死んだ妻の漫画の連載が始まった

死んだ妻の漫画の連載が始まった

last updateLast Updated : 2026-10-29
By:  YuImUpdated just now
Language: Japanese
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妻が死んだあと、彼女の漫画の連載が始まった。 人気漫画家・朝倉直人のもとに届いた、亡き妻・紬の新作更新通知。そこに描かれていたのは、夫の知らない妻の物語だった。 一話読むたび、自分が目を背けてきた過去が浮かび上がる。彼女は何を望み、何を諦めていたのか。 もう謝る相手はいない。それでも、次の一話を待たずにはいられない。 妻を失って初めて、彼は彼女の読者になった。

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Chapter 1

1話 更新通知

妻の葬儀を終えた翌日、新しい原稿が公開された。

夜10時だった。朝倉直人は食卓に積まれた香典袋を整理する手を止め、スマートフォンを手に取った。黒い画面に、長いこと忘れていた名前が浮かんでいる。

[フォロー中の作家、水凪の新作が公開されました]

[君に残した余白――第1話]

水凪。

紬が結婚前に使っていたペンネームだった。

直人は通知を消そうとして、作品を開いた。誰がこのアカウントを動かしているのか、まず確かめるつもりだった。葬儀の場でまで紬の仕事の話を持ち出した、橘真帆の顔が浮かぶ。

最初のコマが画面を埋めた。

雨上がりのバス停で、濡れたベンチの片側を拭き、空いた場所を見つめる女。傍らには、縦に長く伸びた吹き出しがある。

直人の指が止まった。

リビングの本棚には『水のほとり』が収まっていた。直人の名前で出版された初めての長編だ。10年の間、インタビューで何度も説明してきた冒頭の場面だった。

今、妻の名前の下に表示されている絵は、その最初のコマと同じだった。

***

21週間前。

「これ、今日中にできるよな?」

スープを温めていた紬が振り返ると、直人が食卓にタブレットを置くところだった。画面には四角い枠がいくつかと、短いメモが表示されている。場面の順番や構図を決めるネームと呼ぶには、まだ空欄のほうが多かった。

「何シーンあるの?」

「後ろのほうだけ。前はほとんどできてる」

紬は火を弱め、画面を送った。前半は午前中に自分が描いて渡した原稿だった。

最後の場面にある9つの空欄の前に、直人が描いた男の顔が置かれていた。顔だけはきれいに仕上がっている。サイン会で少し横を向いた男を描いてほしいと頼まれれば、直人は迷うことなくペンを走らせた。

けれど、その男がドアを開けて入ってからは何も起こらない。次のコマには「ヒロインの反応」、その次には「2人で会話」と書いてあるだけだった。

「この人、どうして戻ってきたの?」

「先週けんかしただろ」

「けんかしたのは知ってる。戻ってきた理由」

直人は冷蔵庫から水を取り出しながら答えた。

「そこは考えてよ。ちょっとうまくまとまらなくてさ」

「昨日までにやってみるって言ってたじゃない」

「やったよ。だから、これだけでもあるんだろ」

紬はコマの続きを見た。最後には告白シーンというメモがある。戻ってきた理由も、仲直りのきっかけも決まっていないのに、告白することだけが決まっていた。このままセリフをつければ、男は怒って出ていった次の回には愛していると言うことになる。

「今日、告白するのは早すぎるよ。ドアの前で止めたほうがいい」

「そしたら読者がまた、じれったいって言うだろ」

「自分の傘までなくなってるのに気づかせよう。女の人は、彼を捜しに出たのかもしれない。男は中に入らず、外で待つの」

直人がペットボトルの蓋を閉めた。

「それ、いいな」

褒め言葉は短かった。紬は画面に手を伸ばしかけ、スープの匂いに振り向いた。煮立った泡が鍋の縁まで上がっている。

「ご飯を食べてからやるね」

「俺、出なきゃ。橘さんに11時半までに渡すって言ってあるから」

「今から?」

直人は玄関へ向かいながらコートを手に取った。椅子の背にかけていたグレーのマフラーが床を引きずり、紬が拾い上げた。

「人と会う約束があるんだ。俺がいないとまずいんだ」

「あなたが場面を考えてる間に、前半の色を合わせようと思ってたのに」

「色は後でいいだろ。先に話を決めないと」

彼が腕を伸ばした。紬は手にしていたマフラーを渡し、食卓を見た。2人分の茶碗が用意されていることにようやく気づいた直人が、すまなそうに笑った。

「言ってなかったっけ? 食べて帰るよ」

「聞いてない」

「じゃあ俺の分はしまっといて。明日食べるから」

玄関で靴を履きながら、直人はスマートフォンを耳に当てた。さっきとは違う、ずいぶんくつろいだ声だった。

「はい、社長。今から向かいます。妻がしきりにご飯を食べていけって引き止めるもので」

紬は彼の背後で、用意していた茶碗を1つ引っ込めた。引き止めた覚えはなかった。出かけると聞いていなかっただけだ。

通話を終えないまま直人が手を振り、紬もうなずいた。ドアが閉まり、温めたスープがまた冷めていく間に、食卓のタブレットの画面も暗くなった。

ご飯を食べようとして、先に時刻が目に入った。午後7時40分。残りの場面を考え、人物を描いて前半につなげるには、11時半でもぎりぎりだ。紬はスープにご飯を少し入れて食べ、残りを冷蔵庫にしまった。

廊下の突き当たりにある小さな部屋には、窓に向けて机が置かれていた。もとは来客用のベッドがあった場所だが、直人の資料箱が増えたため、先にベッドを片づけた。箱はそのままで、紬の椅子だけが隙間に収まった。

リビングの隣にある大きな仕事部屋は、直人がインタビューの撮影に使っていた。机の上では、贈り物のペンがスタンドに並んでいる。紬は自分のペンを探し、キーボードの下から取り出した。指の触れるゴムの部分が緩んだので、黒いテープを巻いてある。

直人のファイルを開くと、前の原稿も一緒に表示された。紬は前回の終わりから読み返した。男は怒って出ていったのではなく、自分は必要ないと言われて家を出たのだ。女にそんなつもりはなかったが、ドアの閉まる音に遮られ、最後まで言葉を伝えられなかった。

紬がペンを動かした。

戻ってきた男がドアノブに手をかける。手のひらほどの幅に開けると、明かりのついた玄関が見える。中に入れず、彼は隙間からのぞき込む。いつも傘が2本立っていた場所は空っぽだ。

直人の描いた顔をそのまま使おうとして、眉の線を消した。ここに必要なのは整った顔ではなかった。戻りたくて来たのに、それを知られたくない人。自分からドアを開けて、また拒まれるのが怖くてためらう人だ。

紬はドアノブを握る手から描き直した。親指に力が入り、やがて緩む。その小さな動きを2コマに分けると、顔を大きく描かなくてもためらいが伝わった。

スマートフォンが鳴ったのは、そのときだった。

[母さんから電話が来たら出て。俺は通話中だって言っといて]

紬がメッセージを読んだ直後、朝倉紀子から電話がかかってきた。ペンを置いて出ると、挨拶より先に質問が飛んできた。

「直人と一緒にいるの?」

「いいえ。約束があるって出かけました」

「週末も忙しいのね。あなたは?」

「家で……」

紬は画面の空欄を見てから続けた。

「原稿を見ています」

「ああ、直人の原稿の間違いを見てあげてるのね」

「はい。少し、一緒にやっていて」

「それならよかった。あの子が家に帰ってからも仕事を全部抱えているんじゃないかって心配で。そばでちゃんと支えてあげてね」

受話口の向こうでテレビの音が大きくなった。紀子は来週親戚に会うので、直人が受賞した賞の名前を正確に教えてほしいと言った。紬が主催団体と受賞部門を伝えると、同じ質問をもう一度された。書き間違えたら困るからと、一文字ずつ教えてほしいとまで頼まれた。

電話を切ると、12分が過ぎていた。紬はメモしておいたセリフを読み、最後の一文を消した。さっきは自然に感じた言葉が、今は親切すぎる気がした。女が事情をすべて説明すれば、男は何も尋ねなくて済んでしまう。

そうするのはやめた。

家に戻った女は、ドアの前に立つ男を見て、先に傘を差し出す。男は受け取れない。

『俺の分まで持っていったの?』

『雨が降るって言ってたから』

紬はその下に入れるつもりだった長いセリフを削った。女が傘を2本持って出かけた理由は、わざわざ説明しなくてもわかる。

画面をスマートフォンに移し、実際に読む大きさで確認した。傘の持ち手が小さすぎた。拡大したときははっきりしていたものが、縮めると埋もれてしまう。紬は前の場面にある空の傘立てを少し大きくし、最後のコマでは女の濡れた腕が隠れないように構図を直した。

いくつかの場面をキャプチャーして直人に送った。長く待つ時間はないので線を整えていると、返事が来た。

[いいね。でも最後に抱きしめさせちゃだめ?]

紬は電話をかけた。遠くで笑い声と食器のぶつかる音が聞こえた。

「今抱きしめたら、次の回が弱くなるよ」

「じゃあ手くらいつなぐとか」

「傘を受け取るところで終わろう。来週、一緒に家に入るところから始めればいい」

「地味すぎない?」

「今のこの人には、それが先なの。もう一度、家に入ってもいいかどうかを聞くこと」

しばらく返事がなかった。紬は画面を見下ろし、直人が絵を見てくれるのを待った。

「わかった。君がそう思うなら、それでいいよ」

電話を切る直前、直人がつけ加えた。

「そんなに難しく考えなくていいって。読者はそこまで見てないから」

紬は通話の終わった画面を少し眺め、それから作業画面に戻った。女が差し出した傘の先から、雨粒が1つ落ちている。消せばずっとすっきりするが、外でどれだけ待っていたかを残しておきたかった。

その小さな点を見ながら、しばらく拡大と縮小を繰り返した。結局、そのままにした。

10時を過ぎると、マンションの廊下を走る子どもの足音が、次第に静まった。誰かが玄関のドアを閉め、エレベーターの到着音が鳴った後は、ペン先が画面に触れる音だけが残った。紬はこわばった指を伸ばし、小指の脇についたテープの跡をこすった。

前半の色を合わせ、吹き出しを整えると、11時18分だった。線と色を分けて描いたレイヤーが、画面の横に長く並んでいる。紬は修正前のファイルを先に保存し、提出用のコピーを作った。

最後には、いつも載せる名前があった。

作・画 朝倉直人。

作業を始めるときは見えないように畳んでおく部分だった。最後に画像を書き出すときだけ、もう一度表示する。白い背景に黒い文字が現れ、女の持つ傘の下に整然と置かれた。

紬はその文字をクリックした。文字を修正する小さなウィンドウが開く。カーソルが直人の名前の後ろで点滅していた。

パソコンの右下には11時22分と表示されていた。スマートフォンには真帆から、今日中に受け取れるかという確認のメッセージが届いている。紬は名前の後ろにあったカーソルを行の先頭へ移し、そのままにした。

ウィンドウを閉じ、最初から最後まで画面を送り直した。前回からつながる表情、雨がやんだ時刻、傘の本数を確認する。直人が描いた線は、後半の最初のコマにある顔にしか残っていなかった。

メールの宛先には橘真帆のアドレスが自動で表示された。送信アカウントの名前は朝倉直人だった。紬は件名の末尾に「最終版」とつけ、ファイルを添付した。

本文は2行だけだった。

遅くなって申し訳ありません。

ご確認をお願いいたします。

送信画面が閉じると、紬は椅子の背にもたれた。締め切りには間に合った。傘の先の雨粒も、ためらって手を開く男も、そのまま掲載される。まずはそれに安堵してから、ようやく、さっき表示した名前の欄が頭に浮かんだ。

スマートフォンに直人からメッセージが届いた。

[送った?]

紬は「うん」と書いて送信した。返事を待ちながら作業ファイルを閉じようとすると、先にメールの到着通知が出た。

朝倉直人先生、原稿を受け取りました。

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1話 更新通知
妻の葬儀を終えた翌日、新しい原稿が公開された。夜10時だった。朝倉直人は食卓に積まれた香典袋を整理する手を止め、スマートフォンを手に取った。黒い画面に、長いこと忘れていた名前が浮かんでいる。[フォロー中の作家、水凪の新作が公開されました][君に残した余白――第1話]水凪。紬が結婚前に使っていたペンネームだった。直人は通知を消そうとして、作品を開いた。誰がこのアカウントを動かしているのか、まず確かめるつもりだった。葬儀の場でまで紬の仕事の話を持ち出した、橘真帆の顔が浮かぶ。最初のコマが画面を埋めた。雨上がりのバス停で、濡れたベンチの片側を拭き、空いた場所を見つめる女。傍らには、縦に長く伸びた吹き出しがある。直人の指が止まった。リビングの本棚には『水のほとり』が収まっていた。直人の名前で出版された初めての長編だ。10年の間、インタビューで何度も説明してきた冒頭の場面だった。今、妻の名前の下に表示されている絵は、その最初のコマと同じだった。***21週間前。「これ、今日中にできるよな?」スープを温めていた紬が振り返ると、直人が食卓にタブレットを置くところだった。画面には四角い枠がいくつかと、短いメモが表示されている。場面の順番や構図を決めるネームと呼ぶには、まだ空欄のほうが多かった。「何シーンあるの?」「後ろのほうだけ。前はほとんどできてる」紬は火を弱め、画面を送った。前半は午前中に自分が描いて渡した原稿だった。最後の場面にある9つの空欄の前に、直人が描いた男の顔が置かれていた。顔だけはきれいに仕上がっている。サイン会で少し横を向いた男を描いてほしいと頼まれれば、直人は迷うことなくペンを走らせた。けれど、その男がドアを開けて入ってからは何も起こらない。次のコマには「ヒロインの反応」、その次には「2人で会話」と書いてあるだけだった。「この人、どうして戻ってきたの?」「先週けんかしただろ」「けんかしたのは知ってる。戻ってきた理由」直人は冷蔵庫から水を取り出しながら答えた。「そこは考えてよ。ちょっとうまくまとまらなくてさ」「昨日までにやってみるって言ってたじゃない」「やったよ。だから、これだけでもあるんだろ」紬はコマの続きを見た。最後には告白シーンというメモがある。戻ってきた理由も、仲直りのきっかけも決まっていないのに、
last updateLast Updated : 2026-10-28
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2話 また描けるようになるまで
直人が帰ってきたのは、紬が眠った後だった。朝起きると、玄関に脱いであった靴は揃っておらず、食卓にはコンビニの袋が置かれていた。中のプリン2個はぬるくなっていた。「冷蔵庫に入れておけばよかったのに」紬が寝室のほうを見ながら言うと、直人がシャツの袖に腕を通しながら出てきた。「忘れてた。帰り道に思い出して買ったんだ。好きだろ、それ」好きだった。仕事帰りに駅前で1つずつ買って食べていた頃がある。直人は今も同じ味を選び、紬は喜ばなければいけない気がして、袋をたたみ、キッチンに置いた。「昨日、遅かった?」「うん。社長が二次会まで行こうって」「原稿は見た?」「見たよ。よくできてた」その言葉を聞いて、紬は食器棚の扉を閉めた。お湯を沸かそうとしていたところだった。昨夜直した場面のどこがよかったのか聞こうかと思ったが、先に直人がスマートフォンを見せてきたので、そちらへ寄った。真帆からのメッセージだった。最後の傘の場面、よかったです。この流れなら次回の最初の場面も自然につながりますね。「ほらな。告白は少し延ばそうって言っといてよかった」直人はメッセージを上へ送って読みながら言った。紬は画面から彼の顔へ目を移した。「延ばそうって言ったのは私……」「だから。君の話を聞いて、俺がそっちに決めたんだろ」やかんが沸き始めた。直人はもう話すことはないとでもいうように、カップを取り出した。紬がコースターを差し出す間も、メッセージの画面を見ていた。「来週は中に入って、抱きしめるところまでいけばいいな」「まだ、あの女の人には言いたいことがあるよ」「それは抱きしめてからでいいだろ。うちの読者、こういうのを長く引っ張るのは嫌いだし」紬は沸かしたお湯をカップに注いだ。直人が口をつける前に少し引き寄せ、持ち手を回した。彼が右手で持ちやすい向きだった。「女の人は、嫌だとは言ってないの」紬は言った。「前の回では、1人になりたいって言ったでしょう。少しの間、1人で気持ちを整理する時間が欲しいって。それなのに、戻ってきた人が自分の言いたいことから話しちゃったら……」「わかった、わかった。じゃあ、考えてみてよ」直人は笑ってカップを持ち上げた。ああして笑って話を終わらせようとする顔を見ると、紬は次の言葉を選んでしまう。これ以上説明すれば、朝からわざわざけんかを仕掛けるのは
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3話 娘婿の近況
「今日、うちに来られる?」木曜日の午前、美佐子から電話が来た。紬は窓辺に広げていたスケッチブックを閉じた。母のほうから来るように言うのは珍しく、まず何かあったのかと尋ねた。「別に何もないよ。おかずを作っておいたの。あんたたちに持たせようと思って」「直人さんは今日、行けないと思うけど」「忙しい人を呼んだりしないよ。あんたが持って帰ればいいでしょう」紬は広げていたページをもう一度見た。カップを洗う女の手と、乾いたふきんのかかった窓枠を描いたページだった。下描きを整えてみたかったが、急ぐことではない。母の作っておいた料理は、今日取りに行かなければならなかった。「お昼に行くね。何かいる?」「来る途中でエゴマ油を買ってきて。この前あんたが持ってきたの、おいしかったから」紬はメモ帳を開いた。エゴマ油、母の好きな豆腐。その下に書いてあった「自分の絵の整理」は消さずに、1行下へ移した。出かける支度をしていると、入金の通知が出た。生活費を受け取る口座だった。紬は直人への返事を書きかけて、その上に真帆からの、原稿を受け取ったというメッセージがあるのを見た。直人は、今月はいろいろ出費があるだろうから少し送ったというメッセージも残していた。紬はありがとうと返し、先延ばしにしていた管理費を先に振り込んだ。残高を確かめてから、カートに入れておいたペンの替え芯も注文した。先がすり減り、細い線を描くたびに滑っていたところだった。直人に新しいペンを買ってほしいと言えば、買ってくれるだろう。値段を気にする人ではなかった。ただ、何に使うのかという質問がついてきて、そのたびに紬は自分の絵について説明しなければならなかった。替え芯を注文したことは言わなかった。届け先を自宅に指定して、画面を閉じた。バスに乗る前に商店街へ寄った。エゴマ油を買った店の隣で、店の人が折りたたまれた箱を広げていた。中には新しく入荷したカップが新聞紙に包まれている。紬は包みをほどく手を見て、歩みを緩めた。店の人はカップを取り出すと、まず縁を確かめた。傷があれば指先に引っかかるらしい。傷のないカップと、ひびの入ったカップを置く場所は別だった。「何かお探しですか?」「いえ。これ、小さいのを1つ見せてください」内側に青い線の入ったカップだった。紬は持ち手を握ってみた。見た目より軽いのがよかった。食器棚にカ
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4話 宛先
真帆から連絡が来たのは火曜日の朝だった。来週公開予定の47話に修正してほしいところがあるという。[紬さん、47話の表情の修正について、少しお電話できますか?]紬はカップを机の奥へ押し、電話をかけた。完成したファイルを送っても、それで終わりではないとわかっていた。それでも、自分宛てに届いた依頼を見ると、少し気持ちが変わった。「最後に女の人が顔を上げるコマがありますよね」真帆は挨拶の後、すぐに原稿の話に入った。「はい」「涙を少し減らしてもらえますか? 男の人が戻ってきたというだけで、気持ちがほどけたように見えるので」紬はファイルを開いた。最初にネームを切ったとき、直人に説明した部分だった。そんなにすぐ気持ちがほぐれるのは違うと言ったのに、その後の修正で女の目元を明るくしすぎていた。「光を少し減らせばいいと思います。泣いているわけではなかったので」「私もそう読んだんですけど、スマホで見ると涙みたいで」「元のファイルで直してみます」真帆は少しためらってから続けた。「今日いらっしゃれるなら、一緒に見られるといいんですけど。単行本のイベントに使う画像も確認しないといけなくて」「直人さんも来ますか?」「午前中は別の予定があるそうです。代わりに紬さんが資料を持ってきてくださると聞きました」紬はカレンダーを見た。空けておいた午前だった。自分の原稿を読む時間にしようと、昨夜その欄に線を引いておいたのに、そこへ制作会社の住所が入った。「何時までに行けばいいですか?」制作会社の受付で訪問の目的を告げると、社員が名簿を確認した。紬の名前をもう一度尋ねた後、電話をかけるために奥へ入っていった。ガラスのドアの横には『水のほとり』のポスターがかかっていた。絵の下に直人の顔写真と短い経歴が添えられている。紬は経歴よりもポスターの端を見た。印刷が濃く出たせいで、原画では見えていた窓枠の影が少しつぶれていた。「朝倉直人先生の奥様でいらっしゃいますよね?」戻ってきた社員に入館証を差し出され、紬は、はい、と言って受け取った。受付で朝倉紬と名乗ったのに、入館証の所属欄には「朝倉直人先生のご家族」と書かれていた。真帆が会議室のドアを開けてくれた。壁際のモニターには紬が送った原稿が映り、テーブルには印刷された絵が順番に並んでいた。「お越しいただいてありがとうございます
last updateLast Updated : 2026-10-28
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5話 客席の拍手
「これをつけて行けばいいかしら?」母の家の玄関にある鏡の前で、美佐子がネックレスを持ち上げた。靴を履きかけた紬は顔を上げた。母が取り出したのは、小さな真珠のついたネックレスだった。「うん。よく似合うよ」「あんたはどうしてそんなに地味な格好なの。写真も撮るでしょうに」「私が舞台に上がるわけじゃないから」紬はコートの袖を少し下ろし、手首のサポーターを隠した。朝、会場から連絡があり、画像を1枚送り直した。もともと切り取ってあった絵の上の部分が、画面からまた欠けていたのだ。タオルが見えるようにしてほしいと説明している間に手首が痛み、サポーターを巻いたところだった。美佐子は直人が何時に来るのか尋ねた。直人は先に会場へ行った。控室で準備することがあると言い、紬には母を連れて来るようメッセージを残していた。「私たちも少し早めに行こう。遅れて余計な心配をかけないように」イベントは午後2時だった。書店の奥の会場には、『水のほとり』の単行本の改訂版が積まれていた。陳列棚の横には直人の名前が印刷された長いバナーが立っている。美佐子は入り口に着くなり、その前に立った。「写真を1枚撮って」紬はバッグからスマートフォンを取り出した。母はバナーの文字を隠さないよう、横へずれた。画面には美佐子の顔と直人の名前が一緒に収まった。「もう1枚。今、目を閉じちゃったみたい」紬はさらに2枚撮って見せた。美佐子は気に入った写真を選ぶのに夢中で、案内係の挨拶に気づかなかった。紬が代わりに名前を告げると、係の人が座席表を確認した。「6列目の通路側に2席ご用意しております」椅子にはそれぞれ小さな紙が貼られていた。紬の席には名前の代わりに、家族席と書かれている。美佐子は座るなり、舞台がよく見えると喜んだ。紬も舞台後ろの画面を見た。さっき送り直した画像がきちんと映っていた。ドアの横にかかった濡れたタオルも、その下に置かれた女の長靴も全部見える。直人がインタビューで好きな場面としてよく挙げていた絵だった。「これ、有名な絵でしょう?」美佐子が尋ねた。「うん」「うちの娘婿は、どうやってこんなことを思いつくんだろうね」紬はコートのボタンを外した。母に、絵を描いていたときの話をすることもできた。長靴が新品に見えすぎて、靴底についた泥を描き直したこと。タオルは家で使っていたものを撮影して
last updateLast Updated : 2026-10-28
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6話 消された署名
紬は最後のコマの下に、水凪と書いた。絵を隠さない程度の小さな文字だった。スマートフォンの大きさに縮めると見分けにくいため、一度大きくしてから、また最初の大きさに戻した。右下にはすでに朝倉直人という名前が入っていた。2つの名前の間は離れていた。月曜日の朝、食卓にはサインをもらえなかった本が2冊、そのまま置かれていた。紬はそれを横へどけ、原稿を読み直した。男が椅子を引くのに、女は座らない場面だった。直人は女に怒った表情をさせたがったが、紬は椅子の背をつかむ手だけを残した。紬には、その手のほうが長く目に残った。座れと言われれば座り、待てと言われれば待ってきた人が、初めて自分の居場所を変えようとする場面だった。署名まで入った画面を別に保存し、直人の仕事部屋へ行った。ドアは開いていて、彼は前日に寄せられた読者の反応を読んでいた。「次の原稿を見て」「送った?」「まだ。最後に入れたものがあるから」紬はタブレットを机に置いた。直人は途中を素早く送り、最後の画面で手を止めた。「これ、何?」彼が指さしたのは女の手ではなかった。「私の名前」「それはわかるけど、どうしてここに入れたの?」「私も描いたから」直人はタブレットを自分のほうへ引き寄せた。しばらく何も言わないので、紬は署名がよく見えるか確かめているのだと思った。画面を拡大してから、ようやく彼の口から短い息が漏れた。「納品するときの表記はそろえないと。急にこれだけ違ったら困るだろ」「次からも入れればいいじゃない」「会社と話がついてるわけでもないし」「じゃあ話そう」紬はそう言う前から、手に力を込めていた。いざ口にすると、声は思っていたより小さかった。もう一度言うべきかと思ったが、直人はタブレットを持ったまま紬を見た。「土曜日のことがあって、こんなこと言ってるの?」「あのこともあるよ」「まだ?」まだ、という言葉に、返す言葉を失った。週末が過ぎただけだった。紬が食卓の本のほうを見ると、直人は椅子を後ろへ引いて立ち上がった。「俺だって外で話してたら、間違えることもあるよ。あの場で全部説明できるわけじゃないだろ」「間違えたなら、直せばいいじゃない」「何か釈明文でも出せって?」「そこまで言ってない。次は私が絵を描いてるって言って。私の名前も入れて」彼は机の角に手をついた。紬をなだめようとす
last updateLast Updated : 2026-10-28
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7話 見覚えのある場面
箱の中から湿った紙の匂いがした。紬は一番上にあった卒業展の図録から取り出した。くしゃくしゃになったポスターと、途中まで塗った彩色用の紙がその下に挟まっていた。広げる場所が足りず、直人の資料箱を少し押して床に座った。探しているスケッチブックの表紙は黄色だった。引っ越しのときに角が破れてテープを貼った記憶があるが、目の前にあるものはどれも似たような灰色に色あせていた。紬は背表紙を1冊ずつ触り、内側の名前を確認した。『閉じる時間』。タイトルを見つけたとき、外ではごみ収集車がバックする音がしていた。紬は膝の上にスケッチブックを載せた。最初のページに書いた自分の名前がよく見えず、机のライトを床のほうへ向けた。佐伯紬。短編、講評会用。その下には消したタイトルがもう1つあった。最初は『返す鍵』と書いたが、話が早くわかりすぎる気がして変えたのだった。紬は紙の端を押さえ、次のページを開いた。人のいないクリーニング店の前に立つ女。閉まったガラス戸の内側にかかったエプロン。女の体に隠れて半分だけ見える椅子。彩香の紹介資料を隣に表示した。昔の絵の女はスニーカーを履き、新作の女はパンプスを履いていた。店の看板も違う。紬が鉛筆で大まかに引いた電線の代わりに、華やかな建物の装飾が入っていた。けれど、場面が切り替わる順番は同じだった。紬は最初のコマを隠して次のコマを読んでみた。女の後ろに見える椅子が何の椅子で、その持ち主がどこへ行ったのか、すぐにはわからない構図だった。クリーニング店のガラス戸に貼られた紙で、店内はさらに見えにくくなり、女が身を動かしてからようやく空いた場所が見える。当時の講評では、店の中を先に見せたほうがいいと言われた。読者がどこかわからないと、ついてこられないからと。紬は1枚描き直して持っていった後、最初の順番に戻した。女は事情を知っているのに、読者だけが知らない時間がもう少し必要だった。紹介資料の中の女も、同じ順番で空の椅子を見せた。どこまでなら偶然と言えるのか数えかけて、やめた。クリーニング店、エプロン、空の椅子。1つずつ取り出せば珍しい題材ではない。だが、ガラス戸に貼られた案内のせいで椅子が半分隠れる位置まで同じだった。スケッチブックの後ろには、同じ椅子を描いた練習画が何枚も貼られていた。正面から見た椅子、ガラス戸に映った椅子、肘掛けだけ
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8話 私が描いた絵
「原本まで持ってきたの?」彩香は紬のバッグから出てきたスケッチブックを見て笑った。カフェの窓際に座る彼女の前には、コーヒーが2杯置かれていた。紬はコートを脱がないまま、向かいの椅子にまずバッグを置いた。「直接見ていただいたほうがいいと思って」「まだ持ってたんだ。私は引っ越しのとき、昔のものはほとんど捨てちゃったけど」彩香は紬のコーヒーを少し手前へ押してくれた。カップの外側には水滴がついている。紬は温かい水も注文できるか尋ね、それからスケッチブックを開いた。金曜日の午前のカフェには客が少なかった。コーヒーマシンが動くたびに少し声を大きくしなければならず、その後は隣の席まで話が聞こえたのではと気になった。紬は原稿を彩香のほうへ向けて話し始めた。「紹介資料に入っていたクリーニング店の場面です。ここからここまで、私のネームと同じです」彩香は紙の上を見下ろした。手を伸ばしてページをめくろうとしたので、紬が先にそのページを開いた。古い綴じ目をこれ以上広げたくなかった。「これを見せるために会おうって言ったの?」「はい。どうして使われたのか、お聞きしたくて」「あのとき、私たち一緒に作業したじゃない」彩香は何でもないことのように言った。紬はコピーをもう1枚置いた。「彩香さんが色の練習をしてみたいと持っていったんです」「うん。だから一緒にやってみたでしょう」「絵は、私が全部描いた後でした」彩香はコーヒーを持ち上げ、一口飲んだ。テーブルの上に置いた手には、細い指輪が2つはまっていた。カップを置くとコースターが少しずれ、スケッチブックの下へ入った。「紬。色をのせただけなら、全部自分の絵だって思ってるの?」「色は彩香さんが塗りました。看板と背景も新しく描かれています。その部分の話ではありません」紬は持ってきた紙の、印をつけた場所を指した。「店の中を隠してから見せる順番、女の人が向きを変える位置、手を伸ばす場面です。セリフも最後の言葉だけ変わっています」「そんな構図、よく使うでしょう」「別々に見ればそうかもしれません。でも、こうして続いている場面は私が作ったものです」紬の指が紙の上の次のコマへ動いた。彩香はその手を追わず、コピー全体を見た。最後のページを少し持ち上げて裏返し、何もないとわかるとまた置いた。「これだけ見て作品全体の話をされたら困るわ
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9話 夫の確認
「その前に送った言葉もあるよ」紬は自分のスマートフォンをつけ、直人に差し出した。彩香が切り取って送った文のすぐ上には、担当編集部に非公開での検討を求めるという言葉が残っていた。トーク画面をさらに上へ送れば、その前に送った原本の写真も出てくる。直人は画面を読んでも、自分のスマートフォンを引っ込めなかった。「彩香は、これを外に広めるって言われたように受け取ったんだよ」「編集部に提出するって書いたじゃない」「受け取った人がそう感じたって言ってるんだから」紬は椅子から立ち上がった。絵を見せようと前へ出しておいた紙が腕に引っかかり、床に滑り落ちた。直人が先にかがんで拾ってくれた。紙は順番をそろえず、まとめて渡された。「こういうのは話して解決しなよ。文字で送るから、お互い誤解するんだ」「今日会って話したよ」「もっと穏やかに」「絵を使った経緯を教えてほしいって言ったの。これ以上どう穏やかに言えばいいの?」直人は答えず、スケッチブックの表紙を見た。紬は、原本を保管しているのは自分だということから説明し直さなければならないと思うと疲れた。けれど、彼を絵も見ないまま出ていかせたくはなかった。「あなたもこれ、知ってるよ」「知ってるって言っただろ」「じゃあ誰が描いたかも知ってるじゃない」直人は少し顔を上げた。「君が描いたよ」答えがあまりにあっさり出てきたので、紬はすぐに次の言葉を継げなかった。直人がもう一度スマートフォンを取る前に、紙を1枚、彼の前に広げた。「それを彩香さんに言って」「それが今、何の役に立つんだよ」「私が向こうの資料を持っていったみたいに言ってるじゃない。そうじゃないって言って」直人は原稿を見下ろし、紙をきれいにそろえた。横には彩香の紹介資料が重なっていた。彼はそちらを上に載せた。「昔の習作の話と、今出る作品の話は別だよ。彩香が新しく作った部分もあるだろ」「私、そこまで自分のものだって言った?」「会社がこれをどう受け取るかって話だよ。復帰直前に、よその奥さんが現れて、自分の名前を入れろって言うんだから」紬は口を開き、閉じた。「よその奥さん」という言葉が、直人の口から出た。今、彼の前に立っている人間を何と説明すればいいのか、一瞬わからなくなった。「今、私が誰の妻かなんて、どうして出てくるの」「人はそう見るから」「あなた
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10話 届けられなかった説明
メールの件名から「夫」という言葉を消すと、用件は短くなった。ネーム使用の経緯確認および表記訂正のお願い。紬はその下に、自分が描いた短編のタイトルと彩香の復帰作のタイトルを書いた。同じ場面があるという話から始めず、いつ描き、誰にどんな理由で送ったかを順番に説明した。火曜日だった。前日に探しておいた問い合わせ先をもう一度確認し、送信ボタンを押した。原本からコピーした該当ページ、公開された試し読み、切り取られていないやり取りの画面を添付した。直人に先に読んでほしいとは頼まなかった。自動返信の受付通知はすぐに届いた。受付番号のついたメールを開くと、申請者名と作品名を改めて記入するフォームがあった。紬は名前の欄に朝倉紬(旧姓・佐伯)と入力し、次へ進んだ。活動名には水凪と書いた。現在契約している作品を書く欄では手が止まった。これまで作ってきた長編は、朝倉直人の名前で公開されていた。そのタイトルを書けば、今回の問い合わせとは別の原稿についても説明しなければならない。紬は「その他のお問い合わせ」を選び、説明欄に短編ネームの制作者だと書いた。入力を終え、担当の番号へ電話をかけた。つながるのを待つ間に保留音が2度繰り返された。紬はどの言葉から始めるか紙に書きかけ、相手が電話に出るとペンを置いた。「メールでネームの使用と表記の訂正について問い合わせた、朝倉紬です。受付番号が……」番号を読み上げると、担当者が資料を探した。少しの沈黙の後、相手は現在契約している作家なのかと尋ねた。「いいえ。その作品に使われた以前のネームを、私が描きました」「それでは、ご提出いただいた資料から確認いたします。ただ、すぐに表記を変更するのは難しいです」「確認に必要な資料があれば教えてください」紬は答えを書き留めた。該当部分だけでは前後の流れがわかりにくいので、ネーム全体が必要だという。最初に作成した時期と、渡した経緯を説明する資料があれば一緒に送ってほしいと言われた。当時の作業参加者と原稿を見ただけの人を区別して書いてほしいとも言われた。「紙の原本は私が持っています。必要なら持っていけます」「まずはファイルで全体を確認してからご連絡します」「その間、私が篠原先生の絵をまねして描いたと言われていることは、どうなりますか?」担当者が少し言葉を止めた。「その文章は、弊社が掲載し
last updateLast Updated : 2026-10-28
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