Masuk主人公の優子は、母の水樹が大好きな女の子。父の不倫相手である聖愛が現れてから、水樹への愛が憎悪へと変わっていく……。 いつしか、水樹が出ていって、聖愛が自分の母親になればいいのにと望むようになる。 そんな優子に、聖愛は囁く。天使のような優しい声で、悪魔のような提案を……。
Lihat lebih banyak「ママ、これあげるー!」
5歳の少女が、野花で作った花束を、母親に手渡す。 「ありがとう。帰ったら飾ろうか」 「うん!」 この無邪気な少女の名は月野優子。様々な事業を成功させている月野グループのひとり娘である。世界一大好きなのは、母親の水樹と林檎。特に水樹が作るうさぎの林檎が好きだ。 「ママ、お腹空いた」 「帰ったらうさぎさん林檎作るね」 「わぁい、うさぎさん!」 親子は公園から帰ると、手洗いうがいを済ませ、優子は子供部屋に、水樹はキッチンに行った。 ぬいぐるみとおままごとをしていると、林檎がむけたと声がかかる。 食卓に行くと、先程プレゼントした花束がピンク色の可愛らしい花瓶に挿してあった。 「わぁ、もう飾ってくれたの?」 「だって、優子からの大事なプレゼントだもの」 水樹は優しく微笑みながら、うさぎにカットした林檎とオレンジジュースを優子の前に並べる。 「わぁ、うさぎさん! いただきまーす」 小さな口に頬張ると、シャキッとした歯ごたえで、優しい甘みと酸味が口いっぱいに広がる。 「美味しい!」 「今回は当たりの林檎ね。蜜もあるから美味しいでしょ」 「うん! ねぇ、明日はパパ、帰ってくるかな?」 優子はカレンダーに視線を移す。水樹もカレンダーを見た。明日はハートマークで囲ってある。優子の誕生日だ。 「帰ってくるって言ってたけど、パパ、忙しいから……」 水樹はぎこちない笑顔を浮かべる。 「約束したのに……。パパは嘘つきなの?」 「優子、パパは嘘つきなんかじゃないの。約束を守ろうと、頑張ってるけど、お仕事が大変なの。パパがお仕事をしないと、会社の人は困るし、ママも優子も、ご飯食べられなくなっちゃうの。だから、パパを悪い人だと思わないでね」 「やだやだ! パパと約束したもん! 約束守らない人は、悪い人なんだよ!」 「……うん、そうだね……。パパに電話しとくからね」 「絶対だよ?」 「うん、約束」 水樹は小指を差し出す。優子は自分の小さな小指を、水樹の小指に絡めた。 「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーますっ! 指切った!」 優子は指切りが好きだった。ちゃんと約束したという安心感が得られるから。もっとも、まだ5歳の優子の感覚としては、『なんか好き』止まりではあるが。 「じゃあ、パパにもしもししてくるね」 水樹はスマホを見せながら言うと、電話をしに別室へ移動した。 翌日。この日は目覚めた瞬間から魔法のような出来事が待ち構えていた。 ずっと欲しかったうさぎのぬいぐるみが、隣で横になっていたのだ。 「うさぎさん!」 「おはよう、優子。気に入った?」 「うん!」 「良かった。朝ごはん食べよっか」 「うん!」 水樹と手を繋ぎ、食卓に行くと、パァンという乾いた音。少し遅れて、紙吹雪が舞い落ちる。 「優子ちゃん、お誕生日おめでとう!」 この家にいる3人の使用人が、優子の誕生日を祝ってくれる。中学校に入学し、部屋を割り当てられる。1年生は4人部屋、2年生はふたり部屋、3年生はひとり部屋に入ることになっている。1年生の乃愛は、4人部屋。「はぁ、最悪。こんなのと一緒とか、ないわー」 同室の生徒は、全員知らない顔だ。別の小学校から来たのだろう。「お前は下のベッドな」「床でよくね?」「そしたら移動スペースなくなるじゃん」 ぎゃははと3人は下品な笑い声を上げる。だが、これは序の口だった。 入学3日目、部屋の隅で宿題をしていると、髪を引っ張られた。「亜理砂から聞いたけどさぁ、お前、実の母親追い出したんだって?」「マジやばいよねー。しかも改名までしたとか」「改名でキラキラネームにするとかウケるんですけど」 3人はひとしきり笑うと、冷たい目で乃愛を見下ろす。「うちらさー、親を大事にできないバカ嫌いなんだよね」「そうそう。お金出してもらってるわけじゃん?」「ママが家にいるから、さみしくないわけだし。それなのにママ追い出すとかキモい」「不倫相手をママにするとか、頭腐ってるんじゃないの」 3人の言葉に、返す言葉がない。どれも事実だから。 中学生にもなれば、不倫という言葉も、それがどういったことなのかも分かるようになる。そして、それがどれだけ汚らわしいものなのかも。(ママ、ごめんなさい) 心の中で水樹に謝罪し、3人の同居人の暴力を罰だと言い聞かせ、甘んじて受け入れた。 亜理砂は何人に話したのか、先輩達も乃愛の家庭事情を知っていた。それを知ったのは、部活見学の時だ。聖愛に言われたというのもあるが、痩せないとまずいと分かっていた乃愛は、運動部の見学に行く。どこに行っても先輩達は乃愛を見て、もしくは彼女の名前を聞いて軽蔑の眼差しを向けた。 誰もが口を揃えて言った。「実の親を追い出したやばい女」 一通り見学したが、歓迎してくれるところはひとつもない。どの運動部も文化部も、明らかに嫌そうな顔をする。 それでも中学校は強制入部なので、どこかに入らなくてはいけない。乃愛は仕方なくバレー部に入った。バレー部には、同室の生徒がいないからだ。「はぁ、こんなのがうちの部に来るとか最悪」「ユニフォーム入るやつある?」 先輩達は舌打ちをしたり、ニヤニヤしたりして、乃愛を見る。言い返す気力など、今の乃愛にはない。「そこに立って」 先輩に言われて
修斗はすくすくと健やかに、醜悪に育っていった。美男美女の子供だから容姿は天使のようだが、中身がどこまでも醜く、残虐だった。 乃愛が6年生になると、修斗は3歳。常に罵られている乃愛を見て育った修斗も、乃愛を罵った。「ぶーしゃん、ぶーぶー」「ぶー、ばっちい」 乃愛を見る度に、拙い言葉で乃愛を罵る。「お姉ちゃんでしょ?」「ぶー! ぶーしゃん!」「お姉ちゃん!」 ムキになって大声で言うと、修斗が大声で泣きわめく。その声を聞きつけた黒崎とベビーシッターが乃愛を押しのけ、蔑んで、修斗を慰める。「豚は豚小屋にいな!」 黒崎に怒鳴られ、乃愛は渋々部屋に行く。ベッドに寝転んで手に取るのは、初めて持ったスマホ。 今は機種変更して大人も使うような普通のスマホを使っているが、こちらはほとんど触らない。誰も乃愛に連絡しないのだから。「この頃に戻りたい」 優しかった聖愛とのLINEを見返して、ひとりで泣いた。 6年生の冬、乃愛は両親に呼ばれ、リビングに座る。「乃愛、お前の中学校決めておいたぞ。幸い、受験もいらない学校だ」 恭介はパンフレットを乃愛の前に置いた。パンフレットを開いて読みすすめ、顔が青ざめていく。「全寮制って……」「今まで甘やかしすぎたからな。自主性を育ててきなさい」「ついでに、運動部でダイエットもしたら?」 聖愛はぷぷっと笑う。そこにはもう、乃愛が大好きだったママの面影はない。「うん、分かった……」 パンフレットを持って、自室に戻ると、枕に顔を埋めて泣いた。「私はいらない子なんだ、だから寮に入れるんだ……」 口にして、更に悲しくなっていった。必死に声を殺して泣く。声を上げて泣くことすら、この家では許されないから……。
乃愛が王女様気取りでいられたのは、1年にも満たなかった。新しいママになって3ヶ月後、聖愛の妊娠が発覚した。聖愛は仕事を辞めて家にいるけど、何もしなくなった。「お腹に赤ちゃんがいるから、何もできないの。ごめんね?」 大好きな聖愛にそう言われたら、乃愛がやるしかない。水樹の手伝いをしていたことがあるから、洗濯機の回し方も、皿洗いもできる。 だが、料理は野菜を切ることと、おにぎりを握ることしかできない。「はぁ、仕方ないなぁ」 聖愛は初心者向けのレシピ本を何冊か買い与え、料理の基本の数回教えた。それでも小学3年生が作れる料理など、たかが知れている。「あなた、栄養が偏っちゃう」 聖愛は恭介に甘え、使用人を雇った。黒崎という女性で、黒い無地の服で身を包み、紺色のエプロンをつけた女性だ。聖愛には丁寧に接するが、乃愛にはゴミでも見るような眼差しを向け、話しかける度にため息や舌打ちをされる。 挙句の果てには、「お前みたいな子豚に近寄られるとイライラする。気持ち悪いからくるな」と言われる始末。 聖愛に泣きついても、「仕方ないじゃない。そんなことで負担掛けないで。赤ちゃん殺す気?」とうんざりされるだけ。 学校の休み時間。小学校に入学してからずっと仲良くしていた亜理砂に、久しぶりに声を掛ける。「亜理砂ちゃん、聞いてよ。ママも使用人も……」「話しかけないで」 ピシャリと言い放たれ、固まる。「あのさぁ、名前変わってから、ずっと威張ってた人とはもう、友達じゃないから」「そうそう!」「私のママ馬鹿にしてたの、許さないから!」「見下してたくせになんなの、豚!」 亜理砂が不満をぶつけたのを皮切りに、他のクラスメイト達も一斉に不満をぶつける。「皆、謝るから……」「謝ってすむなら警察いりませんよー?」 誰かが言うと、クラスメイト達はどっと笑う。乃愛の居場所は、学校にもないようだ。 それから乃愛の毎日は悲惨なものだった。学校では豚といじめられ、家では誰にも相手にされず、空気のような扱いをされる。少しでも声や物音を立てれば、両親か黒崎に舌打ちをされる。 逃げ場さえ、どこにもなかった。 乃愛の息苦しい生活は、聖愛が出産してから一気に悪化した。 産まれたのは男の子で、ベビーシッターも雇われた。このベビーシッターも、乃愛には見向きもしない。それどころか、邪魔者扱
「おばさん、まだ洗濯物終わってないの? 明日体育あるから、はやくしてよ」「また林檎なの? 使えない。好きでも、こんなに出てくると嫌いになるよ」「はぁ、これだから毒親は」「私の服代、着服してるんだから、もっとマシな格好したら?」 おばさん、おばさん、おばさん……。 優子は徹底的に水樹を家政婦扱いした。使用人が口を出せば父の存在をチラつかせ、黙らせた。すべては水樹を追い出し、本当のママである聖愛を家に迎え入れるために。 結果、水樹は半年で離婚して出ていった。3人の口うるさい使用人と共に。 晴れて聖愛は家に来て、恭介も毎日家に帰るようになった。「やっとママと住める!」「今まで我慢させてごめんね、乃愛」「のあ?」 聞き馴染みのない名前で呼ばれ、キョトンとする。「それが新しい名前だよ、乃愛。ふたりで考えたんだ」 恭介が聖愛の肩を抱き寄せながら、愛のこもった眼差しを優子、もとい、乃愛に向ける。「私と同じ漢字が入ってるのよ」 聖愛は胸ポケットからメモ帳を出すと、「聖愛」「乃愛」と並べて書いた。一身に愛を受けたような気になって、嬉しくなる。「嬉しい! ママと同じ漢字!」「そうよ、乃愛」「学校にも伝えてあるからな」「うん!」 翌日、恭介と一緒に登校すると、職員室に足を運んだ。「改名の件、聞いてますよ。皆にも伝えておくからね、乃愛ちゃん」「うん!」「一緒に行こうか。もう少しここで待っててね」 親子は応接室に通された。特別扱いされているようで、気分がいい。「先生が迎えに来たら、パパは仕事に行くからな」「うん、パパ」「いい子だ、乃愛」 名前を呼ばれると、嬉しくなる。優子なんてダサくて古臭い名前よりも、乃愛のほうが響きが可愛くて好きだ。何より、大好きな聖愛と同じ漢字が使われている。「お待たせしました。行こう、乃愛ちゃん」「はーい」「頑張れよ、乃愛」 恭介は乃愛の頭を撫でると、応接室から出て会社に行く。 乃愛は先生と一緒に、教室に入る。途端、にぎやかだった教室は静まり返り、どよめきが起きる。「あれ、優子ちゃんなんで先生と一緒なの?」「どうしたのかな?」 ヒソヒソ声に気分が良くなる。注目されるのが、気持ちいい。「皆、静かに。えー、月野優子ちゃんですが、おうちの事情で、月野乃愛ちゃんに名前が変わりました。皆、乃愛ちゃんって