた。ゆっくりと。優しく。髪を撫でるその仕草に、以前のような焦りはない。付き合い始めた頃の拓真は、もっと真っ直ぐだった。好きだと言う。会いたいと言う。抱きしめたいと言う。その気持ちを隠そうとしなかった。でも今は少し違う。私が何を考えているか。どんな顔をしているか。ちゃんと見ながら触れる。待ちながら触れる。大切なものを扱うみたいに。その優しさが胸に沁みた。「……」気づけば私は拓真のシャツの袖を指先で触っていた。すると頭上から声が落ちる。「何考えてる」低くて穏やかな声。私は少し笑った。「別に」「嘘」即答だった。しかも少し笑っている。最近の拓真はこういうところがある。私の嘘を見抜くのが上手い。隠そうとしても、大体ばれてしまう。私は小さく息を吐いた。それから視線を落としたまま口を開く。「……拓真って」「ん?」「最初から距離近かったですよね」拓真が少しだけ笑う気配がした。「まあ」短い返事。そして迷いなく続ける。「好きだったから」心臓が跳ねる。相変わらずだ。こんなことを照れもせずに言う。私は思わず視線を逸らした。樹もそうだった。最初から真っ直ぐだった。積極的だった。気づけば付き合っていた。婚約もそうだった。私は流れに乗っていた部分が大きかった。好きだった。もちろん本当に好きだった。でも今振り返ると、どこか受け身だった気がする。相手に選ばれて。相手に手を引かれて。気づけば未来へ進んでいた。恋愛とはそういうものだと思っていた。でも。今は違う。私はそっと拓真のシャツを掴む。拓真の身体が少しだけ動いた。視線がこちらへ向く。「愛海?」私は少しだけ唇を噛んだ。恥ずかしい。でも、言いたかった。「私」声が少し震える。「今まで、自分から恋愛したことなかったかもしれないです」部屋が静かになる。テレビの音だけが遠くなる。拓真は何も言わない。急かさない。た
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第101話:過去
金曜日の夜の空気は少し冷たかった。ショールームを出ると、昼間の賑わいが嘘みたいに落ち着いていて。駐車場へ続く通路には柔らかな照明だけが並んでいる。隣を歩く拓真は、さっき圭吾に散々からかわれたことなんて気にしていないみたいだった。車のキーを指先で回しながら歩いている。その横顔を見ていると、また胸の奥がざわついた。「……」拓真がちらりとこちらを見る。「何」「別に」即答する。すると拓真が少し笑った。「嘘」その言い方に少しむっとする。だって仕方ない。さっきから頭の中が落ち着かないのだ。大学時代。海外時代。来る者拒まず。モデルが寄ってきていた。圭吾が笑いながら話していた言葉が、何度も頭の中を巡る。知らない拓真。私が会うずっと前の時間。当たり前なのに。なぜか少しだけ胸が痛かった。車に乗り込む。ドアが閉まる音。エンジンがかかる音。静かな車内に、夜の街の光が流れていく。しばらく黙っていたけれど、結局我慢できなかった。「……昔」窓の外を見たまま呟く。「かなり遊んでたんですか」数秒の沈黙。そのあと、隣で小さな笑い声がした。「何その聞き方」「だって」私は視線を戻さない。「森さん、普通に言ってましたし」拓真はハンドルを握ったまま苦笑した。「圭吾の話、八割盛られてるぞ」「じゃあ二割は本当なんですね」「そこ食いつく?」少し笑っている。その余裕が悔しい。すると拓真は観念したみたいに息を吐いた。「まあ、モテたのは事実」胸がちくりと痛む。「二十代は普通に遊んでたし」否定しない。変に誤魔化さない。だから余計に想像してしまう。海外の街。華やかなパーティー。綺麗な人たち。今の拓真からは想像できない世界。「……」窓ガラスに映る自分の顔が少し不機嫌そうで、嫌になる。すると信号で車が止まった。静かな車内。その瞬間、拓真が片手を伸ばしてきた。私の手を掴む。大きくて温かい手。そのまま親指が指先をゆっくり撫でた。まるで機嫌を取るみたいに。「……」心臓が跳ねる。「そんなに気になる?」低い声。からかうようでいて、ちゃんと私を見ている。私は少しだけ唇を尖らせた。「だって」言葉を探しながら続ける。「拓真って、絶対モテるじゃないですか」その瞬間。拓真が吹き出した。本当に可笑し
Last Updated: 2026-06-03
隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる

隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる

32歳、広告代理店勤務の平原愛子は、誕生日当日、同棲中の恋人から突然別れを告げられた。新しい部屋で人生をやり直そうとした彼女の隣に住んでいたのは、五年前、自分から音信不通にして捨てた年下の元恋人・翔太だった。忘れたはずなのに、声も匂いも、触れられた記憶も身体だけが覚えている。一方、傷ついた愛子を支えたのは、五年来の親友で同期の正人。「試しでもいいから、俺と付き合わない?」穏やかな恋を選んだはずなのに、捨てた恋は壁一枚隔てた隣で、再び彼女の心を奪い始める。 自分を救ってくれる男と、捨てたはずなのに忘れられない男。新しい恋を選んだはずの愛子の心を、捨ててしまった恋が再び狂わせていく。
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Chapter: 第293話:前より近いけどね
昼食を食べ終える。オムライスの皿をシンクへ運びながら、愛子は改めて思った。本当に器用だ。仕事も。料理も。生活も。全部、当たり前みたいに整えてしまう。それなのに本人だけが、特別なことなんて何もしていないような顔をしている。そこが少し悔しい。「コーヒー飲む?」キッチンから正人の声が飛んでくる。「飲む」そう返すと、数分後にはマグカップが目の前に置かれていた。当然みたいな顔で。本当に、当然みたいな顔で。「ありがとう」「うん」正人は短く返して、自分のカップを持ったままソファへ向かう。午後の日差しが、窓から柔らかく差し込んでいた。平日の昼下がり。本来なら、会社にいる時間だった。愛子はソファへ腰を下ろし、ほとんど癖のようにパソコンを開いた。その瞬間。「だめ」即答だった。愛子は思わず笑う。「チャットとメールだけ」「休み取った意味なくなる」正人はソファの反対側へ身体を預けながら言った。本気で不満そうな顔をしている。「明日、大事なミーティングあるし」「三十分」「正人」「三十分」譲らない。その顔がおかしくて、愛子は肩を揺らした。「分かった」「三十分後、没収する」「怖い」「信用がない」「信用してよ」「仕事に関してはしない」きっぱり言われて、愛子は少し笑った。でも、その言い方が妙に優しくて、胸の奥が少しだけ緩む。思ったより、平和だった。チャットも、メールも、急ぎの案件は飛んでいない。未読の数字も許容範囲で、明日の会議に必要な確認も、すでにチームが拾ってくれていた。よかった。胸の奥に残っていた小さな緊張が、少しずつほどけていく。画面から顔を上げる。隣では、正人が本を読んでいた。ページをめくる音。コーヒーの香り。午後の光。静かな部屋。その光景を見ているうちに、不意に昔を思い出した。付き合う前。飲みに行って、終電近くまで話して、どうでもいいことで笑っていた時間。肩の力を抜いていられる感じ。何も話さなくても気まずくならない感じ。あの頃の空気に少し似ている。でも、同じではない。似ているのに、どこか決定的に違う。その違いに、まだ身体が追いついていない気がした。「なんか」思わず口から零れる。正人が本から顔を上げた。「ん?」「ちょっと、前みたい」言ったあとで、少し違う気
Last Updated: 2026-11-06
Chapter: 第292話:理由
結局。また正人の家へ戻ってきてしまった。買い物袋をダイニングテーブルへ置く。シャンプー。化粧水。日用品。当たり前みたいに。正人の家へ置く前提で選んだものたち。その事実にまだ慣れない。「適当に作るよ」そう言ってキッチンへ立った正人を眺めながら。愛子はソファへ沈み込んだ。窓から差し込む昼の光が明るい。平日の午後。本来なら会社にいる時間だった。なのに。今日は違う。不思議な一日だった。「できた」呼ばれてダイニングへ向かう。テーブルの上。オムライス。愛子は思わず足を止めた。「……」正人が顔を上げる。「何」「いや」思わず笑う。「綺麗すぎない?」卵の形が整っている。ソースも綺麗。店で出てきても違和感がない。「普通じゃない?」「普通じゃない」即答だった。正人が少し笑う。本当に器用だ。仕事も。料理も。生活も。全部。それなのに本人だけが普通の顔をしている。そこが少し腹立たしい。昼食を食べながら。他愛ない話をした。仕事のこと。最近見た映画。共通の知人。そんな話。オムライスを半分ほど食べた頃だった。正人がスプーンを置く。「そういえばさ」愛子が顔を上げる。「ん?」正人は少しだけ迷うような顔をした。それから口を開く。「答えたくなかったらいいんだけど」その前置きで。少しだけ背筋が伸びる。「前にさ」正人が続ける。「愛子が引っ越したのって」視線が重なる。「結婚決めきれなかったからって。前言ってたじゃん」愛子は瞬きをした。「急だね」思わず笑う。正人も苦笑する。「そう」認める。「急なんだけど」窓の外では平日の昼が流れている。向かいのマンション。ベランダに干された洗濯物。遠くで聞こえる車の音。どこにでもある午後だった。なのに。今いる場所だけが少し現実感を失っている。「理由聞いてもいい?」正人が言う。穏やかな声だった。責めるわけでもない。探るわけでもない。ただ知りたい。そんな顔。「もし原因があって」正人は続ける。「避けられることなら」少し肩を竦めた。「理解しておきたいなって」愛子はスプーンを置く。正人を見る。その表情は穏やかだった。でも。続いた言葉に視線の置き場を失った。「俺」正人が言う。「愛子とは結婚したいと思っ
Last Updated: 2026-11-05
Chapter: 第291話:当たり前
「はい」穏やかな声だった。「とりあえずはこれで終わり」終わってない。全然終わってない。とりあえずって何。心臓がうるさい。正人はそんな私を見て。少しだけ目を細めた。その表情が。昨日までよりずっと柔らかい。「そんな反応されると」小さく呟く。「俺も慣れない」その言葉に。愛子は完全に視線を逸らした。無理だった。本当に。彼氏になった正人は。思っていたよりたちが悪い。***正人がそのままキッチンへ向かった。冷蔵庫を開ける。卵を取り出す。フライパンを出す。その動きが妙に慣れている。「何してるの?」「朝ごはん」当然みたいに返ってくる。「今から?」「うん」卵を割る。「俺ちゃんと朝食べる派なんだけど」その言い方が妙に真面目だった。「卵どうする?」「どうする?」「目玉焼き」指を一本折る。「卵焼き」もう一本。「オムレツ」さらに一本。「ポーチドエッグもできる」「なんでそんな選択肢あるの」思わず笑う。正人が少し肩を竦めた。「朝ごはん好きだから」言いながら冷蔵庫を覗く。「愛子は?」「え?」「何が好き」そこで少し詰まる。好きというより。普段は食べない。コーヒーだけの日も多い。プロテインだけの日もある。言おうとして。やめる。正人がどんな顔をするか想像できた。案の定。ゆっくり振り返る。「食べてないな?」「食べる日もある」「食べてないな」即答だった。悔しい。でも。当たっている。「じゃあ」卵を混ぜながら言う。「そこ今後ちゃんと調整しよう」自然な口調だった。当たり前みたいに。今後。その言葉に。愛子は少しだけ目を伏せる。昨日までなら。なかった言葉。私の食生活も。睡眠も。仕事の癖も。全部。正人の中では。もう少し先まで続く話になっている。キッチンに立つ正人の背中。昨日まで。こんな朝が来るなんて思っていなかった。愛子はマグカップを両手で包みながら。静かに目を細めた。*** 私の家へ寄ったのは昼前だった。仕事用の鞄。化粧品。数日分の着替え。最低限だけ。そのつもりだったのに。気付けばそれなりの荷物になる。マンションを出る。正人は当然みたいにトランクを開けた。荷物を受け取る。後部座席へ積む。何も言わない。本当に何も。
Last Updated: 2026-11-04
Chapter: 第290話:慣れない距離
結局。私も有給を取った。スマホを閉じる。平日の朝。本来なら会社にいる時間。それなのに。私は今、正人の家のソファに座っていた。昨日付き合った。その結果がこれ。状況だけ切り取るとだいぶおかしい。「……」思わず天井を見る。こんな理由で休んだのは初めてだった。体調が悪いわけじゃない。仕事が嫌なわけでもない。ただ。今日このまま会社へ行くのは無理だった。そして。そう判断したのは私より先に正人だった。それもなんだか少し奇妙だった。「シャワー使う?」キッチンから声が飛んでくる。「あ、使いたい」返事をすると。正人が紙袋を持ってきた。「じゃあこれ」「何?」受け取る。中を見る。数秒。思考が止まった。「……」「サイズ違ったらごめん」本当に普通の顔で言う。紙袋の中。下着。Tシャツ。ストッキング。靴下。ヘアゴム。必要そうなものが一通り入っていた。「何でこれ全部揃ってるの?」思わず聞く。正人はコーヒーを一口飲む。それから。「さっきコンビニ行ったときに」と言った。「今朝?」思わず聞き返す。「うん」「いつ?」「六時くらい」早すぎる。「寝てないじゃん」思わず呆れる。すると正人は少し肩を竦めた。「俺、基本早起きだし」さらっと返ってくる。本当に。何でもないことみたいに。でも。その言葉で余計に状況が見えてしまう。私が寝ている間に。コンビニへ行って。必要そうなものを揃えて。コーヒーを淹れて。朝のことまで考えている。意味が分からない。「あとこれ」もう一つ袋を差し出された。グレーのスウェットパンツ。「妹の」「え?」「置いてったやつ」中を見る。少し大きめの部屋着だった。「捨てるなって言われて残してた」「……」「サイズ近そうだったから」昨日。私は勢いで泊まった。でも。正人は違う。泊まることになった時点で。じゃなくて。朝起きたら。もう全部整っている。「正人」「ん?」「怖い」正人が吹き出した。「何で」「準備良すぎる」すると。少し考えて。本気で不思議そうな顔をした。「そう?」その反応が一番怖い。絶対に自覚がない。「愛子が困る方が嫌だったし」それだけだった。本当に。それだけのことを言う顔だった。だから困る。***シャ
Last Updated: 2026-11-03
Chapter: 第289話:月曜日の朝
目が覚めた時。最初に聞こえたのはコーヒーメーカーの音だった。規則的な音。微かに漂う香ばしい匂い。ぼんやりしたまま天井を見る。見慣れない天井。数秒。思考が止まる。そして。思い出した。「……っ」反射的に毛布を引き上げる。遅い。昨日の記憶はちゃんとある。最後まで。全部。思わず顔を覆う。無理。朝から無理。借りたスウェットの袖が視界に入る。少し大きい。柔らかい。それに。正人の匂いがする。「……」さらに顔が熱くなる。本当に無理。しばらくベッドの上で悶えてから、ようやく起き上がる。その時だった。ベッド脇に見慣れないものが置かれていることに気づく。コンタクトケース。ミネラルウォーター。スマホの充電ケーブル。「……何これ」思わず呟く。昨夜はなかったはずだ。コンタクトケースなんて特に。私視力悪いからコンタクトって。数年前に一回話しただけな気がするんだけれど。首を傾げながらリビングへ向かう。コーヒーの匂いが濃くなる。キッチンに立つ正人が振り返った。「おはよう」驚くくらい自然だった。黒いロンT。少しだけ寝癖の残った髪。マグカップを持つ横顔。昨日までと何も変わらないはずなのに。何も変わらなく見えることが一番おかしい。「……おはよう」逆に私の方がおかしくなる。正人はコーヒーを差し出した。「飲む?」「飲む」反射で答える。受け取ったマグカップが温かい。それだけで少し安心する。ふと。さっき見たものを思い出す。「ねえ」「ん?」「コンタクトケース置いてあったんだけど」「うん」正人はあっさり頷いた。「買っておいた。念のため」「なんで?」「困るでしょ...あれ、ワンデーだった?」言っている意味がわからない。「充電ケーブルも」「うん」「買ったの?」「うん」当然みたいに答える。私は数秒黙る。「……いつ?」「愛子寝てたときかな」さらっと言う。本当にさらっと。その温度感で言う話じゃない。「いや」思わず笑ってしまう。「なんで?」正人は不思議そうな顔をした。「使うと思ったから」本気だった。そこに特別な意味がない。そのことが余計に困る。「今日さ」正人がスマホを置く。「休もう」「え?」思考が止まる。「俺、有給取った」「……え?」「今日の
Last Updated: 2026-11-02
Chapter: 第288話:同じだけ、欲しい
二度目のキスは。最初よりずっと長かった。頬に触れていた正人の手が、耳の横へ滑り、髪へ触れる。後頭部に回った手が。ほんの少しだけ。私を近くへ引く。強くはない。でも。離れるための距離は、もう残していなかった。唇が重なるたびに。さっきまで二人の間にあったものが、ひとつずつほどけていく。玄関の灯り。静かな部屋。窓の外を通る車の光。全部が少しずつ遠くなった。私は息を吸うタイミングを失って。正人のシャツを握る指へ、思わず力を入れた。正人が一度だけ離れる。額が触れそうな距離。互いの呼吸が混ざる。「……こうなるの、分かってた?」低い声だった。私は正直に首を振った。「分かってなかった」正人の口元が、ほんの少し緩む。「だと思った」「何それ」「愛子、多分」少しだけ息を整える。「考えて来たつもりではいたけど、ここまでは想像してなかったでしょ」何も返せなかった。図星だった。正人の家へ泊まりたいと言った。自分からキスもした。でも。そこから先に。正人がどんな顔をするのか。自分がどう感じるのか。本当のところは、何も分かっていなかった。「だから何回も聞いてる」正人の親指が、耳の下へそっと触れる。「勢いなら止める」目が合う。「でも」声が少し低くなる。「ちゃんと選んでるなら」そこで。ほんの少し。正人の表情が崩れた。「逃がしたくない」息が止まる。その言葉は。強いのに。少しも怖くなかった。むしろ。胸の奥が痛いくらい熱くなった。大切だから触れない人だと思っていた。でも。本当は。大切だからこそ。ずっと欲しがっていた。そのことが。今になってようやく分かる。「逃げないよ」声が少し震えた。でも。目は逸らさなかった。正人の目が。一瞬だけ揺れた。嬉しそうで。苦しそうで。何かをぎりぎりで堪えている。そんな顔。それを見た瞬間。思った。正人だけじゃない。私も。この人にもっと近づきたい。今までみたいに。ただ大事にされる側でいたいわけじゃない。自分からも。触れたい。私はゆっくり。正人の背中へ腕を回した。その瞬間。正人の身体が。僅かに固まった。「……愛子」低く。少し掠れた声。「うん」返事をすると。正人が小さく息を吐く。それから。今までより少し強く
Last Updated: 2026-10-31
八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない

八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない

八年前、天才画家エレナは、自作が国際犯罪組織の証拠となったことで、恋人を守るため死亡を偽装し、朝倉エマとして港町で静かに生きていた。絵も過去も捨てたはずだった。だが、抑えきれない創作衝動に抗えず、誰にも知られぬ倉庫で再び筆を取る。そんな彼女の前に現れたのは、失われた「最後の一枚」を探し続ける元恋人・玲。正体に気づかぬまま、玲は面影ではなく今のエマ自身に惹かれ、その想いはやがて誰にも渡したくない執着へ変わっていく。気づかれてはいけない女と、知らずにもう一度彼女を選ぶ男。最後の一枚が隠す真実の先で、二人は過去ではなく、現在の自分として再び恋に落ちる。
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Chapter: 第158話:最後の思い出を、あなたと
『朝倉さん』保護官の声に、エマは顔を上げた。「……はい」『神崎氏とは、現在も接触がありますか?』一瞬、答えに迷った。「あります」『どの程度でしょう』エマは店の方へ視線を向けた。窓の向こうに、玲がいる。さっきまで自分の目を見つめて、いつか一緒にいたいと思ってもらえることを期待していると話していた人。「……食事をするくらいには」電話の向こうで、短い沈黙があった。『そうですか』エマは無意識にバッグの持ち手を握り直した。「……距離を置いた方がいいですか?」聞きながら、そんな答えが返ってくることを恐れている自分に気づいた。けれど、保護官の返事は予想とは違った。『いいえ。不自然に距離を置くことは避けてください』「……え?」『神崎氏は、あなたに強い関心を持っていると認識しています』エマは何も言えなかった。『急に態度を変えれば、理由を調べようとする可能性があります。それに、最後の作品に関する情報へ必要以上に意識を向けさせないことも重要です』「……」『今まで通りに接してください。可能であれば、ある程度親密な距離を保っていただいた方がいいでしょう』エマは唇を結んだ。ある程度、親密な距離。その言葉が、胸の奥に引っかかる。『もちろん、無理をする必要はありません。ただ、神崎氏があなたとの関係を優先している間は、作品の取引に対して独自に動く時間や動機を抑えられる可能性があります』合理的だった。理解できる。ジャンから頼まれたこととも、一致している。でも。「……それは」声が、少し掠れた。「彼の気持ちを、利用するということですか?」電話の向こうで、短い沈黙があった。『そう受け取られるかもしれません』否定しない。その率直さが、かえって痛かった。『ただ、私たちが優先しなければならないのは、あなたと神崎氏の安全です』「……分かっています」『あと一ヶ月半ほどです。その間だけでも、できる限り今の関係を維持してください』あと一ヶ月半。その間だけ。保護官にとっては、捜査が動くまでの限られた期間なのだろう。危険を避けるために、慎重に過ごすべき時間。でも、エマにとっては違った。玲と会える、残りの時間だった。『朝倉さん?』「……はい」『大丈夫ですか?』エマは少しだけ目を伏せた。「大丈夫です」嘘ではない。ただ、平
Last Updated: 2026-11-04
Chapter: 第157話:終わりの日が決まる
お手洗いの鏡に映った自分は、思っていたよりも顔が赤かった。ワインのせいだろうか。それとも、さっきまで向かいに座っていた男のせいなのか。エマは洗面台に両手をつき、ゆっくり息を吐いた。『少しだけ、期待してしまいます』玲の声が、耳から離れない。期待。その言葉を、どう受け取ればいいのだろう。自分は今、彼の期待に応えるようなことをしている。昨日は自分から袖を掴んだ。夕食にも誘った。今夜も、玲の話をもっと聞きたいと思った。その全部が、自分の意思だった。ジャンに言われたからではない。玲の注意を最後の一枚から逸らすため。危険に近づけないため。そういう理由があることは、確かだった。けれど、理由がなくても同じことをしたかった。そこまで分かってしまった以上、もう自分の気持ちを誤魔化すのは難しい。「……どうしよう」小さく呟いた。八年前、玲を失うことを選んだ。あのときは、自分の気持ちを諦めることが、彼を守る唯一の方法だった。そして今、同じ選択をもう一度しようとしている。違うのは、今回は玲も自分を好きだと知っていることだった。想像していた以上に、深く。エマは冷たい水で指先を濡らし、もう一度鏡を見た。泣いてはいない。まだ、普通に笑える。そう思ったとき、バッグの中でスマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、普段ほとんど連絡の来ない番号だった。保護官。胸の奥が、急に冷える。エマは着信が切れる直前に、短いメッセージを送った。『五分後に出ます』それから鏡の前で表情を整え、席へ戻った。玲はスマートフォンで何かを確認していたが、エマに気づくとすぐに画面を伏せた。「おかえりなさい」「……すみません。少し電話が来ていて」「仕事ですか?」「いえ。知り合いから」玲はそれ以上聞かなかった。「外で話した方がよければ、どうぞ」「……ありがとうございます。すぐ戻ります」「待ってます」その言葉に、胸が痛んだ。待ってます。玲は何の疑いもなくそう言った。エマは小さく会釈をして、もう一度店を出た。外へ出ると、夜の空気は思っていたよりも涼しかった。店の明かりが届かない路地の端まで歩き、周囲に人がいないことを確かめる。それから着信履歴を開いた。呼び出し音は二回で止まった。「はい」『朝倉さん。先日お話しいただいた件ですが、追加の確
Last Updated: 2026-11-03
Chapter: 第156話:少しだけ、期待してしまいます
「もちろんです」玲はそう答えてからも、しばらく嬉しそうに笑っていた。エマが何気なく口にした「また、食事に行きましょうね」という言葉を、思っていた以上に大切に受け取ってくれたらしい。テーブルの上には飲み終えた食後酒のグラスが二つ。店内の照明は少し落とされ、窓際の席では最後の客が会計を済ませていた。外はすっかり暗くなっているのに、二人の間には、まだ席を立つのが惜しいような空気が残っていた。「次は、僕に選ばせてもらえますか」玲が尋ねた。「お店ですか?」「はい。今日はエマさんが予約してくれたので」「玲さんが選ぶお店って、なんだか緊張しますね」「どうしてですか?」「だって、普段から良いところに行ってそうですし」玲は少し考えてから、困ったように笑った。「そういう場所より、エマさんが楽しめるところを選びたいです」「……また、そういうことを」「何でしょう」「いえ。もういいです」エマが笑うと、玲も嬉しそうに目を細めた。その表情を見るたびに、胸の奥が温かくなる。自分から誘っただけで、こんなにも喜んでくれる。また会おうと言えば、次の約束を考えてくれる。玲にとっては、きっと何でもない未来の話なのだろう。来週でも、来月でも、その先でも。お互いの予定が合えば、また食事をして、海を歩いて、少しずつ距離を縮めていく。そんな時間が当然のように続いていくと、彼は思っている。エマは膝の上で指を重ねた。自分だけが、その先に何が待っているのかを知っていた。「……玲さん」「はい」「最近、そういうことをよく言いますよね」玲が僅かに首を傾げる。「そういうこと?」「嬉しいとか、会いたいとか。私と一緒にいたいとか」言い終えてから、エマは少し恥ずかしくなった。自分で並べてみると、彼がどれほど真っ直ぐに好意を伝えてくれていたのかが分かる。玲は一度グラスへ視線を落とし、それから静かに頷いた。「そうですね」否定するつもりはないらしい。「誰かに興味を持てること自体、久しぶりだったので」その言葉に、エマの胸が小さく痛んだ。「最初は僕も戸惑いました。知りたいと思うことが増えて、会えないと残念で、会えたらそれだけで嬉しい。そういう感情が、まだ自分の中に残っていたことに驚いたんです」玲は、自分のことを話しているのに、どこか珍しい現象を説明しているよう
Last Updated: 2026-11-02
Chapter: 第155話:次の日が来ること
食後酒を飲み終えても、二人はすぐには席を立たなかった。店内には穏やかな音楽が流れ、奥の厨房から食器を重ねる小さな音が聞こえてくる。テーブルの上ではキャンドルの炎が揺れ、玲の横顔に淡い影を落としていた。エマは、改めて彼を見た。八年前より、少し身体が大きくなった。昔から背が高く、細身のスーツがよく似合う人だった。けれど今は肩まわりに厚みがあり、シャツ越しにも腕の逞しさが分かる。顔立ちはほとんど変わらない。むしろ、年齢を重ねたことで輪郭がはっきりし、以前のどこか少年めいた雰囲気が消えていた。その代わりに、落ち着いた大人の男の色気がある。エマは、自分がそんなことを考えているのに気づいて、少し呆れた。ワインのせいだ。そういうことにして、視線を逸らそうとした。「エマさん」呼ばれて顔を上げる。「はい?」「今、また僕のこと見てました?」心臓が跳ねた。「……見てません」「そうですか」玲は少し笑った。「何ですか、その顔」「嬉しかっただけです」「だから、全部言わなくていいです」「酔ってるのかもしれません」「玲さんも?」「少し」そう言って笑う玲の表情は、いつもより柔らかかった。エマはまた、目を奪われた。やっぱり、惹かれている。八年前に終わらせたつもりだった、玲への感情。危険から遠ざけるために、自分の人生ごと切り離したはずのもの。それなのに、朝倉エマとしてもう一度この人を知り、また同じように惹かれている。いや、同じではない。今の玲を、好きになり始めている。そのことが、何より怖かった。八年前の彼を懐かしんでいるだけなら、まだよかった。けれど今は違う。仕事を終わらせて会いに来てくれるところも、何でもないメッセージを嬉しそうに受け取るところも、こちらが笑えばつられるように笑うところも。昔にはなかったものまで、愛おしいと思ってしまう。もうすぐ、自分はまたいなくなるのに。「でも」不意に、玲が口を開いた。エマは顔を上げた。「最近は少し、変わったんです」玲はグラスを静かに置いた。「次の日が来るのが、楽しみになりました」エマの呼吸が止まった。玲は少し酔っているのだろう。いつもより目元が柔らかく、言葉を選ぶ時間も短い。それでも、こちらを見る視線だけは真っ直ぐだった。「朝起きて、今日は会えるかなと考えたり」玲は
Last Updated: 2026-10-31
Chapter: 第154話:空白の八年間
二本目のワインは開けなかった。代わりに、食後酒を少しだけ頼んだ。店内の客はいつの間にか減り、奥の席から聞こえていた笑い声も遠ざかっていた。窓の外はすっかり暗くなり、通りに面した小さな庭では、足元を照らす灯りが葉の影を壁に映している。「私ばっかり話しましたね」エマが言うと、玲は首を振った。「聞きたかったので」「でも、玲さんの話をあまり聞いてないです」「僕ですか?」「はい」玲は少し意外そうな顔をした。「聞いても、あまり面白くないですよ」「それは私が決めます」そう返すと、玲は一瞬目を見開き、それから小さく笑った。「……そうですね」いつもより少しだけ、警戒の薄い笑い方だった。酒に弱いわけではないのだろう。顔色はほとんど変わらないし、言葉もはっきりしている。ただ、普段なら飲み込んでしまうような感情が、今夜は少しだけ表情に現れている気がした。「何が聞きたいですか?」エマは迷った。聞きたいことなら、いくらでもあった。八年前から今日まで、玲がどんなふうに生きてきたのか。どこで暮らし、誰と出会い、何を考えていたのか。本当は、ずっと知りたかった。けれど、その時間を尋ねる資格が自分にあるのか分からなかった。玲から何も告げられずに去ったのは、自分なのだから。「……この八年」玲の表情が僅かに変わった。「何をしていたんですか?」できるだけ軽く尋ねたつもりだった。けれど、玲はすぐには答えなかった。グラスへ視線を落とし、少し考えてから静かに息を吐いた。「あまり、話したくないんですが」エマの胸が小さく縮んだ。「じゃあ、無理に——」「でも」玲が顔を上げた。「エマさんには、知っておいてほしいので」その目に冗談はなかった。エマは何も言わず、続きを待った。「感情の起伏がないまま、日常を過ごしていた気がします」玲は淡々と言った。「仕事だけは、結果が出れば前に進めるので」グラスの中で、琥珀色の酒が小さく揺れた。「父の資本も使って会社を立ち上げて、仕事をして。そこで知り合った人たちと食事をしたり、必要な付き合いに顔を出したり」少しだけ口元を緩める。「その繰り返しです」「……楽しくなかったんですか?」尋ねてから、エマは後悔した。玲は少し考えた。「楽しいかどうかを、考えなくなっていたんだと思います」静かな声だった。
Last Updated: 2026-10-30
Chapter: 第153話:朝倉エマの八年間
最初の料理が運ばれてくる頃、玲がワインリストを手に取った。「飲みますか?」「玲さん、車じゃないんですか?」「帰りは迎えが来ます」「ああ、そうなんですね」「せっかくなので、一本開けましょうか」「一本?」「無理なら僕が飲みます」エマは思わず笑った。「私、結構飲みますよ」「知りませんでした」玲の目が楽しそうに細くなる。「では、ちょうどいいですね」店員と短く相談し、料理に合わせて白ワインを選ぶ。銘柄を決めるまでほとんど迷わないのに、エマが酸味の強いものを好むか。重い味わいでも平気かということだけは、きちんと確認してくれた。「こういうところですよね」エマが小さく呟く。「何がですか?」「何でもないです」「今日、それ多いですね」「玲さんに言われたくないです」玲が笑ったところで、ワインが運ばれてきた。細いグラスの中で、淡い金色の液体が照明を受けて揺れる。「何に乾杯しましょうか」玲に尋ねられ、エマは少し考えた。フェスティバルでは、仕事の延長になってしまう。再会を祝うことも、もちろんできない。「……今日、仕事をちゃんと終わらせたことに」玲が一瞬目を丸くした。それから、声を立てて笑った。「随分、僕に甘い乾杯ですね」「明日からもちゃんと終わらせてください」「エマさんが毎日食事に誘ってくれるなら」「それは無理です」「残念です」グラスが軽く触れ合い、澄んだ音が鳴った。一口飲むと、思っていたよりも柔らかな味が広がった。それからの会話は、驚くほど途切れなかった。仕事のこと、フェスティバルのこと、この町のこと。エマは三年前、初めてこの町へ来たときの話をした。観光客と地元の人を見分けられなかったこと。カフェで働き始めた頃は常連の名前を覚えるのが苦手で、注文する飲み物で区別していたこと。「じゃあ、僕も最初は注文で覚えられていたんですか?」「そうですね」「何でした?」「面倒な人」玲が吹き出した。「注文じゃないですね」「コーヒーです」「普通ですね」「だから、顔で覚えました」言った瞬間、玲の動きが止まった。「……顔で?」「そこ、拾わないでください」「すみません」全く悪いと思っていない顔だった。エマは呆れながらグラスを持ち上げた。浜中さんの話もした。この町へ来たばかりの頃、知り合いがほとんどい
Last Updated: 2026-10-29
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