LOGIN妻が死んだあと、彼女の漫画の連載が始まった。 人気漫画家・朝倉直人のもとに届いた、亡き妻・紬の新作更新通知。そこに描かれていたのは、夫の知らない妻の物語だった。 一話読むたび、自分が目を背けてきた過去が浮かび上がる。彼女は何を望み、何を諦めていたのか。 もう謝る相手はいない。それでも、次の一話を待たずにはいられない。 妻を失って初めて、彼は彼女の読者になった。
View More妻の葬儀を終えた翌日、新しい原稿が公開された。
夜10時だった。朝倉直人は食卓に積まれた香典袋を整理する手を止め、スマートフォンを手に取った。黒い画面に、長いこと忘れていた名前が浮かんでいる。
[フォロー中の作家、水凪の新作が公開されました]
[君に残した余白――第1話]
水凪。
紬が結婚前に使っていたペンネームだった。
直人は通知を消そうとして、作品を開いた。誰がこのアカウントを動かしているのか、まず確かめるつもりだった。葬儀の場でまで紬の仕事の話を持ち出した、橘真帆の顔が浮かぶ。
最初のコマが画面を埋めた。
雨上がりのバス停で、濡れたベンチの片側を拭き、空いた場所を見つめる女。傍らには、縦に長く伸びた吹き出しがある。
直人の指が止まった。
リビングの本棚には『水のほとり』が収まっていた。直人の名前で出版された初めての長編だ。10年の間、インタビューで何度も説明してきた冒頭の場面だった。
今、妻の名前の下に表示されている絵は、その最初のコマと同じだった。
***
21週間前。
「これ、今日中にできるよな?」
スープを温めていた紬が振り返ると、直人が食卓にタブレットを置くところだった。画面には四角い枠がいくつかと、短いメモが表示されている。場面の順番や構図を決めるネームと呼ぶには、まだ空欄のほうが多かった。
「何シーンあるの?」
「後ろのほうだけ。前はほとんどできてる」
紬は火を弱め、画面を送った。前半は午前中に自分が描いて渡した原稿だった。
最後の場面にある9つの空欄の前に、直人が描いた男の顔が置かれていた。顔だけはきれいに仕上がっている。サイン会で少し横を向いた男を描いてほしいと頼まれれば、直人は迷うことなくペンを走らせた。
けれど、その男がドアを開けて入ってからは何も起こらない。次のコマには「ヒロインの反応」、その次には「2人で会話」と書いてあるだけだった。
「この人、どうして戻ってきたの?」
「先週けんかしただろ」
「けんかしたのは知ってる。戻ってきた理由」
直人は冷蔵庫から水を取り出しながら答えた。
「そこは考えてよ。ちょっとうまくまとまらなくてさ」
「昨日までにやってみるって言ってたじゃない」
「やったよ。だから、これだけでもあるんだろ」
紬はコマの続きを見た。最後には告白シーンというメモがある。戻ってきた理由も、仲直りのきっかけも決まっていないのに、告白することだけが決まっていた。このままセリフをつければ、男は怒って出ていった次の回には愛していると言うことになる。
「今日、告白するのは早すぎるよ。ドアの前で止めたほうがいい」
「そしたら読者がまた、じれったいって言うだろ」
「自分の傘までなくなってるのに気づかせよう。女の人は、彼を捜しに出たのかもしれない。男は中に入らず、外で待つの」
直人がペットボトルの蓋を閉めた。
「それ、いいな」
褒め言葉は短かった。紬は画面に手を伸ばしかけ、スープの匂いに振り向いた。煮立った泡が鍋の縁まで上がっている。
「ご飯を食べてからやるね」
「俺、出なきゃ。橘さんに11時半までに渡すって言ってあるから」
「今から?」
直人は玄関へ向かいながらコートを手に取った。椅子の背にかけていたグレーのマフラーが床を引きずり、紬が拾い上げた。
「人と会う約束があるんだ。俺がいないとまずいんだ」
「あなたが場面を考えてる間に、前半の色を合わせようと思ってたのに」
「色は後でいいだろ。先に話を決めないと」
彼が腕を伸ばした。紬は手にしていたマフラーを渡し、食卓を見た。2人分の茶碗が用意されていることにようやく気づいた直人が、すまなそうに笑った。
「言ってなかったっけ? 食べて帰るよ」
「聞いてない」
「じゃあ俺の分はしまっといて。明日食べるから」
玄関で靴を履きながら、直人はスマートフォンを耳に当てた。さっきとは違う、ずいぶんくつろいだ声だった。
「はい、社長。今から向かいます。妻がしきりにご飯を食べていけって引き止めるもので」
紬は彼の背後で、用意していた茶碗を1つ引っ込めた。引き止めた覚えはなかった。出かけると聞いていなかっただけだ。
通話を終えないまま直人が手を振り、紬もうなずいた。ドアが閉まり、温めたスープがまた冷めていく間に、食卓のタブレットの画面も暗くなった。
ご飯を食べようとして、先に時刻が目に入った。午後7時40分。残りの場面を考え、人物を描いて前半につなげるには、11時半でもぎりぎりだ。紬はスープにご飯を少し入れて食べ、残りを冷蔵庫にしまった。
廊下の突き当たりにある小さな部屋には、窓に向けて机が置かれていた。もとは来客用のベッドがあった場所だが、直人の資料箱が増えたため、先にベッドを片づけた。箱はそのままで、紬の椅子だけが隙間に収まった。
リビングの隣にある大きな仕事部屋は、直人がインタビューの撮影に使っていた。机の上では、贈り物のペンがスタンドに並んでいる。紬は自分のペンを探し、キーボードの下から取り出した。指の触れるゴムの部分が緩んだので、黒いテープを巻いてある。
直人のファイルを開くと、前の原稿も一緒に表示された。紬は前回の終わりから読み返した。男は怒って出ていったのではなく、自分は必要ないと言われて家を出たのだ。女にそんなつもりはなかったが、ドアの閉まる音に遮られ、最後まで言葉を伝えられなかった。
紬がペンを動かした。
戻ってきた男がドアノブに手をかける。手のひらほどの幅に開けると、明かりのついた玄関が見える。中に入れず、彼は隙間からのぞき込む。いつも傘が2本立っていた場所は空っぽだ。
直人の描いた顔をそのまま使おうとして、眉の線を消した。ここに必要なのは整った顔ではなかった。戻りたくて来たのに、それを知られたくない人。自分からドアを開けて、また拒まれるのが怖くてためらう人だ。
紬はドアノブを握る手から描き直した。親指に力が入り、やがて緩む。その小さな動きを2コマに分けると、顔を大きく描かなくてもためらいが伝わった。
スマートフォンが鳴ったのは、そのときだった。
[母さんから電話が来たら出て。俺は通話中だって言っといて]
紬がメッセージを読んだ直後、朝倉紀子から電話がかかってきた。ペンを置いて出ると、挨拶より先に質問が飛んできた。
「直人と一緒にいるの?」
「いいえ。約束があるって出かけました」
「週末も忙しいのね。あなたは?」
「家で……」
紬は画面の空欄を見てから続けた。
「原稿を見ています」
「ああ、直人の原稿の間違いを見てあげてるのね」
「はい。少し、一緒にやっていて」
「それならよかった。あの子が家に帰ってからも仕事を全部抱えているんじゃないかって心配で。そばでちゃんと支えてあげてね」
受話口の向こうでテレビの音が大きくなった。紀子は来週親戚に会うので、直人が受賞した賞の名前を正確に教えてほしいと言った。紬が主催団体と受賞部門を伝えると、同じ質問をもう一度された。書き間違えたら困るからと、一文字ずつ教えてほしいとまで頼まれた。
電話を切ると、12分が過ぎていた。紬はメモしておいたセリフを読み、最後の一文を消した。さっきは自然に感じた言葉が、今は親切すぎる気がした。女が事情をすべて説明すれば、男は何も尋ねなくて済んでしまう。
そうするのはやめた。
家に戻った女は、ドアの前に立つ男を見て、先に傘を差し出す。男は受け取れない。
『俺の分まで持っていったの?』
『雨が降るって言ってたから』
紬はその下に入れるつもりだった長いセリフを削った。女が傘を2本持って出かけた理由は、わざわざ説明しなくてもわかる。
画面をスマートフォンに移し、実際に読む大きさで確認した。傘の持ち手が小さすぎた。拡大したときははっきりしていたものが、縮めると埋もれてしまう。紬は前の場面にある空の傘立てを少し大きくし、最後のコマでは女の濡れた腕が隠れないように構図を直した。
いくつかの場面をキャプチャーして直人に送った。長く待つ時間はないので線を整えていると、返事が来た。
[いいね。でも最後に抱きしめさせちゃだめ?]
紬は電話をかけた。遠くで笑い声と食器のぶつかる音が聞こえた。
「今抱きしめたら、次の回が弱くなるよ」
「じゃあ手くらいつなぐとか」
「傘を受け取るところで終わろう。来週、一緒に家に入るところから始めればいい」
「地味すぎない?」
「今のこの人には、それが先なの。もう一度、家に入ってもいいかどうかを聞くこと」
しばらく返事がなかった。紬は画面を見下ろし、直人が絵を見てくれるのを待った。
「わかった。君がそう思うなら、それでいいよ」
電話を切る直前、直人がつけ加えた。
「そんなに難しく考えなくていいって。読者はそこまで見てないから」
紬は通話の終わった画面を少し眺め、それから作業画面に戻った。女が差し出した傘の先から、雨粒が1つ落ちている。消せばずっとすっきりするが、外でどれだけ待っていたかを残しておきたかった。
その小さな点を見ながら、しばらく拡大と縮小を繰り返した。結局、そのままにした。
10時を過ぎると、マンションの廊下を走る子どもの足音が、次第に静まった。誰かが玄関のドアを閉め、エレベーターの到着音が鳴った後は、ペン先が画面に触れる音だけが残った。紬はこわばった指を伸ばし、小指の脇についたテープの跡をこすった。
前半の色を合わせ、吹き出しを整えると、11時18分だった。線と色を分けて描いたレイヤーが、画面の横に長く並んでいる。紬は修正前のファイルを先に保存し、提出用のコピーを作った。
最後には、いつも載せる名前があった。
作・画 朝倉直人。
作業を始めるときは見えないように畳んでおく部分だった。最後に画像を書き出すときだけ、もう一度表示する。白い背景に黒い文字が現れ、女の持つ傘の下に整然と置かれた。
紬はその文字をクリックした。文字を修正する小さなウィンドウが開く。カーソルが直人の名前の後ろで点滅していた。
パソコンの右下には11時22分と表示されていた。スマートフォンには真帆から、今日中に受け取れるかという確認のメッセージが届いている。紬は名前の後ろにあったカーソルを行の先頭へ移し、そのままにした。
ウィンドウを閉じ、最初から最後まで画面を送り直した。前回からつながる表情、雨がやんだ時刻、傘の本数を確認する。直人が描いた線は、後半の最初のコマにある顔にしか残っていなかった。
メールの宛先には橘真帆のアドレスが自動で表示された。送信アカウントの名前は朝倉直人だった。紬は件名の末尾に「最終版」とつけ、ファイルを添付した。
本文は2行だけだった。
遅くなって申し訳ありません。
ご確認をお願いいたします。
送信画面が閉じると、紬は椅子の背にもたれた。締め切りには間に合った。傘の先の雨粒も、ためらって手を開く男も、そのまま掲載される。まずはそれに安堵してから、ようやく、さっき表示した名前の欄が頭に浮かんだ。
スマートフォンに直人からメッセージが届いた。
[送った?]
紬は「うん」と書いて送信した。返事を待ちながら作業ファイルを閉じようとすると、先にメールの到着通知が出た。
朝倉直人先生、原稿を受け取りました。
直人は引き出しを開け、ネクタイを探していた。必要な色を言わず、あのとき締めたものとしか言わないので、紬にはどれを指しているかわからなかった。リビングから戻った彼がシャツをベッドに広げると、袖口が彼女のバッグに引っかかった。「検査に行くときのバッグ、別のところに置けない?」紬はバッグを椅子の横へ移した。中の書類は取り出さなかった。前日に診察を受けて帰宅し、入れておいたままだった。7月8日の朝だった。直人は翌日の授賞式の動線を確認しながら、今日もリハーサルと関係者との約束があると言った。紬が食卓に置いた水の入ったコップを持つと、彼は遅れて彼女のほうを見た。「明日は行けそう?」「行けないと思う」「まだそんなに具合が悪いの?」「うん」直人はそこでようやく、しばらく彼女を見た。紬はカップを食卓に置いて待った。どこがどんなふうに悪いのか尋ねられたら、前日に聞いた話から伝えればいいと思った。「じゃあ家で休んで。イベントが長引いたら座っているのもつらいだろうし」彼は出席者を確認する画面に戻った。家族席に名前を書く欄が見えて、消えた。紬は誰に連絡しているのか尋ねなかった。自分が行けない席に別の人を座らせることまで確かめたくなかった。「夕食は?」「今日は外で食べる。明日も早く帰るのは難しいと思う」紬はうなずいた。夫はまたネクタイについて尋ねた。彼女が知っているのは、引き出しのどの段にネクタイが入っているかまでだった。「一番下の段にあるよ。そこで探して」直人は引き出しを強く閉め、また開けた。しばらくして見つかったとも言わず、スマートフ
青い印のついた原稿を数えながら、紬は17番目で手を止めた。前に数えた束をもう一度数えていた。紙をすべて床に広げれば一目で見えるだろうが、かがんで立ち上がることを何度できるかわからなかった。彼女は机の上に5編ずつだけ置くことにした。順番を決めた束は左に、まだ確かめていないものは右に置いた。原稿を整理する方法まで、昔と同じである必要はなかった。6月29日だった。窓の外ではエアコンの室外機の音がずっと聞こえていた。紬は風が直接当たらないよう椅子の向きを変え、真帆から受け取った撮影データを開いた。紙に残った場面と画面に表示された場面を並べて確認できた。6月も診察は続いた。治療を受けた後に体調が悪くなって次の投薬を調整したこともあり、食事が難しかったり痛みが強くなったりして予定の外来より先に連絡した日もあった。紬は調子のいい日にできることをまとめて終わらせようとし、翌日ほとんどベッドから起きられなくなってからは、時間を短く分けた。今日は午前中に原稿の前半だけを見るつもりだった。真帆と会う午後までに全部終えなければならないとは、誰にも言っていない。立ち上がって休んでいる間は、作業一覧の印が増えなくてもよかった。最初の束を開くと、雨上がりのバス停が出てきた。女が濡れたベンチの一席を拭く最初のコマだった。紬はその絵を前にして、しばらくほかのページをめくらなかった。見慣れた場面の始まりと、自分の名前が同じ一覧に書かれていた。その後に入れる原稿は一度には決めなかった。カップを洗いながら窓のほうを見る女の話は少し前に、降りる場所を通り過ぎて花屋に入る話はその後に置いた。1人でパンを食べる女と服を選ぶ女が続くと、2編の間に別の季節の場面を挟んだ。女が同じ場所に立ち止まったままの人として読まれてほしくなかった。戻り、出かけ、何もしない日もあったのだから。紬は新しいセリフを書く代わりに、すでに描いた場面の間隔を見た。数年前に描いた紙には、当時の日付が余白に残っていた。最近1コマを変えた原稿もあった。紬は修正した日付と変えた部分を作業一覧に書き足した。元の絵と修正後の絵を同じファイルだと取り違えないよう、真帆が求めた印だった。病院へ行った日の場面は、その日以降に描いたものだった。春に書き留めたメモをもとに、後から構図を直した場面には、その時期も残した。紬は実際に経験したことと
5月7日の午後、紬は入院用バッグを横に立て、改めて診察を待った。朝に予定していた手続きは変わっていた。体の状態を診てもらい、必要な処置を受け、次の診察を決めるまで、バッグは椅子の横に置いたままだった。職員が予定を確認しながら尋ねた。「次はこの時間に来られますか?」「はい。来られます」紬は手帳に日付を書き、新しい予約を確認した。翌日また病院へ行き、その後の調整を経て5月12日に入院した。荷物を解くと、バッグからしわになった案内が出てきた。先週使うはずだった紙だった。彼女は捨てずに別の書類の下へ入れた。入院中の一日は、検査と診察の時間に合わせて流れた。その合間はベッドに横になって休んだ。直人からファイルの場所を尋ねられると、フォルダーの名前だけを答えた。いつ家に帰るのかという質問には、退院の日はまだわからないと言った。病院でパソコンを使えるかという問いには、答えずにおいた。医師は病気が胃の外まで広がっていると説明した。手術ですべてを取り除くのは難しい状態で、薬物治療を含めた可能な方法を検討しなければならなかった。紬は説明を聞きながら手帳を開き、ペンを置いた。今回はすべてを書こうとせず、先に耳を傾けた。「それでは、手術はしないんですか?」「今確認できている範囲では、手術で取り除く治療を優先するのは難しいです。病気の進行を抑える治療を検討しながら、食事の問題や痛みも併せて調整する必要があります」「何もできないわけではないですよね?」医師は、今できることと、体の状態に合わせて調整すべきことを分けて話した。紬は治療を受けたいと答えた。可能ならいつ始められるかも尋ねた。入院中は、食べられる量や不快な症状を伝えることも治療の一部だった。痛みが少ないと答えれば早く家に帰れる気がして、ついそう答えそうになる癖が残っていて、看護師に尋ねられるたびに紬は少し考えなければならなかった。いつ痛みが強かったか、食べた後に何がつらかったかを話すには時間がかかった。それでも、その言葉を書き留める人がいた。退院の会計をしながら、紬は自分の口座の残高を確認した。個人原稿の前払い金が入ってから初めて支払う入院費だった。金額を確認して支払い、残ったお金で次の診察と移動に使う費用を計算した。家に生活費がいつ入るのか直人に尋ねる必要が減った分、自分の予約を先に書き込めた。退院時に
5月7日の朝、旅行用バッグは玄関に置かれていた。紬は病院から持参するよう言われた書類を確認し、スマートフォンにタクシーの配車画面を表示した。まだ呼び出しボタンは押していなかった。後ろから直人が紙を1枚差し出したからだった。「これ、1行だけ見て」紬は時刻を確かめた。8時55分だった。「もう出ないと」「病院は10時だろ。読むのに1分もかからないよ」彼が持ってきたのは祝いの動画の台本だった。先週資料を送った後、追加撮影用にもう一度直してほしいと依頼が来たという。紬が書いていない文が途中に入っていた。古い原稿から人物のセリフを抜き出し、作家自身の経験であるかのようにつなげた部分だった。「これ、登場人物が言った言葉でしょう」「だからちょっと変だなって。俺が言ったことみたいに変えられない?」「削ればいいよ」「削ったら前の動画と合わないって言ってるだろ」直人は紙の向きを変え、紬のほうへさらに押し出した。紬はスマートフォンを食卓に置き、削る文に印をつけた。出発を遅らせずにできる最後のことだと思った。線を引くと直人は、その後に続ける言葉を尋ねた。「それはあなたがやって。考えてあるんでしょう」「今のまま渡せってこと?」紬はペンを置いた。直人は撮影担当者に電話をかけ、30分以内に送ると言った。紬にできるかどうかも聞かずに交わした約束だった。通話が終わるのを待って紬がバッグを持つと、彼は小さな部屋を指した。「原稿も一緒に開いて見ないと。場面の順番が変わったから」「今日はできないって言ったよ」「入院してもすぐに何かするわけじゃないだろ。受付が少し遅れるだけじゃないの?」「あなたが決めることじゃない」声が大きくなると、直人はリビングの窓のほうを見た。外で聞く人を意識するその動きのせいで、紬は思わず抑えようとした声を、そのままにした。「病院に行かないといけないって、何度言ったと思う? 日付も2回変えたの」「だから今日終わらせてから行けばいいだろ」直人は同じ説明を繰り返しながら、撮影担当者にまた電話をかけた。通話が終われば出かけられると思ったが、終わるたびに別の紙を差し出した。小さな部屋の机には前日に印刷した場面が残っていた。紬は夫がそれを口実にまた引き止めないよう、確認の終わった紙だけを手に取った。パソコンをつけて新しく直すつもりはなかった。リビング