Masuk隼人のたくましい腕が、桜子の細い腰をしっかりと支え、彼はただ静かに微笑んで彼女を見つめていた。栩と椿――この二人が同じ場所にそろうことなんて、滅多にない。つまり、今日ここに二人ともが来ているということは、それだけでただ事じゃない証拠だった。椿は豪快にゲップをひとつしてから、すっと表情を引き締めた。「秦は、今日の午後、尿検査を受けた。結果は……麻薬反応あり。間違いない。いいか、ちょっとした薬物乱用なんかじゃない。麻薬摂取レベルだ」その声には、刑事としての冷たい色がはっきりとにじんでいた。「けど、本人は全力で否定している。自分が打ってたのは普通の美容用ビタミン剤だって主張してる。薬剤は、美容ドクターの竜也が調合したもので、自分は何も知らされてなかった。全部ハメられた――そう言い張ってる」桜子は思わず、息を呑んだ。たしかに――秦に渡した薬剤は、竜也が調合したものだ。彼は薬理に詳しく、桜子もずっと信頼して任せてきた。まさか、その彼が毒なんて混ぜるはずがない。それも、ほとんど致死量に近い分量。――あれは、どう見ても殺すつもりで打った量だった。「椿兄、その件、竜也先生は関係ない。秦は自分が追いつめられてるから、誰かを道連れにしようとしてるだけだよ。あの人を巻き込もうとしてるだけ」桜子は必死の思いで竜也をかばった。椿はじっと彼女を見つめ、真剣に眉間に皺を寄せた。「桜子。竜也のことは、俺だってよく知ってる。親父の援助を受けてたし、お前とも仲が良かった」その声は、いつもの兄のそれじゃなかった。仕事モードの、硬い声だ。「でもな、俺は刑事だ。仕事になると、情は挟めない。法の前じゃ、みんな同じだ。秦が竜也にハメられたって言っている以上、たとえそれが嘘でも、決められた手順どおりに、竜也を呼んで事情を聞かなきゃならない」桜子は長いまつげを伏せ、きゅっと唇を噛んで黙り込んだ。隼人はわずかに眉を寄せ、桜子の手を取ってやさしく親指で撫でながら口を開いた。「高城隊長、手続きのことは理解している。お前のやり方で構わない。そのほうが正しい」「高城隊長」と呼ばれたことで、椿の胸の中に、ほんの少しだけ好感が芽生える。けれど、桜子の胸はずきずきと痛んでいた。椿が間違っていないことくらい、頭ではわかっている。それでも、竜也への罪悪感が胸の
身体を拭き終えると、隼人は桜子がうろちょろしないよう、そのままひょいと抱き上げてダイニングへ連れて行った。一日中走り回っていたせいで、いつもはパリッとしている白いシャツにも、今日はところどころ皺が寄っている。そこから漂う体温と男の匂いが混じり合って、桜子の頭は少しぼんやりしてきた。決して嫌な匂いじゃない。むしろ――桜子は無意識のうちに、その胸に鼻先を押しつけ、くんっと匂いを吸い込んでしまう。満たされない子猫みたいに。「どうした?俺のこと、食べたいのか?」隼人が目を細めて笑いながら、唇で彼女の額をちょんと撫でる。「食べられたいなら、その前に自分が風呂入ったら?くさい男、くっさ~」桜子は頬を真っ赤にしながら顔をそむけた。「いつもは潔癖なくらいきれい好きなのに、今日はどうしたのよ」「時間がなかったんだよ。君と一緒に飯食ったら、すぐ入る」その言葉に、桜子は唇をきゅっとすぼめてふわりと笑う。胸の奥がじんわり温かくなった。テーブルの上には、色とりどりの料理がぎっしりと並んでいる。白倉が昼のうちに仕込んでおいたものを温め直しただけなので、準備もあっという間だった。「わぁ~!白倉さん、すごーい!」桜子はうきうきしながら椅子に腰を下ろし、小学生みたいにぱんぱんっと手を叩いた。「若奥様、そんなに持ち上げないでくださいよ。料理の腕でしたら、奥様のほうがずっと上ですって。この中の何品かは、若旦那様のお好物でしてね。レシピは奥様に教わったんですよ、覚えてらっしゃいます?」「え?そうだっけ?完全に忘れてた……」桜子は気まずそうに視線を落とし、そのまま無言でご飯をかき込む。白倉としては、ただ彼女を褒めたつもりだった。けれど、その何気ない一言が、二人の胸に眠っていた古い痛みをふっと呼び起こしてしまう。隼人は、彼女がどれだけ傷ついてきたかを誰よりもよく知っている。目の奥がじんと熱くなり、桜子の唇についたご飯粒をナプキンでそっと拭ってやった。何か言葉を探そうとしたその瞬間、桜子がエビをひょいっとつまんで、隼人の口に押し込んだ。「ごめんとか、禁止。前のことはもう終わり。そう約束したでしょ?」隼人は一瞬きょとんとしたあと、苦笑してエビを噛みしめる。――やっぱり、どんな高級店よりも、彼女の料理が一番うまい。そのとき、玄関のドアが勢い
彼にとって自分の女は――一輪の可憐な花みたいなものだ。嵐も、刃も、血の雨も、その身を張って全部受け止めてやるべき存在。桜子のお腹は、ぺこぺこどころか、ぐうぐうと派手に鳴っていた。白倉はあわててキッチンへ駆け込み、二人分の夕食の準備を始める。桜子はというと、じっとなんてしていられず、「お風呂入りたい!」と騒ぎ出した。「泡ぶろがいい!いい匂いのやつ。私、今たぶん馬のフンみたいに臭いもん!」「ダメだ。医者が言ってただろ、一週間は傷口を水に濡らすなって。感染したらどうする」隼人はそう言って彼女を軽々と抱き上げ、そのまま寝室へ運んでいく。「俺が拭いてやるよ。な、それで我慢しろ」「拭いたくらいで、ちゃんときれいになるわけ?」桜子はぷくっと唇を尖らせた。「なる。いつも俺がやってあげてるだろ」低く掠れた声と一緒に、男の温かい息が耳元にかかる。妙に色っぽいその声で囁く。「安心しろ。中から外まで、全部ピカピカにしてやる」「や、やめてよ……絶対なんか変なこと考えてるでしょ。今日はほんとに疲れたの。早く寝るからね!」桜子の頭の中に、これまでの彼のえげつない台詞と、恥ずかしすぎる光景が次々とフラッシュバックする。頬が一気に熱を帯び、身体の奥がふわりと疼く。胸のあたりが、甘くて苦しい。隼人は熱のこもった目で彼女をじっと見つめ、ふうっと大きく息を吐く。「君の細い腰、今はさすがに無理だ。どんだけしたくても、治るまでは我慢する」……バスルーム。白い蒸気が立ちこめる中で、桜子の肌はうっすらと光をまとっていた。隼人の前で、その白い身体は、何の防御もなくさらけ出されている。隼人は濡らしたタオルを手に取り、そっと桜子の身体を拭きながら、ふいにその首筋へ唇を落とした。白い肌の上を、彼の熱がゆっくりと這うように広がっていく。彼はどうにか欲だけは押さえ込んでいた。けれど――愛情だけは、どうしても抑えきれない。たとえこれ以上求め合わなくても、熱いキスひとつで、いくらでも愛を確かめ合える。「いつも宮沢グループの会議だと、あんなにペラペラしゃべるくせに、今日は万霆の前で、なんであんなに黙ってたの?」バスローブを羽織った桜子は、隼人の胸に身を預けながら、指先で彼の喉仏をつっとなぞった。「気づかなかったの?今日のあれ、あなたの手
彼の努力は、すべて無駄になってしまった。また隼人と、同じスタートラインに逆戻りなのか?……いや、だめだ。桜子は自分のものだ。絶対に、桜子を嫁にもらう。「そうね、隆一。恋って、やっぱり無理やりどうこうできるものじゃないの」愛子はすっと優雅に歩み寄り、万霆の腕にそっと手を絡める。声は終始やわらかく、棘なんてひとつもないように聞こえる。けれど、その一言一言が、隆一の喉元に尖った針のように刺さっていく。「万霆だって、別に意地悪で言ってるわけじゃないのよ。みんな、あなたが桜子に本気だってことはちゃんと知ってるわ。でもね、愛って、お互いが想い合ってないと続かないものじゃない?私たちは家族として、ただ桜子に幸せになってほしいだけ。もし、好きでもない人のところに嫁がされるようなことになったら……それこそ、彼女の一生を潰すようなものだと思うの」樹は黙ったまま、口の端だけを冷たく持ち上げた。その目には、隆一へのあからさまな軽蔑が隠しきれずに滲んでいる。──愛子は、一見おっとりしているようで、実は頭が切れる。万霆の性格も熟知している。あえて隼人の名前は一度も出さず、ひたすら気持ちの話だけで万霆の胸を揺さぶっている。自由恋愛を何より尊ぶ万霆が、娘の気持ちを無視できるはずがない。隆一の顔はさっと青ざめ、強引に貼りつけていた上品な仮面が、今にも剥がれ落ちそうだ。「隆一、愛子の言うとおりだぞ。無理やり結んだ縁なんか、長続きはせん」万霆は深くため息を吐いた。「そんなに落ち込むな。ただ、あまり一つのことに囚われすぎるな。縁なんてものは、自然に任せるのが一番だ」……桜子は、本当は病院なんて行きたくなかった。けれど、最後は隼人に抱きかかえられる形で、そのまま連れて行かれてしまった。応急処置をしてもらい、薬を塗られて、家に戻ってきた頃には、すっかり夜になっていた。「ほんっと、しつこいんだから。こんなの大した怪我でもないのに、なんでわざわざ病院まで――あっ、いったぁ……」車から降りた拍子に、桜子は腰をひねってしまい、顔をしかめて息を飲む。隼人があわてて腰に手を回し、ぐっと支えた。「無茶するな、桜子。さっき治療してもらってる時、君がどんな声出してたか覚えてないのか?」「そ、そんな変な声なんか出してないでしょ!」桜子の頬が一気に真っ赤に
隆一は桜子に背を向けたまま、表情を読ませないまま、そっと眼鏡を押し上げた。隼人は小柄な彼女の隣に立ち、薄い唇を固く結ぶ。止めたい――だが、彼女の口の速さには勝てない。それに、今ここで口を挟めば……まるで隆一がよくやる『計算づくの優しさ』みたいに見えて、優希が大嫌いな、あの『腹黒い男』になってしまう。「桜子、身体の具合は?腰、まだ痛むか?」万霆は娘の皮肉など気にも留めず、ただただ怪我の方が心配で仕方ない。「まったく……お前って子は本当に頑固だな。落馬したなら、すぐ病院に行くべきだ!啸雲には樹と高田がついてる。お前が全部やる必要なんてないだろ?お前の母さんにそっくりだ。いったん意地を張ると、十頭の馬でも止められん!」そして声を張る。「樹、すぐ院長に連絡してくれ。桜子を病院に連れて行ったら、専門医を全員集めるように伝えろ。院長自ら診てもらうんだ!」だが、樹はあえて何も言わなかった。桜子たちが二人きりになりたいのは明らかだ。そこへ彼がずけずけ割って入るのは空気が読めない。「いらないよ。隼人がいてくれれば十分」桜子は堂々と隼人の手を握り、そのまま彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。その熱を帯びた視線には、他の誰一人入る余地がない。「父さん、一つだけ言っておきたい。『善く戦う者に、智名なく、勇功なし』って言葉、知ってるでしょ?」彼女の声は強く、冷静で、ひどく刺さる。「今日、誰が最初に動いて証拠を集め、犯人を捕まえて、私のため、啸雲のため、高城家のために戦ってくれたのか。誰が全部終わらせたのに、一言もあなたに言わず、功績も名誉も隠したのか。ちゃんと見極めて。他人の甘い言葉に惑わされて、晩節を汚すなんて馬鹿げてるよ。笑われるだけ」そう言い捨てると、桜子は美しい顎を上げ、隼人の手を引いて、万霆と隆一の前を颯爽と通り過ぎた。隆一の肩を、置き去りにされたような冷気がかすめる。胸の奥が鋭く痛み、彼は指を白くなるほど握りしめた。一方の隼人は――万霆の横を通るとき、慌ててぎこちないお辞儀をし、その不器用な姿がどこか可笑しかった。「この娘は……本当に手に負えなくなってきた!」万霆は二人が遠ざかる背中を呆然と見つめ、止めもせず、ただ娘の後頭部に向かって怒鳴った。「そんなに口が達者じゃ、将来お前を嫁にもらう男は大
だが、桜子の表情には、濃い影が差していくばかりで、隆一の『好意』など一切響いていなかった。【わあ……このイケメン誰?どこかで見た気がするんだけど?】【あの人は白石家の四男、隆一様よ。ずっと桜子様の『守護者』みたいな存在で、何度も助けてきたんだから!】【うそ……こんな綺麗な顔ある?絵から抜け出してきた人じゃん。好き……】【それに彼、優しいんだよね。もし私が桜子様なら隆一様を選ぶわ。隼人さんが今さら反省したって遅いの!縁ってそういうもので、一度逃したら終わりよ。あとで後悔したって無駄】【わかる。三年も一緒にいたら飽きるわ。若くてイケメンで体力ある方がいいに決まってる】張りつめた空気は、今度こそ一気に氷河期に突入した。正太のこめかみの血管が浮き上がり、胸の奥で怒りが暴れ狂う。一生威張って生きてきた男が、こんな侮辱を受ける日が来るとは。若造どもに頭の上で跳ね回られるなど、耐えられるはずもない。「このクソガキ……また出てきやがった!何の関係がある!」香一は低く怒りを吐き捨てた。「隼人が言うならまだしも、あの人は最初から本田家と真っ向勝負する気だからいいわよ。でもなんで隆一が出てくるの?うち白石家まで巻き込む気?」坤一は冷ややかな視線を隆一の背中に向けた。「お前、あいつを馬鹿だと思ってるのか?あのガキは計算高い。今出ていけば、隼人の『手柄』を横取りできるし、桜子の前で存在感も出せる。しかも高城会長にも媚びを売れる」そして淡々と続けた。「その一方で本田家にも一発食らわせられる。父さんは本田家にずっと遺恨があったが、言えずにいた。隆一がこうやってやり返してくれたわけだ」兄妹は同時に黙り込んだ。顔色はどす黒い影を落としている。――あの四男、健一を半身不随にして、――高城会長とも繋がって、――父との関係も急速に改善している。その次は何を狙う?白石家の誰もが、内心ざわついていた。最終的に、世間の怒りに押され、正太はしぶしぶ頭を下げ、桜子に謝罪するしかなかった。栄次は悔しさで顔を歪めた。しかし彼らに面子を優先する余裕はなかった。今ここで謝らなければ、翌日の株価は確実に大暴落するからだ。……今日の競馬大会は、まるで大劇場だった。誰かが歌い終われば、次の誰かが舞台に飛び出してくる。昭子の自作自演







