登入八年前、天才画家エレナは、自作が国際犯罪組織の証拠となったことで、恋人を守るため死亡を偽装し、朝倉エマとして港町で静かに生きていた。絵も過去も捨てたはずだった。だが、抑えきれない創作衝動に抗えず、誰にも知られぬ倉庫で再び筆を取る。そんな彼女の前に現れたのは、失われた「最後の一枚」を探し続ける元恋人・玲。正体に気づかぬまま、玲は面影ではなく今のエマ自身に惹かれ、その想いはやがて誰にも渡したくない執着へ変わっていく。気づかれてはいけない女と、知らずにもう一度彼女を選ぶ男。最後の一枚が隠す真実の先で、二人は過去ではなく、現在の自分として再び恋に落ちる。
查看更多お手洗いの鏡に映った自分は、思っていたよりも顔が赤かった。ワインのせいだろうか。それとも、さっきまで向かいに座っていた男のせいなのか。エマは洗面台に両手をつき、ゆっくり息を吐いた。『少しだけ、期待してしまいます』玲の声が、耳から離れない。期待。その言葉を、どう受け取ればいいのだろう。自分は今、彼の期待に応えるようなことをしている。昨日は自分から袖を掴んだ。夕食にも誘った。今夜も、玲の話をもっと聞きたいと思った。その全部が、自分の意思だった。ジャンに言われたからではない。玲の注意を最後の一枚から逸らすため。危険に近づけないため。そういう理由があることは、確かだった。けれど、理由がなくても同じことをしたかった。そこまで分かってしまった以上、もう自分の気持ちを誤魔化すのは難しい。「……どうしよう」小さく呟いた。八年前、玲を失うことを選んだ。あのときは、自分の気持ちを諦めることが、彼を守る唯一の方法だった。そして今、同じ選択をもう一度しようとしている。違うのは、今回は玲も自分を好きだと知っていることだった。想像していた以上に、深く。エマは冷たい水で指先を濡らし、もう一度鏡を見た。泣いてはいない。まだ、普通に笑える。そう思ったとき、バッグの中でスマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、普段ほとんど連絡の来ない番号だった。保護官。胸の奥が、急に冷える。エマは着信が切れる直前に、短いメッセージを送った。『五分後に出ます』それから鏡の前で表情を整え、席へ戻った。玲はスマートフォンで何かを確認していたが、エマに気づくとすぐに画面を伏せた。「おかえりなさい」「……すみません。少し電話が来ていて」「仕事ですか?」「いえ。知り合いから」玲はそれ以上聞かなかった。「外で話した方がよければ、どうぞ」「……ありがとうございます。すぐ戻ります」「待ってます」その言葉に、胸が痛んだ。待ってます。玲は何の疑いもなくそう言った。エマは小さく会釈をして、もう一度店を出た。外へ出ると、夜の空気は思っていたよりも涼しかった。店の明かりが届かない路地の端まで歩き、周囲に人がいないことを確かめる。それから着信履歴を開いた。呼び出し音は二回で止まった。「はい」『朝倉さん。先日お話しいただいた件ですが、追加の確
「もちろんです」玲はそう答えてからも、しばらく嬉しそうに笑っていた。エマが何気なく口にした「また、食事に行きましょうね」という言葉を、思っていた以上に大切に受け取ってくれたらしい。テーブルの上には飲み終えた食後酒のグラスが二つ。店内の照明は少し落とされ、窓際の席では最後の客が会計を済ませていた。外はすっかり暗くなっているのに、二人の間には、まだ席を立つのが惜しいような空気が残っていた。「次は、僕に選ばせてもらえますか」玲が尋ねた。「お店ですか?」「はい。今日はエマさんが予約してくれたので」「玲さんが選ぶお店って、なんだか緊張しますね」「どうしてですか?」「だって、普段から良いところに行ってそうですし」玲は少し考えてから、困ったように笑った。「そういう場所より、エマさんが楽しめるところを選びたいです」「……また、そういうことを」「何でしょう」「いえ。もういいです」エマが笑うと、玲も嬉しそうに目を細めた。その表情を見るたびに、胸の奥が温かくなる。自分から誘っただけで、こんなにも喜んでくれる。また会おうと言えば、次の約束を考えてくれる。玲にとっては、きっと何でもない未来の話なのだろう。来週でも、来月でも、その先でも。お互いの予定が合えば、また食事をして、海を歩いて、少しずつ距離を縮めていく。そんな時間が当然のように続いていくと、彼は思っている。エマは膝の上で指を重ねた。自分だけが、その先に何が待っているのかを知っていた。「……玲さん」「はい」「最近、そういうことをよく言いますよね」玲が僅かに首を傾げる。「そういうこと?」「嬉しいとか、会いたいとか。私と一緒にいたいとか」言い終えてから、エマは少し恥ずかしくなった。自分で並べてみると、彼がどれほど真っ直ぐに好意を伝えてくれていたのかが分かる。玲は一度グラスへ視線を落とし、それから静かに頷いた。「そうですね」否定するつもりはないらしい。「誰かに興味を持てること自体、久しぶりだったので」その言葉に、エマの胸が小さく痛んだ。「最初は僕も戸惑いました。知りたいと思うことが増えて、会えないと残念で、会えたらそれだけで嬉しい。そういう感情が、まだ自分の中に残っていたことに驚いたんです」玲は、自分のことを話しているのに、どこか珍しい現象を説明しているよう
食後酒を飲み終えても、二人はすぐには席を立たなかった。店内には穏やかな音楽が流れ、奥の厨房から食器を重ねる小さな音が聞こえてくる。テーブルの上ではキャンドルの炎が揺れ、玲の横顔に淡い影を落としていた。エマは、改めて彼を見た。八年前より、少し身体が大きくなった。昔から背が高く、細身のスーツがよく似合う人だった。けれど今は肩まわりに厚みがあり、シャツ越しにも腕の逞しさが分かる。顔立ちはほとんど変わらない。むしろ、年齢を重ねたことで輪郭がはっきりし、以前のどこか少年めいた雰囲気が消えていた。その代わりに、落ち着いた大人の男の色気がある。エマは、自分がそんなことを考えているのに気づいて、少し呆れた。ワインのせいだ。そういうことにして、視線を逸らそうとした。「エマさん」呼ばれて顔を上げる。「はい?」「今、また僕のこと見てました?」心臓が跳ねた。「……見てません」「そうですか」玲は少し笑った。「何ですか、その顔」「嬉しかっただけです」「だから、全部言わなくていいです」「酔ってるのかもしれません」「玲さんも?」「少し」そう言って笑う玲の表情は、いつもより柔らかかった。エマはまた、目を奪われた。やっぱり、惹かれている。八年前に終わらせたつもりだった、玲への感情。危険から遠ざけるために、自分の人生ごと切り離したはずのもの。それなのに、朝倉エマとしてもう一度この人を知り、また同じように惹かれている。いや、同じではない。今の玲を、好きになり始めている。そのことが、何より怖かった。八年前の彼を懐かしんでいるだけなら、まだよかった。けれど今は違う。仕事を終わらせて会いに来てくれるところも、何でもないメッセージを嬉しそうに受け取るところも、こちらが笑えばつられるように笑うところも。昔にはなかったものまで、愛おしいと思ってしまう。もうすぐ、自分はまたいなくなるのに。「でも」不意に、玲が口を開いた。エマは顔を上げた。「最近は少し、変わったんです」玲はグラスを静かに置いた。「次の日が来るのが、楽しみになりました」エマの呼吸が止まった。玲は少し酔っているのだろう。いつもより目元が柔らかく、言葉を選ぶ時間も短い。それでも、こちらを見る視線だけは真っ直ぐだった。「朝起きて、今日は会えるかなと考えたり」玲は
二本目のワインは開けなかった。代わりに、食後酒を少しだけ頼んだ。店内の客はいつの間にか減り、奥の席から聞こえていた笑い声も遠ざかっていた。窓の外はすっかり暗くなり、通りに面した小さな庭では、足元を照らす灯りが葉の影を壁に映している。「私ばっかり話しましたね」エマが言うと、玲は首を振った。「聞きたかったので」「でも、玲さんの話をあまり聞いてないです」「僕ですか?」「はい」玲は少し意外そうな顔をした。「聞いても、あまり面白くないですよ」「それは私が決めます」そう返すと、玲は一瞬目を見開き、それから小さく笑った。「……そうですね」いつもより少しだけ、警戒の薄い笑い方だった。酒に弱いわけではないのだろう。顔色はほとんど変わらないし、言葉もはっきりしている。ただ、普段なら飲み込んでしまうような感情が、今夜は少しだけ表情に現れている気がした。「何が聞きたいですか?」エマは迷った。聞きたいことなら、いくらでもあった。八年前から今日まで、玲がどんなふうに生きてきたのか。どこで暮らし、誰と出会い、何を考えていたのか。本当は、ずっと知りたかった。けれど、その時間を尋ねる資格が自分にあるのか分からなかった。玲から何も告げられずに去ったのは、自分なのだから。「……この八年」玲の表情が僅かに変わった。「何をしていたんですか?」できるだけ軽く尋ねたつもりだった。けれど、玲はすぐには答えなかった。グラスへ視線を落とし、少し考えてから静かに息を吐いた。「あまり、話したくないんですが」エマの胸が小さく縮んだ。「じゃあ、無理に——」「でも」玲が顔を上げた。「エマさんには、知っておいてほしいので」その目に冗談はなかった。エマは何も言わず、続きを待った。「感情の起伏がないまま、日常を過ごしていた気がします」玲は淡々と言った。「仕事だけは、結果が出れば前に進めるので」グラスの中で、琥珀色の酒が小さく揺れた。「父の資本も使って会社を立ち上げて、仕事をして。そこで知り合った人たちと食事をしたり、必要な付き合いに顔を出したり」少しだけ口元を緩める。「その繰り返しです」「……楽しくなかったんですか?」尋ねてから、エマは後悔した。玲は少し考えた。「楽しいかどうかを、考えなくなっていたんだと思います」静かな声だった。