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第27話

Author: こふまる
不機嫌を隠そうともせず、冬真は熱湯にその身を沈めた。高温が肌を刺すのを、奥歯を噛み締めて耐える。

メイドには何度も、湯温はきっちり40.3度に、と命じてあったはずだ。

浴室に焚くアロマは、入浴の十分前に。そう言いつけてあったにもかかわらず、冬真は湯船の縁に設えられたレザー製の枕に背を預けながら、室内の照明すら調整されていないことに気づいた。

「ちっ……」

こんな簡単なことだというのに。

夕月がいたこの七年間、ただの一度も狂いはなかった。

冬真は深く息を吸い込む。あと数日だ、あと数日もすれば、夕月は必ず戻ってくる。そう、自分に強く言い聞かせた。

翌朝。夕月はスマートフォンを手に取り、赤井さんからのメッセージに目を通した。

【藤宮さん、十二億円すべてを株式市場に投入なさるおつもりで?】

夕月は【はい、覚悟はできています。寄り付きと同時に買い注文をお願いします】と返信した。

【……承知いたしました】

最後に赤井さんから、念を押すような一文が送られてきた。【くれぐれも、後悔なさいませんように】

夕月はノートパソコンを起動させ、自作の株式市場動向分析プログラムを立ち上げた。

自らが構築したモデルで弾き出された結果は、国内株式市場がまもなく底を打ち、反発に転じることを示唆していた。

やがて市場が開くと、夕月が赤井さんに指示した銘柄は、案の定そろって値を上げ始めた。

夕月がノートパソコンを閉じた、まさにその時、再び携帯が鳴動した。

画面に目を落とす。

表示されているのは、見知らぬ番号だった。

最近、いくつかの企業に履歴書を送っていたため、採用担当からの電話かもしれないと思い、すぐに通話ボタンを押した。

「もしもし、奥様? 私でございます」

受話器の向こうから聞こえてきたのは、家政婦である佐藤さんの声だった。

「旦那様の、あの赤いキャッツアイのカフリンクスはどちらにございますでしょうか?」

佐藤さんが言葉を続けるより早く、夕月は一方的に通話を切った。

冬真のカフリンクスがどこにあろうと、今の彼女にはもはや知ったことではなかった。

夕月は子供部屋へ向かい、美優の宿題をみてやっていた。

やがて、がらんとしたリビングで固定電話の呼び出し音が鳴り響く。

静寂にこだまするその音は、どこか不気味だった。

夕月は立ち上がると、無言で電話機本
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Comments (2)
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良香
なかなか激しい夕月さん。出自を蔑む、って事はもしや養子?? それなら納得。あの気持ち悪い親は鯖の親なんだね、うんうん。安心したわ
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千恵
夕月、あっぱれ よく言った 罵倒の内容がウケる〜 最高
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