LOGIN五つも条件があると言っておきながら、蓮は肝心の内容をはっきり言おうとしなかった。そんな曖昧な話を、簡単に受け入れられるはずもない。凛は思わず唇を噛んだ。「佐原社長、そこまでして私を困らせたいんですか?」「そう思うなら、もういい。ほかの会社と組めばいいだろ」蓮は両手を組んだまま、背もたれに深く身を預けた。くつろいだ姿勢なのに、そこにいるだけで妙な圧があった。相沢グループの製品に、S2のチップ以上に合うものなどなかった。蓮はそう確信していた。まして慧の会社が作るチップなど、最初から比べる気にもならなかった。凛は手元の資料に目を落とした。紙を押さえる指が、かすかに震えていた。こんな回りくどいやり方をするのも、数年前のことをまだ根に持っているからに違いなかった。けれど、今回の新製品には、相沢グループもすでにかなりの資金をつぎ込んでいた。ここまで関わってきた人たちの努力を、凛一人のせいですべて無駄にするわけにはいかなかった。ここへ来た時から、私情は持ち込まないつもりだった。蓮が何か条件を出してくることも、ある程度は覚悟していた。それでも、まさか内容まではっきりさせないとは思っていなかった。凛は資料を強く握りしめた。力の入った指先が、白くなっていた。少し黙ったあと、ようやく口を開いた。「分かりました。受けます」蓮は顎を軽く撫でた。「まだサインする気になれないな。コーヒーでも一杯淹れてくれないか?」言うだけ言うと、蓮は目を閉じた。それ以上話す気はなさそうだった。コーヒーを淹れるくらいなら、大したことではなかった。凛は席を立ち、社長室の奥にある給湯スペースへ向かった。蓮は昔からコーヒーが好きで、家には十種類以上の豆を揃えていた。中でも、しっかりコクがあって、少し酸味のある豆を好んでいた。凛はその中から適当に一袋取り、コーヒーマシンにセットした。抽出が終わると、濃い香りが立った。凛はそこへ氷を入れ、蓮の前に置いた。蓮がふと目を落とすと、凛の薬指に見慣れない指輪があった。澄んだ赤のルビーに、小粒のダイヤがいくつかあしらわれていた。凛は昔から、ほとんど指輪をしなかった。前に一度、もし指輪をつけるなら、たぶん結婚指輪くらいだと話していたことがあった。その言葉を思い出した瞬
蓮はじっと凛を見ていた。仕事のことになると、凛は好き嫌いで判断を変えるような人ではなかった。それを蓮はよく知っていた。必要なら、相手が蓮でも会いに来るような人だった。今日こうして凛がここまで来たこと自体、相沢グループがS2より条件のいい相手を見つけられなかった証拠だった。そもそもS2の新型チップは、相沢グループの家事ロボットで使うことを前提に開発されたものだった。性能も規格も相沢グループの製品によく合っていた。ほかを探したところで、これ以上条件の揃ったチップは簡単には見つからなかった。そこまで分かっていたからこそ、蓮は余裕を崩さなかった。しばらく黙っていた凛が、やがて小さく息を吐いた。「それで、条件は?」蓮は淹れたお茶を凛の前に置いた。凛は茶葉の浮いた湯呑みを見たが、手をつける気にはならなかった。朝からすでにコーヒーを三杯も飲んでいたし、今はお茶を飲みたい気分でもなかった。「条件は五つある。全部受けるなら、契約してもいい」凛は顔を上げた。蓮はさっきから、何かを押し殺すような目で凛を見ていた。怒っているようにも見えたが、それだけではない気もした。けれど、凛にはその目が何を意味しているのか分からなかった。まだ昔のことを引きずっていて、今さら凛を困らせたいのだろうか。「どんな条件ですか?」「そんなに身構えるなよ。俺たち、今さらだろ。もっと近いことだってしてきたんだから」凛は思わず目を見開いた。付き合っていた頃、二人がそういう関係だったのは事実だった。でも、別れた今になって、それを平然と口にされるとは思わなかった。「私たち、もう別れてるんですけど」「そうだったな。言われるまで忘れてた」蓮は口元をわずかに歪めた。「とりあえず聞いてから決めればいい。無理なら帰っても構わない。ただ、うちより条件のいい相手が見つかるとは思わないけどな」悔しいが、その言い分には反論できなかった。担当者が持ってきた資料には、ほかにもいくつか候補が載っていた。それでも、相沢グループの製品に一番合っていたのはS2のチップだった。前のモデルで出ていた問題のほとんどを解消でき、新製品に必要な性能も満たしていた。規格まできれいに合っていたため、まとまった数を確保できれば、大きな調整をせずにその
蓮は、凛が今日来ることを最初から知っていたようだった。そう考えると、昨日のパーティーで持ち出した話も、最初からそのつもりだったのだろう。「佐原社長は、私が来ることを前から知ってたんですか?」「はい。今朝、相沢グループからご連絡がありまして、先ほども相沢様がこちらへ向かわれたとお電話をいただいております」どうやら、相沢グループとS2の間ではすでに話が通っていたらしい。凛は少し眉をひそめた。蓮が今さら凛を呼びつけて、何をするつもりなのか分からなかった。昔のことを蒸し返すつもりなら、勘弁してほしかった。受付スタッフに案内され、そのまま上の階へ向かった。社長室の前まで来ると、スタッフはそこで引き返した。凛は一人になると、改めて周囲を見回した。S2へ来るのは初めてだったのに、なぜかあちこちに見慣れたものがあった。ビルの中には、色とりどりの胡蝶蘭がいくつも飾られていた。祝い事でもないのに、これだけいろいろな色の胡蝶蘭を置いているオフィスは珍しかった。上がってくる途中には、ある階のバルコニーいっぱいにブーゲンビリアが植えられているのも見えた。その時、気になって受付スタッフに尋ねると、どちらも蓮の好きな花らしかった。けれど、凛の知る蓮は、花に興味を示すような人ではなかった。胡蝶蘭もブーゲンビリアも、好きだったのは凛のほうだった。きれいな花は好きでも、忙しくてこまめに世話をする余裕はなく、自然と丈夫で育てやすいものを選ぶことが多かった。蓮と暮らしていた頃の家は日当たりがよく、置いていた植物もほとんど手をかけなくても元気に育っていた。あの家を出る時に持ってきたのは、玄関に置いてあった小さな鉢植えだけだった。それは今も会社に置いてあり、変わらずよく育っていた。たまに猫に葉を引っ張られ、床いっぱいに散らされることはあったが、それくらいでは弱ることもなかった。そんなことを思い出していると、社長室のドアが開いた。出てきた蓮は、凛を見るなり一瞬だけ動きを止めた。「来てたなら、入ればいいだろ」「花を見ていただけです。何か問題でも?」蓮も凛の視線を追い、社長室の前に置かれた青い胡蝶蘭を見た。凛のいちばん好きな色で、好きな花でもあった。「内装の時に、におい対策で置いただけだ。思ったよりよ
「ほかもいろいろ当たったんですけど、やっぱり今のところS2が一番なんです」凛は渡された資料をめくった。読み進めていくうちに、今のAI業界がどんな状況なのかもだんだん見えてきた。蓮のS2は、この二年で急速に伸びた新興企業だった。今では業界でもかなり名が知られ、各社がこぞって声をかけるのも分かる気がした。今の相沢グループにとっても、S2以上の相手はそう簡単には見つからなかった。しかも資料を見る限り、この案件はすでにかなり進んでいた。多額の資金を投じ、生産ラインまで整えてあった。残っていたのはチップだけだった。ここで計画が止まれば、かなりの損失は避けられず、最悪の場合、グループ全体の経営にも響きかねなかった。凛はページをめくる手を止め、眉を寄せた。責任者はそんな凛の顔を見て、慌てたように身を乗り出した。「相沢さん、この事業は、もともと数年前に相沢さんご自身が話を進めてくださった案件なんです。それからずっと、グループの利益にもかなり貢献してきました。こちらで何とかできるなら、わざわざお願いには来ませんよ」S2側から凛本人を指名されては、責任者もほかにどうしようもなかったのだろう。凛は資料を閉じ、小さく息を吐いた。「分かりました。一度、私から連絡してみます。でも、話がまとまるところまでは約束できません」「相沢さんが動いてくださるなら、きっとうまくいきます!」責任者は目に見えてほっとした。この二年、相沢グループから戻ってこないかと誘われたことは何度もあった。凛は大株主の一人でもあり、交渉ごとにも強かった。凛が自ら話をしに行けば、たいていの案件はうまくまとまっていた。それでも、凛はずっと断ってきた。「アンサンブル」を離れる気にはなれなかったからだ。最初から少しずつ育ててきたブランドで、凛にとってはほかの仕事とは比べられないほど思い入れがあった。今回も、蓮に連絡してみると答えただけで、責任者は何度も礼を言いながら帰っていった。凛がオフィスへ戻ると、ほどなく美鈴がコーヒーを持って入ってきた。「何その顔。朝からもう面倒なことでも押しつけられた?」「それくらいなら、まだマシだったんだけどね」凛がさっきの話を簡単にすると、美鈴はコーヒーを凛の前に置いた。「向こう、どうしても凛と話したいん
翌朝。凛が会社に着いて間もなく、秘書が部屋に入ってきた。「相沢グループの方がお見えです。凛さんにお会いしたいそうです」この二年、凛は相沢グループの仕事からほとんど離れていて、顔を出すのも年に一度の株主総会くらいだった。そんな凛をわざわざ訪ねてきたとなると、よほどの用があるのだろう。少し考えてから、凛は言った。「会議室で待っててもらって」「分かりました」服を軽く整えて部屋を出ると、ドアのそばに美鈴がいた。片手にコーヒーを持ち、ブラウンのベストにすっきりとしたスラックスを合わせていた。きりっとした着こなしがよく似合っていた。凛が海外にいた間、「アンサンブル」をずっと支えてきたのは美鈴だった。今では、ほとんどの仕事を安心して任せられる存在になっていた。美鈴はドアにもたれたまま、凛を見るなり笑った。「帰ってきたばっかりなのに、もう呼び出し?」「代わってくれる?今日の分、全部」「無理無理。そんなの、会社に泊まっても終わらないって」美鈴はすぐに手を振った。凛が戻れば、美鈴は今の仕事を外れることになると思っていた。けれど遥からは、これまで通り「アンサンブル」を任せたいと言われていた。この二年で、凛も営業や商談に出るより、経営に関わる仕事をすることが増えていた。現場を美鈴に任せられるぶん、凛の負担もかなり減っていた。これから「アンサンブル」がさらに広がっていくことを考えても、美鈴には今のままいてもらうのが一番だった。しばらくして、美鈴が別の話を切り出した。「そういえば、幸雄、もうすぐ出てくるらしいよ」凛が眉を上げた。「まだあいつのこと、気にしてるの?」「するわけないでしょ。知り合いの投稿でたまたま見かけただけ。できることなら、まだしばらく出てこないでほしいくらいよ」幸雄の話になると、美鈴は今でも腹が立って仕方がないようだった。あんな男と結婚していたこと自体、美鈴にとっては思い出したくもない過去だった。「ただ、出てきたあとでまた凛に絡んできたら嫌でしょ。だから、先に言っとこうと思って」「前の時だって、私が目当てだったわけじゃないけどね。でも、なるべく関わらないほうがよさそう。教えてくれて助かった」美鈴と別れ、凛はそのまま会議室へ向かった。相沢グループから来ていたのは
凛は笑顔で次々と人に声をかけ、誰が相手でも自然に会話を弾ませていた。以前取引を通じて知り合った奥様方ともすぐに打ち解け、ほどなく楽しそうな笑い声が上がった。少し離れたところでグラスを傾けていた蓮は、ふと慧のほうへ目をやった。ちょうど慧もこちらを見ていて、二人の視線がぶつかった。同じAI業界で競う立場でもあり、こうした場で顔を合わせることも少なくなかった。慧はグラスを軽く掲げて挨拶すると、そのまま凛へ目をやり、どこか意味ありげに笑った。蓮は何も言わず、残っていた酒を飲み干してグラスを置いた。慧のことは、蓮も知っていた。美和の息子で、真理の結婚式の時、琴子の前で凛に紹介されていた男だった。まさか、あれからずっと連絡を取り合い、今では一緒にパーティーへ来るほど親しくなっていたとは思わなかった。蓮にはあれほどよそよそしかったのに、慧の隣では楽しそうに笑っていた。この二年、蓮も何度か凛に連絡していたが、返事は一度もなかった。もう別の男がそばにいて、蓮のことなどとっくに忘れていたのかもしれなかった。そう思うと、蓮は鼻で笑い、奥歯がきしむほど強く噛みしめた。そのままスマホを取り出し、秘書に電話をかけた。「この前、相沢グループから来てた提携の話、断っておいてくれ。相沢さんに話を進める気がないなら、こっちも受けるつもりはないって伝えて」「その理由まで、先方にそのまま伝えてよろしいんですか?」「ああ。相沢さんがもう一度俺と話す気があるなら、まだ考える。そうじゃないなら、S2は今後、相沢グループとは一切組まない」秘書は少し間を置いてから、了承した。蓮は通話を切ると、会場を回る凛を黙って目で追った。やがて凛が慧のところへ戻ると、慧は彼女の髪に引っかかっていた細いリボンを取ってやった。ほんの何気ない仕草なのに、蓮には妙に親しげに見えた。蓮は口元をわずかに歪めた。慧はさりげなく凛の前へ回り、蓮の姿を遮った。「挨拶、終わった?俺もひと通り済んだし、送ってくよ」「美和さんも誘ってご飯行くって言ったでしょ。行こうよ。この前紹介してくれたところのネフライト、すごくよかったの。質もいいし、値段も良心的だったし」「アンサンブル」では、ゴールドとネフライトを使った新シリーズの発売を控えていた。天然石は