凌一が来ることを考え、夕月は瑛優を連れて楓と両親の向かい側に座った。盛樹が心音にナプキンを掛けてやると、彼女は幼子のように甘え始めた。「お食事しましょ〜、もうお腹ぺこぺこ」盛樹は冬真の方をちらりと見て、心音をなだめた。「でも、橘博士がまだ……」「うぅ〜ん」心音は不満げに唇を尖らせ、こぶしを目元に持っていって、存在しない涙を拭うしぐさをした。夕月は深いため息をつく。何度見ても、母のこの態度には頭が痛くなる。給仕が部屋に入ってきて告げた。「先ほど橘様からお電話がございまして、少々遅れるとのことです。皆様、どうぞお待ちにならずにお召し上がりください」「では、料理を」冬真が給仕に手を上げた。瑛優は悠斗の前に子供用食器が置かれているのを見た。そして心音の前にも同じものが。自分の前には普通の食器——きっと、おばあちゃんが自分の分を取ってしまったのだろう。瑛優は小さなため息をつく。まあいい、子供用じゃお腹いっぱいにはならないし。給仕が次々と料理を運んでくる。子供たちの前にはチキンカツとサーモンフライが置かれた。楓はナイフを手に取り、悠斗の分を一口サイズに切り分け始めた。「盛樹さん、私のも切って〜」心音が甘えた声を出す。「しょうがないなぁ」盛樹は優しく微笑みながら、妻のチキンカツを小さく切り分けていく。「楓兄貴すごいなぁ」悠斗は口いっぱいに頬張りながら感心する。「こんなに小さく切ってくれる人、今までいなかったよ」「忘れちゃったの?」瑛優がカツを噛みながら言う。「ママだっていつも私たちのを小さく切ってくれてたじゃない」「楓兄貴が切ったの一番おいしいもん!!」悠斗は声を張り上げた。楓はジュースの入ったグラスを掲げ、場を和ませようと声を上げた。「夕月姉さんのALI数学コンテスト金賞受賞、おめでとう!すごいよね、今や全国で話題になってるじゃない」「テレビのインタビューで両親への感謝の言葉も一つもなかったようだが」盛樹は再び父親然とした態度を見せた。夕月は皮肉めいた笑みを浮かべた。「メディアの前で、私と瑛優を家から追い出してくれたことへの感謝でもするべきだったかしら?」盛樹は心臓が止まりそうになり、慌てて冬真の表情を窺った。冬真は眉をひそめた。夕月が盛樹から受けた仕打ちを持ち出すとは——自分に助けを求
冬真は眉をひそめた。ドレスは秘書に任せきりだった。確かに夕月のサイズで注文したと聞いたが、いつの時期のものか、詳しくは尋ねていなかった。そもそも夕月は、妻という肩書きを持った置物のようなものだった。もう長いこと夫婦の営みもない。彼女の身体に何の興味も抱いていなかった。太っても痩せても、どうでもよかったのだ。「サイズが合わなければ、納得いくまで直させる」冬真は、これだけ夕月に譲歩しているのだと思っていた。夕月はドレスの上に置かれた書類を手に取った。「技術部への採用?」「総務秘書室だ。私の秘書として」夕月は一瞬固まった後、思わず噴き出した。「七年間はタダで家政婦を務めさせて、今度は給料払って続けろって?」男の眉間に深い皺が刻まれる。「桜都一の高給取りになれるんだぞ」「一言で答えましょうか」夕月が笑みを浮かべる。「『承知』か『増額』か?」「くたばれ」冬真は凍りついた。死水のように澱んでいた胸の内が、一気に掻き乱された。「学歴は学士止まりだろう」冷ややかな声音で牽制する。「コンテストで賞を取っただけだ。大会と実際のプロジェクトマネジメントは、まったく別物だ」株主たちはCTOのポジションを夕月に与えようとしている。だが、七年連れ添った妻の実力なら、よく分かっているつもりだ。20歳で主婦になった女に、橘グループの最高技術責任者が務まるはずがない。「夕月姉さん、どうして冬真にそんな酷い言葉を!」楓が声を荒げた。「事実を言っただけよ」夕月は薄く笑い、箱を冬真の前に投げ出した。「大事にしまっておいて。恥を晒すだけだから」心音は夕月が箱を拒否するのを見るや否や、中からドレスを取り出した。「ねぇ盛樹さん」嬉しそうに微笑みながら隣の夫に向かって言う。「これ、私が着たら夕月より素敵でしょ?」盛樹は冬真から目を離すことなく、適当に応じた。「ああ、そうだな」冬真は冷ややかな目で夕月を見下ろした。「橘グループのオファーを断って、まともな職が見つかると思っているのか」夕月は優雅な仕草でトリュフのマッシュルームスープを啜った。「そもそも入社する気なんてありませんでしたから」冬真は失笑した。まさか本気で橘グループへの入社を考えていないはずがない。それが彼女にとって最良の選択肢なのは明らかだ。「子供じみた意地を張るのはやめろ。今は真剣な話をしている。
帝王のように椅子に深く腰掛けた冬真。互いに同じ目線のはずなのに、夕月には明らかに上から見下ろされているような感覚が襲う。冬真が何か言おうとした瞬間、盛樹が激しく立ち上がった。「何を言い出すか!天に逆らうような真似を!女が男の下に付かないだと?!反逆者め!」盛樹は椅子を蹴飛ばし、テーブルを回り込んで夕月に向かって突進してきた。楓は下唇を強く噛んだ。歯を緩めれば、笑い声が漏れそうで仕方がない。瑛優はスプーンを置き、盛樹の動きを鋭い眼差しで追っていた。盛樹が夕月の襟元に手を伸ばそうとした、その瞬間——「何をしているんだ?」凌一の声が突然響き渡った。「おじいちゃん!」瑛優は椅子の上に立ち上がり、夕月に向かって伸びる盛樹の手首をしっかりと掴んでいた。個室内は一触即発の緊張感に包まれていた。元特殊部隊の体格のいいアシスタントが、車椅子を押して入ってきた。凌一は車椅子に座ったまま、その存在感だけで空気を支配していた。黒のタートルネックに、テーラードパンツが長い脚を優雅に包んでいる。楓は凌一の顔を見た瞬間、思わず息を呑んだ。最後に会ったのは10年前。冬真よりたった2歳年上なのに、当時から人々を魅了する存在だった。幼い頃、みんながレゴブロックで遊んでいた時期に、彼はすでに天体の運行を研究していたのだ。楓は今でも鮮明に覚えている。小学1年生の夏休み、汐と一緒に橘家の本邸を訪れた時のこと。冬真が二人を連れて小川で魚や海老を捕まえに行った帰り道。一階の部屋を通り過ぎる時、凌一が数式で埋め尽くされた黑板の前に立ち、十数名の年配者たちが計算用紙やノートパソコンを手に、彼と熱心に議論を交わしていた光景が。「あの人たちは何してるの?」幼い楓は不思議そうに尋ねた。凌一の端麗な容姿に惹かれ、本能的に近づきたい、一緒に小川へ行って海老や魚を捕まえたいと思った。「おじさまの生徒たちよ」汐が答えた。「おじさまは、私たちとは違う人なの」記憶が時の中で凍りついた。冬真は即座に立ち上がり、凌一の前に進み出た。「叔父上」恭しく一礼する。盛樹は凌一の姿に目を見開いた。「あ、あの……橘博士!!」まさか本当に会えるとは思ってもいなかった。「橘博士、お久しぶりです!」盛樹は笑顔を作り、親しげに近寄ろうとする。凌一
威圧的な存在感が千斤の重みとなって盛樹を押しつぶし、息さえ満足にできない。凌一の前では、まるで尻尾を巻いた野良犬のように、爪一本さえ立てられない。「でも……」まるで凌一の方が夕月の父親のようだ……盛樹が何か言いかけると。「『分かりました』とだけ答えろ」その声は静かで穏やかなのに、盛樹は窒息しそうになった。生存本能に従い、一字一句、凌一の指示通りに答える。「は、はい……分かりました!」凌一は盛樹から視線を外し、アシスタントが主席の横まで車椅子を押した。テーブルに投げ捨てられた箱から、橘グループのロゴ入り封筒が覗いていた。「これは?」「藤宮夕月への採用通知書です」冬真が答えた。凌一が顎をしゃくると、アシスタントが即座に封筒を手に取った。中から契約書を取り出し、凌一に示す。凌一が契約書に目を通し、顔を上げた瞬間、その鋭い視線に冬真は背筋が凍る思いをした。部屋の中は水を打ったように静まり返った。瑛優と悠斗は初めて凌一に会ったが、その圧倒的な存在感に息をするのも忘れていた。「生活アシスタント……雇用契約?」その言葉が部屋に響いた瞬間、まるで冷たい刃が冬真の頬を掠めていくような感覚。「冬真」凌一の穏やかな声に、冬真は即座に車椅子の前に立った。車椅子に座った凌一が契約書を差し出す。冬真は恭しく両手で受け取った。「夕月が私を招待した食事の席で、こんな侮辱的な契約書を出すとは。冬真、君は三歳児かな?」冬真の瞳に暗い影が差す。叔父の前では、一言の反論すら許されない。凌一は橘グループの要。当主ではないものの、冬真の父でさえ、この30歳年下の弟に対して最大限の敬意を払っている。その前に立つ冬真は、呼吸さえ細めていた。「夕月の能力を考えれば、社長付き生活アシスタントの方が適任かと……」「彼女の能力を評価する資格が、君にあるのかな?」凌一の静かな問いかけに、冬真の胸の内で怒りの炎が燃え上がる。「こんな子供じみた遊びは止めなさい。分かったか?」叱責の言葉に、橘グループ社長の薄い唇が一文字に結ばれた。父が叱責される様子に、悠斗は恐怖を覚え、楓の背後に身を隠した。楓の額には冷や汗が滲んでいた。「私は……」冬真が言いかけた。「『分かりました』とだけ答えなさい」凌一はま
冬真の手の中で契約書が軋んだ。指に力が入り、紙面に不規則な皺が刻まれる。凌一の冷静な声は、抗うすべを持たない威力を帯びていた。「兄の教育が行き届いていない」——その言葉は台風のように吹き荒れ、冬真の長年の誇りと自負を木っ端微塵に粉砕した。橘家の舵取り、グループの指揮者として、誰もが彼の意向に従ってきた。万人の上に立つ絶対的な王者だと思い込んでいた。だが、その上に君臨する神が、こうして裁きを下すとは。一瞬にして、冬真は息をするのも困難になっていた。「叔父様、私たちは無関係な人間ではありません。覚えていらっしゃいますか?汐と一緒に本邸でお会いした時の……」楓が親しげに話しかけようとした。凌一からは特別な威圧感こそないものの、あまりにも整った容姿に、二メートルほどの距離でその顔を見つめながら話すだけで、楓の言葉は次第に歯切れが悪くなっていく。「そうです!」楓の言葉に便乗するように盛樹が声を上げた。「私たちも以前お会いしましたし、私は夕月の父親です。家族なのに、どうして無関係な人間だなんて……」凌一の冷めた視線が、ようやく盛樹に向けられた。まるで百年の秩序の外側から差し込む一瞬の光のように、その眼差しは盛樹の血液を凍らせた。「自分の娘を家から追い出した人間が、家族を名乗るのか?」夕月の心臓が高鳴った。なぜ凌一は、自分と瑛優が家を追い出された事実を知っているのか。「いえ、これには事情が……」盛樹の声が掠れる。「黙れ」その声は柔らかでありながら、見えない封印のように盛樹の口を塞いだ。凌一は顎をしゃくり、冬真に告げた。「彼らを外に出しなさい」盛樹は息を呑んだ。これまでのキャリアで、こんな扱いを受けたことはない。食事の途中で、家族全員が追い出される——そんな屈辱を。楓は慌てた眼差しを冬真に向けた。だが冬真は氷のように冷たい表情を浮かべるだけだった。「出ていけ」凌一が7歳で天才の片鱗を見せ始めて以来、橘家には一つのルールがあった——凌一を喜ばせることが何より重要だ。盛樹は心音の肩を抱き、立ち上がろうとする。「お腹すいてるのに〜」心音が小声で不満を漏らした。「いい子だから、外で食べようね」盛樹は慌てて宥めた。心音は箱の中のドレスを素早く手に取った。夕月は気にも留め
冬真の表情が強張り、鋭い喉仏が震えた。「分かったなら『はい』と答えなさい」凌一の声は相変わらず穏やかだった。冬真は頭皮が痺れるような感覚に襲われながら、いつもの傲慢な頭を下げた。「……はい」敗北した将軍のように、広い肩に暗い影が落ちる。返事を確認した凌一は、満足げに部屋を後にした。夕月は車椅子に座る凌一の横を歩きながら、柔らかな声で言った。「橘博士、助けていただき、ありがとうございます」瑛優も母の後に続いて、キラキラした目で凌一を見上げた。「すごいです、橘博士!」小さな頭の中では、まだあの衝撃的な光景が残っていた。生まれて初めて、いつもの威厳に満ちた父が、まるで別人のように萎縮する姿を目の当たりにしたのだ。瑛優は憧れの眼差しで凌一を見つめた。彼女にとって、凌一は父をも超える存在に映っていた。「昔のように、先生と呼んでくれていい」凌一は眉を少し寄せた。夕月が"博士"と呼ぶたび、何か違和感を覚えるのだ。まるで二人の間にあった親しい関係など、なかったかのように。確かに夕月は昔、彼を深く信頼し、頼りにしていたのに……「昔は、お兄さんって呼んでいましたよね」夕月は目尻を下げて微笑んだ。どうしてお兄さんと呼ばせてくれないの?まるで神様みたいに、距離を置くような。車椅子に座った凌一は、漆黒の瞳を深く沈ませ、何かを思案しているようだった。「じゃあ、ママの先生のことは、なんて呼べばいいの?」瑛優の声が響いた。夕月は娘の肩に優しく手を置いた。「凌一おじさまでいいわ」凌一は長い睫毛を一瞬だけ揺らし、世代を一つ下げられたことを、意外と心地よく感じていた。「冬真の誘いを断ったということは、サミットへの参加機会も失ったことになりますね」サミットは主にビジネス界の人物を招待するもので、数学コンテストで賞を取った夕月とはいえ、まだビジネス界の人間とは言えない。もし大学からの誘いを受けてサミットに参加すれば、その大学と強く結びついてしまうことになる。凌一は車椅子の肘掛けを指先でそっと撫でながら「私から——」「実は、サミットからの招待状をいただいているんです!主催者から直接です!」夕月は嬉しそうに報告した。凌一は本当に自分のことを考えてくれている。冬真の誘いを断ることで生じる不利益まで、心配してくれてい
スタッフの報告を聞き、眉間に深いしわを寄せる。叔父と夕月は、そこまで親しい関係だったのか?記憶を辿っても、二人が言葉を交わす場面など見たことがない。だが冬真はすぐに納得した。叔父は才能を愛でる人物だ。夕月への配慮も、その才能ゆえなのだろう。それに、叔父は古風な人間だ。夕月とは離婚したとはいえ、瑛優の血には橘家の血が流れている。叔父は単に、橘家の孫娘の母親として、彼女に気を配っているに過ぎない。冬真は部下に電話をかけた。「叔父の車を尾行しろ。どこへ向かうのか確認したい」「冬真くん」一度は帰ろうとした盛樹が、センチュリー ノブレスが去っていくのを目撃し、妻と娘を連れて戻ってきた。「博士はなぜ?それに夕月は?まさか博士と一緒に?」盛樹は個室に冬真だけが残っているのを見て、不思議そうに尋ねた。「夕月姉さん、あなたの叔父様とそんなに親しかったの?さっきから夕月姉さんの味方ばかりして」楓の声には妙な響きが混じっていた。冬真は椅子に深く腰掛けたまま、整った顔に冷気を漂わせ、一度目を閉じて深く息を吸い込んだ。再び開いた瞳は、底なしの淵のように暗く沈んでいた。「まだ帰らないのか?」冬真の一喝に、盛樹の体が小さく震えた。「冬真くん、どうしてもサミットの入場券が必要なんです。オームテックが藤宮テックの買収に興味を示していますが、サミットで他の道を探りたくて……」冬真は盛樹の腹の内を見抜いていた。藤宮テックの業績は年々下降の一途を辿り、今年は国の新しい貿易規制で輸出収益が完全に断たれた。海外のオームテックが安値での買収を狙っている今、盛樹は名流が集うサミットで、買収価格を吊り上げてくれる企業を探そうとしているのだ。「来週のサミットのレセプションパーティー、楓と北斗も一緒に来い」冬真の言葉に、盛樹は目を丸くした。「もう、そういう付き合いって大嫌いなのに!」楓は喜びを抑えきれない様子で声を上げた。「先に言っておくけど、ドレスは絶対着ないからね!」「好きにしろ」楓がドレスを着ようが着まいが、どうでもいい。夕月との対立を意識した冬真の頭の中には、別の思惑が渦巻いていた。自分の好意を突っぱねた夕月への報復——手に入れられるはずもない招待状が、他の者にとっては朝飯前というところを見せつけてやる。藤宮家の
アシスタントの膝上のノートパソコンには追跡車両の詳細が映し出されていた。スカイネットシステムで即座に車両を特定したのだ。夕月は思わず額に手を当てた。元夫ってば、本気で病んでるんじゃない?凌一の漆黒の瞳に、かすかな笑みのような感情が宿る。「君の元夫は、随分と執着が強いようだね」その言葉には妙な響きがあった。まるで冬真が甥ではなく、まったくの他人であるかのような。「本当に……病気としか思えません」夕月は凌一の前で、冬真への罵倒を必死に抑え込んだ。凌一は前を向いたまま、アシスタントに淡々と指示を出した。「好きにさせておけ」黒いセンチュリー ノブレスは凌一の邸宅へと向かう。敷地から半径五キロ圏内は、人工衛星による厳重な監視下に置かれていた。その範囲内には監視所が点在し、邸宅から一キロ圏内に入ると、十歩ごとに警備員が立っている。車窓の外では、巡回車両が絶え間なく行き交うのが見えた。地下駐車場へと滑り込むセンチュリー ノブレス。凌一が何か言う前に、夕月は期待に輝く目で尋ねた。「先生、ここに連れてきてくださったということは……日興研究センターへの採用が!?」夕月の頭の中では、凌一邸に掲げられた国旗の前で、守秘義務と忠誠を誓う自分の姿が浮かんでいた。「違う」凌一の一言で、夕月の夢想は一瞬で砕け散った。「でも、私、金賞を取りましたよ?」夕月は食い下がる。「たかがコンテストごときが、日興の門戸を開くわけではない」夕月は霜に打たれた茄子のように、すっかり意気消沈してしまった。上唇を軽く噛みながら、鼻筋に落ちた髪の毛を息で払う。薄暗い車内で、凌一はそんな彼女の仕草を興味深げに見つめていた。彼自身も気付いていなかったが、その眼差しには思わず優しさが滲んでいた。「これからは家で資料でも見ていけばいい」その言葉を聞いた途端、夕月の表情が見違えるように明るくなった。今にも凌一の足にすがりつきたい気持ちを必死に抑える。凌一の邸宅は、彼女にとって知識の宝庫そのものだった。車のドアが開き、夕月は瑛優の手を引いて急いで降りた。振り返ると、秘書が凌一を車から車椅子へと移すのが目に入った。動かない両足を見つめる夕月の瞳に、悲しみの色が浮かぶ。車椅子の凌一が彼女の前を通り過ぎながら、冷たく
かつての端正な顔立ちが、深く寄せた眉に歪められ、冬真の表情は一層陰鬱さを帯びていた。「メイドに作らせるぞ」息子のご機嫌取りにも限度がある。悠斗の夕月に対する態度が一変したというのに、なぜ自分が振り回されなければならないのか。こんな些細なことに時間を費やすつもりは毛頭なかった。「ママが作ったお粥がいい!うぅ……っ!」悠斗は頑なに叫んだ。受話器越しに聞こえる息子の泣き声が、幾千もの針となって鼓膜を突き刺すように感じられた。「じゃあ、あいつの手を切り落として粥でも作らせようか?」癇癪まじりに放った言葉に、悠斗は血の気を失った。「パパ、そんなこと言わないで!ママが……」「もう二度と『ママ』なんて言葉を聞かせるな!」冷酷に電話を切った男の胸が激しく上下し、呼吸のたびに心臓が痛んだ。怒りの炎に血が煮えたぎり、携帯を握る手の筋が蛇のように這い、今にも皮膚を突き破りそうだった。まだ信じたくなかった。夕月との結婚生活が、これほど形だけのものだったとは。きっと偶然の重なりに過ぎないはずだ。では、スコッチエッグは?あの手の込んだスコッチエッグは、確かにいつも夕月が手作りしてくれていたはずだ。冬真は今年のキッチン映像を検索し、夕月が自分と子供たちのためにスコッチエッグを作る場面を見つけ出した。映像には、スコッチエッグの工程を一つ一つ丁寧にこなす夕月の姿が映っていた。冬真は椅子の背もたれに身を預け、全身の力を抜いた。唇の端がほっとした様子で緩む。だが突然、モニターに身を乗り出した。映像の中の夕月は、どうやらスコッチエッグを二つしか作っていないように見える。自分と悠斗、瑛優の分なら、三つ作るはずだ。すると夕月は調理の終盤で、冷凍庫から小箱を取り出した。包装を破ると、中から既に揚げられたスコッチエッグが姿を現す。それをエアフライヤーに入れる。程なくして、三つのスコッチエッグが揃った。付け合わせの多い一つ――自分の分は、冷凍庫から出して温め直したものだと気付いた冬真は、その場で凍りついた。まさか……!スコッチエッグまで既製品があるというのか?!いや、だとしても夕月が前もって作ったものなのでは?映像に映った包装を手がかりに、通販サイトで検索してみる。某店の冷凍食品の包装が、夕月が手
冬真の表情が険しくなった。凌一は冬真の内心を見透かしたように続けた。「星来は君と同世代の従弟だ。従弟に一言謝ることも、橘社長には出来ないのかな?」確かに星来は従弟の立場にあたる。だが、悠斗と同い年だ。それに、星来は凌一の養子に過ぎない。橘家での地位は悠斗より下なのだ。大人の自分が星来に謝るなど、冬真にはとても出来そうになかった。「二度は言わんぞ」凌一の声が冷たく響いた。大奥様が出てきて口を挟んだ。「凌一、何を言い出すの?こんな時に冬真に謝らせるなんて。子供の寿命が縮むって言うでしょう?」最後の言葉は不適切だと自覚したのか、大奥様は声を潜めた。俗世を超越した凌一なら、この失言も大目に見てくれるだろう――そう考えたのだろう。「冬真、手を出しなさい。手のひらを上に向けて」凌一の声は微動だにせず、長老のような重みを帯びていた。冬真は不吉な予感に襲われた。だが、抗いがたい力に突き動かされるように、否応なく手を差し出していた。凌一はアシスタントに目配せをすると、アシスタントは躊躇なく定規を取り出し、冬真の掌を打ち下ろした!「パシッ!」という空気を裂くような音に、大奥様は身を震わせ、病室で泣き叫んでいた悠斗の声も一瞬途切れた。冬真の掌は一瞬真っ白になり、すぐさま血が集まって目に見えるほどの腫れが浮き上がった。定規が冬真の手を打つ音は、大奥様の心臓を直撃した。老婦人は肝を冷やし、唇を震わせた。「あ、あの……これは……」大奥様は言葉を失い、凌一の仕打ちが自分への警告だと悟った。車椅子に端然と座る凌一の背筋は、松のように真っ直ぐに伸びていた。「先日、悠斗くんが星来に無礼を働いた時も罰を与えた。今度は義姉上が不適切な発言をしたから、お前が受けるのだ」さらに凌一は大奥様に向かって言い放った。「義姉上、次にそのような言葉を口にされたら、今度は冬真の口を叩くことになりますよ」大奥様は息さえ満足に出来なくなっていた。冬真の額には薄い汗が浮かんでいた。掌の痛みは蔦のように這い上がり、皮膚を突き破りそうだった。幾度も我慢を重ねた末、冬真は表情を引き締めて凌一に告げた。「母と悠斗、きちんと諭しておきます。ご心配なく」*一時間後、冬真は橘邸に駆け込んでいた。夕月が暮らしていた部屋に突入し、彼女が使って
凌一は無言のまま、深い淵のような冷たい眼差しで冬真を見つめていた。冬真の視線は、凌一の両脚へと落ちた。七年前、深遠がM国から制裁を受け、国家安全リストに載せられた時から、凌一が桜国を離れ、M国との犯罪人引渡条約を結んでいる国に足を踏み入れれば、M国当局に拘束される可能性があった。しかし、桜国の多くの学者にとって、このような制裁はむしろ名誉の勲章のようなものだった。桐嶋幸雄も五年前にM国の入国制限リストに載せられ、M国同盟国のいかなる研究機関への訪問も禁じられた。つまり、世界トップ10の大学は、幸雄や凌一との共同研究を一切禁止されたのだ。とはいえ、桜国で生活する限り、これらの一流学者たちの日常は何ら支障を来すことはなかった。だが、不運は凌一を見舞った。あの交通事故は、明らかに命を狙ったものだった。幸いにも一命は取り留めたものの、凌一は両脚を失うことになった。それ以来、橘家は凌一を遠ざけるようになり、凌一自身も橘グループや一族の誰をも巻き込むまいと、意図的に距離を置くようになった。冬真の認識では、凌一は数多の受験生の中から夕月を選抜し、飛び級クラスに推薦した以外、彼女との関わりは皆無に等しかった。数少ない接点といえば、家族の集まりで顔を合わせた程度。そんな場でも、夕月は凌一に会釈する以外、特段の交流も見受けられなかった。そのため、冬真は長い間、凌一と夕月の関係など、ただの他人同然だと思い込んでいた。だが今、凌一の一言が彼の心臓を鷲掴みにしていた。「その『もっと大きな目的』とやらは、一体なんです?」凌一の澄み切った瞳には、すべてを見通すような光が宿っていた。冬真の動揺と焦燥を見抜いているかのように。これまで信じてきた「夕月は自分を深く愛していた」という確信が、凌一のたった一言で、もろくも崩れ去ろうとしていた。「彼女の任務は既に終わった。橘家の令夫人という立場があれば、普通の生活を送ることができる。橘家の庇護はここまでだ。これからは私が引き受ける。だが、感謝の言葉などかけはしない。君は彼女を娶りながら、まともな夫婦生活すら与えられなかった。橘グループの社長が、家庭という小さな組織すら経営できないとはな。冬真、君は実に無能だ」まるで法廷で判決を言い渡すかのような凌一の言葉は、鋭利な斧となって冬真の
病室の方に目を向けると、医師たちがベッドの周りで慌ただしく動き回っていた。悠斗の容態は……かなり深刻なようだな。「悠斗くんに何があったんだ?」「あの非情な母親が、こんな目に遭わせたんです!」その言葉が終わらぬうち、凌一の鋭い眼光が刃物のように冬真の顔を切り裂いた。頬に寒風が爆ぜたような痛みを覚える。冬真は問いかけた。「叔父上、なぜそんな目で私を見るのです?」自分の言葉が何か間違っていたというのか。「悠斗は夕月に会いに行って和解を求めたんです。母親に一目会いたい、抱きしめてほしいと懇願したのに、夕月は外に放り出して、雨に濡れるのも構わないと見捨てたんです!今、悠斗がこんな状態になっているのに、母親として一片の責任も感じないというのですか?」凌一の類い稀なる端麗な顔には、表情の微かな変化すら見られなかった。「夕月を非難するのに、私を引き込もうというのかね」冬真は真っ直ぐに叔父の瞳を見据えた。「叔父上、あなたも橘家の人間でしょう。よその肩を持つのはいい加減にしていただきたい」底知れぬ深さを湛えた瞳で、凌一は感情を押し殺したように冬真を見つめた。「私は確かに橘家の人間だ。当然、橘家の味方をする……ただし、橘家の者が度を超えた振る舞いをした場合は別だがね」冬真は不快感を露わにし、刺のある声を発した。「夕月は既に私と離婚したんです。叔父上は一体どういう立場で彼女を擁護なさるんですか?」凌一の夕月への関心は、明らかに度を越えていた。それはもう、教師が教え子を気遣う程度を遥かに超えている。そもそも、凌一は夕月の正式な指導教官ですらなかったのだ。「夕月が君と結婚した本当の理由を、君は知っているのかね?」冬真は一瞬固まり、頭の中で耳鳴りのような音が鳴り響いた。「私との結婚に、他に理由があるとでも?彼女は私に惹かれて、私の立場に目をつけて……」「確かに、彼女は君の立場に目をつけた」凌一の底知れぬ瞳には、数え切れないほどの意味が潜んでいた。そんな眼差しに見つめられ、冬真の胸の奥で心臓が大きく波打った。「私は橘グループのトップです。彼女の目的なんて最初から不純でした」「その通りだ」凌一は認めた。「彼女が橘家で七年を過ごしたのは、もっと大きな目的があってのことだ」冬真の息が一瞬止まり、瞳孔が
病院に戻った頃には、悠斗の声は枯れ果てていた。もう声も出ない。小さな顔は苦痛に歪んでいた。激しい感情の起伏に、雨に濡れ、転倒したことで体の炎症が再発し、悠斗の頬は真っ赤に染まり、全身が震え始めた。様子の異変に気付いた冬真は、すぐに医師を呼んだ。数人の医師がベッドを囲み、緊急治療を開始する。大奥様が駆けつけ、医師たちに囲まれたベッドを目にして、胸に手を当てながら声を上げた。「悠斗くんに何があったの?佐藤さんはどこへ連れて行ったの?」「夕月に会いに行ったんだ」冬真は苛立ちを隠せない声で答えた。「あの薄情な女に会いに行っただけで、どうしてこんなことに?」大奥様は動揺を隠せない。「夕月が悠斗に何かしたの?」「あの女は悠斗を許そうとせず、雨の中に放置した」冬真の声は氷のように冷たかった。「なんてことを!」大奥様は気を失いそうになった。「すぐにマスコミを集めましょう。あの女が母親失格だということを大々的に報道させます。有名人になったからって、調子に乗らせません。名声は諸刃の剣。持ち上げられた分だけ、惨めに落ちていくのを見せてやります!」「好きにしろ」冬真は病室の方を向き、疲れ切った表情を見せた。夕月という名前は、心臓に刺さった棘のよう。完全に埋まり込んで、血管の中を這い回っている。彼女のことを考えるだけで、全身が痛みを覚えた。息子の同意を得られたと思った大奥様は、急に表情を明るくした。「今日の青司家のお嬢様とのお見合いは、どうでした?」突然の質問に、冬真は幻聴かと疑った。「母さん、医師団が必死に治療している最中ですよ」たった今まで悠斗の容態を案じていた大奥様が、一転して息子の結婚話を持ち出すとは。「治療は医師に任せて、新しいママを探すことだってできるでしょう!」大奥様は続けた。「早く新しいママを見つけて、悠斗の面倒を見てもらわないと。青司家のお嬢様なら医大出身で、漢方もお得意よ。少し年上だけど、私の体調が悪い時も診てもらえるわ」冬真に近づき、声を潜めて耳打ちする。「悠斗の体はもう完治は難しいかもしれない。健康な子供を早く作らないと……」冬真の眼差しが氷のように冷たく、嫌悪を露わにする。「母さん!もういい加減にして!悠斗の回復を願ってないんですか?」「そんなことないわ!」冬真の反応
濡れた白い薄手の服が身体にへばりつき、しなやかな曲線を浮き彫りにしている。佐藤さんの口が大きく開いて、固まってしまった。「奥……奥様?どうなさったんですか?」佐藤さんは心音が何かに取り憑かれたのではないかと疑った。「分からないの?」心音は音楽を流しながら、スマホのカメラに向かって艶めかしく体を揺らす。「盛樹さんへの仕返しよ!」佐藤さんはその画面に気付いた。心音がライブ配信を始めているのだ。「これのどこが仕返しなんです?」佐藤さんは驚きのあまり声が裏返った。心音は腰をくねらせ、胸を突き出す。「盛樹さんが私を愛してくれないなら、私の体を他の男たちに見せてやるの!」佐藤さんは絶句した。藤宮家で大切な鳥籠の中で育てられた奥様は、どうやら普通ではないらしい。「おばあちゃん、まるでおとぎ話の登場人物みたい」悠斗が小さく呟いた。佐藤さんは悠斗を抱えたまま、心音から遠く離れて歩く。「坊ちゃま、こんな大雨です。車まで抱っこしていきましょう」「いやだ!下ろして!」車椅子に座らせようとした瞬間、悠斗は前のめりになり、再び転げ落ちた。「坊ちゃまっ!!」佐藤さんの悲鳴が響く。地面に這いつくばったまま動けない悠斗に手を伸ばすと、「触らないで!」と叫ぶ。「坊ちゃま、地面は冷たいですよ!」氷の粒のような雨が悠斗の顔を打ち付け、凍えた頬はもう感覚がない。「触らないでっ!絶対に触らないで!」心音の行動にヒントを得た悠斗は、このまま地面に這いつくばっていれば、きっとママは見捨てられないはずだと信じていた。心音と悠斗を追い払おうとしていた警備員の目の前に広がる光景は——地面に這いつくばって泣き叫ぶ男の子。土砂降りの中、艶めかしく踊り続ける女。正気を失った祖孫に、もはや声をかける勇気も失せていた。十六階で、夕月はカーテンを開け、下の光景を見るなり、すぐに閉めた。五歳の子供が駄々をこねるのはまだ理解できる。でも心音の行動は理解の域を超えていた。夕月は、この夫婦のことを思い出して鼻で笑った。人でなしの男と、頭の弱い女。夕月は心の中で呟いた。「ほんと、救いようのないバカップルね」携帯が鳴る。見知らぬ番号に、夕月は何か強い予感がした。受話器を耳に当てながら応答ボタンを押す。「もしも
「坊ちゃま!」佐藤さんの悲鳴が響く。「うっ、うっ…ママァ!!」悠斗は両手をついて、夕月の方へ這い寄ろうとした。「ママ、見て!一目だけでいいから!!」涙が溢れ出し、真っ赤な頬を伝う。体中の痛みも忘れ、全身の力を振り絞って前に進もうとする。小雨が降り出し、佐藤さんは慌てて悠斗を抱き上げた。夕月と瑛優がエレベーターを待っている前に、佐藤さんは悠斗を抱えて小走りで追いついた。扉が開き、母娘が中に入る。「ママァッ!!」悠斗は魂を削るような声で叫び、細い腕を精一杯伸ばしたが、エレベーターの扉は容赦なく閉まっていく。小さな拳で扉を叩き、その悲痛な叫びが階段室中に木霊する。「ママ!もう二度と怒らせたりしない!戻ってきて!お願い!戻ってきてよ!!」上昇するエレベーターの中で、夕月は顔を上げた。天井の光が瞳に落ち、その黒く澄んだ瞳に涙が滲んでいた。悠斗に捨てられた料理なら、また作ればいい。破り捨てられたテストや教材なら、また書けばいい。でも、一度捨てられた愛は、取り戻すことはできない。ゴミ箱から拾い集めた砕けた欠片を、いくら繋ぎ合わせても、その傷跡は消えない。これが母親として、子供に教える最後の授業。理不尽な傷つけ方をされても、母親は勇気を出して、加害者となった我が子から離れることができる!*「ママ……」瑛優が小さく呟いた。母の心の痛みが伝わってきた。慰めの言葉を探したけれど、どんな言葉を選んでも、母の心を癒すことはできないと気づいた。夕月の下唇には深い歯形が刻まれていた。顔を下げ、瑛優に「大丈夫」と微笑みかけようとする。でも表情を作ろうとした瞬間、熱い涙が止めどなく零れ落ちた。瑛優の胸が締め付けられ、鼻の奥がつんとした。「ママ、悠斗くんを産んだこと、後悔してる?」夕月は首を振り、しゃがみ込んだ。瑛優が小さな手を伸ばし、母の頬の涙を拭う。「瑛優」夕月は言った。「私はあなたたちに最高のものを与えたかった。橘家はあなたと悠斗に同じ待遇は与えてくれない。だから私は精一杯あなたを支えて、世界中の素晴らしいものを経験させて、自分の目標を見つけ、なりたい自分になれるようにしてあげたい。でも橘家は悠斗には最高のものを与えてくれる。橘家の跡取り息子である限り、誰も及ばないような恵まれた環境が
傍らで見ていた心音も口を挟んだ。「夕月ちゃん、悠斗くんを許してあげて!母親なら子供を許すのが当たり前でしょう!」「ママを許してもらうには、どうすればいいの?」悠斗は声を震わせた。「僕のカードを使っていいよ!」普段から楓が一番欲しがっていたものだから、ブラックカードこそが最も価値があり、誰もが欲しがるものだと思い込んでいた。夕月は深いため息をつきながら言った。「悠斗、許すということは、今回だけじゃないの。もし今日、私があなたを許したとして、これからの毎日、私が料理をして、お粥を作る度に、あなたを許さなければならない。これから楓の名前を聞くたびに、また許さなければならない。あなたのお父さんを見るたび、あの時橘家であなたが私に投げかけた言葉や行動を思い出して、自分の傷と向き合い、何度も何度も寛容な心であなたを許さなければならないの」悠斗の瞳に涙が光っているのが見えた。今、本当に苦しんでいて、もう泣き出しそうだった。「これからは、もうバイクに乗らない?」夕月は尋ねた。「もう絶対乗らない」悠斗は泣きながら答えた。「そうね」夕月は淡々とした声で返した。「私もう怖くて乗れない。一度蛇に噛まれたら十年は縄を怖がる。あなたは体を噛まれ、私は心を噛まれた」「違う!」悠斗は首を振り、大粒の涙を零した。「僕は蛇じゃない、ママの息子だよ……」「……私とパパの結婚生活から、もっと早く抜け出すべきだったの。でも、あなたたちのことが諦めきれなかった。だって離婚したら、二人とも連れて行くことはできないでしょう。どちらも私の大切な子供なのに、どうやって片方だけを選べるの?結局、あなたが私の背中を押してくれたのね。この息苦しい結婚から解放されるように」離婚という選択肢は、ずっと夕月の心の中で渦を巻いていた。準備は万全だった。橘グループの事業形態や流動資金を把握し、離婚を決意した瞬間に離婚協議書と婚姻費用分与案を冬真の前に突きつけられるように。子供を産んでからは、母性本能に突き動かされ続けてきた。子供の泣き声を聞けば胸が痛み、体が自然と授乳へ、あやしへと向かっていく。昼も夜も子供たちのことが頭から離れず、布団が蹴られていないか、お腹は張っていないか、風邪は引いていないか、そればかりを考えていた。五年の間、二人の子供たちが言葉を
夕月の瞳が潤んできた。深く息を吸い込み、瑛優の手を握りしめたまま、断固として先に進もうとした。「ママ!パパと離婚しても、僕はママと一緒に暮らせるでしょう!どうして僕を見捨てるの?!」悠斗の声が焦りに震えていた。夕月の足が急に止まった。まるで見えない鉄線が足首に絡みつき、肉を抉るような痛みを感じた。何度も深呼吸をしたが、その度に心臓と肺が引き裂かれるようだった。空気が喉を通る度に、まるで棘だらけの細い道を無理やり通っているかのように苦しかった。「橘悠斗、忘れたの?私を見捨てたのは、あなたよ」悠斗の小さな体が震えた。これまで夕月に投げかけた言葉の数々が、一気に脳裏に押し寄せ、視界が霞んでいく。『ママの作るご飯なんて豚の餌だよ!』『あれもダメ、これもダメって、ママって完全な支配狂じゃん!』『意地悪なママ!面倒くさいママ!』『ママなんて毎日家にいるだけで、何もしてないくせに!パパと離婚したいなら出てけよ!出てけ!!』勝ち誇ったように、夕月の傷つく表情を楽しみながら、好き放題に言い放っていた。夕月の瞳が赤く潤み、涙を流すのを見て、跳ねるように楓に電話をかけに行った。物心ついてから、どれだけ夕月を傷つけてきただろう。今、ママに戻ってきて欲しいと願っても、もう手遅れなのか。「坊ちゃまはまだ五歳なんです!」佐藤さんは必死に説得を試みた。「子供は母親の良さが分からないものです。楓さまに影響されていただけなんです。今は本当に後悔してるんですよ!」「藤宮さま」佐藤さんは続けた。「親子の仲に夜を越える恨みなんてありませんわ。坊ちゃまと仲直りなさい……こんな大怪我を負って、お心が痛まないんですか?坊ちゃまがお側に戻れば、きっと良くなります。どんな優秀な看護チームだって、実の母親の手には敵いません。母親だけが分かるんです。子供が口を開かなくても、ちょっとした眉間のしわや目の色で、どこが痛いのか分かるんです。坊ちゃまの体に後遺症が残るのを、見過ごせますか?」佐藤さんの言葉を遮るように、夕月は冷たく言い返した。「そんな感情論で私を縛らないで。橘家は最高の医療リハビリチームを雇っているし、佐藤さんだって保育士と栄養士の資格を持つプロでしょう。もしお気に召さないなら、代わりはいくらでもいますよ」「ママ、僕のこと、まだ愛して