登入五年間付き合った婚約者と親友に同時に裏切られた澪が、仕事で出会ったパーソナルコスメ会社の社長が十七年前に離ればなれになった幼なじみだと知る。彼が澪のためだけに調合した化粧品や香水に心を解かしながらも、「また裏切られる」という恋の傷と、「取引先の社長と関係を持てばキャリアが終わる」という現実のリスクに引き裂かれる。やがて彼の化粧品ブランドに隠された十七年越しの想いを知り、澪は自ら恋に踏み出す。
查看更多昼休みを終えてオフィスに戻ると、上司から呼ばれた。「朝倉さん、ちょっといい?」「はい、なんでしょうか」 上司のデスクの前に立った。上司はやけに神妙な顔つきで、机の上で肘をつき、手を組んでいる。そうして澪の顔を見上げた。その表情を見て、澪はなぜか冷や汗が出た。なにか、悪いことを言われるのではないかと思ってしまう。ドキドキしながら上司が口を開くのをじっと待った。その時間が妙に長く感じられた。 上司は神妙な顔を解いて、にっこりと笑った。 この笑顔の意味は、なんだろうか。澪の心臓は痛いほど早鐘を打った。「朝倉さん。大阪に出張に行ってくれない?」「出……張」 澪はその言葉を理解するのに時間がかかった。「そう。今回のダーマコードとのコラボ企画第二弾は、リリース前にOnlyéの催事をやろうと思ってるの。そこで、第二弾のセミオーダーコスメを少しだけ見せたらどうかと思ってね」 催事なんて、この会社に勤めてからは初めてだ。それだけOnlyéに社を挙げて力を入れているということだろうか。「つまり、セミオーダーコスメを手作りコスメのようにその場で作ってみせる、ということでしょうか?」「楽しそうでしょ?」 確かに楽しそうだ。自分がオーダーした化粧品が、目の前で作られていくのを見られるのだから。澪は最初に手作りコスメを作った日のことを思い出した。自分で材料を選定して、自分の手で作る。心が躍った。「すごく面白そうですね。自分の目で直接化粧品ができあがる過程を見ることができれば、興味を持つ人が増えるかもしれません」「でしょ? だから、朝倉さんの出番なのよ」「私……ですか?」「だってあなた、手作りコスメが趣味でしょ? 知識も豊富だし。ダーマコードの担当者と一緒に出張に行ってきてちょうだい」「え?」 上司は資料を澪に手渡した。「詳細は、そこに書いてあるから、よろしくね」 よろしくと
メッセージを送り終えると、仁は枕元にスマホを放り投げた。ベッドで寝返りを打ち、右腕を枕にして、仁はじっと窓を見つめた。サンスベリアは仁のことなどお構いなしに、すっと背筋を伸ばして天井に向かって葉を向けている。 仁はそっとベッドの表面を左手で撫でた。 目をつぶれば、あの夜のことが蘇る。 さらに強く目をつぶって、奥歯を噛み締めた。 目を開けると、やけにシーリングライトが眩しかった。目を眇めてゆっくりとベッドから起き上がった。窓辺のデスクに向かい、鍵付きの引き出しの鍵を外す。引き出しをそっと開けた。そこに入っていたのは、古びた手紙が一通だけだった。差出人は「高宮仁」。まだ拙い文字で自分の名前が書かれている。 仁はその手紙を手に取り、そっと撫でた。「今度こそ……」 そうつぶやいて、再び手紙を引き出しにしまい、鍵を閉めた。* 仁から「十分だけ時間がほしい」と言われた。あのあと、場所と時間だけが簡潔に送られてきた。会社近くの公園、昼休み――それだけ。 そのせいで、澪は眠れない夜を過ごした。 いったいなんの話をされるのだろうか。 会議中の態度が悪かったことを指摘されるのか。それとも、企画をした本人なのに、販売に向けた構成をきちんと練れていない。そう呆れられて、取引をやめたいと申し出られるのだろうか。 目をギュッとつぶっても、いろんなことを考えてしまう。すっかり頭が冴えてしまった。何度も寝返りを打ったが、眠れるはずもなかった。 ようやくうとうとして、眠りについたのは明け方。数時間もしないうちに出勤時間を迎えた。 仕事関連の話なら、会社で会うだろうに、なぜ公園なのか、さっぱりわからない。 仕事中も仁になにを言われるのかが気になり、上の空だった。 あっという間に昼休みになった。「お昼、行ってきます」 澪はオフィスを後にして公園へ向かった。 ビルを出て公園に向かいながら、ふと思った。
澪は翌週の定例会議で再びダーマコードを訪れることになっていた。 試作段階の商品を見せてもらえたことがうれしかった。あの商品がグロウセオリーのECサイトに掲載される日が、今から待ち遠しい。いっそダーマコード商品の特集を組んで「Onlyé」と「Onlyé for you」の両方の販売促進をするのもいいかもしれない。 澪はダーマコードのこれからの商品展開を頭の中で思い描くだけでとても胸が高鳴った。Onlyéはすでにグロウセオリーで人気商品となっている。これをカスタマイズしてセミオーダーできるなら、既製品が肌に合わない人にも響くはずだ。 Onlyéはもともと無添加で、オーガニック原料を使っている。それだけでも肌への負担は少ない。いくつもブランドを立ち上げて選択肢を増やすより、AIの肌診断が答えを出してくれるほうがずっといい。なにが自分に合うか、悩む必要がないのだ。必ずこの商品は売れると確信している。 そんなことを考えながら、澪はビルに入った。 受付に差し掛かったとき、足が止まった。 受付で女性と楽しく喋っている仁がいた。満面の笑みで親しげに話している。その姿を見た途端、さっきまで楽しくふくらんでいた気持ちが、針を刺されたように萎んでいった。 ――やっぱりね。仁は誰にでもやさしいんだ……。 そう思った瞬間から、澪は勝手に「証拠」を集めはじめた。女性に向けられたやわらかい目元。楽しそうな相槌。あの日、ラボで自分に向けられていたものと、どこが違うというのだろう。 あの笑顔もやさしさも、澪にだけ向けられたものだと勘違いしていたのだ。幼なじみだから、少し行き過ぎた要望でも受け入れてくれていただけなのだ。 急に胸の奥が苦しく締め付けられた。 なんだ……。「ははっ……」 自分の勘違いに乾いた笑いしか出てこない。 そのとき、仁が澪に気づいた。女性に向けていた笑顔よりも一段明るい笑顔を澪に見せた。「朝倉さん、お
澪が提案した企画は、ダーマコードCEOの仁が強く望んだことで、実現する運びとなった。「面白いじゃないか。これを機に、セミオーダーのラインを工場に作ってしまえば、これからはセミオーダーにも対応できる。他社が参入していない今、挑戦しなくていつ挑戦するんだ」 仁は自社の社員にそう言った。 ダーマコードは社員二十五人の小さな会社だが、精鋭揃いだ。だからこそ短期間で、業界で知らない人はいないほど成長したのだ。 セミオーダーの「Onlyé for you」を開発することになり、仁はラボにこもった。昼は開発担当を呼び、ひとまずベースをいくつも試作した。夜も家に帰らず、たったひとり残って作業を続けた。その作業は、商品化に向けたものではない。たったひとり――澪のために行う、開発だった。 モニターに開かれた処方データのファイル名は、商品コードではなく、ただ二文字――『M.A.』。 サロンの日、澪に使ったOnlyéは、澪のために特別に処方したものだった。澪はいまも、それを使い続けてくれている。会うたびに澪の肌は調子を取り戻し、肌荒れは消え、赤みも引いて、艶も増している。ただ、澪は敏感肌だ。あの肌に本当に合う化粧品は、市販にはないはずだ。「データ上はこれでいいはずなんだが……」 これができあがったら、澪に使ってもらおう。 作業を終え、椅子にもたれかかった。仁は右手をゆっくりと握り、そしてひらいた。「澪……」 仁はぎゅっと目をつぶった。* 澪の元に仁から連絡が入った。《Onlyé for youのベース試作品ができましたので、弊社のラボへお越しいただけませんでしょうか》 澪はそのメールの内容に心が躍った。 試作品の段階から商品を見せてもらえるなんて、EC事業者ではそうそうないことだ。これも、共同開発をしているからだろうか。 澪はいそいそとダーマコードへと赴いた。