LOGIN五年間付き合った婚約者と親友に同時に裏切られた澪が、仕事で出会ったパーソナルコスメ会社の社長が十七年前に離ればなれになった幼なじみだと知る。彼が澪のためだけに調合した化粧品や香水に心を解かしながらも、「また裏切られる」という恋の傷と、「取引先の社長と関係を持てばキャリアが終わる」という現実のリスクに引き裂かれる。やがて彼の化粧品ブランドに隠された十七年越しの想いを知り、澪は自ら恋に踏み出す。
View Moreもう晩夏だというのに、蒸し暑くまとわりつくような暑さはなかなか去らない。
朝倉澪は帰宅すると、浴槽に自分で調合したローズマリーとスイートオレンジの精油を数滴垂らした――化粧品会社で商品選定を担当している彼女の、ちょっとした職業病のような習慣だ。
湯気とともに爽やかな柑橘の香りが広がり、彼女は深く息を吸って、張りつめていた肩の力を少しだけ抜いた。
「結婚式まであと三か月かぁ……」
澪は頬を両手で包んだ。
ドレスは婚約者の黒川直哉と一緒に選んだ。
「よく似合ってるよ」
まるで芸能人のような顔立ちの直哉にふわりとほほえまれて、頬が熱くなったのを思い出した。
本当にあの直哉と結婚するのだ。
「はあ……」
澪は胸に手を当てて、至福の吐息を漏らした。
結婚式に想いを馳せているとき、スマホが震えた。画面を確認すると、まさに直哉からだった。
澪はうれしさを隠そうともせず、電話に出た。
「直哉? こんな時間にどうしたの?」
『澪……。今から会えるか?』
妙に真剣な声色の直哉に、澪の体がこわばった。
「今から?」
時計を見ると、もうすぐ九時になろうという時間だった。
『ああ。どうしても会って話したいことがある』
「どうしても」。その言葉が澪の胸に引っかかった。しかも、直接会って話をしなければいけないこととはなんだろうか。
しばらく考えてみたが、胸がざわつく。今まで直哉は澪をこんな時間に呼び出したことなどない。
「わかった。どこに行けばいい?」
直哉は澪のマンション近くのカフェを指定した。そこだったら帰りも遅くならない。
澪は出かける準備をして、カフェに向かった。
カフェに到着すると、奥の席に直哉が座っていた。こちらに向けて手を挙げたので、澪も小さく手を振る。
席に近づくと、直哉の隣に見覚えのある女性が座っていた。
「え? 花音?」
直哉の隣には、高校時代からの親友・藤崎花音がいた。いや、「座っていた」というより、直哉にしなだれかかり、腕を絡ませていた。もう一方の手は、そっとお腹を守るように添えられている。
目の前の光景が幻ではないかと思いたくなるほどだった。
呆然とその場で立ちすくんでいる澪に、直哉は声をかけた。
「座ったら?」
「あ……うん」
澪は直哉と花音の向かいに座った。直哉と花音は、どこからどう見ても恋人同士のようにしか見えない。澪は膝の上でスカートをぎゅっと握りしめた。
するとすぐに直哉が口を開いた。
「澪、婚約を解消してほしい」
「……え?」
頭の中で、言葉の意味が処理できなかった。
婚約、解消……。嘘でしょ?
なにかの間違いではないかと直哉の顔を見るが、決して冗談を言っているようには見えなかった。
「な……んで」
なんとか絞り出した声は掠れていた。スカートを握りしめている手のひらに汗がにじむ。
「こいつ、俺の子を妊娠してるんだよ。だからこいつと結婚する」
直哉の言葉に、花音は直哉に向かってほほえんだ。そして澪を横目で見ると、ニヤッと口角を上げて口元を緩めた。
妊娠――。その単語だけが、やけに遠くで響いた。耳の奥がきぃんと鳴って、店内のざわめきが急に水の中みたいにくぐもる。目の前がぐらりと揺れた。
「会場も招待客もそのまま使う。花音が『お腹が目立ってからウェディングドレスを着るのは嫌だ』と言うから、結婚式は一週間後にする予定だ。結婚式場に無理言ってなんとか日程調整できたよ。なんてったって、結婚式の繁忙期だからな」
まるで自分の日程調整能力を自慢するかのようだった。澪は喉が締め付けられたように、うまく息ができない。
「さすが直哉さん」
花音はふふふと笑って、直哉の腕にしがみつく。
「あ、澪の親族は申し訳ないけど参加できないからな。当たり前だけど」
澪の幸せが一瞬にして音を立てて崩れ落ちた。
澪は、かつて自分だけに優しく微笑みかけてくれたその人の顔を見つめた。けれど今、その視線も、その優しい声も、すべては別の女性――自分が誰よりも信じていた親友へと向けられていた。
「ごめんね、澪」
花音ははらはらと涙を流した。
「ほら、泣くなよ」
直哉が花音にハンカチを渡した。花音はぐずぐずと鼻を啜りながら涙を拭いた。そして澪をまっすぐ見つめた。
「でも、ぜんぶ澪のせいだからね!」
「な……」
「だって、澪は仕事ばっかりで直哉さんのことほったらかしだったでしょう?」
「そ……れは」
確かに仕事は好きだ。けれど、結婚したあとにしばらく休むから、できるだけ前倒しで仕事をこなしていただけだ。それなのに、そんなふうに思われていたとは考えもしなかった。
「それにさ、澪は負けず嫌いで、やさしくないし、思いやりも足りないって直哉さんが……」
「おい、そこまで言ってねえぞ」
「言ったじゃん! 『花音ちゃんはやさしいね。澪もこうだったらいいのにな』って。あたしに慰めてって言ってきたじゃん!」
そうか。自分はそんなにやさしくなくて思いやりも足りなかったのか。
澪は愕然とした。カフェの喧騒が遠くに聞こえる。
「わ……かりました」
澪はよろよろと立ち上がり、拳を握った。婚約指輪が手のひらに食い込む。
直哉と出会ったのは五年前だった。就職して部屋を探しに行った不動産屋の窓口で担当してくれたのが直哉だった。直哉は澪に一目惚れしたらしく、何度も告白してきた。最後は澪が折れる形で付き合うことになった。
付き合って三年が過ぎたころ、直哉は澪の好きなレストランの個室で指輪を差し出した。「澪となら、いい家庭が築ける気がするんだ」。そう言ってはにかんだ横顔を、澪は今でもはっきり覚えている。あのとき自分は、世界でいちばん幸せな女だと思った。
直哉は澪に対してやさしかった。澪も精一杯の愛情を向けた。それなのに、「やさしくない」と言われるとは思いもしなかった。
花音は高校一年のときに同じクラスになった。妙に話があって、一緒にいるのが楽しかった。けれど花音には、澪の持っているものをほしがる癖があった。澪が新しいピアスをつければ「それかわいい、どこの? あたしもほしい」と同じものを買い、澪が褒められれば決まって唇をとがらせた。かわいいやきもちだと思っていた。まさか、婚約者までほしがるとは思いもしなかったのだ。
澪は頭を抱えて、おぼつかない足取りでカフェを後にした。
どうやってマンションに帰ったのかは覚えていない。自宅マンション近くのカフェだったから、自然と足が向いたのかもしれない。
マンションの扉を閉めると、その音が大きく部屋中に響き渡った。
「け……っこん……できないん……だ」
膝の力が抜けて、玄関のたたきに座り込んだ。けれど不思議と涙は出なかった。
どれぐらいそこに座っていたのだろうか。急に体が冷えて身震いした。
のろのろと立ち上がって、リビングに向かう。壁時計に目を向けると、もう日付が変わりそうな時間になっていた。
こんな時間まで起きているなんて、澪にはないことだ。肌のことを考えると、夜更かしなどできない。
けれど、もう、肌の手入れを念入りにする必要などなくなった。
「どうでもいいや……」
澪はソファに倒れ込んだ。もう、なにも考えたくない。
悲しいはずなのに、涙は出なかった。胸の奥が乾いた砂みたいにざらついているだけだった。
そのとき、バッグの中でスマホが震えた。澪はバッグに手を入れ、スマホを引っ張り出した。画面を確認すると、花音からのメッセージだった。おもむろにメッセージを開いた。
『澪、ごめんね。直哉さんの相談に乗ってたら、そんな雰囲気になって……。でも直哉さんと、素敵な家庭を築くね』
添付されていた画像は妊娠証明書と母子手帳だった。母子手帳には父の欄に「黒川直哉」、母の欄には「藤崎花音」と記載されている。
明らかに、花音が勝ち誇ったようにそれを送付してきたとしか思えない。心の底がしん、と冷え切るのがわかった。
澪はスマホをソファに投げた。
もう、そんなものは見たくもない。直哉との五年間も、花音との十二年間も何もかもが嘘だったように感じてならない。
二度と恋なんてしない。誰も信じない。
信じられるのは自分自身だけだ。
澪は腕で目を覆った。肌の手入れもせずにこのまま寝てしまいたい。
そのとき、再びスマホが震えた。
けれど澪は画面を見る気になれなかった。どうせ花音からだ。まだなにか澪に誇示したいことが残っていたのか。
澪はスマホに背を向けて横になった。
スマホの画面には、登録されていない番号からのメッセージが届いていた。
『ただいま』
〝調べていた〟という言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。 どうして仁がそんなことをするのだろうか。仁に限って、そんなことをするはずがない。 受話器を持つ指先が氷のように冷たくなった。「調べて……いた、とはどういう――」『その反応ですと、朝倉さんはご存じなかったと』「いえ、あの、そんな……」『なるほど。それでは、別の質問をさせていただきます。朝倉さんと高宮氏は幼なじみだということですが、本当ですか?』 どこからこんな情報が漏れているのだろうか。背筋が凍る。「はい、それはそうですけど」『高宮氏が引っ越してから、十七年間一度も会ったことはないのですか?』「…………」 澪は答えなかった。それが肯定だとわかっていても、答える気にはなれなかった。『そうですか。これまで一度もお会いにならなかったのに、今回お仕事でご一緒されたのは偶然だと思われますか?』「どうしてそんなこと――」『いやあ、こちらとしては、偶然ではないと見ているんですよ。ですからあなたにこうやって取材をお願いしているんです』 「取材をお願いしている」とは言っているが、お願いされた覚えはない。一方的に電話をかけてきて、質問しているだけだ。「おっしゃっている意味がわかりませんが」『朝倉さんは、偶然だと思われているということですね。よくわかりました。今、お仕事中だと思うので、今日のところはこの辺で失礼します』 電話は、がちゃっと突然切られた。ツーツーという通話終了音が、やけに遠くに聞こえた。 今のはいったい――。 仁が本当に澪のことを調べていたのだとしたら。そう考えた途端、恐怖が襲ってきた。なぜ澪を調べる必要があったのか。記者の言うとおり今回は偶然ではなかったのだろうか。 けれど、仁がそんなことをするはずなどないと思っている自分もいた。いつもやさしくほほえみ、澪を守ってくれ
直哉はダーマコードのホームページを開き、社長である高宮仁のプロフィールを調べた。高宮は一流国立大学を出て、そのまま大学院へ進んだらしい。検索をかけると、業界誌のインタビュー記事が出てきた。出身高校は、名前を聞けば誰でもわかる進学校だった。 元から頭が良かったのだろうか。 直哉は高宮の出身高校と大学をメモした。それから連絡先をタップしてメッセージを打った。《お久しぶりです。黒川です。急ぎ調べていただきたいことがあり、ご連絡いたしました》 相手は以前、直哉が勤める不動産会社に部屋を借りに来た男だった。彼は短期間で契約できるマンションを探していた。「こちらに長期の出張かなにかですか?」 何気なく直哉が聞いた言葉に、彼は「まあ、そんなものです」と答えた。 契約が終わり引き渡しの日に、彼は直哉に名刺を差し出した。「私、探偵をやっています。もしなにか調べたいことがあればいつでもご利用ください」 直哉は名刺を受け取ると、すぐに名刺入れへしまった。探偵を利用することなどないだろうと思っていた。それなのに、今はその探偵を必要としている。 直哉は引き続き、メッセージを打ち込んだ。《ダーマコードの社長の高宮仁という人物について調べてください。出身校、出身大学は下記のとおりです》 探偵がどれほど正確に調べ上げられるのかは、わからない。けれど、どんな些細なことでもいい。高宮をつぶす材料になれば。《できれば、スキャンダルになるようなことがいいです。なにか裏で悪いことをしていたとか、女にだらしないとか、そんなことでお願いします》 送信して、スマホをポケットにしまった。しばらくすると、スマホが震えた。画面を確認すると、先ほど連絡を入れた探偵からだった。《承知しました。急ぎということですので、報酬は割り増しになりますがよろしいですか?》 急ぎで調べたら割り増しになるのかよ。 心の中で悪態をついたが、一日も早く高宮を潰したい。《報酬の割り増しについて、承知しました。よろしくお願いします》 送信ボ
スマホを持つ手が小刻みに震えた。足の裏に根が生えたように、その場から動けない。 直哉はなぜ、澪の実家にいるのだろう。「全部ぶちまける」とは、なにをぶちまけるつもりなのだろうか。 澪は悪いことは一切していない。一方的に別れを告げて婚約を破棄したのは直哉のほうだ。それ以外の事実はない。 それとも、家族に危害を加えるつもりなのだろうか。 もしそうだとしたら――。 家族を守るためには、澪が直哉のもとへ行かなければならない。澪が一歩踏み出そうとしたとき、その足が止まった。 いや、澪が直哉のもとへ行ったら、直哉の思う壺だ。直哉の思いどおりにさせてはいけない。 澪はスマホを持つ手に力を込めた。「どうした? なにかあったのか?」 気づけば、来場者はすでに会場を後にしていた。見渡せば、撤収作業が始まっていた。「あ……うん」 澪は仁からスマホの画面を隠すように、画面を伏せた。仁は眉間にしわを寄せ、その様子を見た。「なにがあったんだ」 仁は静かに聞いた。澪は視線を自分のつま先に落とした。 どうしよう。こんなことを仁に言ったら、きっとまた困らせてしまう。もしかしたら、仁は澪のためになにか行動しようとするかもしれない。 澪は唇をきゅっと引き結んだ。「うん、大丈夫。なんでもないよ」 仁は訝しげな表情で澪を見て、言った。「本当か?」「うん。本当。なんだけど――」 そこまで言ったのに、その後の言葉が喉につかえて出てこなかった。澪は再び、唇を引き結んだ。「やっぱりなにかあるんじゃないか? いいから言ってみろ」 仁は澪に一歩歩み寄った。その表情が、なにも心配しなくていいと言ってくれているようだった。 澪は拳を小さく握って、仁の目を見つめた。「あたしの元婚約者がね、あたしの実家の前にいるみたいなの」 直哉の名前を口にするのも汚らわしい。 その言葉を聞いた瞬間、
発表会当日。 開場と同時に、多くのメディアが会場に入ってきた。席が一つずつ埋まっていく様子を、澪は舞台袖でじっと見つめていた。会場の話し声が少しずつ増えていく。それを聞くだけで、心臓が口から飛び出しそうになった。 胸の前で手を組んで、祈るように目を閉じた。 この会場がいっぱいになれば、発表会は始まる。開始まであと十五分だ。 メディア席が満席になると、その後ろにある一般席へ、応募して当選した人たちが入ってきた。きっとOnlyéを使って気に入ってくれている顧客だろう。皆一様に期待に胸を膨らませているようだ。 開始三分前。スタッフが澪のもとへやってきた。「おひとりだけまだお見えになっていないのですが……」 スタッフは名簿を澪に差し出した。出席の印がついていないのは、澪が違和感を覚えた男性の名前だった。「どうしましょうか?」 スタッフが眉を下げて、困った顔をした。澪はまっすぐスタッフの目を見て言った。「時間になったらはじめます。ですが、もしこの方が遅れて来られたら、そっと扉を開けてなかへ入れてあげてください」 スタッフは、「わかりました」と言って、会場の入り口へ戻っていった。 澪が舞台の袖から会場を見ていると、後ろから仁が声をかけてきた。「どうしたんだ?」「まだお見えになっていない方が、一名いらっしゃるみたいで……」 澪が振り返ると、思いのほか仁が近くにいて、思わず体を後ろに引いた。「そうか」 仁が身を乗り出して、会場を覗いた。「メディアはもうそろっているから、時間になったらはじめるつもり」 澪が説明すると、仁はうなずいて、なにも言わずにその場を離れていった。 開始時間になったが、男性は来なかった。席がひとつ空いていた。 澪は舞台に上がり、マイクをしっかりと握った。指先が冷えているのに、手のひらには汗が滲んでいた。「本日は、