八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない

八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない

last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-04
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Bahasa: Japanese
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八年前、天才画家エレナは、自作が国際犯罪組織の証拠となったことで、恋人を守るため死亡を偽装し、朝倉エマとして港町で静かに生きていた。絵も過去も捨てたはずだった。だが、抑えきれない創作衝動に抗えず、誰にも知られぬ倉庫で再び筆を取る。そんな彼女の前に現れたのは、失われた「最後の一枚」を探し続ける元恋人・玲。正体に気づかぬまま、玲は面影ではなく今のエマ自身に惹かれ、その想いはやがて誰にも渡したくない執着へ変わっていく。気づかれてはいけない女と、知らずにもう一度彼女を選ぶ男。最後の一枚が隠す真実の先で、二人は過去ではなく、現在の自分として再び恋に落ちる。

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Bab 1

第1話:何を手に入れても、君だけが足りない

落札価格が十億円を超えた瞬間、会場の空気がわずかに変わった。

息を呑む音と、抑えきれないざわめき。

前方のスクリーンには、現実味のない数字が大きく表示されている。

壇上にあるのは、灰色の空と雪解け前の川を描いた一枚の油絵だった。

岸辺には、葉を落とした細い木が立っている。人影はない。

それでも、つい先ほどまで誰かがそこにいて、何も告げずに去ったような気配が残されていた。

エレナ・カワサキが二十二歳の頃に描いた初期作品。

世界が彼女を天才と呼ぶより前の絵だった。

「十二億」

神崎玲が静かに告げると、会場中の視線が集まった。

まだ三十二歳の若さで世界的な投資会社を率い、美術市場でも名を知られる男。

濃紺のスーツに身を包んだ姿は、異常な価格を提示した直後とは思えないほど落ち着いている。

少し離れた席から、別の札が上がった。

「十二億五千万」

玲は相手を確認することもなく、番号札を上げ直した。

「十三億」

迷いのない声だった。

競売人が会場を見回す。新たな札は上がらない。

木槌の音が響いた。

「十三億円で落札です」

拍手が起こり、驚きと羨望の入り混じった視線が玲へ向けられる。

けれど、玲の胸には何も生まれなかった。

また一枚、手に入った。

ただ、それだけだった。

「嬉しくないんですか?」

隣に座る宮永結衣が、小さく尋ねた。

肩を露出した黒いドレスに、光を受けて揺れるダイヤのイヤリング。

国内外で活躍する人気女優であり、玲との交際を何度も報じられている女性でもある。

実際には、財団の仕事で何度か同席しただけだった。

「欲しかったので、買いました」

「十三億も出して?」

「金額には意味がありません」

必要なら、二十億でも支払っただろう。

金額は玲にとって障害ではない。

仕事も、富も、名誉も、望めば大抵のものは手に入った。

美しい女性から好意を向けられることも珍しくない。

それでも、玲の内側は八年前から乾いたままだった。

壇上から運び出される絵を見つめる。

技術はまだ荒く、色にも若さがある。

後年のエレナの作品ほど、残酷なまでに完成されてはいない。

それでも、画面の奥に沈む孤独だけは、間違いなく彼女のものだった。

エレナ。

胸の中で名前を呼ぶと、乾いた場所に薄い痛みが残る。

八年前、彼女は死んだ。

遺体を見ることは許されなかった。

葬儀もなく、墓もない。

最後の言葉さえ交わせないまま、ただ死亡したという事実だけを告げられた。

それでも世界は、彼女の死を疑わずに進んだ。

生前には見向きもしなかった評論家が才能を語り、美術館は回顧展を企画した。

作品価格は跳ね上がり、エレナ・カワサキは「若くして亡くなった天才画家」として完成された。

玲だけが、何も終えられなかった。

「これで四十六枚目ですよね」

結衣の言葉に、玲はわずかに視線を動かした。

「よくご存じですね」

「有名な話ですから。エレナ・カワサキが残した作品を、ほとんど一人で集めたコレクター。残る一枚を、今も探している」

公式に確認されている作品は四十七枚。

玲が所有しているのは、そのうち四十六枚だった。

残るのは、エレナが死ぬ直前まで描いていたとされる最後の一枚。

題名も、現在の所有者も分からない。完成していたのかさえ、確かな記録は残っていない。

「最後の一枚が見つかったら、どうするんですか?」

結衣の問いに、玲は答えられなかった。

四十七枚が揃った部屋に、一人で立つ。

それから何をするのか。

満たされるのか。ようやく悲しめるのか。それとも、何も変わらないのか。

分からない。

ただ、最後の一枚を手に入れれば、エレナの死に形を与えられる気がしていた。

抜け落ちた部分を埋め、彼女がいない世界を探し続けることを、ようやくやめられるかもしれない。

***

オークション後のパーティーには、玲を祝う人間が次々に集まった。

落札価格を称賛され、事業の話を持ちかけられ、結衣との関係を冗談めかして聞かれる。

玲は必要なだけ笑い、必要な言葉を返した。

何一つ、心には残らなかった。

人の少ないバルコニーへ出ると、夜の東京が眼下に広がっていた。

無数の光が瞬いているのに、ガラス越しの街は精巧な模型のように見える。

昔、エレナと夜景を見たことがある。

どの街だったのか、すぐには思い出せなかった。

作品の色も、筆の運びも覚えている。

それなのに、本人の声や匂い、笑い方は少しずつ輪郭を失っている。

そのことが、何より怖かった。

だから、玲は作品を集めている。

失われていく記憶を、一枚ずつ絵で埋めるように。

背後で扉が開いた。

「神崎さん」

加瀬がタブレットを手に立っていた。

「先ほど、財団へ報告が入りました」

玲が振り返ると、加瀬は周囲に人がいないことを確認してから声を落とした。

「エレナ・カワサキの最後の一枚に関する情報です」

玲の指が、手すりの上で止まる。

何を手に入れても動かなかった心臓が、わずかに強く鳴った。

「続けてください」

「確証はありません。ただ、最後の一枚と寸法が一致する美術品が、数年前に国内の非公式な流通経路へ入った形跡があります」

画面に表示されたのは、海沿いの小さな町だった。

古い倉庫街と、小さな湾。玲には聞き覚えのない地名だった。

「三か月後、この町で国際アートフェスティバルが開催されます」

企画書には、海外財団やキュレーターの名前が並んでいる。

その中に、ジャン・モローの名があった。

エレナの才能を誰より早く見抜き、玲と同じように最後の一枚を追い続けている男。

港町。

国際アートフェスティバル。

ジャン・モロー。

そして、消えた最後の一枚。

偶然と呼ぶには、重なりすぎていた。

「現地の調査を始めてください」

「承知しました。フェスティバルへの出資依頼は、現在保留にしています」

玲は、地図に映る小さな港町を見つめた。

海辺に並ぶ古い建物。その一角に、行方不明の絵が眠っているかもしれない。

最後の一枚を手に入れれば、八年間続いた渇きを終わらせられる。

そう信じることだけが、玲をここまで生かしていた。

「出資条件も確認してください」

「神崎さんご自身が関わられますか?」

玲は迷わなかった。

「最後の一枚があるなら、僕が行きます」

この時の玲は、まだ知らなかった。

その港町で見つけるのが、探し続けた絵ではなく。

最後の一枚よりも、二度と手放せなくなる人だということを。

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第1話:何を手に入れても、君だけが足りない
落札価格が十億円を超えた瞬間、会場の空気がわずかに変わった。息を呑む音と、抑えきれないざわめき。前方のスクリーンには、現実味のない数字が大きく表示されている。壇上にあるのは、灰色の空と雪解け前の川を描いた一枚の油絵だった。岸辺には、葉を落とした細い木が立っている。人影はない。それでも、つい先ほどまで誰かがそこにいて、何も告げずに去ったような気配が残されていた。エレナ・カワサキが二十二歳の頃に描いた初期作品。世界が彼女を天才と呼ぶより前の絵だった。「十二億」神崎玲が静かに告げると、会場中の視線が集まった。まだ三十二歳の若さで世界的な投資会社を率い、美術市場でも名を知られる男。濃紺のスーツに身を包んだ姿は、異常な価格を提示した直後とは思えないほど落ち着いている。少し離れた席から、別の札が上がった。「十二億五千万」玲は相手を確認することもなく、番号札を上げ直した。「十三億」迷いのない声だった。競売人が会場を見回す。新たな札は上がらない。木槌の音が響いた。「十三億円で落札です」拍手が起こり、驚きと羨望の入り混じった視線が玲へ向けられる。けれど、玲の胸には何も生まれなかった。また一枚、手に入った。ただ、それだけだった。「嬉しくないんですか?」隣に座る宮永結衣が、小さく尋ねた。肩を露出した黒いドレスに、光を受けて揺れるダイヤのイヤリング。国内外で活躍する人気女優であり、玲との交際を何度も報じられている女性でもある。実際には、財団の仕事で何度か同席しただけだった。「欲しかったので、買いました」「十三億も出して?」「金額には意味がありません」必要なら、二十億でも支払っただろう。金額は玲にとって障害ではない。仕事も、富も、名誉も、望めば大抵のものは手に入った。美しい女性から好意を向けられることも珍しくない。それでも、玲の内側は八年前から乾いたままだった。壇上から運び出される絵を見つめる。技術はまだ荒く、色にも若さがある。後年のエレナの作品ほど、残酷なまでに完成されてはいない。それでも、画面の奥に沈む孤独だけは、間違いなく彼女のものだった。エレナ。胸の中で名前を呼ぶと、乾いた場所に薄い痛みが残る。八年前、彼女は死んだ。遺体を見ることは許されなかった。葬儀もなく、墓もない。最後の言葉さえ交わせな
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-02
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第2話:天才画家が死んだ夜
その夜、エレナ・カワサキは、自分の人生が終わることを知らされた。「もう一度、説明してください」口にした声が、自分のものではないように聞こえた。窓のない白い部屋には、エレナのほかに三人の人間がいた。表情をほとんど動かさない日本人の男。濃紺のスーツを着た外国人の女性。そして、数日前からエレナのそばを離れなかった警護担当者。換気扇の低い音だけが、途切れずに響いている。エレナは膝の上へ置いた手を見つめた。爪の際には、落としきれなかった青と黒の絵の具が残っている。昨日まで、彼女は絵を描いていた。完成が近かった。これまでより少しだけ外へ開いた、今までとは違う作品になると思っていた。それが今、どこにあるのかさえ分からない。「あなたの作品の一枚が、国際的な美術犯罪組織の資金洗浄と密売を裏づける証拠になっています」男の説明を受け、外国人の女性が端末をエレナへ向けた。画面に映ったのは、数年前に描いた作品だった。濃い青の中に白い建物が浮かび、窓から長い影が伸びている。欧州の個人コレクターへ売却されたはずの絵だ。「作品は複数の国と所有者を経由していますが、取引価格と実際の資金移動が一致していません。美術品の売買を装い、違法な資金が動かされていた可能性が高い」「それは、私には関係ないでしょう」「そうであればよかったのですが」作品が保管されていた施設では、犯罪組織の取引記録が修復資料として偽装されていた。作者であるエレナなら、本物かどうかを判別できる。修復された箇所の違和感に気づき、証言することもできる。そして何より。「あなたが生きている限り、作品が本物であると証明される可能性が残ります」静かな言葉だった。けれど、それが何を意味するのかは分かった。エレナは椅子の背へ身体を預けた。胸の奥が冷え、うまく息が吸えない。「今朝、あなたの滞在先へ侵入を試みた人間がいました」警護担当者の言葉に、エレナは顔を上げた。「私を殺そうとしたんですか」誰も否定しなかった。それでも、警察に守ってもらえばいいと思った。証言もする。作品も探す。安全な場所へ移ればいい。だが、問題はエレナ一人ではなかった。男が新しい画面を開く。両親。画廊の担当者。ジャン・モロー。そして、玲。車を降りる玲の横顔が映った瞬間、エレナは椅子を蹴るように立ち上がっ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-02
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第3話:葬ることさえ許されなかった
この日、約束の時間を三十分過ぎても、エレナは現れなかった。玲は個室の向かいにある空席を眺めながら、まだ深刻には考えていなかった。エレナは、制作へ没頭すると時間を忘れる。食事の約束も、玲がアトリエまで迎えに行って初めて思い出すことがあった。今日も、少し乱れた金髪のまま扉を開けるのだろう。頬や袖に落としきれなかった絵の具をつけて。『ごめん。あと少しだけって思ったら、止まらなくなった』そう言って、困ったように笑う。玲が『せめて連絡して』と伝えれば、『頭の中では送った』と悪びれずに答える。それが、いつものエレナだった。午後七時半。玲はスマートフォンを手に取った。『まだアトリエ?』送信して、画面を伏せる。描いている最中に急かされることを、エレナは嫌った。それでも玲からの連絡には、気づけば短い返事をよこすことが多かった。『いま無理』『あとで』『色が逃げる』意味の分からない言葉でも、そこにいることだけは分かった。八時になっても既読はつかなかった。玲は一度だけ電話をかけた。長い呼び出し音。出ない。指先が無意識にテーブルの縁を叩く。以前、エレナに指摘された癖だった。『玲って、顔には出ないのに、指だけ正直だよね』『何が』『落ち着かない時、それする』笑いながら、細い手を重ねられたことを思い出す。玲は指を止めた。八時半を過ぎた頃、店員が控えめに扉を開いた。「お料理はいかがいたしましょうか」「もう少し待ちます。彼女が来てからお願いします」答えながら、玲はエレナとの最後のやり取りを開いた。『明後日、予定通りで大丈夫?』その前には、いつものような会話が残っている。『いま、すごくいい色が出そう』『食事は?』『食べた』『何を食べたの』『コーヒー』『それは食事じゃないよ』『うるさい』そこで会話は途切れていた。不自然ではない。エレナは、自分の中で話が終われば返事をしない。それでも、九時を過ぎて再び電話をかけた時、今度は呼び出し音さえ鳴らなかった。電源が入っていないという無機質な案内が流れる。胸の奥に、冷たい違和感が落ちた。エレナが約束を忘れることはある。連絡を返さないこともある。けれど、仕事の連絡まで遮断するほど長く端末を切ることは、ほとんどなかった。玲は席を立った。料理には一度も手をつけなかっ
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第4話:彼女はいなくなった
エレナは約束の店へ来なかった。玲は迎えに来た。ただ、それだけだった。それなのに突然、死んだと告げられた。「一つだけ」玲は静かに尋ねた。「エレナは、本当に亡くなったんですか」「はい」即答だった。けれど、玲の中には何も落ちなかった。信じたくないのではない。信じるための形を、一つも与えられていなかった。エレベーターへ乗り込む直前、玲はもう一度アトリエの扉を見た。今にも内側から開き、少し苛立った顔のエレナが出てくる気がした。『何してるの』『連絡がないから来たんだよ』『描いてた』『約束は?』『……忘れてた』そんな会話が、いつものように始まる。けれど、扉は開かなかった。閉じていくエレベーターの中で、玲は初めて、自分と世界を繋いでいた何かが静かに抜け落ちるのを感じた。***三日後。正式な説明の場で、玲は同じ言葉を繰り返し聞かされた。遺体は見せられない。死因も場所も時刻も開示できない。葬儀も行えない。墓も作れない。遺品も返却できない。窓のない会議室で、玲は向かいに座る人間たちを見た。「では、僕は何をもって、エレナが亡くなったと受け入れればいいんですか」誰も答えなかった。「自分で調べます」室内の空気が変わった。玲には資金も人脈もある。必要なら海外の調査機関も動かせる。しかし、担当者は静かに告げた。「あなたが動けば、ご家族やエレナさんの関係者を危険に晒す可能性があります」国際的な犯罪組織が関与している。玲の行動から、未確保の証拠や関係者の存在を推測される恐れがある。「エレナは亡くなったんですよね」誰も答えない。「亡くなった人を探すことで、誰が危険になるんですか」返ってきたのは、また同じ言葉だった。捜査上、お答えできません。玲は一度だけ目を伏せた。「作品ですか」ほんの一瞬。空気が揺れた。それだけで十分だった。エレナは、何かを知っていたのかもしれない。最後に会った日の記憶が蘇る。アトリエを出ようとした玲を、エレナが呼び止めた。『玲』『何?』筆を持ったまま、少し困ったような顔をしていた。いつもなら、言いたいことをすぐ口にする人だった。それなのに、その日だけ。『……何でもない』と視線を落とした。玲は少し待った。けれど、エレナが笑ったから、それ以上聞かなかった。『また来る
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第5話:彼女が生きていた証拠
それから、どれくらい生きた心地のしない日々を過ごしただろうか。玲が最初の一枚を購入したのは、エレナの死を告げられてから三か月後だった。探していた最後の一枚ではない。エレナが二十一歳の頃、世界に名を知られるより前に描いた、小さな油絵だった。画廊から連絡を受けた時、玲は会社の会議室にいた。壁一面の画面には、海外事業の進捗と投資先の業績が並んでいる。玲はいつもどおり数字を確認し、判断の根拠を求め、次の期限を決めていた。声も表情も、以前とほとんど変わらない。少なくとも、周囲からはそう見えていた。日常は途切れずに続いていた。ただ、どの時間にもエレナがいなかった。スマートフォンが震えるたび、一瞬だけエレナかもしれないと考える。すぐに、もう連絡が来ることはないと思い出す。三か月経っても、その瞬間には慣れなかった。会議が終わり、最後に残った加瀬がタブレットを手に近づいてきた。「エレナ・カワサキの作品について、連絡がありました」それまで見ていた数字が、一瞬で意味を失った。「どの作品ですか」「初期作品です。個人所有でしたが、売却を検討しているそうです」「最後の一枚では」「ありません」玲は小さく息を吐いた。それでも、画廊の住所を見た時には、すでに予定を空けることを決めていた。***作品は、都内の小さな画廊の奥に置かれていた。縦長のキャンバス。後年の作品と比べれば、構図も色の重なりもまだ荒い。それでも玲には、一目でエレナの絵だと分かった。厚く残った絵の具と、迷うように掠れた筆先。この色を、エレナが選んだ。離れて見直し、また近づいて筆を置いた。彼女が生きていた時間が、確かにここへ残っている。そう思った瞬間、三か月間ほとんど動かなかった胸の奥に、わずかな感覚が戻った。嬉しいわけではない。満たされたわけでもない。ただ、エレナが完全には消えていないと思えた。「欧州へ渡る直前の作品です」画廊の責任者が、少し離れた場所から説明した。「売却後も、ご本人が何度か状態を気にされていた記録があります」エレナが一度手放し、それでも気にかけていた絵。玲は、森の中の人物を見つめた。「所有者の希望額は」提示された金額は、当時の評価を大きく上回っていた。死後、エレナの作品価格は急激に上がっている。玲が収集を始めたと知られれば、さら
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第6話:最後の一枚が眠る町
八年後。神崎玲のもとへ届く依頼の大半は、加瀬の手元で選別される。投資案件。財団への寄付依頼。美術館との共同事業。玲が直接確認する必要のないものは、担当部署へ回される。その日、会議を終えた玲の前へ置かれたのは、地方の港町で開催される国際アートフェスティバルの企画書だった。「現時点では、小規模な地域芸術祭です」加瀬が資料を開く。国内外の若手作家を招き、町全体を展示会場として利用する計画だった。開催は三か月後。企画自体は悪くない。しかし、玲の財団へ持ち込まれる案件としては珍しくなかった。「僕へ回した理由は何ですか」加瀬が参加予定者の一覧を表示する。玲の視線が、一つの名前で止まった。ジャン・モロー。「ジャンさんが関わるんですか」「後援を検討しています。当初は財団名義を貸す程度の依頼でしたが、本人が出資まで考えているようです」玲は企画書を見直した。欧州の貴族出身で、複数の美術財団に強い影響力を持つジャンが、自らこの規模の芸術祭を調べている。不自然だった。エレナが亡くなって以降、玲とジャンはコレクターとして競い続けてきた。市場へ作品が出れば、どちらが先に情報を得るか。誰が所有者へ接触するか。ジャンには欧州美術界との人脈があり、玲には資金と独自の調査網がある。四十六枚の多くを玲が手に入れた一方で、ジャンも最後の一枚だけは諦めていなかった。「ジャンさんがメインスポンサーになれば、規模は変わりますね」「はい。すでに欧州や北米のキュレーターから問い合わせが入っています」ジャンの名が加われば、小さな地域芸術祭は、世界の美術関係者が集まる場へ変わる。だからこそ。彼がここへ関心を持った理由を、玲は知る必要があった。「ほかにもあります」加瀬が古い輸送記録を表示した。国外から日本へ運ばれた大型美術品。作品名は記されていない。複数の保税倉庫を経由し、三年前に、この港町の保管施設へ入った形跡が残されていた。「寸法が、エレナのアトリエから消えたキャンバスとほぼ一致しています」玲の指が止まる。「輸送時期は」「エレナが亡くなる直前です」作品はフランスから横浜へ入り、その後、複数の倉庫を移動していた。最後の保管先は、二年前に閉鎖されている。所有者として記録された海外法人にも、実体はなかった。確証はない。これまでも、最
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-02
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第7話:エレナが死んで、エマが生まれた
朝倉エマは、SNSを見ない。かつては、新しい展示を追い、知らない画家の才能に嫉妬し、評論家の言葉に腹を立てた。名前が広がるほど、世界中から次の作品を期待された。天才は、次も天才でいられるのか。その視線は、すべてエレナ・カワサキへ向けられていた。今のスマートフォンに入っているのは、天気予報と地図、仕事に必要なアプリだけ。美術界の記事も、芸能人のニュースも見ない。港町へ来て、三年。朝は漁船の音で目を覚まし、窓を開ければ潮の匂いが入る。坂を下れば、商店街の人たちが自然に名前を呼んだ。「エマちゃん、おはよう。形の悪いトマトがあるから、帰りに持っていきな」「ありがとうございます」「奏くんに渡しておくね」勤め先まで説明する必要もない。最初の頃は、話しかけられるたび身体が固くなった。どこから来たのか。家族はいるのか。以前は何をしていたのか。けれど、この町の人たちは、答えなければそれ以上踏み込まなかった。翌日には、天気や魚の話をしている。その無関心に近い優しさが、少しずつ心地よくなった。海沿いのカフェへ入ると、コーヒーの香りがした。開店前の店内で、千早奏が豆を量っている。「おはようございます、奏さん」「おはよう、エマ」この町で生まれ育ち、数年前に店を継いだ奏は、背が高く整った顔立ちをしている。観光客の間では、海辺のカフェの格好いい店長として少し知られているらしい。エマは常連客から聞くまで、そのことさえ知らなかった。奏は三年間、余計なことを聞かずにいてくれた人だった。「八百屋さんから、またトマトをいただきました」「昨日も同じことを言って持ってきたよ。今日のランチに使おうか」「はい」エマはエプロンをつけ、肩までの黒髪を低くまとめた。鏡に映るのは、細かなそばかすと控えめな化粧をした女性。長い金髪で雑誌や展覧会の写真に写っていた女とは、まるで違う。変えられなかったのは瞳だけだった。琥珀と淡い茶色の中に、光を受けると薄い緑が浮かぶ。胸元には幼い頃の傷があり、今はその上をタトゥーが覆っている。玲だけが、その傷を知っていた。記憶が浮かびそうになり、エマはエプロンの紐を結び直した。玲のことは考えない。八年前から、そうしてきた。開店すると、いつもの客が入ってきた。港で働く男性。近所の老夫婦。犬の散歩帰りにコーヒー
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-02
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第8話:死んだ恋人に似た女
正直に言えば、玲は一刻も早く店を出たかった。海沿いのカフェへ立ち寄ったのは、結衣が希望したからにすぎない。このあとには国際アートフェスティバルの主催者との会議がある。確かめるべきことはいくつも残されていた。店内は、写真で見た以上に穏やかな空気に満ちていた。居心地のよい店なのだろう。客たちの表情を見れば、それくらいは分かる。けれど、玲にとっては、それだけだった。「綺麗ですね」向かいに座った結衣が、窓の外へ顔を向けたまま言った。「そうですね」玲は短く答え、腕時計へ目を落とした。会議まで、まだ少し時間がある。コーヒーを一杯飲み、すぐに店を出ればいい。玲の意識は、すでにこのあとの予定へ移っていた。「本当に興味なさそうですね」結衣が笑う。「何がですか」「海も、このお店も。私が来たいって言ったから、仕方なく付き合ってくれただけでしょう?」「そのとおりです」玲がためらいなく答えると、結衣は呆れたように眉を上げた。「少しくらい否定してくれてもいいのに」「事実と違うことを言う必要はないでしょう」冷たくしたつもりはなかった。玲は誰に対しても、必要な礼儀を欠かさない。ただ、興味のないものへ、興味があるふりをすることができないだけだった。美しいものを美しいと判断することはできる。人が喜ぶ理由も理解できる。けれど、自分の感情がそこへ追いつくことは、もうほとんどなかった。八年間、ずっとそうだった。何かを見て、もう一度見たいと思うこともない。誰かへ伝えたいと感じることもない。心を動かすものがあるとすれば、エレナが残した作品だけだった。それさえ、一枚手に入れた瞬間にはわずかに満たされても、すぐに次の空白が生まれる。最後の一枚を除き、エレナの作品はほとんど玲の手元にある。それでも、胸の内側に開いた穴は少しも狭くならなかった。「いらっしゃいませ」カウンターの奥から、男性が近づいてきた。写真で見せられた店長だった。千早奏。背が高く、穏やかな顔立ちをしている。観光客の間で人気があるという話も、結衣から聞いていた。「本当に格好いいですね」奏が離れたあと、結衣が声を潜めた。玲は一度だけ、その背中を見た。「そうですか」「見てなかったでしょう」「見る必要がありますか」「ありませんけど」結衣は苦笑した。玲には、どうでも
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-02
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第9話:もう一度、名前を呼ぶ
テーブルの端から、水が床へ落ちる。一滴。また一滴。女性は我に返ったように視線を下げた。「申し訳ありません。布巾をお持ちします」落としたのは玲なのに、女性はそう言い、カウンターの奥へ戻っていった。玲は言葉を返せなかった。肩までの黒髪。細い背中。静かな歩き方。エレナとは違う。どこから見ても、別の人生を生きてきた人間だった。それでも、振り返れば、もう一度あの顔が現れる気がした。「大丈夫ですか?」結衣が尋ねる。玲は答えられなかった。自分の手を見る。指が、わずかに震えている。八年間。何を見ても、誰と会っても、一度も起きなかった反応だった。グラスを落とす。呼吸を忘れる。知らない女性から、目を離せない。そんな自分を、玲自身が知らなかった。「お知り合いですか?」結衣が声を落とす。玲は、ゆっくり首を横へ振った。「違います」言葉にすると、胸の奥が強く痛んだ。違う。目の前の女性は、エレナではない。死んだ恋人に似ている。ただ、それだけ。そう思わなければならない。けれど、思い込もうとするほど、先ほど見た瞳が鮮明に蘇る。琥珀と淡い茶色。その奥に浮かんだ緑。顔を見た瞬間だけ、確かに揺れた表情。もし、本当に他人なら。なぜ、あんな顔をしたのだろう。玲は自分へ都合のよい意味を与えようとしていることに気づいた。突然グラスを落とした男と目が合えば、誰でも驚く。それだけだ。エレナではない。八年間探し続けても、何の痕跡も見つからなかった人が。有名でもない、地方の港町のカフェで。別の名前を使って働いているはずがない。分かっている。それでも、身体の内側に戻った感覚だけは消えてくれなかった。また会えた。その思いが、一度胸へ生まれてしまった。「エレナさんに、彼女は似ているんですか」結衣の問いに、玲はカウンターの奥へ目を向けた。女性の姿は見えない。「はい」声が、僅かに掠れた。「とても」結衣は何かを言いかけたが、玲の表情を見てやめた。八年前に亡くなった恋人。四十六枚の作品を集めても失ったままの人。今も最後の一枚を探し続けている理由。そのすべてを、結衣も多少は知っている。けれど、玲がこれほど露骨に感情を揺らした姿を見るのは初めてだったはずだ。やがて、カウンターの奥から女性が布巾を持って戻ってきた。
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第10話:……エレナ?
「……エレナ?」玲の声が、静かな店内へ落ちた。布巾を持つエマの手に、玲の指が触れている。ほんの数秒。強く掴まれているわけではない。それでも、玲には指先から伝わる温度だけが、周囲のすべてより鮮明に感じられた。エマの瞳が、わずかに揺れる。その一瞬を見た玲の胸に、期待が込み上げた。自分の声を知っている。名前を呼ばれ、反応した。そんな都合のよい考えが、理性よりも早く浮かぶ。けれど。次の瞬間には、エマの表情から動揺が消えていた。呼吸を整え、玲の指先へ視線を落とす。拒絶するように強く手を引くこともない。声を上げることもない。ただ、客へ接する時と同じ穏やかさで、距離を取り戻そうとしていた。「お客様」横から、低い声が入った。奏が、テーブルのそばに立っていた。表情は変わらない。それでも、普段の柔らかさの奥に、はっきりとした警戒がある。視線は玲の顔ではなく、エマに触れている手へ向いていた。「彼女が困っていますので」責めるような口調ではなかった。店の空気を荒らさず、エマだけを守るための言葉だった。玲は、ようやく自分の行動に気づいた。初対面の女性へ突然触れ、死んだ恋人の名前を呼んでいる。普段の自分なら、決してしないことだった。玲はすぐに指を離した。「失礼しました」落ち着いて伝えたつもりだった。けれど、声にはまだ僅かな掠れが残っている。エマは触れられていた手を身体の近くへ戻した。皮膚には何も残っていない。それでも、一度だけ自分の指先を見つめる。玲はその小さな動作からも目を離せなかった。「どなたか存じ上げませんが」エマが顔を上げた。声は穏やかだった。突然触れられ、知らない名前を呼ばれた直後とは思えないほど、落ち着いている。「私は、朝倉エマと申します」丁寧に頭を下げる。「人違いだと思います」それだけだった。怒りも。戸惑いも。玲へ何かを問い返す様子もない。まるで、こうした予想外の出来事さえ、感情を表へ出さず処理することに慣れているようだった。玲は言葉を失った。エレナなら、こんな反応はしない。知らない男に手を触れられれば、露骨に眉を寄せた。人違いだと分かれば。『誰と間違えてるの』と、その場で確かめただろう。周囲の空気を壊さないように言葉を選び、自分の動揺まで隠す人ではなかった。目の前にい
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-02
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