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第5話

Author: 黒霧の海
若菜は杖を強く握り締めた。

指先は白くなるほど力が入り、足を引きずりながら病院を後にする。

その細くなった背中を見つめながら、千聡は胸の奥に痛みを覚えた。

いつの間に、こんなにも痩せてしまったのだろう。

「送っていく」

外では雪が舞い始めていた。

千聡の痛くも痒くもない言葉を耳にした若菜は、さらに足を速める。

背後から聞こえる吐き気のするような声から逃げたかった。

――大丈夫。もう彼を愛してない。

情けないこと言わない。もう手放したんでしょう。

あと少しで、本当に離れられる。

そう何度も自分に言い聞かせる。

それでも目は赤く染まっていった。

そのとき杖が滑り、彼女はそのまま前へ倒れ込む。

腕の火傷は再び裂け、滲み出た血が、白い雪の上にぽつぽつと赤く広がっていった。

あまりにも激しく転んだせいで、胸の奥で何かが砕け散ったような気がした。

胸元の服を強く掴み、頬を伝う涙は途切れることなく流れ落ちる。

幼い頃から、若菜は家族のいる子どもたちが羨ましかった。

どれほど明るく振る舞っていても、家々に灯る明かりを見るたび、胸の奥では羨望を抑えきれなかった。

千聡は、それが彼女にとって一番深い傷だと知っていた。

それなのに、唯を慰めるためだけに、その傷を何度も何度も引き裂いた。

そんな男のために、今でも胸を痛めている自分がいる。

なんて滑稽なのだろう。

千聡が追いかけてきたとき、若菜は地面に倒れたままだった。

彼はすぐに彼女を抱き上げる。

「だから送るって言っただろ。どうしてそんなに意地を張るんだ」

若菜が答える間もなく、突然、弁当箱が彼女の顔へ飛んできた。

中の熱いスープが襟元から流れ込み、額にはたちまち大きなたんこぶができる。

二人が抱き合っているのを見た河村母は、怒りに震えながら平手打ちを浴びせた。

「この身の程知らず!この人がうちの娘婿だって知らないの?よりによって愛人になるなんて、よくも男を誘惑したね!」

それでも気が済まなかったのか、若菜の杖を奪い、そのまま彼女へ振り下ろす。

平手打ちを受けた若菜は、その場へ尻もちをついた。

次の一撃は頭にまともに当たった。

千聡は慌てて河村母を止める。

「......違うんです、誤解です!」

「愛人は――」

若菜が言い返そうとした瞬間、千聡が遮った。

二人にしか聞こえない小さな声で囁く。

「彼女のお母さんは重い心臓病なんだ。頼むから我慢してくれ」

そう言うと立ち上がり、息を切らす河村母を支えた。

「彼女はただの友人です。精神を病んでいて、精神的に不安定なんです」

そう言って若菜の診断書を河村母にちらりと見せ、そのまま彼女を支えて立ち去った。

去り際、河村母は唾を吐き捨てるのも忘れなかった。

「病気だからって何をしても許されると思うんじゃないよ。こんな女、親に捨てられるのも当然よ!」

若菜は二人の後ろ姿を見つめた。

もう涙さえ流れなかった。

千聡は一度も振り返らなかった。

親切な通行人に助けられて病院へ運ばれ、応急処置だけ受けると、彼女は屋敷へ戻った。

十数年暮らした部屋を見渡しながら、胸の中にはただ荒涼とした静けさだけが広がる。

二人の写真も、手紙も、すべて火鉢へ放り込み、火をつけた。

あの大きなウェディングフォトも、若菜はもう一度叩き割り、そのまま炎の中へ投げ入れる。

明後日持って行く荷物をまとめ終えると、十数年過ごしたはずなのに、持ち出せるものはスーツケース一つで十分だと気づいた。

この家には、本当に自分のものと呼べるものなど何一つなかった。

スマホが震える。

唯が新しい投稿を更新していた。

かつて二人を監視するため、若菜はサブアカウントで長い間、彼女の投稿を見続けていた。

写真には、彼女が男の胸へぴったりと寄り添う姿が写っている。

添えられた言葉は――

【私たちは終末を前にした鳥みたい。傷つくと分かっていても、あなたを思えば前へ進める】

若菜はその場で彼女のアカウントのフォローを外した。

千聡が帰宅した頃には、すっかり日も暮れていた。

彼の手には、若菜が一番好きだったケーキが提げられている。

申し訳なさそうな表情で口を開いた。

「昼間のことは悪かった。あれは、お年寄りに何かあったら困ると思っただけなんだ」

今度の若菜は、いつものように淡々と返事をすることはなかった。

ただ静かに彼の前へ立ち、まっすぐ見つめる。

「私たち、もう別れましょう」

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